偽りの保育園児



               【四】

 芽衣に手を引かれて葉月がグラウンドに足を踏み入れると、それまでもちらちらとこちらに向けられていた園児たちの視線が一斉に集まった。
「ほら、駄目でしょ、ちゃんと先生の方を見なさい」
「こらこら、まだ朝のご挨拶の途中なんだから、じっとしてるのよ」
 興味津々といった様子で葉月に無遠慮な目を向ける園児たちをたしなめる保育士たちの声がグラウンドのあちこちから聞こえる。
「みんな、先生の言うことをきいて、ちゃんと朝のご挨拶を済ませなきゃ駄目よ。あとできちんと説明してあげるから、それまで待ちなさい」
 葉月のことは弥生と芽衣にまかせ、皐月が園児たちの列の前に立って大声をあげた。

「はい、ここでいいわ。むこうの列から年長さん、年中さん、でもって年少さんの順番になっているから、特別年少クラスの葉月さんは、ここで朝のご挨拶をしようね」
 皐月が言い聞かせてようやく園児たちが静かになる中、弥生は、年少クラスの園児が二列になって並んでいるすぐ隣の場所に葉月を立たせ、
「じゃ、鞄の中を見てみようかな。葉月ちゃん、ハンカチやティッシュ、ちゃんと持ってきたかな」
と言って、葉月が肩にかけている黄色の通園鞄に手を伸ばした。
 そうして弥生は葉月の返事を待たずに蓋を開け、通園鞄の中にすっと右手を差し入れたかと思うと、芽衣に掌を広げるよう指示して、鞄の中からつかみ上げた物を順番に芽衣の手の上に置いていった。
「最初はハンカチ。汗をかきやすい季節だから、ちゃんとガーゼのハンカチか。さすが、準備をなさるのが御崎先生なだけに、小さなことまで用意周到ね。で、次はポケットティッシュ。うふふ、可愛いカバーに入ってるんだ。ええと、それから――」
 そう言いながら弥生が次に通園鞄から取り出した物を目にした瞬間、葉月の頬がかっと熱くなる。
「これは替えのパンツね。汗をかきやすいから、グラウンドでお友達と一緒に駆け回った後で穿き替えさせてあげればいいのかな。それとも、お昼寝の時の寝汗で濡れちゃった時の替えかしら。――あら?」
 決して独りで呟くようにではなく、葉月や芽衣のみならず、それこそ、グラウンド中の園児みんなに聞こえるのではないかと思えるほど声を張り上げ、新しいショーツをこれ見よがしに大きく振ってみせる弥生だったが、再び通園鞄に手を入れた瞬間、不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか、遠藤先生」
 何があったのかと、心配そうな顔で芽衣が尋ねる。
 それに対して弥生はどこか呆れたような表情を浮かべて、鞄の中に差し入れた手を引き上げた。
「え? また替えのパンツですか? それも、二枚も」
 弥生がつかみ上げた物を手渡された芽衣がきょとんとした顔になった。
「そうなのよ。さっきのと合わせて、替えのパンツが三枚。いくら汗をかきやすい季節だとはいっても、ちょっと多すぎるわよね。何か事情があるのかしら」
 弥生はわざと不思議そうな表情を浮かべつつ、わざとまわりの園児たちにもよく聞こえるようにして言った。
「そうそう、連絡帳を読んでみましょう。何か書いてあるかもしれないから。ええと、どれどれ――ふぅん、なるほど。そういうことだったのか」
「なんて書いてあるんですか? 替えのパンツが三枚も入っている理由、書いてあるんですか?」
 思わせぶりに言って健康連絡帳を読み進める弥生に向かって、芽衣が気がかりな様子で尋ねる。
「うん、あのね、葉月ちゃん、おねしょしちゃったらしいのよ。今朝、御崎先生が葉月ちゃんを起こしにいったら、パンツとパジャマとシーツがびしょびしょだったんだって」
 訊かれて、弥生は健康連絡帳から目を離し、葉月の顔と芽衣の顔とを交互に見比べて言った。もちろん、園児たちや他の保育士たちにも聞こえるよう『おねしょ』という部分を強調するのを忘れない。
「あ、そういえば、バスの窓から……」
 弥生が言った『おねしょ』という言葉に、通園バスの窓から目にしたベランダの布団を弥生は思い出したが、それ以上は口にするのが憚られ、途中で言葉を飲み込んだ。
 反射的に葉月は、園児たちの列の前にいる皐月を恨みがましい目で睨みつけた。が、大勢の目が再び一斉に自分の方に向けられるのを感じて、おずおずと顔を伏せてしまう。

「やだ、あの子、おねしょしちゃったんだって」
「体はあんなに大きいのに、年少さんみたいにおねしょしちゃうんだ、あの子」
「そういえば、年少さんの列のすぐ隣に立ってるんだよね。ほんと、どういう子なんだろ」
「先生は後で説明してあげるって言ったけど、いつになったら教えてくれるのかな」
 弥生の言葉がきっかけになって、いったんは鎮まっていた葉月の正体に対する好奇や疑念が再び園児たちの胸の中にむくむくと湧き起こり、あちらこちらで互いに囁き合う声が聞こえ始めた。
 けれど、弥生はそんな喧噪になどまるで気に留める様子もなく改めて健康連絡帳に目をやると、再びわざとらしい驚きの声をあげた。
「あらあら、おねしょだけじゃなく、おもらしまでしちゃったんだ、葉月ちゃん。ええと、昨日だけでも、制服を試着する時に一回と、お家で二回。それに、おもらしじゃないけど、水族館のトイレでもちゃんとおしっこをできなくてパンツを汚しちゃったみたい」
 弥生は連絡帳に目をやったままそう言ってから、おもむろに顔を上げ、芽衣に手渡したショーツを見て納得顔で頷いた。
「あ、そうか。それで、替えのパンツがこんなにたくさん鞄の中に入っていたわけね。お昼寝の時におねしょでパンツを濡らしちゃうかもしれないし、お友達と遊ぶのに夢中でトイレへ行きそびれてパンツを濡らしちゃうかもしれないし。そうね、だったら、三枚くらいは替えのパンツが必要になるわね。ううん、ひょっとしたら、もっと要るかもしれないくらいだわ」
 弥生がそう言い終わるか終わらないかのうちに、園児たちのざわめきがますます大きくなる。
 が、次の瞬間、ピーッと笛を吹く音が聞こえて、園児たちはたちまち静かになった。
 笛の音が聞こえた方に思わず葉月が視線を向けた先に、夏の日差しを浴びてきらきら光る金属製のホイッスルを口にした皐月の姿があった。
「みんながなかなか静かにならないから、このまま朝のご挨拶を続けるのは無理みたいです。今日だけ特別に各々の教室で朝のご挨拶の続きをするから、ちゃんと並んで先生のあとについて教室に入りなさい。それと、朝のご挨拶が終わった後、入園式を開くから、みんな発表室に集まること。いいわね? ――じゃ、先生方、子供たちの誘導をお願いします」
 ほんの短い間だけ葉月と目を合わせた皐月だったが、すぐに園児たちの列を見渡して声を張り上げ、もういちどピッと笛を吹いた。
「今ごろ入園式だって。なんか、変なの」
「うん、変だよね」
「あ、そうか。ほら、あの子の入園式なんじゃない?」
「え? ああ、そうだね。きっと、そうだよね」
 皐月が言った『入園式』という季節外れの言葉に怪訝な表情を浮かべた園児たちだったが、中の一人がふと気づいて口にした推測を耳にするなり、さも納得したように互いに頷き合うと、葉月に向かって好奇に満ちた目を向けたまま、先にたって歩き出した保育士に付き従って各々の教室に向かって足を踏み出した。

「入園式? ぼく……は、葉月の入園式……!?」
 建物の中に消えてゆく園児たちの列を見送りながら、葉月は、園児たちが互いに言い交わす言葉を、呆然とした表情で口の中で繰り返した。
「そう、今から葉月ちゃんの入園式を開くのよ。葉月ちゃんのこと、他のお友達にまだちゃんと紹介してないから、新しいお友達ですってお披露目しなきゃね。それに、菅原先生のこともみんなに紹介しなきゃいけないし」
 葉月の呟き声を耳にした弥生が、こともなげに言った。
「で、でも……」
「あら、恥ずかしいの? 葉月ちゃん、体は大きいのに、人見知りが激しいのかな。でも、みんなにちゃんとお顔を憶えておいてもらわないとお友達もできないから、勇気を出してみんなの前で自分の名前をしっかり言って、仲良くしてくださいってきちんとご挨拶しなきゃね」
 何か言いかけて、けれど途中で言葉を飲み込んでしまった葉月に、弥生は励ますように言った。
 そうして、葉月の耳元に唇を寄せて
「そりゃ、恥ずかしいよね。小学校五年生なのに、保育園の年少さんになっちゃうんだもん、恥ずかしいのが当たり前よね」
と囁いたかと思うと、芽衣に聞かれないようますます声をひそめて、こんなふうに付け加えるのだった。
「でも、本当は小学生どころか、大学生なのよね、葉月ちゃんは。それも、女の子じゃなくて、いやらしいおちんちんを持ってる男の子。それが年少さんの女の子として保育園に通うんだもの、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないわよね。でも、それでいいのよ。恥ずかしい目に遭うたびに、葉月ちゃんは女の子に変わっていくんだから。私を襲ったバカ男と同じ最低のケダモノから、けがれを知らない可愛い女の子に変身していくんだから。これからたっぷり時間をかけて、御崎先生の期待以上に葉月くんを葉月ちゃんに躾け直してあげるから楽しみにしてなさい」
「……!」
 弥生の言葉に、葉月はぎょっとしたように顔を上げた。
 弥生の目には、つい今しがた葉月に向かって囁きかけた言葉が冗談でもなんでもないことをしめす、相手を射すくめるかのような鋭くぎらぎらした光が宿っていた。



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