偽りの保育園児



「え……?」
 本人からご挨拶してもらいましょうと言われても、なんの準備もしていない葉月にはどうすることもできない。だいいち、こんな入園式の真似事があること自体、前もって聞かされていないのだ。
 と、皐月の代わりに今度は弥生がぴったり身を寄せ、葉月の背中をぽんと叩くと、声をひそめて言った。
「大丈夫よ。私が教えてあげるから、その通りに言えばいいわ」
 そうして、返事も待たずに、『入園のご挨拶』を葉月の耳元に囁きかける。
「……」
 けれど、咄嗟のことに、葉月は口をつぐんだままだ。
「どうしたの、葉月ちゃん? やっぱり、年少さんの葉月ちゃんにはご挨拶は難しいのかな。四月の入園式の時は、年少さんなのに、みんなちゃんとご挨拶できたんだけどな。でも、そうね。年少さんの中でも一番小っちゃな妹の葉月ちゃんには難しいかもね」
 なかなか口を開こうとしない葉月に、弥生は挨拶の言葉を教えるのを途中でやめ、わざとらしく溜息をつくと、意味ありげに少し間を置いてから、にっと笑って
「だけど、入園のご挨拶もできないような子を年少さんクラスに入れるわけにはいかないわね。そんな子は二歳児クラスに入ってもらわなきゃいけないかな。だとすると、これがお似合いね」
と園児たちにも聞こえるように大きな声で言い、ジャージのポケットからゴム製のオシャブリを取り出して葉月の唇に押し当てた。
「あ、葉月ちゃん、かっわいーい」
「ほんとだ、赤ちゃんみたい、葉月ちゃん」「小学生のお姉さんなのに、本当に私より小っちゃい子みたい」
 オシャブリを咥えさせられた葉月の姿に、それまでびっくり顔をしていた園児たちが今度は口々に囃したてる。
「や、やだ、こんなの。こんな、赤ちゃんみたいなの……」
 オシャブリを咥えさせられたせいでくぐもった声になりながらも、葉月は恨めしげに訴えかけて首を振った。
 けれど、弥生が押さえているため、オシャブリを吐き出すことはできない。
「赤ちゃんみたいでいいのよ。だって、簡単なご挨拶もできない葉月ちゃんは二歳児クラスだもん。二歳児っていったら、まだまだ赤ちゃんと同じよ。年少さんがすごくお姉さんに思えるくらい小っちゃな赤ちゃんと同じなのよ、葉月ちゃんは」
 弥生はそう言って、葉月の口にふくませたオシャブリの端を指先でぴんと弾いた。
「ご挨拶する……ちゃんとご挨拶するから、もうオシャブリは……」
 挨拶を終えない限りいつまでもこの羞恥に満ちた姿を園児や保育士たちの目にさらさなければならないことを思い知らさた葉月は、唇と舌を押さえつけられて自由にならない口で懇願した。
「そう、ご挨拶できるの。だったら、葉月ちゃんは二歳児クラスの赤ちゃんなんかじゃくて、年少クラスのお姉ちゃんね。じゃ、私が教えてあげるから、その通り続けて言うのよ」
 弥生はおもむろにオシャブリを人差指と親指でつまんで葉月の口から引き離し、改めて耳元に唇を寄せた。

「……今日からひばり保育園に通う御崎葉月です。体……体はおっきいけど、年少クラスに入ります……」
 二度三度と浅い息を吸い込み、ようやく覚悟を決めた葉月は、耳元で弥生が囁き聞かせる言葉を、今にも消え入りそうな声で復唱し始めた。
「……年長クラスと年中クラスのお兄ちゃん、お姉ちゃん。それに、年少クラスのお友達。ううん、年少クラスだけど葉月よりも先に入園したお兄ちゃんとお姉ちゃん。これから仲良くしてください。葉月は一番後から入園したから、保育園のことはまだ何も知りません。だから、いろいろ教えてください。……それに、もしも葉月が何かいけないことをしたら、きちんと叱ってください。葉月がちゃんとごめんなさいしていい子になるまで叱ってください。お願いします、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
 年長クラスや年中クラスのみならず年少クラスの園児のことまで『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』と呼ぶよう強要される口移しの挨拶に、葉月は限りない屈辱を掻きたてられてならなかった。けれど、弥生がまだポケットにしまわず手に持ったままにしているオシャブリを目にすると、挨拶を拒むこともかなわない。
 だが、それまで途切れ途切れながらも挨拶の言葉を口にしていた葉月も、弥生が囁いた次の言葉を耳にするなり、顔をかっと熱くして再び口をつぐんでしまった。
 弥生は葉月に
「それと、葉月はまだおねしょが治りません。だから、お昼寝の時、一緒におねむしてくれるお友達に迷惑をかけるかもしれません。それに、おもらしもまだ治らないから、遠足や音楽会でみんなに迷惑をかけるかもしれません。だから、今のうちにごめんなさいしておきます。ごめんなさい、お兄ちゃん、お姉ちゃん。おねしょとおもらしの治らない葉月のこと、許してください。――ほら、こう言うのよ」
と囁きかけたのだ。
 さすがにそれを口にするのは憚られた。
 が、弥生はまるで容赦しない。葉月が思わず口を閉ざすと
「あら、せっかく途中までご挨拶できてたのに、最後までは無理なのかな。だったら、やっぱり葉月ちゃんは二歳児クラスで決まりね。うちの保育園、二歳児は預かってないんだけど、いいわ、葉月ちゃんをひばり保育園で初めての二歳児クラスの園児にしてあげる。二歳児クラスの赤ちゃんなんだから、オシャブリが欲しくてたまらないわよね。まんまの時以外はずっとオシャブリを咥えているといいわ」
と言って、これ見よがしに、オシャブリを持った手を高々と差し上げるのだった。
 それに対して葉月は弱々しく首を振り、再びおずおずと口を開くしかなかった。もちろん、赤ん坊みたいにオシャブリを咥えた姿を大勢の目にさらす屈辱に耐えかねてという理由もあるが、実を言うと、その他にも、この羞恥に満ちた挨拶を一刻も早く終えずにはいられない切羽詰まった事情があったのだ。
 それは、もう既に我慢の限界ぎりぎりのところまで達している尿意だった。
 小さい頃からそうだったが、大学に入ってからも葉月は、いつも同じような時間に目を覚まし、同じバスに乗って大学に通っていた。それは夏休みが始まってからも同じで、授業がなく大学の図書館に引き篭もる際にも、皐月が呆れるほど、毎日同じペースで生活していた。それが、今朝は、皐月が仕組んだおねしょ騒動のために目を覚ましてすぐのトイレを済ませることができなかった。そのせいの尿意が、今や、もうぎりぎりにまで高まっているのだ。
「……は、葉月……まだおねしょが治りません。だから、お昼寝の時、一緒におねむしてくれるお友だちに……迷惑をかけるかもしれません。それに、それに……おもらしもまだ治らないから……だから、遠足や音楽会でみんなに迷惑をかけるかもしれません。先にごめんなさいしておきます。……ごめんなさい」
 葉月は弥生から口移しで教えられた通りそう言うと、ぎゅっと唇を噛みしめて顔を伏せた。固く拳に握った両手がぶるぶる震えているのは、けれど、屈辱に耐えるためばかりではない。



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