ルシファーのまどろみ・完結編その三



 遊鳥こども園には、年長、年中、年少および年幼という、年齢順に四つのクラスがあるのだが、それとは別に、特殊な事情を抱えた児童を預かるための、特別年少クラスが設けられている。
 遊鳥こども園の園長である御崎皐月と、同じく副園長を務める御崎薫との同性婚カップルの娘である御崎葉月。進学校として名高い明光高校での養護教諭の職を辞して今は遊鳥こども園の保健室をまかされている沢村智子の娘である沢村晶。理事長付特別秘書として慈恵会から遊鳥清廉学園に出向してきている浜野美香の娘である浜野優香。地元で手広く商いを行っており遊鳥清廉学園とも取引のある鈴本服飾商店の店主である鈴本真由美と、真由美との同性婚パートナー・香奈の娘である鈴本祐香。
 現在、特別年少クラスで預かっている児童は、この四人だ。優香と祐香は姉妹なのだが、縁あって祐香は真由美と香奈の同性婚カップルに養女として引き取られ、今は浜野姓から鈴本姓に変わっている。ちなみに、優香は本来は年長クラスに在籍していたのだが、祐香と離れ離れになった寂しさからおもらし癖が再発してしまったため逆進級制度の対象になって、妹である祐香と同じ特別年少クラスに移され、今は姉妹二人同じクラスで仲良く過ごしている。
 この四人の園児が共通して抱える特殊な事情。それは、四人ともが女の子ではなく、しかも、こども園に通うような年齢でもないという事実だ。そのあたりのことを一人ずつ順に説明しておこう。
 先ず、葉月。葉月は、代々にわたって学校教育に携わる人材を輩出する家系に生まれたが、後々その『血統の呪縛』によって深い絶望に瀕する宿命にあった。実の姉であり、遊鳥こども園の前身・ひばり幼稚園の教諭であった皐月は、紗江子や美雪、新任教諭だった薫の協力を得て、葉月の精神を強引に幼児退行させることで葉月を血統の呪縛から解放することにかろうじて成功した。だが、強引な措置のせいで葉月の精神は幼児退行が解けず、自身のことを三歳くらいの女児だと認識したままの生活を送っている。そして、様々な経緯の後に同性婚という途を選んだ皐月と薫は葉月を二人の『娘』として籍に入れ、遊鳥こども園の園長と副園長の任に就いた今も、自分たちの勤務先である遊鳥こども園の特別年少クラスで葉月の面倒をみている。特に、副園長という多忙の身でありながら、特別年少クラスの担任を兼務しつつ、母親として甲斐甲斐しく『愛娘』の世話をやく薫は、葉月の側を一時も離れようとせずにいる。
 次に、晶。晶は、進学校として名高い男子校である明光高校に入学してすぐ、怪我のため一ヶ月間ほど両手を自由に動かせない状況に置かれた。晶は学校から遠く離れた地方の出身で寮生活を送っていたのだが、両手が使えない状態では寮での生活に困難をきたすため、怪我が治るまでの間は休学して故郷の自宅に戻るしかなかった。だが、競争の激しい進学校において一ヶ月間にもわたって休学すれば、その間に取り返しのつかないほど学業が遅れてしまうのは明白だ。思い悩む晶に対して救いの手を差し伸べたのは、明光高校の当時の養護教諭であった智子だ。智子は、半ば強引に校長の許可を取り付けて晶を自分の自宅マンションに住わせ、学校への送り迎えも含めて生活の面倒をみてやった。だが、それは厚意や養護教諭としての義務感からではなく、智子が心の奥底に抱える不埒な欲望のためだった。父親から認知されぬまま母親に育てられた智子の胸の内には男性に対する不信の情念が固く根を張り、いつしか、薄汚い男どもにいいようにあしらわれるよりも、こちらが若い男の子を好きなようにあしらってやろうと考えるようになっていた。まだ女の体を知らない、うぶな男の子を思う存分玩具にしてやりたいと願うようになっていた。若い男の子を弄び、好きなようにあしらい、屈服させることに異様なほどの悦びを覚えるようになっていたのだ。若い男の子を屈服させる方法は幾つもある。体が大きく腕力もありそうな男の子が相手なら、まるで猛獣を飼い慣らすように鞭を振るう。頭のいい理知的な男の子が相手なら、徹底的に言葉でなぶりものにする。あるいは、女の子と見紛うような男の子を相手にした時は、その愛くるしさを存分に引き出した上で、可愛がるようなふりをしながらひどい羞恥を呼びさますようにして屈服させる。晶を自分の胸に巣くう醜い欲望の獲物と思い定めた智子が選んだ方法は、晶に幼い女の子の格好を強要することだった。両手の自由が利かないせいで自分では何もできないことを口実に、幼い、まだおむつの取れない女児のような格好をさせて、思いきり羞恥心を煽って屈服させることだった。智子は、自宅マンションにいる間は晶に、まだおむつの取れない幼い女の子のような装いをさせ、学校へ連れて行く時は、おむつが窮屈でズボンを穿けないからと、系列の女子中学校の制服を着用させて、晶の羞恥心をこれでもかと煽ることで醜い欲望を満たした。更に、それにとどまらず智子は、晶の級友である中谷徹也と晶を番(つがい)として飼育することさえした。幼い女の子そのままの格好をした晶を、男子校で性欲を持て余している徹也の目の前に、その悶々とした性欲の餌食として差し出したのだ。晶と徹也が人目を構わず痴態を晒すようになるまでに、さほどの時間はかからなかった。そうして、異形の愛欲に溺れるまま、学業が疎かになった晶と徹也は明光を放校処分になった。その後、智子は、自分を認知せぬままの父親を脅すようにして、その広い人脈を活かし、明光を放校された晶を遊鳥こども園に、徹也を遊鳥高校に編入させた上で、晶と徹也を飼育し続けるのに都合のいい、遊鳥こども園の養護教諭としての職を得たのだった。
 そして、優香。優香の母親は、慈恵会から遊鳥清廉学園に出向している秘書・浜野美香だ。しかし、美香というのは本名ではない。実は美香は、浜野香(かおる)という名の男性だ。優秀な女医である美雪は学生時代、その恵まれた才能に嫉妬した数人の男子学生によってレイプされていた。その際に生じた心の傷は時を経ても癒えず、いつしか、理性では抑制できない『精神の癌』とも呼ぶべき醜悪な欲望の塊へと姿を変えていた。そんな醜悪な欲望と、生まれながらに持ち合せた才能とが複雑に絡み合い、あるいは融合して、美雪は尋常ならざる外科手術の技能を有する医師であると同時に、人の体にメスを入れることに異様な悦びを覚える危険な存在になっていった。美雪の父親であり当時の笹野家の当主であった笹野秀和は、そのような危険な存在を慈恵会の一員として置いておくことはできないと判断し、名もない街の街外れに小さな診療所を設立して、その診療所を美雪にまかせることにした。つまるところ、美雪を慈恵会の本流から外し、目立たぬ診療所に幽閉したわけだ。その際に、美雪が勝手な行動を取らぬよう監視する役割を与えられて慈恵会本部から診療所に派遣されたのが、香だった。しかし、美雪の精神を蝕む醜悪な欲望は、監視役である香を獲物と定め、美雪をそそのかした。欲望に操られるまま、美雪は香の体にメスを突き立て、なかなか実行の機会に恵まれない性転換手術を行った。それも、ペニスや精嚢といった男性性器を残したまま、体つきを女性化して豊胸措置を行い、かねてから試験的に精製していた合成女性ホルモン様化合物を投与することで、精子を迸らせるペニスと、母乳を溢れ出させる豊満な乳房を併せ持つ、蠱惑的な若い女性の容姿を有する異形の者へと香を変貌させる、禍々しい手術を。手術を終えた美雪は、自分の名から『美』を取って香に『美香』の名を与え、自らの配下に置いた。だが、美雪の欲望は、それだけでは満足しなかった。実は、美雪の行動を監視するために慈恵会本部から派遣されていたのは、香/美香だけではなかった。もう一人、上村優(まさる)という、主に事務処理を担当する職員もいた。満足することを知らぬ美雪の欲望は優をも餌食にし、美雪は優に対しても性転換手術を行った。美雪が優に施したのは、ペニスを切除して膣に造り換えるだけの単なる性転換措置ではなく、手足の腱を弱体化して自力で歩行することを極めて難しくすると共に、膀胱の筋肉を弱体化することで容易に尿失禁を起こすようにし、更に声帯を削ることで声を高くすることに加え、歯を全て抜き去って代わりに柔らかい素材の人口義歯を埋め込み、ペニスを切除した下腹部の恥毛の毛根を全て除去するといった、執拗で猟奇的な手術だった。しかも美雪は、優の顔が丸み帯びるようにすると同時に顔の様々な部位に対する整形手術も併せて施していた。その結果として優は、丸っこい童顔の、幼い女の子に変貌させられてしまった。それも、おもらし癖のせいでおむつ離れできず、まだあんよも上手ではなく、固い物が食べられなくておっぱいしか口にできない、赤ん坊のような女の子に。美雪が優をそのような童女に変貌させたのは、慈恵会の理事長である秀和の命に背いて美雪に仕えることを誓った香/美香に優を褒美として与えるためだった。慈恵会本部において優は香の二年先輩なのだが、どういうわけか二人は反目し合っており、何かといっては優が先輩風を吹かせて香に理不尽な命令をすることが多かった。そんな優を無力な幼女に変貌させて香の好きなようにさせることが、美雪からの美香への褒美だった。美雪の目論見通り美香は自分の新しい名から『香』の一字を取って優に『優香』という新しい名を与え、自分の娘として厳しく『躾け』て飼い慣らし、遂には自分のことを甘えた声で『ママ』と呼ばせるに至った。そして美香は、愛娘である優香が『いい子』にしていれば、自分の乳房から溢れ出る母乳をご褒美として好きなだけ与え、それで足りぬ時は、ペニスから滴る精液を『下のミルク』として存分に与える日を送ることになったのだった。
 最後に、祐香。祐香は優香の妹だが、元は、清水祐一という名前の二十一歳の男子大学生だった。若き日の美雪がまかされていた診療所がある街の中心に位置する大学の研究室で徹夜の実験を済ませてアパートに帰ったのだが、実験中はきちんとした食事を摂れなかったせいでひどい空腹を覚え、二日前に買ってバッグに入れたままになっていたサンドイッチを食べてしまい、食あたりになって、一番近い医療機関である診療所に駆け込んだのが仇で、美雪や美香の餌食になってしまったのだ。人の体にメスを入れることに異様な悦びを覚える美雪は、また、極度に肥大化した支配欲の持ち主でもあった。思いがけず現れた新たな獲物である祐一は、少女と見紛うばかりの可愛らしい顔をした美少年で体つきも華奢。美雪の支配欲のまさに餌食にふさわしい男の子だった。美雪は己の支配欲を存分に満たすべく、祐一を徹底的に無力な存在、つまり、赤ん坊に変貌させることを思いついた。そのために美雪は美香の協力のもと、医療行為と称して羞恥と屈辱にまみれた行為を繰り返し祐一に強要し、自ら開発した筋弛緩剤を手足と膀胱付近に注射して祐一の四肢から自由を奪い、ペニスが勃起しないような措置を施すと共に、膀胱の括約筋を弱体化して尿失禁を常態化させ、スカート付きロンパースやチュニックといった女児向けベビー服を着せてお尻をおむつとおむつカバーで包んで徹底的に赤ん坊扱いした。最初は抗っていた祐一も、診療と称して金属製のヘラで舌を押さえつけられたり、おむつを濡らすのがいやだったら水分を摂っちゃだめよと言われて喉の渇きを放置させられたりといったことが続けば、二人の言いなりになるしかなかった。そうやって優香と同じように祐一は『いい子』になるよう『躾けられ』て、遂には、たっぷりあてたおむつのせいで裾が捲れ上がってしまう丈の短いベビードレスとよだれかけが似合う可愛らしい女児の赤ん坊に堕とされ、『祐香』という名を与えられて、美香の二人目の娘としての生活を余儀なくされたのだった。その後、鈴本真由美と香奈の同性婚カップルに養女として引き取られ名字を浜野から鈴本に変えて遊鳥こども園の特別年少クラスに預けられたのだが、先に年長クラスに預けられていた優香が祐香と離れ離れになった寂しさからおもらし癖が再発して特別年少クラスに逆進級させられ、今は再び姉妹仲良く薫や雅美におむつを取り替えてもらって嬉しそうにしている。


 このような特殊な事情を抱えた園児ばかりの特別年少クラスに、十月の下旬、一人の園児が新しく迎え入れられた。

 その日の朝、いつものように特別年少クラスの部屋で四人の園児が行儀よく座って『朝のご挨拶の時間』が始まるのを待っていると、チャイムが鳴って扉が開き、副園長を兼務する薫が入って来た。
 園児たちが一斉に立ち上がり、おはようございますの挨拶をして、エプロン姿の薫が笑顔で挨拶を返した後、
「今日は、嬉しいお知らせがあります。このクラスに新しいお友達が入ることになりました。新しいお友達を紹介するから、そのまま待っていてちょうだい」
と言って四人の顔をぐるりと見回した後、扉に向かって
「いいわよ、入ってらっしゃい」
と手招きをした。
 薫に呼ばれて、ピンクのセーラースーツを着た少女が、不安そうに、けれどちょっぴり嬉しそうに、園児たちの方をちらちら見ながら入って来る。
 少女が自分のすぐ側まで来るのを待って、薫はもういちど園児たちの顔をぐるりと見回し、よく通る声で言った。
「今日からみんなのお友達になる坂本メグミちゃんです。仲良くしてあげてね」
 その日、遊鳥こども園の特別年少クラスに新しく迎え入れられたのは、薫が園児たちに紹介した通り、恵だった。
 意識が小学一年生まで戻った恵だったが、その後も記憶消去反応が発現し、意識は六歳児へと低下してしまい、遂に小学校からこども園へ逆進級させられることになった。通常の逆進級なら年長クラスに編入ということになるのだが、恵の場合はその後もおよそ十日ごとに逆進級させられることが明白だったため、紗江子と皐月の判断で、最初から特別年少クラスに編入させられることになったのだ。
「それじゃメグミちゃん、みんなにご挨拶してちょうだい。上手にできるかな?」
 薫が優しく促す。
 不安そうな面持ちながらも、恵はこくんと頷いて、
「坂本メグミです、仲良くしてください。メグミ、幼稚園とか保育園とか、行ってみたいなって思っていました。幼稚園でも保育園でも、どっちでもいいから、ずっとずっと行ってみたいなって思っていました。ずっとずっと思っていて、それで、今日、遊鳥こども園に入ることができました。メグミ、とっても嬉しいです。嬉しいから、メグミ、こども園でいい子にします。いい子にするから、みんな、仲良くしてください」
と、少したどたどしい口調で、顔を輝かせて挨拶をした。
 嬉しさいっぱいの挨拶だった。




 決して裕福とはいえない生い立ちだった恵は、経済的な事情で幼稚園には行っていないし、雑貨商を営む両親が常に家にいたから、保育園へも行っていない。同年代の友達が幼稚園や保育園へ行っている間、恵は家にいるしかなかったのだが、家でも、両親が忙しくて殆ど構ってもらえず、かといって体が小さいため家業を手伝うこともできず、どこにも居場所のない幼少期を過ごしていた。
 記憶消去反応が発現して意識が六歳に戻った朝、恵は、かつての寂しく辛い記憶と共に目覚めた。どこにも居場所のない日がまた始まるんだ。幼心にそう思いながら恵は目覚めた。
 だが、渋々目を開けたその先にあったのは、見覚えのない豊かな乳房だった。
 恵は瞼を拳でぐりぐり擦っておそるおそる顔を上げ、まだ焦点の合わない目をきょろきょろ動かした。
「おはよう、メグミ。今朝もお寝坊さんだったわね。今日から遊鳥こども園に行くんだから、急いで着替えなきゃいけないわよ。あ、こども園って言ってもメグミにはわからないかな。こども園っていうのは、幼稚園みたいな所よ。今日からメグミは幼稚園に行くの。お友達がいっぱいできるといいね」
 ぼんやりしている恵の耳許に囁きかける優しい声。
「ほんと!? 本当に今日から幼稚園なの!? 本当に本当なの、ママ!?」
 優しい声を耳にした途端、恵の顔がぱっと輝いた。
「本当よ。メグミは今日から遊鳥こども園の特別年少クラスに入るのよ。先生の言うことをちゃんと聞いて、いい子にしなきゃ駄目よ」
 優しい声の主である京子が恵の髪をそっと撫でつける。
「うん、ママ。メグミ、いい子にする。幼稚園、ううん、こども園だっけ、こども園でいい子にする。だってメグミ、おうちでもいい子だもん。メグミ、おうちでもいい子だよね、ママ?」
 髪を撫でつけてもらいながら、恵は、甘えた口調で京子に同意を求めた。
「そうね。メグミはいい子よ。おうちでもお外でも、ママご自慢の可愛い娘よ、メグミは。いい子だから、ご褒美におっぱいをたくさんあげるわね。おっぱいを飲んでからおむつを取り替えて、こども園の制服を着せてあげる。とっても可愛い制服だから、楽しみにしてらっしゃい」
 京子はネグリジェの胸元を大きくはだけ、ブラジャーの肩紐をずらした。
 あらわになった乳房に、まるで迷うふうもなく恵はむしゃぶりついた。
 記憶消去反応が発現して記憶が失われるたびに恵は自分の置かれた状況をまるで理解できなくなって、ひどい混乱状態に陥っていた。それを京子が、強引に自分の母乳を飲ませ、母乳に含まれる特殊な成分による暗示作用を利用して恵の精神に(自分にとって都合のいい)様々な情報を刷り込んで落ち着かせ、新たな日常生活を送らせるといったことを繰り返していた。しかし、記憶消去反応が発現するたびに『記憶の再構成』も次第に進行していて、恵自身にとって極めて重要と脳が判断した記憶は、表層の記憶領域だけではなく、深い階層の記憶領域にも多重蓄積され、記憶消去反応が発現しても消えずに保護されるようになっていた。多重蓄積され保護される記憶の中には、恵が唯一口にすることができる母乳を与えてくれる絶対的な保護者である京子に関する情報や、実は自分が男の子だということを周囲に知られまいとK女子中学校に入学してからずっと意識し心がけている女の子らしい振る舞いや、羞恥に満ちた事柄ではあるけれど日常生活を送る上で決して忘れてはならない、自分がおむつ離れできない体になってしまっているといった事実も含まれていた。そして、六歳児としての意識と共に目覚めた朝、恵が実際に六歳だった頃の記憶と、深層領域で保護されていた新しい記憶とが、どちらの記憶なのかという整理もされぬまま渾然とした状態で呼び起こされ、双方の記憶が無秩序に絡み合った末に生み出された仮想的な擬似記憶に浸食された意識に従って、恵は目を覚ました直後に京子のことを母親と偽認識し、実際の幼少期には行けなかった幼稚園に入園できる喜びに顔を輝かせ、嬉々として京子の乳房にむしゃぶりついたのだった。
 つまり、その日の朝、恵の意識は実際の六歳の頃に遡ったのではなく、京子の娘である六歳の園児としての意識に書き換えられてしまったのだ。
 遊鳥こども園に入園できたことを喜ぶ恵の挨拶は、『意識を書き換えられた恵としての』嬉しさいっぱいの挨拶だった。

「はい、よくできました。きちんとご挨拶できて、メグミちゃんはお利口さんね。じゃ、これから、みんなとお揃いのスモックに着替えて仲良くお絵かきしたりお遊戯したり絵本を読んだりしようね。メグミちゃんは一人でお着替えできるかな?」
 薫は挨拶を終えた恵の頭を優しく撫で、前もって京子から預かっていた通園鞄からピンクのスモックを取り出して、恵の目の前でさっと広げた。
「うん、できるよ。メグミ、六つだもん。六つのお姉さんだから、一人でお着替えできるよ」
 恵はこくんと頷いてちょっぴり自慢げに言い、セーラースーツの前ボタンに指をかけた。
 そこへ園児たちが駆け寄って来て口々に話しかける。見た目は幼女の、しかし実は(とっくに成人年齢を超えた者さえいる)男の子の園児たちは四人とも、新しいお友達ができることが嬉しくてたまらない様子がありありだ。
「メグミちゃん、一人でお着替えできるんだ。すごいね。葉月はね、まだ三つだから一人でお着替えできなくて、いつもママにしてもらってるんだよ。葉月、ママのことが大好きだから、ずっとずっとお着替えさせてもらうの。ね、いいでしょ、ママ」
 葉月が舌足らずな口調で言って、はにかんだ様子で薫の顔を見上げた。
「いいな、葉月ちゃんは。こども園でもおうちでもずっとママと一緒で。晶のママは保健室でお仕事だから甘えられなくて寂しいのに」
 ちょっぴり拗ねた口調で晶が言い、頬をぷっと膨らませる。
「でも、いいじゃない、晶ちゃんは高校生の優しいお兄ちゃんがいて。朝はお兄ちゃんがお部屋まで送ってくれて、帰る時はお兄ちゃんがお部屋まで迎えに来てくれて、お手々つないで帰ってるんだもん。ママはずっと一緒じゃないけど、あんな優しいお兄ちゃんがいていいな、晶ちゃんは」
 拗ねる晶を慰めようとしてか、あるいは本心から羨ましがってか、葉月が唇を尖らせて言い返す。
「だけど、お兄ちゃんだったら、葉月ちゃんにもいるでしょ? 葉月ちゃん、六年生の伸也お兄ちゃんとすっごく仲良しだもん、晶ちゃんと一緒だよ」
 横合いから祐香が割って入った。
「だって、伸也お兄ちゃんは本当のお兄ちゃんじゃないもん。伸也お兄ちゃんは……」
 言いながら葉月は頬を赤く染めて口ごもってしまう。
「あ、葉月ちゃんのお目々、ハートの形になってる」
 祐香が葉月を冷やかしてくすくす笑う。
「いいな、晶ちゃんも葉月ちゃんも。本当のお兄ちゃんでも、本当のお兄ちゃんじゃなくても、お兄ちゃんがいて。優香、妹しかいないのに」
 くすくす笑う祐香の顔を見ながら、優香がぽつりと言った。
「え? 祐香じゃ駄目なの? 優香お姉ちゃん、祐香のこと嫌いなの?」
 葉月を冷やかして笑っていた祐香が、たちまち、今にも泣き出しそうな顔になる。
「ちがうよ。優香ちゃんは祐香ちゃんのこと、大好きだよ。だって、祐香ちゃんとバイバイしたらおもらしさんになっちゃって、年長さんから特別年少さんになっちゃったんだもん、優香ちゃんたら。優香ちゃん、祐香ちゃんが大好きで、祐香ちゃんとずっと一緒にいたいんだよ。ね、そうでしょ、おむつっ子の優香ちゃん?」
 晶が祐香を慰めつつ、優香をからかう。
「でも、そんなこと言うけど、みんなだっておむつでしょ? 祐香も晶ちゃんも葉月ちゃんも、それに、メグミちゃんも、みんな、おむつでしょ? おむつ、優香だけじゃないもん」
 優香がムキになって言い返す。
 とりとめのない、無邪気なやり取り。
 女児たちの、幼い女子会。
 会話だけを聞いていれば、どこの幼稚園や保育園でもありそうな、あどけなく微笑ましい話題。
(でも、この子たちは五人とも、青年や成人の男の子なのよね)
 薫は胸の中で苦笑交じりに呟きながら、ぱんと手を打ち鳴らして園児たちに言った。
「メグミちゃんのお着替えが済んだから、絵本を読んであげるわね。先生の前に集まって行儀良く座ってちょうだい」
 薫の言葉に従って、園児たちが、スモックの裾から色とりどりのおむつカバーを見え隠れさせながら、恵に向かって手招きをして再び行儀よく座る。
「昔々ある所に……」
 新しい園児を迎え入れた特別年少クラスの一日が、こうして始まった。


 遊鳥こども園では午前十時に、朝のおやつタイムを兼ねた『ふれあいタイム』という時間が設けられている。こども園で最も幼い年幼クラスの園児のお世話を年長クラスの園児がしてあげて、上の子と下の子が仲良くなるきっかけをつくるのと同時に、年長クラスの園児の自立心を育むための時間だ。
 けれど、年長クラスの園児が揃って年幼クラスの部屋に向かう中、一人だけ列を離れて特別年少クラスの部屋に向かう園児の姿があった。
 園児の名前は御崎文月。文月は皐月と薫の娘で、葉月とは姉妹関係にあたることから、血のつながった『姉』として、どうしても『妹』の面倒をみてやりたくて、年長クラスの担任と年幼クラスの担任、それに特別年少クラスの担任であり自分の母親でもある薫から特別の許可を得て、年長クラスの他の園児と別れて、毎日一人で特別年少クラスの部屋を訪れているのだ。
 ただ、厳密に言うと、文月は葉月の『姉』ではない。様々な事情で男性としての生殖機能を失いつつあった葉月の精子を美雪が採取、凍結保存し、薫の卵子と人工授精させて、女性同士の同性婚カップルである皐月と薫の娘として生まれたのが文月だ。そのようにして授かった文月に皐月と薫は、葉月の姉たる役割を与えた。幼児退行の後、今後は女の子として育ってゆくことになる葉月が仕草や振る舞いや感性を真似るための『女の子のお手本』として。こうして、血縁としては葉月の娘であると同時に、母親である薫のお腹から生まれたという観点から見れば葉月の妹でもある文月だが、戸籍には葉月の姉と記載され、実際に、文月はしっかり者の上級生として、遊鳥こども園の中で最も手のかかる特別年少クラスに在籍する葉月の面倒を甲斐甲斐しくみてやっているのだった。

 その日もチャイムが鳴るのを待ちかねて特別年少クラスの部屋にやって来た文月だったが、恵の存在に気づくと、恵の顔をしげしげと眺め、スモックの胸元に付けている名札に目をやって、
「ママのクラス、新しい子が入ったんだ。ふぅん、さかもとメグミちゃんか」
と呟いた後、もういちど恵の顔を見て
「可愛い顔をしているのね。気に入ったわ。私、今日はメグミちゃんのお世話をしてあげる」
と、いかにも嬉しそうな声で言って、にっと笑った。
 その途端、ふれあいタイムを心待ちにしていた葉月が
「え!? じゃ、葉月のおっぱいは? 葉月、誰がおっぱいを飲ませてくれるの?」
と弱々しい声で言って、大きな瞳を涙で潤ませてしまう。
 本当の園児よりもずっと体の大きな偽りの園児の空腹を満たすには、二時間〜三時間おきの授乳が必要になる。そのため、昼食時と午後のおやつタイムには、特別年少クラスに預けられている園児の各々の『母親』が仕事の合間をみつけて部屋を訪れて直接おっぱいを与えているのだが、何かと忙しい午前中はそうすることが難しいため、母乳を入れた哺乳壜を登園の際に薫に預けておいて、午前のおやつタイムはそれで凌ぐようにしている。そろそろお腹が空いてくる頃合い、文月の手で哺乳壜の母乳を飲ませてもらうことを待ちわびていた葉月にしてみれば、いつも優しい目を向けてくれる大好きな『姉』の興味が自分ではなく他の園児に移りそうになっている事実に戸惑い、今にも泣き出しそうになってしまうのも無理はない。
「葉月はもう三つでしょ? 三つだったら、自分で哺乳壜を持っておっぱい飲めるんじゃないの? それに比べて、メグミちゃんは今日、特別年少クラスに入ったばかりなのよ。小っちゃい子のお世話をしてあげなきゃいけないのよ、年長さんは」
 泣き声の葉月に、文月が、(育ての父親である皐月から譲り受けたのだろう)年齢以上にしっかりした口調で言った。
 けれど、それに対して葉月が
「……でも、メグミちゃん、六つだよ。さっき、自分でそう言ってたもん。メグミちゃんの方が葉月よりもお姉さんなんだよ。だから葉月、文月お姉ちゃんにおっぱい飲ませてもらうの。文月お姉ちゃん、葉月におっぱい飲ませてくれなきゃ駄目なの!」
と、最初の方はおそるおそる、けれど途中からは駄々をこねているのがありありの様子で言って、唇を「へ」の字に曲げてしまう。
「え? メグミちゃんが六つ? でも、六つだったら、私と同じ年長さんじゃ……」
 葉月の言葉に一瞬きょとんとした文月だったが、恵のスモックの裾から見えているおむつカバーに気がつくと、少し離れた所にいる優香の顔に意味ありげな視線を向けて
「あ、メグミちゃん、優香ちゃんと同じで、おもらしが治らなくて逆進級なんだね。だから、六つなのに特別年少さんなんだ。優香ちゃんもメグミちゃんも、六つのお姉さんだけど、特別年少さんだから、おむつカバーが似合っていて、とっても可愛いわよ」
と言って、うふふと笑った。
「文月ちゃんのいじわる! 優香のことは言わなくてもいいでしょ」
 文月の笑い声に、優香が顔を真っ赤に染めて、ぷいっと横を向く。
 その様子に文月は
「あら、上級生のお姉さんの名前を『ちゃん』付けで呼ぶなんて困った子ね、特別年少クラスの優香ちゃんは。そんな困った子はいつまでも上のクラスに上がれないわよ。でも、それでもいいよね。優香ちゃんと祐香ちゃん、お姉ちゃんと妹じゃなくて、双子みたいだもん。優香ちゃん、このままずっと祐香ちゃんと一緒に特別年少さんでいいよね」
と言って再度うふふと笑ってから、葉月の方に向き直って
「確かに、葉月よりもメグミちゃんの方がお姉さんみたいね。でも、やっぱり、お姉ちゃんはメグミちゃんのお世話をしてあげたいな。だって、メグミちゃん、とっても可愛いもん」
と、わざとらしい笑みを浮かべて言った。
 途端に葉月が
「やだ、やだやだ! 葉月、文月お姉ちゃんにおっぱい飲ませてもらうの。文月お姉ちゃんがよその子のお世話するの、いやなの。文月お姉ちゃんは葉月のお姉ちゃんなの!」
とますます駄々をこねる。
 その様子をしばらく面白そうに眺めてから文月は
「嘘よ。お姉ちゃんがメグミちゃんのお世話をしてあげるって言ったのは、嘘。そう言ったら葉月がどんな顔をするか、からかってみただけよ。でも、これで、葉月がお姉ちゃんのこと大好きだってことがよぉくわかったわ。葉月ったら、本当にいつまでもお姉ちゃんっ子なんだから」
と、にこにこ笑いながら言って、おむつカバーを丸見えにして床にすわっている葉月を正面からぎゅっと抱きしめた。
「……いじわる。文月お姉ちゃんのいじわる。葉月、心配したんだから。よその子に文月お姉ちゃんを取られちゃうって、葉月、しんぱいで、しんぱ……ひ、ひっく、ぅ、ぅわーん、ふぇ、ふぇーん」
 文月の言葉に安心した葉月が、自分よりずっと体の小さな姉の薄い胸板に顔をなすりつけて泣き出してしまう。
「そんなに泣かなくでもいいでしょ。葉月は本当に甘えんぼうの赤ちゃんなんだから。でも、いつまでも赤ちゃんじゃパパとママが心配しちゃうでしょ。だから、少しずつでいいから、お姉さんになろうね。いろんなこと、お姉ちゃんが教えてあげる。葉月は、お姉ちゃんの言うことをよく聞いて、お姉ちゃんの真似をすればいいのよ。そうやって、ゆっくりお姉さんになろうね。いつまでもおむつのままじゃ、伸也お兄ちゃんとデートもできないんだから」
 文月は葉月の背中をとんとんと優しく叩いた。
「……っぐ。え、えっぐ。ぅぇーん。ひ、ひっく。……ん、うん。葉月、文月お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞く。文月お姉ちゃんの真似っこする。それで、お姉さんになる。……お姉さんになるまで、文月お姉ちゃん、ずっと葉月と一緒にいてよ。よその子よりも葉月に優しくしてよ。約束だよ、文月お姉ちゃん」
 葉月の声が少しずつ穏やかになってゆく。
「いいわよ、約束する。じゃ、葉月がおっきくなってお姉さんになれるよう、おっぱいにしようか。お姉ちゃんが飲ませてあげるから、さ、ここにごろんして」
 文月は葉月のおでこに優しくキスをしてから床に正座をして、自分の腿を掌でぽんと叩いた。
 はにかんだ様子で葉月は頷き、文月の太腿におずおずと頭を載せて床に横たわった。
薫が満足そうに頷いて、予め自分の母乳を入れておいた哺乳壜を文月に手渡す。

 少し離れた所では、床に正座をした優香の太腿に祐香が頭を載せていた。優香と祐香の姉妹は、姉である優香が先ず祐香に哺乳壜の母乳を飲ませ、その後、立場を替えて祐香が優香に美香の母乳を飲ませるといったことを毎日の習慣にしている。
 文月に哺乳壜を手渡した後、薫は祐香に哺乳壜を二本渡した。一本は姉妹の『母親』である美香の母乳が入った哺乳壜で、もう一本には、祐香の新しい母親である香奈の母乳が入っている。
「今日はどっちを先に飲みたい?」
 優香が、薫から受け取った二本の哺乳壜を祐香の目の前で振ってみせる。
「昨日は香奈ママのおっぱいが先だったから、今日は美香ママのを先に飲む」
 二本の哺乳壜を目で追いかけながら、祐香は弾んだ声で答えた。
「うん、わかった。じゃ、こっちね」
 優香は片方の哺乳壜を床に置き、もう片方の哺乳壜の乳首を祐香の口にふくませた。
 祐香の唇が動いて、哺乳壜の母乳の表面に小さな泡がたつ。
「おいしい?」
 優香が優しく訊く。
「うん。美香ママのおっぱい、おいしい」
 哺乳壜の乳首を咥えたままのせいで、少しくぐもった声で祐香は答えた。
 口の中の母乳が唇の端から溢れ出て頬を濡らす。
「そのままじゃスモックが濡れちゃうから、おっぱいの間、これをしてようか」
 祐香の頬を伝い落ちる母乳の雫を薫がガーゼのハンカチでそっと拭い、エプロンのポケットから大きなよだれかけを取り出して祐香の胸元に広げ、首筋と背中で留め紐をきゅっと結わえた。
「よかったね祐香、薫先生によだれかけ着けてもらって。これでスモックが濡れないよ」
 優香は空いている方の手で、大きなよだれかけに覆われた祐香の胸元をぽんぽんと優しく叩いた。
「うん。美香ママのおっぱい、いっぱい飲む。祐香、美香ママのおっぱい、大好きだもん」
 祐香が再びゴムの乳首を咥えたまま嬉しそうに言って、母乳が唇から溢れ出す。
「ほら、またこぼしちゃって」
 優香は、祐香の頬から顎先へ伝い滴る母乳の雫をよだれかけの端で拭ってやりながら、どことなく淫靡な感じのする笑みを浮かべて続けて言った。
「美香ママのおっぱい、おいしいよね。どうしてだか、わかる? 香奈ママのおっぱいよりもおいしくなるように、美香ママ、祐香とお姉ちゃんが大好きな『下のミルク』もたっぷり入れてくれているのよ。ママが下のミルクをたくさん出せるよう、お姉ちゃん、ママのおちんちんを頑張ってしゃぶってるんだ。だから、とってもおいしいのよ、美香ママのおっぱい。美香ママとお姉ちゃんの愛情いっぱいのおっぱいなんだもの」
「ありがとう、優香お姉ちゃん。祐香のために美香ママのお手伝いしてくれて、祐香とっても嬉しい。祐香、美香ママも優香お姉ちゃんも大好き」
 あどけない口調とは裏腹に、淫らな光を瞳に宿して祐香は言い、
「でも、祐香、香奈ママのおっぱいも大好きだよ。香奈ママのおっぱいもおいしいよ」
と付け加えて、精液が混ざった母乳でうっすらと白くなった唇をいやらしく半開きにして微笑んだ。
「よかったね、美香ママと香奈ママ、二人のママのおっぱいが飲めて」
 優香は、よだれかけの端で繰り返し祐香の頬を拭ってやる。
 と、不意に祐香が、とっても大事な秘密を打ち明けるように声をひそめ、微かに頬を上気させ、ますます瞳を淫らに煌めかせて、こんなことを言い出した。
「あのね、昨日のお昼のおっぱいの後、美香ママと香奈ママがこっそりお話しているのを聞いちゃったんだ。その時、優香お姉ちゃんはねんねだったし、祐香もねんねしそうだったけど、美香ママと香奈ママが話しているのが聞こえて、目が覚めちっゃて、それで、聞いていたの」
「え? 美香ママと香奈ママがどんなお話をしていたって?」
 祐香の頬と顎先の母乳の雫を拭う手をふと止めて、優香が先を促す。
「あのね、美香ママが『育児が一段落ついたら、優香と祐香を改めて一緒にさせたいんだけど、どうかしら』って言って、香奈ママが『いいと思いますよ。子育てを経験してみたいという私の我儘のせいで優香ちゃんと祐香ちゃんを離れ離れにしちゃったけど、育児の真似ごとを終えた後、元に戻してあげたいなと私も思っていたんです』って言って、それで美香ママが『でも、本当の元通りというのも面白くないわね。いっそ、二人を結婚させちゃうというのはどうかしら』って言って、香奈ママが可笑しそうに笑いながら『面白そうですね、それ。遊鳥の理事長と慈恵会の理事長、お二人のご尽力で、祐香は私と真由美さんとの実子として、それも性別は男子として戸籍に記載していただきました。一方の優香ちゃんは美香さんの女の子の実子として戸籍に載っているんですよね。だったら、何の問題もありません。まるで血縁関係にない男の子と女の子、結婚を妨げるものは何もありません。それに、祐香は、薬のせいでおとなしくさせられているものの、ちゃんとおちんちんが残っています。それに対して優香ちゃんは、きちんとした手術も済んでいるから、祐香のおちんちんを受入れることがてぎる。気心もしれているし、理想的なカップルになりますよ』って言って、最後に香奈ママが『鈴本服飾商店と遊鳥清廉学園と慈恵会の結び付きをますます深めてくれる、愛のキューピッドというわけね、優香と祐香が』って言って、二人でにこにこしていたんだよ」
 どたどしいながらも、美香と香奈の口調を精一杯真似て、祐香が説明した。
「結婚!? 祐香と私が……」
 ぽつりと呟く優香の下腹部がじんと痺れて、おむつが愛汁でねっとり濡れる。
 男性性器を女性性器に造り替える一般的な性転換手術では、ペニスの先端の亀頭を人為的に形成した膣に埋め込むことで擬似的なクリトリスとし、性交の際に快感を覚えるよう施術する。ただ、それだけでは愛液が分泌することはないため、ペニスを受入れやすくするためにローションを塗布するなどの手間が必要になるのだが、美雪が優香に施した手術においては、ペニスを除去した後もカウパー腺液等の粘性の高い体液が分泌される状態を保持することで、擬似的な愛汁が人造膣を濡らすような仕組みを用意していた。そのせいで優香は、淫らな妄想をした場合などには、本当の女性のように股間をいやらしいお汁でぬるぬるにしてしまう体の持ち主になっていたのだ。とはいえ、いやらしいお汁でぬるぬるの股間を包むのが、蠱惑的なランジェリーではなく、幼児の装いであるおむつというのは皮肉だが。
「結婚したら、ずっと一緒にいられるんだよね。だったら、祐香、それでいいよ。優香お姉ちゃんと一緒にいられるんだったら、祐香、結婚したい」
「そうね。祐香はおちんちんが残っているから、祐香がタキシードで、お姉ちゃんがウェディングドレスかな。ううん、おちんちんがあっても祐香も女の子だもん、二人ともウェディングドレスでいいよね。いいな、本当にそうなったらいいな」
 祐香のおちんちんを受け入れる。想像する優香の瞳に妖しい光が宿って、おむつがますますぬるぬるに濡れる。

「ね、ねぇメグミちゃん。お願いがあるんだけど……」
 文月と葉月、優香と祐香、二組の『姉妹』の仲睦まじそうな様子をちらちら窺っていた晶が、遠慮がちな様子で恵に声をかけた。
「……あのね、晶もお姉ちゃんがほしくなっちゃったの。だから、こども園にいる間だけでいいから、メグミちゃん、晶のお姉ちゃんになってくれないかな?」
「え? でも、晶ちゃんには高校生のお兄ちゃんがいるんでしょ? さっき、みんなが話していたけど、優しいお兄ちゃんなんでしょ? お兄ちゃんじゃ駄目なの?」
 晶の唐突なお願いに、恵はきょとんとした顔で聞き返してしまう。
「うん、徹也お兄ちゃんは優しいよ。優しいし、格好いいし、頭もいいし。でも、徹也お兄ちゃん、時々とっても怖いの。晶が徹也お兄ちゃんの言うことを聞かなかったら、とっても怖いの。……だから、いつも優しいお姉ちゃんが欲しいの」
 晶は、微かに憂いを宿した表情で言った。
 もともと徹也には小児性愛の性向があった。智子は、そんな徹也の目の前に、美少女と見紛う容姿の晶に女子中学校の制服を着用させて差し出したのだ。男子高校の寮暮らしで性欲を持て余していた徹也は、智子の目論見通り、たちまちにして晶を陵辱してしまった。そして、性欲にまみれて痴態をさらせばさらすほどにますます性欲は高まり、智子の巧みな誘導も相まって、いやらしい小児性愛の欲望がとめどなく昂じ、徹也は晶に、より幼い女の子の格好を強要するようになった。最初は女子中学生の格好をした晶に自分のペニスを咥えさせ、舌でペニスを慰めさせるだけで満足していたのが、次は晶に小学校高学年の女の子の装いを強要してペニスを咥えさせ、更には、小学校の入学式に臨む少女のような装いを晶にさせ、小さく柔らかな手でペニスを宥めさせ、遂には、幼稚園に通う女児そのままの格好をさせた晶の菊門にペニスを突き勃てるまでになっていた。そのたびに晶は抵抗したのだが、ただでさえ自分よりも二回りほども大柄な徹也を相手に、それも両手の自由が利かない状態で抗いきれるわけもなく、いとも簡単に組み伏せられて菊門をいやらしい肉棒で貫かれ、あるいは、真っ赤な唇にペニスを押し当てられて舌で奉仕させられる日々が続いた。それも、智子の住居である遮音性に優れた高級マンションでの仕打ちだったから周囲の様子を気に留める必要もなく、徹也の心は、ただ己の醜い欲望を満たすことだけに占められていた。その間、智子は徹也を諫めようとは一切しなかった。晶と徹也という番(つがい)のペットの飼い主でありブリーダーである智子には、ペットどうしの繁殖行為を妨げるべき理由など微塵もなかったのだから。そのような日々が続くうち、いつしか晶の精神は徐々に蝕まれ、徹也の心も晶に向けた痴情の他には何も残らなくなり、やがて明光高校を追われることになってしまった。そんな晶と徹也を研究素材として、そして、晶と徹也の飼い主であり世話係として智子を美雪は応用医療技術研究所に迎え入れ、かりそめの生活の場として紗江子は三人を遊鳥清廉学園に迎え入れたのだが、その時には晶の精神は、自分のことを幼稚園に通う女児と認識した状態で完全に固着化してしまっており、元の男子高校生としての自認を回復させることは不可能と判断された。そのような判断をくだした後、美雪は、幼稚園女児としての自認に身体を合致させるべく晶の肉体に様々な処置を施し、特別年少クラスに在籍するにふさわしい体に変貌させたのだった。そして、徐々に精神が蝕まれる過程で晶が求めたのが、癒やしを与えてくれる存在だった。醜い欲望に操られる徹也に陵辱され、時には暴力によって屈服させられ、そのいやらしい愛欲を満足させた時には異様に可愛がられ、その様子を興味深げに眺めるだけの智子に助けを求めることもかなわず、心の安寧を望み、そして叶えられなかった晶は、ただ、癒やしを与えてくれる者がいつか現れ、自分の側に寄り添ってくれることを待つことしかできなかった。
 その者こそが、恵だった。
「いいよ。メグミでいいなら、お姉ちゃんになってあげる。文月ちゃんや優香ちゃんみたいにしてあげればいいの?」
 自分でも不思議なことに、そんな言葉がごく自然に恵の口を衝いて出た。
「……うん、あんなふうにしてほしいの」
 晶は面映ゆそうな表情で小さく頷いて、床に正座をした恵の腿に頭を載せ、恵の顔を見上げて
「……メグミお姉ちゃんって呼んでもいい?」
と少し照れくさそうに訊いた。
「いいよ、メグミお姉ちゃんで。じゃ、メグミは晶ちゃんのこと、晶って呼ぶね。妹だもん、呼び捨てでいいよね?」
 満更でもなさそうな表情で恵が応じる。
「メグミお姉ちゃんに晶って呼んでもらって、とっても嬉しい。徹也お兄ちゃんも晶って呼ぶけど、お兄ちゃんの呼び方、なんだか怖いの。でも、お姉ちゃんに晶って呼んでもらうと、きゅんってなっちゃう。ね、もういちど呼んで。優しい声で、晶って呼んで」
「いくらでも呼んであげる。晶、可愛い妹の晶、お兄ちゃんに虐められたらお姉ちゃんが守ってあげるからね、もう心配しなくていいんだよ、晶」
 目が覚めた時に京子にそうしてもらったことを思い出して、恵は晶の髪をそっと撫でつけた。
「あらあら、仲のいい姉妹が増えちゃったわね。じゃ、晶ちゃんはメグミちゃんにおっぱいを飲ませてもらおうね。でも、メグミちゃんはこういうこと初めてで哺乳壜の持ち方が上手じゃなくておっぱいがこぼれちゃうかもしれないから、スモックが濡れないように、祐香ちゃんとお揃いのよだれかけを着けておこうね」
 薫が横合いから割って入り、晶の胸元を祐香とお揃いの大きなよだれかけで覆って手早く留め紐を結わえ、恵に哺乳壜を渡した。
 そこへ文月が薫に
「ね、ママ。葉月にもよだれかけを着けてあげてよ。一番手のかかる、一番甘えんぼうの、一番赤ちゃんの葉月がよだれかけを着けてないなんて変だよ」
と声をかけて、大きな『妹』の顔を見おろしてくすっと笑う。
「やだ、葉月、赤ちゃんじゃない。もう三つのお姉さんなんだから、よだれかけなんて恥ずかしい」
 葉月が拗ねたように応じる。
 その途端、唇の端から母乳が溢れ出した。
「ほら、やっぱり、よだれかけが要るじゃない。それに、ついさっき、お姉ちゃんにおっぱいを飲ませてほしいってせがんだのは誰だったかな。おっぱいを欲しがるのは赤ちゃんよ。だいいち、いつまでもおむつ離れできない子がお姉さんなわけないでしょ」
 文月は葉月のお尻をおむつカバーの上からぽんと叩いて、もういちどくすっと笑った。
「でも、でも、おむつなの、葉月だけじゃないもん。みんな、おむつだもん」
 今にも消え入りそうな声で葉月が言う。
「そうよ。みんな、おむつ。特別年少クラスの子は、優香ちゃんも祐香ちゃんも晶ちゃんも葉月も、それに、メグミちゃんも、みんなおむつ。だけど、それでいいのよ。みんなおむつがお似合いの、可愛い子ばかりなんだから」
 偽りの園児たちの顔を見回しながら、優しい声で薫が言った。


 その日の昼休み。
 四時間目の授業が長引いたせいで少し遅れて特別年少クラスの部屋へ駆け込むや否や、
「ママ、遅い。お友達のママ、もうみんな来てるのに、メグミのママだけ遅いから心配したんだよ」
と甘えた声で言いながら、恵がたっと駆け寄ってきて京子の体に抱きついた。
 その甘えんぼうぶりが可笑しくてくすっと笑いそうになった京子だが、恵の目にうっすらと涙がにじんでいることに気がつくと、自分も胸がきゅっと痛くなって、
「ごめんね、こども園の初めての日なのに遅くなっちゃって。ごめんね、お友達のお母さんより遅くなっちゃって。明日からは気をつけるからね」
と、恵をぎゅっと抱きしめ返してしまう。
 乳首がぴんと勃って、下腹部がじんと痺れる。
「さ、これでみなさんお揃いですね。今日から新しいお友達になってくれた坂本メグミちゃんとメグミちゃんママのことは他のお母様に写真付のメールでお知らせしていますし、他の子供たちやお母様のことはメグミちゃんママにメールで連絡していますから、改まった堅苦しい紹介は省略させていただきます。私も含めて、同じ特別年少クラスの子供のお母さんどうし、気軽に育児のことを相談し合ったり、困ったことを助け合ったり、可愛い我が子の自慢をし合ったり、和気藹々にこれからの日々を送りたいと思います」
 互いに体を強く抱き合う恵と京子を微笑ましく見守りながら薫が穏やかな声で言った。
 他の『母親』たちが一斉に頷く。

「メグミお姉ちゃんとメグミちゃんママ、晶のお隣においでよ」
 園児と母親が一組になり、車座で床に座っている一角から、甲高い無邪気な声が聞こえた。
 声のする方に顔を向けた恵と京子の目に映ったのは、智子の腿にお尻を載せて嬉しそうに手を振る晶の姿だった。
「へーえ、『メグミお姉ちゃん』だって。甘えんぼうでママが来るのがちょっぴり遅くなっただけで泣いちゃいそうになるメグミのこと、『お姉ちゃん』だって」
 晶の顔と恵の顔を交互に見比べて、からかうように京子は言った。けれど、その声は限りなく優しい。
「だって、メグミ、六つで、この中で一番お姉さんなんだよ。だから、晶ちゃんのお姉ちゃんになってあげたの」
 恵はちょっぴり自慢げに答える。
「確かに、年齢で言えばそうかもしれないけど」
 京子は悪戯っぽい表情で言った。
「でも、お姉ちゃんだったら、おむつじゃなくてパンツじゃなきゃおかしいんじゃないかしら?」
「え? だ、だって……」
 恵は顔を真っ赤にして反論の言葉を探し、朝のふれあいタイムで文月が言ったことを思い出すと、美香の膝に座っている優香を指差して
「優香ちゃんだっておむつだよ。優香ちゃんも、恵と同じ六つなのにおむつなんだよ。でもって、祐香ちゃんのお姉ちゃんなんだよ。だから、おむつでもお姉ちゃんでいいの!」
と、むきになって言った。
 その声に優香が
「あ、ひどーい。文月ちゃんに言われただけで恥ずかしいのに、メグミちゃんにも言われちゃうなんて。優香、恥ずかしくて、お目々うるうるだよ」
と、大げさに口を尖らせてみせた。
 その姿に葉月と祐香がきゃっきゃと笑って、その場が一気に和む。
「よかったわね、みんなと仲良くなれて。新しいお友達がすぐにできるかどうか、ママ、心配していたのよ」
 他の園児たちと一緒に明るく笑う恵の顔を覗き込むようにして、京子は感慨深げに言った。
「あのね、ママ」
 はにかんだ表情で恵が京子の顔を振り仰ぐ。
「メグミ、こども園に入れて、とっても嬉しいの。だから、ありがとう。こども園にメグミを入れてくれて、ありがとう、ママ」
 少し照れくさそうに、けれど京子の目を真っすぐ見上げて恵は言った。
「メグミ、あなた……」
 鼻の奥がつんと痛くなるのを感じながら、京子は恵の華奢な体を力いっぱい抱きしめた。
「痛いよ、ママ。そんなにぎゅってしたら痛いよ」
「あ、ごめんね。つい、力を入れちゃって」
 京子は慌てて恵の体から手を離した。
 だが、今度は恵が京子の手をつかんで、自分の頬を京子の手の甲に押し当てて
「痛いけど、メグミ、いつまでもママにぎゅってしていてほしい。メグミ、ママにぎゅってしてもらうの、大好き!」
と晴れやかな声で言い、とびきりの表情で甘えてみせる。
 それに対して京子は、再び鼻の奥がつんと痛くなるのを感じながら、いったん離した手をもういちど恵の背中にまわし、
「メグミ、ああ、私の娘。可愛い可愛い、私の娘」
と切なげな声で繰り返し言って、細っこい体を力の限り抱きしめた。
「ママ、ママ。メグミのママ。大好きな大好きな、ママ」
 自分よりも二回りほども体の大きな京子に抱きしめられて呼吸を荒くしながらも、恵はうっとりした表情を浮かべ、京子にしなだれかかった。
 次の瞬間、恵の体からふっと力が抜け、腰がぴくっと震える。
 微かな身震い。けれど、その小さな身震いを京子は確かに感じ取っていた。
 京子は、恵の背中にまわした手をゆっくりおろし、ぷっくり膨らんだおむつカバーに掌を這わせて、中指をおむつカバーの股ぐりに差し入れた。
 しばらく探っていると、布おむつがじくじく濡れてゆく様子が指先に伝わってくる。
「あらあら、六つだからお姉さんなのとか言っていたくせに、しくじっちゃってる。これじゃ、晶ちゃんのお姉ちゃんになってあげるのは、やっぱりまだ早いんじゃないかな」
 おむつの様子を探りながら、それまでの切なげな声から一転、くすっと笑って京子は言った。
 恵は頬を赤く染めるばかりで何も言い返せない。
 そこへ横合いから
「メグミお姉ちゃん、ちっちなの?」
と晶が京子に尋ねる。
 京子が頷くと、晶は少しもじもじしつつも、ぱっと顔を輝かせ、自分の『母親』である智子に向かって
「あのね、晶もちっちなの。晶も、おむつ、ちっちなの」
と、たどたどしい口調で告げた。
 すると、智子が穏やかな声で、
「あら。これまでは、おむつが濡れても教えられなかったのに、急にどうしたのかしら。ママ、びっくりしちゃった。でも、ちゃんとちっちを教えられるようになってお利口さんよ。メグミお姉ちゃんっていうお手本ができて、晶もちょっぴりお姉さんになったのかしらね」
と優しく応じた。
 それを聞いた晶が、少しばかり驚いたような顔になって、けれど、いかにも嬉しそうに瞳をきらきら輝かせて
「……なんだか、ママ、いつものママじゃないみたい。今のママ、とっても優しい。優しいママ、大好き」
と手放しで甘える。
 晶の言葉に、実は京子も胸の中で頷いていた。部屋に入って初めて智子を見た瞬間から(いや、正確にいうなら、薫が送ってきてくれた、特別年少クラスの園児とその母親を紹介するメールの写真を見た瞬間から)京子は智子のことを、なんとなく冷たい印象の人だなと感じていた。それが、第一印象とは裏腹に、晶に対して穏やかな声で優しい言葉をかけたものだから、意外な感じがして、ついつい晶に同意してしまったのだ。
 智子の生い立ちを考えれば、智子がきわめて冷徹で酷薄な性格の持ち主になってしまったのも頷ける。加えて、若い男性を弄んで悦びを得るような歪んだ欲情の持ち主になってしまった背景も納得できるだろう。晶と徹也を番(つがい)のペットとして飼育するに際しても、二人の痴態を眺める智子の目には、微塵の愛情も見受けられなかった。その瞳に宿るのは、飼い主としての、あるいはブリーダーとしての無慈悲な光だけだった。だが、晶の精神が蝕まれた故に遊鳥清廉学園に迎え入れられ、美雪に言われるまま服用し始めた合成女性ホルモン様化合物のせいで乳首をしとどに濡らす母乳を晶に与えるようになって以後、智子の心は徐々に変化していた。自分の乳首を晶の口にふくませて授乳する日々が続くうちに、智子の冷たく凝り固まった心は晶の唇のぬくもりによって次第に温かく解きほぐされ、人間らしい感情の揺らめきを取り戻そうとしていた。しかし、物心ついてからずっと堅く閉ざしてきた自分の心に暖かな光が差し込みそうになっていることに智子は戸惑い、自らの心に起きている変化を頑なに認めず、晶に対してわざと冷たい態度を取ってきた。
 それが、互いが互いを必要とし合っている様子がありありの新しい『母娘』の出現に胸を衝かれ、心の変化の一端が、晶への穏やかで優しい応対となって顕在化したのだった。

「ま、ママは優しくなんてないわよ。ママは、晶と徹也を厳しく躾けることにしか興味がないんだから」
 優しいママ、大好き――晶から言われ、戸惑い慌てながら、智子はわざと冷たい声で言った。
 けれど、外れそうになってしまった仮面をかぶり直すのは難しい。
「晶、知ってたんだよ。ママ、厳しいけど、ほんとはすっごく優しいんだって、ずっと前から知ってたんだよ」
 晶は、ますます甘え声を出して、智子の胸に自分の顔をなすりつけた。
「だ、駄目でしょ、晶。晶は赤ちゃんじゃないのよ。特別年少クラスのお姉さんなのよ。なのに、そんな赤ちゃんみたいことして……」
 困惑の表情を浮かべながらも、満更でもなさそうに声を弾ませて、智子は晶の背中を撫でた。
「ううん。晶、赤ちゃんだよ。お年は三つで特別年少さんだけど、でも、赤ちゃんだよ。だって、晶、おむつだもん。おむつ、ちっちで濡らしちゃう赤ちゃんだもん。いつまでもママに甘えてばかりの赤ちゃんだもん。――晶、ずっとママの赤ちゃんじゃ駄目?」
 智子の胸に頬をなすりつけたまま、晶は上目遣いに智子の顔を見上げた。
 智子の顔に逡巡の色が浮かぶ。
 しかし、それは一瞬のことだった。
「わかった。ずっと晶をママの赤ちゃんでいさせてあげる。でも、本当にいいの? いつまでもお姉さんになれないのよ。いつまでも、パンツじゃなくておむつなのよ。いつまでも、ちゃんとしたご飯を食べられなくて、ママのおっぱいだけなのよ。それでいいの?」
 智子は、『ママのおっぱいだけ』という部分を口にする時にうっとりした表情を浮かべて晶に聞き返した。
 晶が迷うことはなかった。
 晶は大きく目を見開いて喜びの表情を浮かべ、こくんと頷いてから、頬をうっすらとピンクに染めて
「晶、いつまでもママの赤ちゃんがいい。……それでね、赤ちゃんの晶からママにお願いがあるの」
と、うわずった声で言った。
「ママにどうしてほしいの?」
 もうすっかり『母親』の顔になった智子が、優しく先を促す。
「あのね、晶、メグミお姉ちゃんと一緒におむつ取り替えてほしいの。メグミお姉ちゃんと並んでごろんして、お手々つないで、それで、おむつ取り替えてほしいの。晶、ずっとずっと、お姉ちゃんがほしかったから」
 けれど、そんな晶の願いに対して
「いいわよ。晶ちゃんのお願い、かなえてあげる」
と返事をしたのは、智子ではなく京子だった。
「いいの!? 本当にいいの、メグミちゃんママ!?」
 京子の返答に、嬉しそうに顔をほころばせて晶が念を押す。
「いいわよ。赤ちゃんみたいにおむつを汚しちゃうけど、でも、うちのメグミは晶ちゃんのお姉ちゃんだもの。薫先生にメールで教えてもらったんだけど、優香ちゃんと祐香ちゃんは姉妹で、葉月ちゃんは、年長さんのお姉ちゃんの文月ちゃんにお世話してもらっているのよね。でも、晶ちゃんは年の離れたお兄ちゃんしかいない。だから、会ったばかりなのに、メグミのことをお姉ちゃんって慕ってくれたのよね。そんな可愛い晶ちゃんのお願いなんだから、かなえてあげる」
 恥ずかしそうな表情で何か言いたそうにしている恵のことなどまるで気に留めるふうなく、京子は、いかにも母親然とした態度で言い、視線を智子の顔に移すと、
「勝手に決めちゃいましたけど、いいですよね? 晶ちゃんのお願いの内容がとっても可愛らしいものだから、つい引き受けちゃいましたけど」
と言ってにこりと微笑んだ。
 晶と智子の正確な間柄を京子は知らない。二人にどんな忌まわしい過去があったのか、知る由もない。だが、今こうしている瞬間の晶と智子は、まさに『母娘』だった。二人が交わす言葉からは、確かな絆が感じられる。その絆をより確かなものにするためにも、晶の願いを聞き入れてやるのが適切だと咄嗟に判断した京子だった。
「ええ、それはいいけど……」
 智子は恵の顔をちらと見て、くすくす笑いながら言った。
「……そちらのお嬢ちゃん、メグミちゃんだっけ、すごく恥ずかしそうにしているんだけど、そちらこそ、それでいいの? 三つも年の離れた『妹』と並んでおむつを取り替えてもらうなんて、『お姉ちゃん』としちゃ、恥ずかしくてたまらないんじゃないかしら?」
「そんなこと、構いません。六つになってもおむつ離れできないこの子がいけないんだから。いつまでもおむつが外れないような子は、ママの言う通りにしていればいいんです。だから、どんなことでも私が決めてあげなきゃいけないんです。――そうよね、メグミ?」
 京子は、うふふと笑って智子に答え、わざと少し意地悪な口調で恵に同意を求めた。
 けれど、恵は何も言い返せない。
 そこへ、事の成り行きを見守っていた薫がおねしょシーツを二枚持ってきて手早く床に広げ、
「さ、メグミちゃんと晶ちゃんは、仲良く並んでおねしょシーツの上にごろんしてちょうだい」
と二人を促してから、京子と智子以外の母親に向かって
「他の子のお母様は、子供たちがお腹を空かせてぐずらないよう、おっぱいをお願いします」
と指示をして、自分もエプロンを外し、ブラウスの胸元を大きくはだけた。

 薫に続いて美香と香奈が上衣の胸元をはだけ、あらわになった母親たちの乳首を各々の愛娘が口にふくむ中、京子と智子が、恵と晶を二人並べておねしょシーツの上に横たわらせ、スモックの裾をお腹の上まで捲り上げる。
 と、何か面白いこと思いついたのか、智子が悪戯っぽい表情で
「ね、私がメグミちゃんのおむつを取り替えてあげるから、代わりに、メグミちゃんママが晶のおむつを取り替えてくれない? これから、ママ友どうし五人、他のママの子供の面倒をみてあげなきゃいけない時があるかもしれないでしょう? だから、ちょっとでも慣れておくために」
と京子に提案した。
「あ、はい、私はいいですけど……」
 智子の提案に京子は少しだけ考えてから頷いたが、京子の返事が終わらないうちに
「晶、それがいい。メグミちゃんママ、とっても優しそうだから、晶、メグミちゃんママにおむつ取り替えてもらいたい」
と屈託のない笑顔で晶が歓声をあげた。
 だが、晶とは対照的に恵の方はおねしょシーツの上で顔をこわばらせて
「い、いや。メグミ、ママがいい。メグミ、ママにおむつを取り替えてもらうの!」
と悲痛な金切声をあげた。
 混濁した記憶のせめぎ合いによって六歳の園児としてのかりそめの自我を有するに至った恵だが、幼女として振る舞ってはいるものの、自分が実は男の子だという意識は持っている。初対面の智子の目に下腹部をさらすことなどできる筈がない。
「六つのお姉さんなのにおむつを汚しちゃったのが、そんなに恥ずかしいのかな。お姉ちゃんなのに、三つ年下の妹の晶と並んで、汚しちゃったおむつを見られるのが、そんなに恥ずかしいのかな」
 特別年少クラスの園児の母親たちは。自分の『娘』以外の園児のことも詳しく知っている。智子にとって、恵が本当は十七歳の男の子だということも周知の事実だ。晶に授乳することで精神面に幾らか変化が生じているとはいっても、もともとが、若い男の子をいたぶり屈服させることに妖しい悦びを覚えてならない智子だ。恵という新たな獲物を目の前にして、殊勝にしていられるわけがない。智子は恵の羞恥をじっくり煽りたててゆく。
「そんなの、恥ずかしくないよ。特別年少クラスのみんな、おむつだもん。メグミお姉ちゃんと同じ六つの優香ちゃんもおむつだから、メグミお姉ちゃんも、おむつなの、恥ずかしくないよ」
 智子に続いて、恵の右側に横たわった晶が、恵の右手をぎゅっと握って言った。慰めるような口調に、恵は却って羞恥を掻きたてられる。
「じゃ、晶ちゃんは私がおむつを取り替えてあげるわね。お利口さんにできるかな?」
 いつのまにか智子と場所を入れ替わって床に膝をついた京子が晶のおむつカバーの腰紐に指をかけた。
「晶、お利口にできるよ。メグミお姉ちゃんとお手々ぎゅってして、おとなしくしてるもん」
 晶は、にこにこ笑って答える。
「そう。いい子ね、晶ちゃんは。これじゃ、我儘ばかり言うメグミと、どっちがお姉ちゃんかわからないわね」
 京子はわざとらしく溜息をついてみせて、恵の顔をちらと見た。
 恵は智子におむつを取り替えられるのをいやがって足をばたつかせたり体をよじったりするのだが、晶に右手をつかまれているため、体を起こすこともできない。
 そうしているうちに智子の手が伸びて、恵のお尻を包んでいるおむつカバーの腰紐をほどき、おむつカバーの前当てと横羽根を広げてしまう。
「い、いや! みんなの前でおむつ取り替えちゃ駄目!」
 恵は金切声をあげるが、智子は淡々とした様子で恵の左右の足首をまとめてつかんで高々と差し上げ、ぐっしょり濡れたおむつを手前にたぐり寄せた。
 それに合せて京子も、晶のおむつカバーを広げて左右の足首をまとめてつかみ、高々と差し上げる。
 恵と晶の下腹部が、二人揃って、他の園児や母親たちの目にさらされた。
 だが、誰の口からも驚きの声はあがらない。
 その代わりに聞こえたのは、足首を高々と差し上げられてあらわになった自分の股間と、仲良く並んであらわになった恵の股間を見比べながら
「あ、メグミお姉ちゃんのお股にもおちんちんがあるんだ。晶とお揃いだね」
と無邪気にはしゃぐ晶の声だった。
 自分の股間に付いている穢らわしい♂の性器がさらしものになることに耐えられなくてぎゅっと目を閉じた恵だったが、思いもよらぬ晶の言葉に思わず瞼を開いて、すぐ隣に横たわっている晶の下腹部に視線を向けてしまう。
「……!?」
 視線の先にあったのは、無毛の股間に力なくちぢこまって垂れ下がる情けない肉棒だった。
「あら、メグミちゃんは知らなかったのね。そうよ、晶にはおちんちんがあるのよ。ううん、晶だけじゃないわ。葉月ちゃんにも、祐香ちゃんにも、おちんちんがあるのよ。特別年少クラスの中でおちんちんがないのは優香ちゃんだけなんだから」
 恵の困惑ぶりがよほど可笑しいのだろう、今にも笑いだしそうな顔で智子は言った。
 そこへ、
「優香だって、もとはおちんちんがあったのよ。でも、似合わないから笹野先生に取ってもらっちゃったの。だけど、今にして思えば、取っちゃってよかったわ。だって、おちんちんがなくなっちゃったから、祐香のおちんちんを受け入れられるんだもの。祐香のおちんちんを受け入れて、祐香と結婚させられるんだもの。仲良しの姉妹どうしを結婚させていつまでも手元に置いておけるなんて、本当に幸せな母親だわ、私ったら」
と、優香に乳首を吸われる快楽に酔い痴れ、うっとりした顔で美香が割って入った。
 そこへ更に、ぴんと勃った乳首を祐香の口にふくませた香奈が
「いやだ、優香ちゃんママ、可愛い二人を独り占めだなんて困っことを言っちゃ。祐香は今、うちの子なんですよ。育児が終わって二人を一緒にさせるのはいいですけど、優香ちゃんママに独り占めされるくらいなら、いっそ、祐香のおちんちんも笹野先生に取ってもらっちゃって、祐香を誰かのお嫁さんにしちゃおうかしら。――どう、メグミちゃん、おちんちんを取っちゃった祐香をお嫁さんにしてくれない?」
と、こちらも愛娘に母乳を与える悦びに心昂ぶらせて上気した顔で言ってくる。
「あらあら、二人とも随分と気が早いこと。優香ちゃんも祐香ちゃんも、いいえ、このクラスの子供たちはみんな、いつになったらおむつが外れるかわからないんですよ。それに、優香ちゃんママも祐香ちゃんママも、子供がおむつ離れしそうになっても、そうせさないんじゃないかしら。こんなに楽しい『育児』の時間を終わらせる気になるなんてこと絶対にないんじゃありませんか? いつまでも赤ちゃんのままの子供たちの結婚話だなんて、気が早すぎるんじゃありませんか?」
 唇の端から溢れ出て葉月の頬を濡らす母乳をよだれかけの端で優しく拭ってやりながら、ころころと笑って薫が言った。
「たしかに、薫先生のおっしゃる通りかも。優香と祐香は少しでも早く一緒になりたいでしょうけど、せっかくの育児の時間が終わっちゃうのはね」
「そうですね。普通の子供はあっという間に育っちゃって、母親が面倒をみてあげられる時間はすぐに終わっちゃう。でも、私たちの娘は、私たちが望む限り、赤ちゃんのままでも、園児のままでも、好きなようにとどめておける。せっかくだから、育児の楽しみを存分に味わっておこうかな。一緒にさせるのは、その後のことですね」
 薫の言葉に、揃って妖しい光を瞳に宿した美香と香奈が頷き合う。
「さ、メグミちゃんママと晶ちゃんママは、あまりゆっくりはしていられませんよ。おむつを取り替えてあげた後、急いでおっぱいをあげないと、自分たちのお昼ご飯の時間がなくなっちゃいますから」
 しばらくは美香たちの様子を見守っていた薫が、ややあって、今度は京子と香奈の方に振り向いて穏やかな声で言った。




「大丈夫です。可愛い娘のおむつを取り替えてあげて、娘が満足するまでゆっくりおっぱいをあげられるなら、お昼ご飯を食べそこねてもちっとも構いませんよ。だって、私たち、この子の『母親』なんですから」
 知らず知らずのうちに、京子と智子は口を揃えて応えていた。

 そんなふうにして、遊鳥こども園・特別年少クラスの一日は過ぎていった。


 それから時が流れて、今年も残り僅かという十二月二四日。
 クリスマスイブのその日、遊鳥清廉学園は二学期の終わりを告げる終業式を済ませ、夕方になると、こども園から高校まで、どこも人影一つなく、しんと静まりかえっていた。ただ一カ所だけ、煌々と照明が灯り、にぎやかなお喋りの声が響く、こども園・特別年少クラスの部屋を除いては。
 特別年少クラスでは毎年、紗江子と皐月の計らいで、この日の夕方から夜にかけて、ささやかなパーティーを催すのが恒例になっている。日ごろは「ちっちゃい子はもうねんねしなきゃ駄目でしょ」と早いうちからベッドに追いやられる園児たちも、明日から冬休みということで、例外的に夜更かしが認められる特別の日だ。
 パーティーに参加するのは、特別年少クラスの園児と、その保護者(ちなみに、保護者の中には、葉月の『父親』である皐月と、葉月の『姉』である文月も含まれる。しかし、参加者は女性と『女の子』に限定されているため、晶の兄である徹也は含まれない。なお、恵の保護者には美和も含まれている)に加え、特別年少クラスの園児たちと格別に仲のいい服部雅美、遊鳥清廉学園の理事長である宮地紗江子に、ゲストとして招待される慈恵会理事長・笹野美雪といった面々だ。
 パーティーが始まる前から、部屋には園児たちの嬌声が響き渡っていた。賑やかなのは毎年のことだが、今年は、恵という新しい仲間が増えたから尚のことだ。
 ただ、この日の恵は、十月の下旬に特別年少クラスに迎え入れられた、六歳児としての意識を持つ恵ではなかった。特別年少クラスに入ってからも記憶消去反応は繰り返し発現し、十日ほど前には恵の意識は遂に一歳児にまで低下してしまい、今や文字通り『赤ちゃん返り』してしまった状態にある。
 およそ十日ごとに記憶消去反応が発現して恵の意識が一歳ずつ退行するたびに、恵のことを姉と慕い恵に憧れて早くメグミお姉ちゃんみたいになりたいと願っていた晶の方は逆に自己意識が成長して、ある日を境に二人の立場は逆転し、今となっては、『晶お姉ちゃん』に甲斐甲斐しく世話をやいてもらわなければ一人では何もできない赤ん坊にまで、恵は堕ちていた。

 からころ。からころ。
 からころ。からころ。
「お姉ちゃんはこっちだよ。ほら、ここまでおいで」
 部屋の隅で晶がガラガラを振り鳴らす。
 ガラガラのかろやかな音色と晶の声に誘われて、手と膝を床につき、四つん這いの姿勢でおそるおそる体を動かす恵。
 他の園児たちはいつものようにスモックを着用しているが、意識がすっかり赤ちゃん返りしてしまった恵は、お腹を出して体を冷やすことがないよう半袖のロンパースを着せられ、その上に、足を動かす妨げにならない丈の短いチュニックを着せられて、意識だけでなく見た目も赤ん坊そのままに変貌していた。僅かな距離を這い進むにも、ぎこちない動きのためついつい身振りが大きくなってしまい、一歩を進むたびにお尻が大きく揺れ、チュニックの裾がふわりと舞う。時おりバランスを崩しそうになるのをこらえるたびにロンパースの股ゴムが太腿をきゅっと締めつけて、内股がぷるんと震える。
「メグミちゃん、がんばれ」
「じょうずだよ、メグミちゃん。ほら、晶お姉ちゃんの所まで、もう少しだよ」
「晶お姉ちゃんの所へ行けたら、ごほうびがもらえるからね」
 園児や母親たちが口々に応援する中、たっぷりあてたおむつのせいでぷっくり膨らんだロンパースのボトムスを大きくぷるんぷるん揺らして恵は這い進む。
 時おり床に座り込みそうになるのを、大好きな『晶お姉ちゃん』が振り鳴らすガラガラの音色に励まされ、床に当たる膝の痛みを我慢して、ゆっくりゆっくり這い進む。

 しばらくして、ようやくのこと晶のすぐ目の前まで這い進んだ恵。
 スモックの裾からおむつカバーを覗かせて床にぺたんとお尻をつけて座っている晶の顔を這い這いの姿勢のまま見上げて、いかにも嬉しそうに笑う恵。
 晶はその場に膝立ちになり、恵の脇に手を差し入れ、自分と同じように恵を膝立ちの姿勢にして、その体を両手で包み込むようにしてぎゅっと抱き寄せ、
「よく頑張ったね、メグミちゃん。はい、約束通り、ごほうび」
と、スモックのポケットから取り出したゴムのおしゃぶりを恵の目の前に差し出した。
 だが恵は、晶が差し出したおしゃぶりにはまるで関心をしめさない。おしゃぶりをちらと見て唇を尖らせ、
「おしゃぶり、や。ぱいぱい。メグミ、ねぇね、ぱいぱい」
と片言の幼児言葉で訴えかける。
 意識が一歳児まで低下してすぐの頃は、晶が差し出すおしゃぶりを咥えて嬉しそうにしていた恵だが、ある時、悪戯心を出した晶がスモックを脱いでキャミソールの肩紐をずらし、自分の乳首を恵の目の前に突き出したことがあった。晶にしてみれば、ちょっとした悪戯にすぎなかった。幼児によくある、母親の行動の真似事でしかなかった。だが、その乳首を恵が咥え、京子におっぱいを飲ませてもらう時と同じようにちゅうちゅう吸い出したことがきっかけで、或る特別な感情を晶は心に抱くようになった。
「そうだよね。メグミちゃん、おしゃぶりよりも、お姉ちゃんのおっぱいがいいんだよね」
 晶は嬉しそうに言っておしゃぶりをポケットに戻し、いそいそとスモックを脱ぎ去ってキャミソールの肩紐をずらした。
 それに合せて、膝立ちだった恵が床にお尻をつけて座ったため、恵の口と晶の胸元が同じような高さになる。
「いいよ、おいで」
 晶は、授乳の際に自分が智子にそうしてもらうことを真似て恵の後頭部を右手の掌で包むようにして、固い乳首を恵の唇に押し当てた。
 まるで躊躇うことなく恵が晶の乳首を口にふくんで、京子に授乳してもらう時とまるで同じように唇と舌を動かして乳首を吸う。
「上手だよ、メグミちゃん。本当にメグミちゃんはおっぱいをちゅうちゅうするのが上手なんだね。うふふ、お姉ちゃん、気持ち良くなっちゃう」
 目の下を仄かなピンクに染めて顔を上気させ、晶の息が荒くなる。
 最初はちょっとした悪戯のつもりだった。つい二ヶ月近く前には姉と慕っていた恵の意識が次第に幼くなってゆき、かりそめの姉妹関係が逆転した際、それまで姉だった恵を妹扱いして面白がるためだけの、ちょっとした悪戯。
 けれど、悪戯が元で恵に乳首を吸われるようになって以後、晶の唇のぬくもりが智子の心のあり様を徐々に変えていったように、今度は、恵の唇のぬくもりによって晶の心が次第に変貌させられ、心の奥底に、或る感情を芽生えさせられていた。
 幼女を装ってはいても、実は青年男子である晶。その晶の心には芽生える筈のない感情。しかし、恵に乳首を吸われて、確かに芽生えてしまった感情。
 実は晶は、上手に這い這いができた褒美としておしゃぶりを差し出した際、恵がそれを拒否することを前もって確信していた。おしゃぶりよりも自分の乳首を恵がほしがってくれることを晶は前もって知っていた。なのに、拒否されるのがわかりきっているおしゃぶりをわざわざ差し出してみせたのは、恵がそれを拒み、自分の乳首を求めてくれる様子を自分の目で見て満足するためだった。自分の乳首をせがんでくれる恵の声を聞きたかったからだった。自分の心に芽生えた異形の感情の存在を恵の愛くるしい仕草と声で肯定してもらいたかったからだった。
「ごめんね、おっぱい出なくて。お姉ちゃん、メグミちゃんにおっぱいあげたくて仕方ないんだよ。なのに、出なくてごめんね」
 晶は、スモックとおむつカバーという童女の装いにはそぐわない切なげな声で恵の耳許に囁きかけ、熱い吐息を恵の耳朶に吹きかけた。
 晶の言葉の意味などわからぬくらいに自己意識が退行してしまった恵が、これまでになく強く乳首を吸う。
「や……!」
 思わず体を反らせて晶はぞくりと身震いした。

 そうしているうちに、次第に恵の顔がこわばってくる。
 晶の乳首を咥えて嬉しそうにしていたのが、目に涙を溜めて唇を震わせ、ひっくひっくとしゃくりあげる。
「どうしたの、メグミちゃん。どこか痛いの?」
 慌てた様子で晶が訊くが、恵は何も答えない。
 答えずに、晶の乳首から口を離して、いかにも情けなさそうな声で、うぇーんと泣きじゃくる。
「あ、そうか……」
 晶はぽつりと呟いて、両脚を開いて床にぺたんとお尻をつけて座っている恵の下腹部に手を伸ばし、ロンパースの股間に並ぶボタンを外して、あらわになったおむつカバーの股ぐりに中指と人差指を差し入れた。
「……やっぱりだ」
 晶は再び短く呟いておむつカバーから指を抜き、泣きじゃくる恵の背中に手を添えて、その場に横たわらせた。
 その様子を見守っていた京子が、おねしょシーツを広げて晶のお尻の下に敷いてやる。
「ありがとう、メグミちゃんママ」
 晶は京子に向かってぺこりと頭を下げ、一向に泣きやもうとしない恵に
「お尻、気持ちわるいよね。でも、大丈夫だよ。すぐに取り替えてあげるからね」
と優しく語りかけて、おむつカバーの腰紐に指をかけた。
 いかにも興味津々といった様子で、園児たちが晶の手元を覗き込む。
 晶はすっかり慣れた手つきでおむつカバーの腰紐をほどき、マジックテープをべりりと剥がしておむつカバーの前当てと横羽根を広げた。
 ぐっしょり濡れた動物柄のおむつが園児たちの目にさらさられる。
 晶は、恵の左右の足首を一つにまとめてつかんで高々と差し上げ、おしっこを吸って重くなったおむつを手元にたぐり寄せた。
 それを京子がペールで受け止めてから、ベビーパウダーの容器を開けて、さらさらの真っ白な粉をパフで掬い取り、晶に手渡す。
「メグミちゃんのすべすべのお尻が痛くならないように、ぱたぱたしておこうね」
 晶はあやすように言って、恵の下腹部にベビーパウダーの白化粧を施してゆく。
 晶がベビーパウダーをはたき終えるのを待って、京子は、股当てと横当てを予め重ねて用意しておいた新しいおむつを晶の目の前に差し出した。それを晶が、恵のお尻の下にそっと敷き込む。
 泣き声がふっと止んで、にこやかな笑みが恵の顔に浮かぶ。
「お尻、気持ちよくなったでしょ? そうだよ、可愛いメグミちゃんには、泣き顔よりも笑い顔がお似合いだよ」
 晶もにこっと笑って、それまで高々と差し上げていた恵の足を床におろし、股当てのおむつを恵の両脚の間に通した。
 おむつの端に内股をさわっと撫でられて、恵の下腹部がぶるっと震える。
「もうすぐだからね。あと少しだけ、おとなしくしていてね」
 晶は優しく語りかけながら、股当てに続いて横当てのおむつで恵のお尻を包み、おむつカバーの左右の横羽根をおへそのすぐ下で重ね合せてマジックテープで留め、更にその上に前当てを重ねて、ぷつんぷつんとスナップボタンを留めてから、腰紐をきゅっと結わえた。
 最後に、おむつカバーの股ぐりからはみ出ているおむつをおむつカバーの中にそっと押し入れて、おしまい。
「はい、終わったよ。おむつを取り替える間おとなしくしていて、本当にメグミちゃんはお利口さんだったね」
 晶は、おむつカバーの上から恵の股間をぽんと叩いて、恵の上半身を引き起こした。
 途端に恵が
「ぱいばい。ねぇね、ぱいぱい」
とせがんで、唇をちゅぱちゅぱ動かす。
「お尻が気持ちよくなったらすぐにおっぱいをねだるなんて、本当に勝手な子なんだから。でも、そんなメグミちゃんのこと、お姉ちゃんは大好きだよ」
 おむつを取り替えてやる際にいったん元に戻したキャミソールの肩紐を再びずらして、晶は、ぴんと勃った固い乳首を恵の口にふくませた。
 ちゅぱちゅぱ。
 ちゅうちゅう。
 聞きようによってはひどく淫靡でなまめかしい音色が、微かに微かに部屋の空気を震わせる。

「すごいねすごいね。晶ちゃん、本当のお母さんみたい」
「本当にすごいよね。これじゃ、晶お姉ちゃんじゃなくて、晶ママだよね」
「うん、そうだよね。お姉ちゃんと妹じゃなくて、ママと赤ちゃんみたいだよ、晶ちゃんとメグミちゃん」
 晶が恵のおむつを取り替える様子にじっと見入っていた園児たちが口々に歓声をあげる。
「本当にしっかりしてきたわね、晶ちゃん。前は随分と甘えんぼうさんだったのに」
 園児たちの歓声を聞きながら、美香が感心しきりに智子に話しかける。
「ええ、メグミちゃんのお世話をするようになったら途端にお姉さんらしくなっちゃって。下の子ができると子供、特に女の子は急にしっかりするというのは本当ね」
 ママ友に『我が子』の成長を褒められて、智子は相好を崩して頷いた。
 その傍らで京子が
「恵が泣き出してすぐ、おむつを調べてくれたよね。お尻が気持ちわるくて泣き出したんだってこと、晶ちゃん、わかっていたの?」
と、床に座って盛んに唇を動かす恵の髪を優しく撫でつける晶に興味深げに問いかけていた。
「うん、おむつだってこと、すぐにわかったよ。晶、メグミちゃんの泣き方で、メグミちゃんが何をしてほしいのか、わかるんだ。赤ちゃんのお世話をしてあげるんだったら、そんなの当り前だよ」
 晶はちょっぴり自慢そうに言って、少し照れくさそうに、えへへと笑った。
 だが、笑い声は長くは続かなかった
 不意に晶は、幼い顔には似つかわしくない真剣な表情になって、智子の顔をちらちらと窺い見ながら、
「あのね、ママ、お願いがあるの……」
と躊躇いがちに切り出した。
「どうしたの、そんなに改まっちゃって。小っちゃい子が遠慮なんてするものじゃないわよ。欲しいものがあるなら言ってごらんなさい」
 これまでにない晶の態度に小首をかしげて、智子は先を促した。
「……あのね、晶、少しでも早くお姉さんになりたいの。ううん、お姉さんになるだけじゃなくて、少しでも早く大人になりたいの。ママみたいな大人になりたいの」
 飽きることことなく自分の乳首を吸ってくれる恵の背中を愛おしげに撫でながら、躊躇いがちに晶は言った。
「あらあら、何を言い出すのかと思ったら、そんなこと? いいわよ、お姉さんになりたいなら、なりなさい。でも、お姉さんになるには、おむつ離れできないとね」
 晶がそんなことを言い出すのは、これが初めてのことだ。晶の胸の内を探るかのようにすっと目を細めて智子は再び小首をかしげた。
「うん、いつまでもおむつのままじゃ、お姉さんになれないよね。お姉さんになれなかったら、ママみたいな大人になれないよね。だから晶、おむつにばいばいするの。おむつにばいばいして、パンツのお姉さんになるの。――だから、ママ、晶がおむつを汚しちゃったら叱ってほしいの。赤ちゃんみたいにおむつを汚したら、そんなことじゃお姉さんになれないでしょって叱ってほしいの。叱ってもらって、お姉さんになれるよう頑張るから。それが、晶のお願い」
 最後の方を口にする頃には躊躇う様子もすっかり影をひそめ、智子の目を真っ直ぐ見て晶は言った。
「わかった。せっかくだから、晶のお願いはきいてあげる。……でも、急にどうしちゃったの? いつだったか、『晶、いつまでもママの赤ちゃんがいい』とか可愛らしいことを言ってくれた晶なのに、今日は急にどうしちゃったのかしら」
 晶の願いに智子は小さく頷いたが、その口調は少しばかり寂しそうだ。
「だって、あの時はメグミちゃん、お姉ちゃんだったもん。優しいお姉ちゃんだったもん。ママとメグミお姉ちゃんに甘えて、晶、ずっと赤ちゃんでいたかったんだもん。だけど、いつの間にかメグミちゃんが赤ちゃんになっちゃって、代わりに晶がお姉ちゃんになっちゃって」
 そこまで言って晶は、言葉を探して少し間を置き、続けて言った。
「それで赤ちゃんのメグミちゃんのお世話をしているうちに、晶、赤ちゃんがほしくなっちゃったの。メグミちゃんはメグミちゃんママの赤ちゃんで、こども園にいる間しかお世話してあげられないでしょ? でも、晶、ずっと一緒にいられる赤ちゃんがほしいの。こども園でも、おうちでも、お買い物の間でも一緒にいられる、晶の赤ちゃんがほしくなっちゃったの。一緒にお風呂に入って、お風呂からあがる時におむつをあててあげて、おねむの前におっぱいを飲ませてあげて、おねしょのおむつを取り替えてあげて、夜の間にもおっぱいを飲ませてあげて、おはようの時もおっぱいを飲ませてあげて、お出かけの前におむつを取り替えてあげられる、ずっと一緒の赤ちゃんがほしくなっちゃったの」
「……だったら、ミルク飲み人形を買ってあげようか? ミルク飲み人形なら、哺乳壜でおっぱいを飲ませてあげられるし、おっぱいを飲ませたらおむつを汚しちゃうから、本当の赤ちゃんみたいにお世話してあげられるわよ?」
 晶の真意を図りかねて、考え考え智子は応じた。
 しかし、晶は唇を噛んでかぶりを振り、
「お人形さんじゃ駄目なの。本当の赤ちゃんじゃなきゃ駄目なの。だから晶、ママにもうひとつお願いがあるの」
と智子の提案を拒み、それまでの面持ちから一転、熱に浮かされてでもいるかのように目をらんらんと輝かせて
「晶、徹也お兄ちゃんと結婚したい。お願いだから、ママ、晶と徹也お兄ちゃんを結婚させてよ」
と、甘ったるい声で言った。
「え……!?」
 思ってもみなかった晶の願いに智子は言葉を失ってしまう。
「だって、優香ちゃんと祐香ちゃんは結婚するんでしょ? だったら、晶と徹也お兄ちゃんも結婚できるよね? 大人どうしが結婚したら、赤ちゃんができるんでしょう? だから晶、早く大人になって徹也お兄ちゃんと結婚したいの。だって、そしたら、晶の赤ちゃんができるんだもん。ずっと一緒にいられる赤ちゃんができるんだもん」
 夢でも見ているかのような表情でそう言う晶。
 恵に乳首を吸われ、擬似的な授乳を続けているうちに晶の心に芽生えた感情は、『母性』だった。本当は成年男子である晶の心には決して芽生えない筈の感情。しかし、確かに芽生えてしまった母性という感情。
 晶の心はいつのまにか新しい感情に取り込まれ、今や、その感情だけが晶の行動を律していた。
 言葉にするのも憚られるような智子と徹也による性的な仕打ちのせいで精神を病み、三歳の女児としての自己意識しか持てなくなった晶が母性を満足させるために思いついたのが、自分を性欲の餌食としてしか見ていない徹也との結婚だった。異様な性欲の虜になり果ててしまった徹也との結婚さえ厭わぬほどに晶の心は母性に衝き動かされ、自分の赤ん坊を欲しがるようなっていた。

「え? 徹也お兄ちゃんと結婚するの、晶ちゃん? きっと綺麗だよね、花嫁さんの晶ちゃん」
「それで、赤ちゃんができちゃうの? 赤ちゃんができたら、抱っこさせてね」
「赤ちゃん、晶ちゃんと徹也お兄ちゃん、どっちに似るのかな。楽しみだね、晶ちゃん」
 気の早い園児たちが口々にあげる歓声に、晶の顔がますます夢見心地になる。
 が、それも束の間。
 次の瞬間、晶の顔がみるみる曇り、
「でも、晶、普通の女の子と違うんだっけ。普通の女の子と違うから、結婚しても、赤ちゃんできないかもしれないんだっけ」
と弱々しく呟いて
「ううん、そんなことないもん。ね、ママ、晶だって赤ちゃんできるよね。おちんちんがあっても、赤ちゃんできるよね? それとも、おちんちん取っちゃわないと赤ちゃんできないの? 美雪先生にお願いして、おちんちん取っちゃった方がいいの?」
と、不安そうな面持ちで智子に助けを求める。
 だが、智子は何も答えられない。
 事実を告げるのは、あまりに不憫だ。
「やだよ、赤ちゃんができないなんて、そんなの、やだよ。晶、赤ちゃんほしいんだよ。メグミちゃんみたいな可愛い赤ちゃんがほしいんだよ。ほしくてほしくて、胸が痛くて我慢できないんだよ」
 今にも泣き出しそうになりながら、晶は恵の体をぎゅっと抱きしめた。
 その拍子に恵が乳首から唇を離し、晶の顔を見上げて
「ねぇね? ねぇね、えーんえーん? いたいいたいなの?」
と、たどたどしく問いかける。
 濁りのない瞳でみつめられ、
「ごめんね、メグミちゃん。メグミちゃんに心配かけるなんて、晶、困ったお姉ちゃんだよね。でも、お姉ちゃん、えーんえーんなんかじゃないよ。お姉ちゃんは、にこにこだよ。にこにこで頑張るよ。早く大人になって、赤ちゃんができるように頑張るよ。メグミちゃんみたいな可愛い赤ちゃんができるように頑張るから、応援してね」
と言って泣き笑いの表情で晶は、もういちど恵の体をぎゅっと抱きしめた。


 恵が晶の側から離れ、京子の膝の上にちょこんと座るのを待って、パーティーは始まった。
 大人はスパークリングワイン、園児たちは哺乳壜のジュース、雅美と文月はグラスのジュースで乾杯して、どきどきしながらクラッカーを鳴らして、持ち寄ったプレゼントを交換し合って、わいわいとゲームに興じて、口のまわりと食事用エプロンをクリームでべとべとにしながらケーキを食べて、クリスマスソングを楽しく歌っているうちに夜が更けてゆく。
 夜更かしに慣れていない園児たちが、いつしか一人また一人とうつらうつらし始め、母親の胸に抱かれてやすらかな寝息をたて始めた。

「せっかくのクリスマスイブだから、少しそれと関係のある話をしましょうか。本当はもう少し早く始めたかったのですが、子供たちには難しい話になるから、みんなが眠るのを待っていたら今になってしまいました」
 特別年少クラスの園児が五人とも母親に抱かれて眠りにつき、最後まで起きていた年長クラスの文月も薫の体に寄りかかるようにして眠ってしまうのを待って、紗江子が静かに言った。
 普段の紗江子とは微妙に異なる雰囲気を感じ取って、母親たちと雅美が声をたてずにそっと頷く。
「先ず、こちらから一つ尋ねることにします。服部さんは、『天使』という言葉を聞いて、どのような姿を思い浮かべますか?」
 頷く母親たちの顔を一人ずつ順に見回してから、紗江子は雅美に問いかけた。
「え、天使ですか? えと、なんていうか、背中に羽根が生えた子供で、たしか、撃たれた人どうしを恋人にしちゃうような弓矢を持っているんだったかな。あと、どこかのお菓子メーカーのロゴになっていたような気もするし……きちんとは思い出せないけど、そんな感じです」
 理事長からの突然の指名にどぎまぎしながら、いつか絵本だったかで見た天使とおぼしき姿を思い出しながら考え考え雅美は答えた。
「そうですね。日本人なら大抵の人がそう答えるだろうと思います。でも、残念ながら、それは不正解です。服部さんが頭に思い浮かべたのは、天使ではなく、ローマ神話における美の女神・ヴィーナスの子供である恋愛の神・キューピッドですね。ユダヤ教やキリスト教において天使というのは、ミカエルやガブリエルに代表される、屈強な或いは気品高い成人男性の姿に近い存在として描かれることが多い、《御使い》と呼ばれる、神の使いのことです」
 紗江子は穏やかな語り口で雅美の誤りを訂正してから、
「では、悪魔については、どのような存在を思い浮かべますか、鈴本さん?」
と、次は香奈に問いかけた。
「今度は悪魔ですか? 漠然としたイメージしかありませんけど、ええと、鋭い角と尻尾が生えていて、体が真っ黒で、大きなフォークみたいな武器を持っている、地獄の番人みたいな感じでしょうか」
 香奈も、雅美と同じように、子供の頃に本か何かで見たように記憶している異形の姿を答えるのが精一杯だった。
「結構です。西洋の宗教に詳しくない日本人がイメージする悪魔とは、そのようなものでしょう。ところで、悪魔というのは一般名称なのですが、キリスト教おいては、魔王・サタンという特定の存在を指すことが少なくありません。サタンという名前は、多くの人が知っていると思いますが――」
 紗江子はそこまで言ってわざと間を置き、みなの注意を自分に惹きつけてから
「――サタンが元は天使だったということを知っている人は、この中にいますか?」
と、部屋にいる全員に問いかけた。
 母親たちや雅美が互いに顔を見合わせ、自信なさげに首を振るのを見て、紗江子は
「ルシファーという名の天使が神に敵対し、堕天使となり、遂には魔王・サタンと呼ばれるようになりました。つまり、サタンは、元は天使・ルシファーだったのです。悪魔は、神を冒涜し、畏れ多くも神を試し、人間を誘惑する存在です。しかし、なぜ、天使・ルシファーは神と敵対して堕天使になり、サタンになったのでしょうね」
と、今度は誰にともなく問いかけ、誰からも返答がないのを確認してから
「ここからは、きちんとした神学ではなく、私なりの勝手な解釈を披露することにします。仮説でさえない、一個人の妄想と受け取っていただいて結構です。生物の一つの種である《人》。他の高等生物と同様、人は、個体数を増加させるために、繁殖行為を行います。繁殖行為の最中は、♂も♀もまるで無防備な状態に置かれ、外敵に襲われても逃げ出すこともかないません。そのような危険を伴う行為を、なぜ人は積極的に行うのか。繁殖行為、いわゆるセックスに、他とは比べようもない快楽が伴うからです。快楽を求めて、極めて危険な行為であるセックスに人は没頭します。そして、その結果として子孫を残し、個体数を増加させ、人という種を維持します。セックスに伴う快楽は、言ってみれば、危険な繁殖行為に対する賠償であり対価です。神が《この世》を造りたもうたのならば、そして、人という種を維持することが神の思し召しであるならば、セックスに伴う快楽は、神が人に与えたまうたものです。人が知能や感情を持たない存在なら、それはそれとして完結していました。けれど、人は知能を持ち、感情に衝き動かされる生き物です。いつしか人は、セックスという繁殖行為と、セックスに伴う快楽を分離することを試みるようになりました。繁殖を伴わず、セックスに伴う快楽だけを享受する方法を追求し始めました。コンドームによる避妊は、その最たる例でしょう。しかし、また、人は、そのような「正統的な」やり方で繁殖を伴わない快楽を求めるだけでは満足できない、生物としてはいささか異端の種でもありました。繁殖を伴わず快楽を求める方法は、他にもあります。いくらまぐわっても子孫を残すことのないパートナーとの性交。その最もわかりやすい例が、同性愛です。あるいは、忌避すべき例ではありますが、まだ受胎可能状態になっていない幼い女の子に対する小児性愛においてもまた、繁殖を伴わずに快楽を求めることはできます。しかし、その行為は、♂しか快楽を得られず、♀には苦痛しか伴わないが故に、忌避されて然るべき醜い行為だと判じざるを得ません。更に、直接の性行為を避けるという意味において、フェティシズムといったものも、純粋に快楽のみを追求できる、またひとつの選択肢となり得るでしょう」
と一気に、しかし穏やかな口調で話し、更に続けて
「けれど、そのような行為を神はお認めにならなかった。いえ、本当のところはお認めになっておられたのかもしれないけれど、お認めにならなかったとルシファーはとらえた。人に知能と感情を与え、繁殖行為に伴う快楽を与えた時点で、人が快楽のみを求めるようになり、その結果として、いわゆる異常性愛に溺れる者が現れるようになる未来は予測できた筈だ。いや、神ならばこそ、予測できなければならない。なのに、快楽を求める手段であり結果でもある異常性愛をお認めにならないのは神の不遜ではないか。そのような考えのもと、ルシファーは神と袂を分かつことにしたと私は解釈しています。――いかがでしょう、ここまでのところは理解していただけましたか?」
と、落ち着いた口調で問いかけた。
 その内容は、紗江子自身も言ったように、妄想に近いものかもしれない。
 しかし、部屋にいる者はみな一様に紗江子の言葉に惹き込まれて、部屋はしんと静まりかえっていた。
 紗江子は、ふと窓を見た。
 夜の帳がおりて、窓の外は真っ暗だ。
 暖房が効いてぬくぬくしている部屋の中と建物の外の温度の差のせいで、窓ガラスが露でびっしょり濡れている。
(今夜は星が出ていないみたいね)
 胸の中で呟く紗江子の唇が、次なる言葉を紡ぎ出す。
「生まれ持った性別や容姿や性的嗜好といったものと、自分がそうありたいと望むものとが合致することは極めて希です。両者の乖離を「神が与えたもうた試練」と解釈し、道徳の名のもと、世の規律に合せて生きていくことを人は求められます。しかし、そのようにして生きてゆく間に、人は心に《内なるルシファー》を宿すようになるのです。サタンと名を変えたルシファーは、神を冒涜し、畏れ多くも神を試し、人間を誘惑する。そのことを、「実は、サタン/ルシファーこそが人間の側に立っているのではないか」と解釈することもできます。自らが与えた快楽を人がより多く求めようとする行為を禁ずる神を諌め、それが真(まこと)の御意思かと神に問い、人が快楽を求める姿をよしとするサタン/ルシファーこそが、人と共にあるのではないか。そのように考えることは、極めて自然です。そうであるなら、人が自分の心に宿した《内なるルシファー》の声に耳を傾けるのもまた、自然の成りゆきでしょう。同性しか愛せなくて《内なるルシファー》を心に宿し、実際の性別とは異なる性別の人生を生きたくて《内なるルシファー》を心に宿し、実際の年齢よりもずっと幼い自分に留まることを望んで《内なるルシファー》を心に宿し、逆に、実際の年齢よりもずっと成長した自分を生きるることを望んで《内なるルシファー》を心に宿し、そして、♂であるにもかかわらずお腹に子供を宿すことを夢見て《内なるルシファー》を心に宿し、あるいは、人ならざるものへと変わることを望んで《内なるルシファー》を心に宿し。多くの人が、《内なるルシファー》と共に生きることを余儀なくされています」
「あの、一つ質問してもよろしいでしょうか」
 紗江子の話が一区切りつくのを待って、香奈がおそるおそる手を挙げた。
「ええ、どうぞ」
「ルシファーは、世の中の規律に背く『反逆者』なのでしょうか。あるいは、世の中の規律を無視する『無法者』なのでしょうか。もしもそうであるなら、《内なるルシファー》を心に宿す私は――私たちは、世の中から疎まれても仕方のない立場に置かれているということになるのではないでしょうか。私としては、その点が気がかりなのですが」
 香奈は、一言一言を絞り出すようにして尋ねた。
「いえ、その点については、ご心配に及びません。ルシファーは、《この世の理(ことわり)》を全て内包しつつ、《この世の理》の矛盾を言い当て、《この世の理》を克服しようとする、或いは、超越しようとする者です。決して、反逆者でも無法者でもありません」
 紗江子は穏やかな声で諭し、香奈が安堵の表情を浮かべるのを見て、こんなふうに付け加えた。
「ただ、本来、人が《内なるルシファー》を心に宿し続けることは、健全な状態ではありません。それは、自分の実際の在り方と、こうありたいと望む在り方との間に齟齬が生じていることを意味しています。《内なるルシファー》を宿さずに生きられるのであれば、その方が望ましいのは、いうまでもないことです。ただ、たとえば強引な心理療法によって《内なるルシファー》を排除したとしても、それは何の解決にもなりません。あくまでも、人の、実際の在り方とこうありたいと望む在り方との齟齬を解消した結果として《内なるルシファー》を消失させなければいけません。そして、そのためにこそ、私たちが存在します」
「私たちというのは――ひょっとすると、理事長先生と笹野先生のことをおっしゃっておられるのですか?」
 少し考えて美香が問いかけた。
「そうです。笹野先生は、生まれながらに持ち合わせた類い希な才能と日々の研鑽によって、常人には理解できないほどの高度な医療技術を身につけられました。そして、心の在り様と肉体の在り様との齟齬に悩む人々を救うべく、自らの医療技術を惜しげなく発揮しておられます。一方の私は、心の在り様と肉体の在り様との齟齬に悩む人々を、日々の生活を通じて支える活動に専念しているつもりです。これはいささか運命論めいて聞こえてしまうので私としては好まない表現になるのですが、笹野先生が類い希な才能を生まれながらに持ち合わせたのも、私が医療の世界から初等教育の世界へ道を転じたのも、なすべきことをなすためだったのかもしれません。私は運命論を好みませんが、そのように感じられてならないことがあるのは事実です。ただし、『私たち』には、私と笹野先生だけが含まれるのではありません。美香さん、香奈さん、智子さん、薫さん、京子さん、美和さん、そして、今も慈恵会の研究所付属病院の居住区画で甲斐甲斐しく元哉ちゃんと未由ちゃんの面倒をみてあげている須藤雅美さんも『私たち』の一人です」
「私も……?」
 躊躇いがちに京子が聞き返す。
「そうです。井上京子さん、あなたもその一人です。あなたたちは、自分も《内なるルシファー》を心に宿しながら、より哀しみ深い《内なるルシファー》を心に宿す人に安寧を与えるために慈悲深い行いを重ねてきました。いえ、今この時も、その慈悲深い行いを積み重ねています」
 紗江子の言葉にはっとした表情を浮かべて、京子は、すやすや眠っている恵の顔を見た。同時に、他の母親たちも『愛娘』の顔をじっとみつめる。
「わかったようですね。その子たちは、《ルシファーの子》。あなたたちがいなければ生きてゆけない、無力な、しかし、だからこそ純粋な存在。あなたちちは、その子たちの心の在り様と肉体の在り様の齟齬を献身的に埋め、心に安寧を与える者。《ルシファーの子の聖なる母》と呼ばれるべき者です。ただし、《ルシファーの子》の中でも、坂本恵と他の者は、厳然と区別されます」
 そこまで言って、紗江子は、京子に抱かれて眠っている恵の顔に目をやった。
「うちの子が、メグミが、他の子供たちと違うというのはどういうことなんですか!?」
 不安にかられて、京子の肩が震える。
「怯えることはありません。むしろ、逆。坂本恵は、祝福を受ける存在です。《ルシファーの子》の中でも、他の子供たちは、《魁(さきがけ)となる者》であり、《祝福する者》です。《真のルシファーの子》よりも先に生を受け、後に誕生する《真のルシファーの子》に祝福を与える役割を担っています。そして、《真のルシファーの子》こそが、あなたの愛娘、坂本恵です」
 紗江子は、恵の額に掌をかざした。
「……どういうことなんですか!?」
「人は、きちんとした自我を形成した後、その在り方と、そうありたいと望む在り方との間に齟齬を覚えて、《内なるルシファー》を心に宿します。坂本恵も、ついさきほどまではそうでした。しかし、今の眠りから目覚めた時、坂本恵は、《生まれながらにルシファーを心に宿す者》になります。これまでの記憶消去反応の発現頻度から考えて、坂本恵は、今の眠りの間に全ての記憶を失うことになります。記憶と共に、知識や自我といったものも。その状態で目覚めた坂本恵の心は全くの無垢です。けれど、これまでの十七年間の人生の間に心に宿した《内なるルシファー》は記憶消去反応などで消失することはありません。――それがどういうことか、もうおわかりでしょう? 成長した肉体を有してはいるものの、心は、生まれたての新生児そのもの。しかし、その心には既に《内なるルシファー》が宿っている。つまり、今の眠りから覚める時、坂本恵は、心に《内なるルシファー》を宿した新生児として生を受けることになるのです。まさに、《真のルシファーの子》として誕生し直すのです。他の子供たちは、その誕生に祝福を与えるために先に生まれてきた者たちです」
「……」
「《真のルシファーの子》は、その成長に伴って、私たちに様々な啓示をしめしてくれる。私と笹野先生は、そのように考えています。啓示は、医療技術を更なる先へ進めるためのヒントであったり、心の在り方を安寧に導くためのヒントであったりするでしょう。《真のルシファーの子》の誕生と成長は、《内なるルシファー》を心に宿した多くの人々への福音です。《真のルシファーの子》の啓示によって、人々は遂に、実際の在り方と、そうありたいと望む在り方との齟齬を埋め、心の在り様と肉体の在り様との齟齬を埋めて、《内なるルシファー》に別離を告げることができるようになるのです。京子さんと美和さんは、そのような《真のルシファーの子の聖なる母》としての役割を担っていた、いえ、これからも担うことになります。そんなに驚くことはありません。おそらく、ご自身でも、そのような予感を既に抱いていたのではありませんか?」
 紗江子は、穏やかな眼差しを京子に向けてそう言い、次に、ゆっくりと雅美の顔に視線を移して
「雅美さんと文月さんには、《ルシファーの子の聖なる母》のみなさんを補佐する役割を担っていただくことになります。そして、その後には、《新しい世代の聖なる母》の役割を与えられるでしょう」
と告げてから、窓に目をやって
「雪が降ってきましたね。今年はホワイトクリスマスになりそうで、子供たちが目を覚ましたら喜ぶでしょう」
と誰にともなく呟いた。
 そこへ、まるで気配を感じさせずに美雪が近づいて来て床に腰をおろし、紗江子の頭を自分の肩にもたれかけさせた。
 紗江子が美雪にしなだれかかって、すっと目を閉じる。
「疲れたでしょう? もう、あなたも眠りなさい、紗江子」
 美雪が紗江子の耳許に囁きかけた。
 持つほどもなく、紗江子が穏やかな寝息をたてる。
「……理事長先生がおっしゃったこと、本当なんでしょうか?」
 紗江子の説明をどう受け止めればいいのか迷っているのがありありの様子で、薫がおそるおそる美雪に話しかけた。
「正直なところ、私には、なんとも判じかねます。『仮説でさえない、一個人の妄想と受け取っていただいて結構です』と言っていたくらいですから、紗江子自身も、自分が何を言おうとしていたのか判然としていなかったような気もしますしね。人は結局、そうありたいと願ったものにしかなれない――私に言えるのは、それだけです」
 美雪は、憑いていたものが落ちたかのように穏やかな表情で寝息をたてる紗江子の顔を愛おしげにみつめて、小さくかぶりを振った。
 それから、おもむろに薫の方に向き直り、
「かねてからの計画通り、研究所付属病院の施設拡充の一環として、第二小児病棟の開設を理事会において正式に決定しました。紗江子と相談して、第二小児病棟に入院する児童の多くを遊鳥こども園で受け入れてもらう手筈を整えています。また、病院の居住区画で暮らしている須藤元哉と美鈴の姉妹も四月から特別年少クラスに入れることになっています。みなさんにはこれから何かと苦労をかけることになりそうですね」
と意味ありげな口調で言って、見ている者をぞくりとさせるような笑みを浮かべる。
「そうですね、なにかと忙しくなりそうですね、これから」
 なんとも表現しようのない思いを胸に、曖昧に応えるのが薫には精一杯だった。

 そんな美雪と薫の会話をどこか遠い世界の出来事のようにぼんやりと聞きながら、京子は窓を見た。
 窓ガラスに、京子の胸に顔を埋めて眠る恵の姿が映っている。ガラスに映る恵を透かして見える窓の外には、夜の風に舞う無数の雪片。
 新たな時代のルシファーがまどろみから目覚める頃には、全ての物が純白の雪に覆い尽くされていることだろう。



   きよしこの夜 星は光り
   Silent night, holy night
   All is calm, all is bright

   救いの神子は 御母の胸に
   Round yon Virgin Mother and Child
   Holy Infant so tender and mild

   眠りたまう 夢やすく
   Sleep in heavenly peace
   Sleep in heavenly peace

[ 完 ]



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