偽りの保育園児



               【二】

 好きな食べ物は何?とか、どんなアニメが好きなの?や、寝る時は布団なのかベッドなのかとかいう、葉月にとってはどうでもいいような、しかし、皐月にとっては入園式をわざと長引かせるための質問が幾つも続き、その後に芽衣の自己紹介があって、ようやくのこと入園式は終盤を迎えた。
 入園式を終えるにあたって最後に残っているのは、部屋の中央に立っている葉月を年長クラスの園児が手を引いて年少クラスの列の中に連れて行くという、新入園児を自分たちの仲間として迎え入れることを意味する行事だけだ。その、葉月を年少クラスの列の中に連れて行く役に選ばれた年長クラスの園児は、卯月だった(卯月に白羽の矢を立てたのが皐月なのは言うまでもないところだろう)。
 皐月と弥生それに芽衣の三人と入れ替わりに卯月が葉月の目の前に歩み寄り、すっと手を差し伸べた。
 一瞬は躊躇った葉月だが、最後に残ったこのセレモニーが終わりさえすれば部屋から出てトイレへ行くことができるのだと思うと、自分でも意識しないうちに体が動いて、気がついた時には卯月の手をぎゅっと握りしめていた。それはまるで、大勢の他人の中に取り残された無力な幼児がしっかり者の姉にすがりつく姿さながらだ。
 だが、卯月はそのまま園児たちの列に向かって歩き出すことなく、さっと体の向きを変え、葉月の背後にまわりこんだ。
 葉月がはっとして身をすくめる。
 その直後、卯月は
「入園おめでとう、葉月ちゃん。ほら、これが卯月からの歓迎のご挨拶よ」
と大声で言って、葉月のスカートをぱっと捲り上げた。
「い、いやぁー!」
 葉月の悲鳴が部屋中に響き渡った。
 卯月にしてみればほんのちょっとした悪戯のつもりだった。自分の姉である芽衣と仲良さそうにしていた葉月をちょっぴり恥ずかしい目に遭わせやろうと思いついて軽い気持ちで実行に移した、些細な嫉妬心の表れに過ぎなかった。
 だが、卯月にとっては何気ないそんな悪戯が、思ってもみなかった結果を招くことになる。

 悲鳴をあげた葉月は、慌ててスカートの裾を押さえ、その場にしゃがみこんだ。けれど、急に体を動かしたものだから、思いがけない力が下腹部に加わってしまう。
「……!」
 床にしゃがみこんだ葉月が不意に両目を大きく見開き、声にならない声をあげた。
 葉月が唇を震わせているのは、園児たちの目の前でスカートを捲り上げられた羞恥のためなどではなかった。いや、卯月のスカートめくりが全く関係ないとは言えない。それが引き金になったのは確かだ。しかし、葉月が今にも泣き出しそうな顔をしているのは、ショーツを大勢の目にさらす羞恥のためではなく、表現しようのない絶望感のせいだった。
「あ、あ……」
 葉月の肩が小刻みに震えて、呻き声とも喘ぎ声ともつかぬあえかな声が漏れ出た。
 それまでじっとり湿っていたナプキンが、じくじく濡れ始める。ナプキンをとめどなく濡らすのは、とうとう堪えきれなくなって溢れ出したおしっこだ。
「いや……」
 葉月は弱々しく首を振った。ナプキンがいつまでもおしっこを吸い取ってくれるものではないことは葉月にもわかっていた。
「や、やだったら……」
 際限なく溢れ出るおしっこを遂に吸い取れなくなったナプキンの内側から生温かい液体が沁み出し、ショーツのクロッチ部分がじわっと濡れる感触が下腹部から伝わってくる。
「……見ないで。……見ちゃ駄目なんだからぁ!」
 誰にともなく力なく呟くように言った葉月だが、あとの方は感情の高ぶりに耐えきれず、涙声で喚いてしまう。
 だが、それも束の間。内腿を伝い落ちる雫がますます増え、とうとう一条の筋にまとまり、ペニスから溢れ出たおしっこがまるでナプキンに吸い取られることもなくショーツの生地をしとどに濡らし、クロッチ部分からも床に滴り落ちるようになって、葉月が声を失ってしまうのに、さほど時間はかからなかった。




「まだ途中ですが、ここで入園式を中断します。先生方は、子供たちを連れて速やかに各々の教室に戻ってください」
 葉月がしゃがみこんでいる床に小さな水溜まりができだした頃、皐月が大声を張り上げて入園式の中断を告げた。
 正直なところを言えば、葉月の痴態をこのまま晒し者にしておくのも面白そうだなという思いが皐月にないわけではなかった。しかし、後で葉月のショーツを脱がせることになった時、裸に剥かれた下腹部を見て葉月が実は男の子だということに気がつく園児もいるかもしれない。そんなことになったら、思ってもみなかった醜い肉棒を目の当たりにして、幼い心に深い傷がつく恐れが多分にある。そういった事態になるのを避けるため、葉月のことを思いやってなどではなく、ただ子供たちの心に傷を負わせないようにするために、受け持ちの子供を連れてこの部屋から出るよう皐月は保育士たちに指示したのだった。
 目の前で新入生が、それも本当は自分たちよりもずっと年上の筈の女の子がおしっこを漏らす姿に、園児たちは動揺を抑えきれなかった。が、それと共にいいようのない好奇の念がむくむくと湧き上がってきて、部屋の中ほどにしゃがみこんだままの葉月から目を離せないでもいた。
 それを、それぞれの受け持ちの保育士たちがぱんぱんと手を打ち鳴らし、手を引いて強引に立たせ、後ろの扉に向かわせる。

「さ、卯月ちゃんも自分の教室に戻りましょうね。ほら、もうみんな廊下に出ちゃったよ」
 しばらく間があって園児たちが残らず発表室から出て行った後、年長クラスの副担任が引き返してきて、まだ葉月のそばにいる卯月に声をかけた。
 だが、卯月は首を縦に振ろうとしない。
「卯月、ここにいる。ここにいて、御崎先生や遠藤先生やお姉ちゃんのお手伝いをする」
 卯月は胸を張って副担任にそう応えた。
「え? でも……」
 思いがけない卯月の返答に、副担任が困惑の表情を浮かべた。
「だって、先生、いつも言ってるじゃない。小さい子には優しくしてあげなさいって言ってるじゃない。小さい子が困ってたら助けてあげなさいって言ってるじゃない。先生も御崎先生も遠藤先生も、それに園長先生も、いつもそう言ってるでしょ? だから、卯月、御崎先生や遠藤先生やお姉ちゃんのお手伝いをして、おもらししちゃった葉月ちゃんの面倒をみてあげるの。だって、卯月、年長さんのお姉さんだもん」
 副担任の戸惑いをよそに卯月は澄ました顔で言い、葉月の方に向き直って、わざとのように優しく話しかけた。
「だから大丈夫よ、葉月ちゃん。みんな教室に戻って一人ぽっちになっちゃって寂しいかもしれないけど、お姉さんが一緒にいてあげるからね。年長さんのお姉さんがずっと一緒だから安心していいんだよ」
「いいわ。葉月ちゃんのお世話、卯月ちゃんにも手伝ってもらうから、先生は教室に戻って、いつも通り子供たちの面倒をみてあげて」
 卯月が葉月に話しかけている間に、皐月は副担任に向かってそう指示していた。
 けれど、副担任はすぐには頷かず、
「でも、いいんですか、主任? 卯月ちゃんは本当に教室へ連れて戻らなくてもいいんですか?」
と、いささか怪訝そうな顔つきで訊き返す。
 皐月や弥生、園長や水無月だけでなく、ひばり保育園の職員は全員、葉月が大学生の男の子だということを知っている。もちろん、この副担任も例外ではない。その事実を知っているからこそ、葉月の正体を卯月に気づかれる恐れがあるのに手伝いをさせるつもりなのか?という疑念が湧き起こってくるのは当然のことだった。
「うん、卯月ちゃんのことはいいわ。せっかく年長クラスのお姉さんが入園ほやほやの年少さんの面倒をみてあげるって言ってくれてるのに、それを断っちゃ申し訳ないもの。それに、卯月ちゃんにはこれからもいろいろ葉月ちゃんがお世話になりそうだから、今のうちに少しでも仲良くなっておいてもらわないとね」
 皐月は副担任の心配をよそに大きく頷いてそう言い、微かに笑ってみせた。副担任はまだ気づいていないが、芽衣をそうしたように、皐月が、自分の企みを確実に推し進めるための手駒として卯月をも利用しようとしているのは明らかだ。
「わかりました。主任がそうおっしるのでしたら……」
 まだ要領を得ない表情を浮かべながらも、部屋の片隅に立って事の成り行きを見守っている園長までもが皐月に同意するかのように頷くのを見て、それ以上は何も言わず、副担任は発表室をあとにした。



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