偽りの保育園児



「ん? 園長先生のお部屋から何を持って来てくれたのかな、卯月ちゃんは?」
 弥生は、篭に向かってすっと手を伸ばして一枚の布地をつかみ上げると、すぐにそれが何なのか理解した様子で、卯月に向かってにっと微笑みかけた。
「なるほど。これなら、いくらおもらし癖のある葉月ちゃんでも、もう床をおしっこで汚したりしないですみそうね。それに、卯月ちゃんや純ちゃんとの約束も守れるし。いい物を持ってきてくれたわね、卯月ちゃん」
「でしょ? ちょっと重いけど、頑張ったんだよ。葉月ちゃん、おしっこで濡れちゃったパンツのままだったらお尻が気持ち悪くて可哀想だと思ったから、急いで運んできたんだよ。園長先生に手伝ってもらわないで、一人で持ってきたんだよ。――こんなにたくさんのおむつなのに」
 卯月は弥生が褒めてくれたことに気を良くしてぐっと胸を張り、いかにも自慢げな声で言った。
「そう、一人で持ってこられたんだ、このおむつ。おむつがたくさん入って重い篭なのに、一人で持ってきたんだね、卯月ちゃん。年長のお姉さんが運んできてくれたおむつだもん、きっと葉月ちゃんも喜ぶよ」
 弥生は何度も何度も『おむつ』という言葉を繰り返し言って更に卯月を褒めそやした。
 その声が葉月の耳に届かないわけがない。
「え……!?」
 まさかという思いと共に葉月が顔を上げ、弥生が手にしている布地におそるおそる目を向けた。
「……!」
 育児経験など全くなく、まだ保育実習も履修したことのない葉月にも、それが赤ん坊の下着である布おむつだということは一目でわかった。それも、昨日、最初に穿かされたシナモロールのショーツを汚してしまい、替わりに穿かされた女児用ショーツにプリントしてあったのと同じハローキティの顔がピンクの染料で幾つもプリントされた、見るからに可愛らしい布おむつだ。
「ね、ね、先生。そのおむつ、端っこに字が書いてあるでしょ? それ、なんて書いてあるのか読んでみて」
 葉月が困惑の表情を浮かべる様子を面白そうに眺めて、卯月は弥生にせがんだ。
「えーと、どれどれ。あ、これかな。ちょっと薄くなってるけど、ちゃんと読めるわね。最初の字は『す』で、次は『が』、その次が『わ』――あ、これ、『すがわらうづき』って書いてあるんだ。そっか、卯月ちゃんの名前が書いてあるんだね、このおむつ」
 ハローキティのプリントに合わせた色遣いのピンクの油性マジックで布おむつの端に書いてある字を読んだ弥生は、卯月の顔を正面から覗き込むようにして声を弾ませた。
「うん、そうなんだよ。それ、卯月が使ってたおむつなんだよ。ね、園長先生?」
 卯月は少しばかり恥ずかしそうな表情を浮かべながら園長の顔を見上げた。
「そうよ、卯月ちゃんが年少さんの時、まだおもらしが治っていない頃、卯月ちゃんのお母さんから預かって使っていたおむつよ。他の子のと間違わないよう、お母さんにちゃんとお名前も書いてもらったのよね」
 園長は目を細めて卯月に応え、葉月と芽衣の顔をゆっくり見比べながら続けた。
「おもらしやおねしょが治らなくておむつが必要な子は、お家からおむつを預かることになっているの。殆どの子は年少さんの早いうちにおむつ離れするから途中で要らなくなるんだけど、預かっていたおむつについては保育園に寄付しますとおっしゃってくださる保護者の方が多くて、いろいろ助かっているのよ。たとえば、体調が悪くていつもよりおもらしの回数が増えちゃって預かっているおむつだけじゃ足りない子の予備として使うこともできるし、それに――」
 そこまで言って園長は葉月の顔に目を留めた。
「――おもらし癖があることを知らないまま預かった子に使わせることもできるからね。寄付していただいたおむつは、たとえ実際に使うことがないとしても、可愛い園児たちの大切な思い出にもなるから、名前を確かめながら一枚ずつ丁寧に折りたたんで園長室にある収納庫にしまってあるのよ。それで、卯月ちゃんが使っていた分もあることを思い出して取り出してきたの。どうやら卯月ちゃんが葉月ちゃんの面倒を一番みてくれそうだから、卯月ちゃんのお下がりのおむつを葉月ちゃんに使ってもらうのがいいかなと思って」
 卯月ちゃんのお下がりのおむつ。葉月の顔が屈辱と羞恥に歪む。大学生にもなっておむつを使わされそうになっている羞恥と、そのおむつが自分よりもずっと年下の保育園児のお下がりだという屈辱に。
 葉月は弱々しく首を振って身を退いた。
 けれど、皐月に首ねっこを押さえつけられて一歩も後ずさりできない。

「あの、でも、園長先生……」
 ふと弥生が卯月の顔から視線を外し、少し困ったような表情で言った。
「葉月ちゃん、体が大きいから、おしっこの量も多いんです。主任と一緒に床を拭いた時も、雑巾でおしっこを吸い取ってバケツに絞る回数は他の子供たちに比べて何倍も多かったし。卯月ちゃんのお下がりのおむつだけじゃ足りないんじゃないでしょうか」
 もうすっかり葉月が何度もおむつを汚してしまうものだと決めてかかっているかのような弥生の言葉に、葉月が唇を噛みしめる。
「ううん、それは大丈夫。遠藤先生は今年の春から勤め始めたばかりだから詳しくは知らないかもしれないけど、これまでに寄付していただいたおむつは本当にたくさんあるんだから。卯月ちゃんのお下がりだけじゃ足りなくても、その他にも数え切れないくらいの枚数があるから心配しなくていいのよ。だいいち、あまり古いおむつをわざわざ引っ張り出してこなくても、少し前におむつが外れたばかりの純ちゃんのおむつも頂戴しているし。だから、葉月ちゃんがどんなにたくさんおもらしをしちゃっても、使わせてあげられるお下がりのおむつはたっぷりあるの」
 園長は、両の瞳に悪戯っぽい光をたたえて応えた。
「そうだったんですか。なら、それは安心ですね。枚数が充分だったらおむつは心配ないと思います。サイズにしても、子供用のおむつでも、元々二つ折りにして使ったりしますから、折らずにそのまま使えば葉月ちゃんの大きな体に合わせられるでしょうし、その点も問題ないと思います。もしも長さが足りないことがあっても、何枚かのおむつを少しずつずらして重ねればなんとかなるでしょうし。ただ、もう一つだけ心配なことがあるんですけど……」
 園長の説明に弥生は小さく頷いたものの、まだすっきりしないようで、再び遠慮がちにこんなことを尋ねた。
「あの、おむつカバーはどうなっているんでしょうか? 布おむつの方は枚数もサイズも問題ないとしても、さすがに、おむつカバーは子供用のをそのまま葉月ちゃんに使わせるのは無理だと思うんです」
 弥生の疑問はもっともだった。布おむつは工夫次第で赤ん坊用のものをそのまま葉月に使わせることができるにしても、おむつカバーは、小さな子供用のものを葉月に使わせようとしても、窮屈どころか、そもそもホックやマジックテープを留めることもままならないだろう。
「それも心配しなくて大丈夫よ。制服や体操着を納入してもらっている業者さんに特別にお願いしたから。その篭にも入っている筈よ」
 園長はこともなげに応えて、卯月が抱えている篭に視線を向けた。
「え? あ、これかな。へーえ、うふっ、可愛いおむつカバーだこと。見た目はまんま子供用なのに、たしかにサイズは随分と大きいみたいですね。これなら葉月ちゃんにぴったり合いそうだわ」
 園長に言われて、それまで手にしていた布おむつを篭に戻した弥生は、その代わりに、レモン色の生地に、これもやはりハローキティの顔をあしらったおむつカバーをつかみ上げた。おむつにプリントされたハローキティの顔がパステルピンクの単色なのに対し、おむつカバーの方は、ショーツと同じようにカラフルで、お尻のところにアップリケで大きな顔が縫い付けてあるという、ぱっと見には幼児向用としか見えない可愛らしいおむつカバーだ。が、弥生が言う通り、サイズは特別仕立てで、小柄とはいえ大学生である葉月の下腹部を包み込むに充分な大きさに仕立ててあるのがわかる。
「園長先生が業者さんにお願いしたんだから間違いないに決まってるけど、一応、サイズ合わせをしてみようかな。葉月ちゃん、少しの間じっとしていてちょうだいね」
 なんとも表現しようのない笑みを浮かべた弥生はそう言って、両手で広げた大きなおむつカバーを葉月の下腹部に押し当てた。おしっこを吸ったショーツに触れておむつカバーの表面が濡れてしまわないよう僅かに隙間をつくったものの、傍目には、ショーツの上からおむつカバーをぴったり押し当てているように見える。



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