その日から僕は


 それじゃ由紀夫、後のことは頼んだぞ――わざとらしい低い声でそう言いながら、でも父さんの表情が妙に浮かれているのを僕は見逃さなかった。
「わかってる。何も心配は要らないから、ゆっくり楽しんできてよ」僕は意味ありげに笑って応えた。
 父さんは年甲斐もなく照れたみたいに顔を赤くして、こほんと咳払いをした。
「悦子さんも、本当にゆっくりしてきてね。父さんがいろいろと手間取らせるかもしれないけど」僕は、父さんの横でこちらもやっぱり真っ赤な顔をして小振りのバッグを揺らしている『新しい母親』に言った。
「ええ、そうね……」どう応えていいのかわからないみたいに、一年前に父さんと結婚した女性――悦子さんは少し口ごもって父さんの顔を見た。
「それじゃ行ってくる」父さんは小声でそう言うと、悦子さんの背中に左手をまわして、まるで逃げ出すみたいにして玄関を出て行った。
 逃げ出すみたいにっていったって、何か悪いことをしたってわけじゃない。ただ、自分の年も忘れて、うぶな中学生みたいにひたすら照れまくっているんだということが僕には手に取るようにわかっていた。なんたって、待ちに待った、一年遅れの新婚旅行へこれから出かけるんだから。つまり父さんと悦子さんは、新しい生活が安定するまではって、今まで新婚旅行をおあずけにしてたってわけなんだ。
 分厚い木製のドアが閉まったのを確認してから、僕は振り返った。そこへ、どたどたと騒がしい足音をたてて大きな人影が走り寄ってきた。
 そうして、天井から声が降ってきた。
「あ、もうママたち出かけちゃったの? せっかく、行ってらっしゃいを言おうと思ってたのに……」
 痛いほどに首を振り仰いで見上げた僕の視線の先に、沙耶香の顔があった。
 ちょうど一年前、僕はやっぱりこうして沙耶香の顔を(ちょっぴり呆れたように)見上げたものだった――。

 僕が中学生の時、母さんが家を出た。はっきり言ってしまえば、若い男と一緒になって、父さんや僕を放り出したってことだ。まだ子供だった僕にはそれがどういうことなのかもうひとつちゃんと理解できなかったんだけれど、でもまあ、ひどく寂しくて、同時に無性に腹立たしい思いに襲われたことだけは憶えている。
 それから父さんと僕との二人きりの生活が始まって、いろんな雑事や細々した忙しさに追いかけられながら何年かが経って、いつの間にか僕は大学の二年生になっていた。
 そうしてその夏、父さんが急に、一緒になりたい女性がいると僕に言ったんだ。
 母さんのことがあって少しばかり女性というものが信じられなくなっていた僕は、すぐには返事ができなかった。でも、その頃には僕にも幾らかは分別というものができていて、父さんが(照れくさそうに)切り出した再婚話を耳にしても頭に血が昇って喚き出すなんてみっともないことはしなかった。
「いいんじゃない? 父さんのおめがねにかなった人だもの、僕が反対する理由はないんだし」結局、僕はぽつりと応えていた。
 それからすぐに相手の女性(それがつまり、悦子さんだ)が家にやってきていろいろ話し合ったり、ちょっと洒落たレストランで食事をしたりしてる間にもあれやこれやと荷物が届いたり、いろんなことの準備も進んで、気がついた時には、本当に内輪だけのささやかな結婚式の日だった。
 その日に初めて、僕は沙耶香に会ったんだ。悦子さんに沙耶香という名前の一人娘がいるってことは早いうちから聞いていたし、悦子さんと沙耶香が並んで写っている写真も見せてもらってもいたんだけど、僕と沙耶香が直接顔を会わせることは結婚室の日までなかった。僕は僕で大学の専門課程でどのゼミに入ろうか迷っていて先輩たちから情報を集めるのに忙しかったし、沙耶香は沙耶香で、その年に入学したばかりの女子大のクラブ活動に忙しい日が続いていたからだ。
 結婚式場のあまり広くない控室の椅子に所在なげに腰かけていた僕の側に大きな人影が近づいてきたっけ。
 そうして、天井から声が降ってきたんだ。
「初めまして、由紀夫おにいちゃん」
 痛いほどに首を振り仰いで見上げた僕の視線の先に、思わず見とれてしまうほど大きな目をした女の子の顔があった。それが、僕と沙耶香との出会いだった。

 ――僕は、わざとらしく肩をすくめてみせた。それから、溜息をつくみたいにして言ってやった。
「ああ、父さんも悦子さんもとっくに出かけたよ。もう少し早く起きてくれば間に合ったのにな」
「仕方ないでしょ、昨日までクラブの夏合宿があって疲れてたんだから」沙耶香は言い訳がましく応えた。それから、ちょっとうんざりしたような口調で言ったんだ。「それよりも、おにいちゃん。私のママのこと、いつまでも『悦子さん』じゃなくて、そろそろ『母さん』って呼んであげてもいい頃なんじゃないの? 私だってこうして、そっちの家族のことをパパやおにいちゃんって呼んでるんだから」
 沙耶香は、父さんと僕とが悦子さんや沙耶香と暮らし始めてすぐにそんなふうに言い出していた。僕としても、それはそうだと思うことはある。けど、一緒に暮らし始めたからって、そうそう簡単に口にできる言葉じゃないように思えてしまうのも事実だった。むしろ、沙耶香がいとも簡単にそんな呼び方に馴染んでしまったのが不思議なくらいなんだから。
「あいにくだけど、僕はナイーブな性格をしてるんでね。ま、沙耶香みたいな大女には、こういうデリケートな心の動きなんてわからないかもしれないけどさ」僕は、これもすっかりお決まりになってしまった言葉を口にした。
 大女――そう、沙耶香は確かに背が高い。彼女が所属している女子大のクラブというのはバスケ部で、入学した年にはもうレギュラーになったくらいだから、身長がある上に身のこなしも敏捷だ。今年の春の地区リーグでも、沙耶香の活躍で準優勝した筈だった。
 父さんと悦子さんの結婚式で初めて会うまではまさかそんな子だとは知らなかったものだから(あとで聞いたことだけど、悦子さんと並んで写真を撮った時には沙耶香は椅子に座っていたらしい。だから、本当の身長なんてわかるわけがなかったんだ)、控室で不意に声をかげられた時は冗談事でなくびびってしまったほどだ――その情けない僕の姿を見て沙耶香が「うわ、おにいちゃん、かっわいい」って体をくねらせた光景は、今でも僕の心の隅に魚の骨みたいに引っ掛かっている。だって、この僕ときたら、身長は一メートル六十そこそこしかないんだから。そりゃ、病的に成長がわるいってほどじゃない。でも、少なからずコンプレックスの原因にはなる数字だ。それに、沙耶香の大きな目に宿っている強い意志の光が、優柔不断な僕をなぜとはなしに不安な気持ちにさせずにはいられなかったこともある。
 だもので、結婚式の控室でも、無意識のうちに僕は虚勢を張るみたいにしてついつい沙耶香に言い返してしまったものだった。なんだよ、大女――って。
 そう言われる度に沙耶香は少しだけ寂しそうな顔をする。でも、それは本当に少しの間だけだ。沙耶香はいつだって、本当にいつだって、じきに明るい笑顔に戻るんだから。目鼻立ちがはっきりしてる沙耶香の笑顔は、丸っこい童顔の僕がどんなにしても敵わないくらいに魅力的だった。
 だから沙耶香はこの時も、すぐにクスッと笑って言ったんだ。
「ま、いいや。それよりも、お腹ぺこぺこ。もう朝ご飯は食べちゃったの?」
 その屈託のない言い方に、僕はもう一度肩をすくめて応えた。
「ああ、みんな終わったさ。悦子さんは旅行の支度で忙しそうだったから僕がご飯を作ったんだけど、それでよければ沙耶香の分は残してあるけど……」
「へーえ。おにいちゃん、お料理なんてできるんだ?」沙耶香は半ば皮肉っぽく、半ば感心するように訊いてきた。
「ああ。悦子さんがきてくれるまでは、とにかく僕がご飯を作らなきゃいけなかったからね――父さんは仕事で忙しかったし」僕はそう応えながら、ダイニングルームに向かって歩き出した。



 ダイニングの椅子に腰をおろして木のボウルに手を伸ばした沙耶香は、サラダを一口食べるなり感心したように言った。
「すごーい。こんなにおいしいドレッシング、初めてだわ」
「市販品じゃないからね――僕のオリジナルなんだ」流し台の前に立って、シンクの中につけておいた食器をスポンジで洗いながら僕は応えた。
「うわ、すっごいんだ。私とは大違い」僕の言葉を聞いた沙耶香は大げさな声をあげた。
 それを耳にした僕は苦笑するしかなかった。だって沙耶香ときたら、料理なんて本当にキャベツの千切りもできない子なんだから。ああ、料理だけじゃないや。この一年間一緒に暮らしていてわかったんだけど、掃除も洗濯も、家事という家事が何から何までてんでできないような女の子だったんだ。それとは逆に僕の方は……。
「おにいちゃん、きっととってもいいお嫁さんになれるね」クスッと笑って沙耶香が言った。
「あのなぁ、沙耶香。そんなこと言って年上の男をからかう……」からかうもんじゃないぞという言葉はぷつんと途切れてしまった。不意に大きな人影が背後に立ったせいで蛍光灯の光が遮られ、思わず言葉を飲み込んでしまったからだ。
 それが沙耶香だということはすぐにわかった。でも、ついさっき朝ご飯を食べ始めたばかりの沙耶香がどうして僕の後ろに立たなきゃいけないっていうんだろう。
「パパとママは少し遅い新婚旅行に出かけちゃって、このお家には二人きりなのよ」僕が振り返ろうとするのを押しとどめるみたいにして、沙耶香は自分の体を僕の背中にぴったりくっつけてそう言った。「だから、私たちも」
「な、何を……」僕は少しうわずった声を出してしまった。
「初めて会った時から私、おにいちゃんのこと……私の気持ち、知らなかった?」沙耶香は少し腰をかがめて言った。声が近くなって、なんだか、沙耶香の体が覆いかぶさってくるみたいな感じだった。
「冗談はよして、さっさとご飯を食べてくれよ。後片付けをするのは僕なんだから」なんとなく場違いな台詞だってことはわかってたけど、でも、僕はこんな言葉しか思いつかなかった。
「冗談なんかじゃないわ。私はずっと、おにいちゃんを……」沙耶香の声は頭の真上から聞こえてきた。
「やめなさい、沙耶香。――僕たちは兄妹なんだぞ」今度こそ僕は、からからに渇いてしまった咽喉をふり絞るようにして言った。
「私はやめないわよ、おにいちゃん。だって私たち、血がつながった本当の兄妹なんかじゃないのよ。だから、ねえってば」沙耶香はとうとう、僕の耳元に息が当たるくらいに顔を寄せてきた。
「だめだよ、沙耶香。だめなんだったら」僕はやっとの思いで顔だけ振り返ると、すぐそこにある沙耶香の大きな目に向かって言った。沙耶香の瞳には、僕の顔がやたらくっきりと映っていた。
「何をびくびくしてるのよ。でも、そうやっておどおどしてるおにいちゃん、とても可愛いいわ」うふふと笑って、沙耶香の目がますます僕の顔に近づいてきた。
「何をする気なんだよ――この、この大女……」沙耶香にのしかかられるような姿勢で、僕はこう言うのが精一杯だった。
 それを聞いた沙耶香は、やっぱりいつもみたいにちょっと寂しそうな目をした。でも、これもやっぱりいつもと同じことだったんだけど、沙耶香はじきに明るい目に戻ったんだ。……というか、普段よりも少しばかり目の光が強くて、なんとなくぎらぎらしているみたいだった。
「大女――うふっ、本当に私の体は大きいわね。そのせいで、私は小学生の時から随分からかわれたりしたわ。でも、高校に入ってバスケを始めた時、そのコンプレックスも少しはマシになったの。この大きな体がそのまま武器になるってことがわかったから」沙耶香は舌なめずりするみたいに赤い唇を歪めて、愉快そうに言った。
 僕は沙耶香の視線に気圧されるようにして目を逸らせた。猫がミルクを飲むみたいなぴちゃぴちゃという音が耳に突き刺さる。それが、沙耶香が盛んに唇を湿らせている音だということが、見てもいないのにはっきりわかった。
「そうして私のコンプレックスが本当に消えたのは――ううん、それどころか、私の体がこんなに大きいことを嬉しく思ったのは、初めておにいちゃんと会った時だったの」沙耶香の右手が伸びてきて、僕のお腹と流し台との間にある隙間をもぞもぞ蠢いた。僕は慌ててその手を振りほどこうとしたけれど、非力な僕の手が沙耶香の手を払いのけるなんてこと、とてもじゃないけどできるわけがなかった。
「私の本当のパパのこともあって(ママがパパと別れた理由、おにいちゃんも知ってるよね? パパったら、若い女の人に言い寄られてママと私を棄てて出て行っちゃったのよ)、私はちょっと男性不信に陥ってたの。だから私立の女子高に入って、そのせいでますます男の人とは疎遠になって、そのまま男の人っていうのがどんな生き物なのかを気に留めることもせずに暮らしてきた。でも、今のパパとママの結婚式で初めておにいちゃんを見てすごく驚いたのよ。へ〜え、こんなに可愛いい男の人もいるんだって」沙耶香の吐息が少しずつ熱くなってきたみたいだ。「それから私はすぐに思いついたの。私くらい体が大きければ、おにいちゃんを自由にするのも難しくないわねって。その時ほど、私に大きな体を与えてくれた神様に感謝したことはなかったわ」
「ちょっと待てよ、沙耶香。いったい何を……」なんだか、沙耶香の言ってることがわからなくなってきた。僕を――自由にするだって?
「さっき言った筈よ、おにいちゃんだったらきっといいお嫁さんになれるって。そう、おにいちゃんは私の可愛いいお嫁さんになるのよ」僕の腰のあたりをまさぐっていた沙耶香の手が、とうとうジーンズのボタンを探り当てた。
 僕はかっと顔を熱くして、両手でジーンズをおさえようとした。でも、さっと伸びてきた沙耶香の左手に肘をおさえつけられて、僕の手はぴくりとも動かせなくなってしまう。
「無駄よ、そんなことをしても。おにいちゃんの細っこい体で私に逆らえるわけないんだから」沙耶香の声は低く笑っているみたいだった。
 僕は思わず体をくねらせてしゃがみこもうとした。このままじゃ一つ年下の体の大きな妹にジーンズを剥ぎ取られてしまうってことがわかっちまったから、そうされまいとして、まるで無力な女の子みたいに体をよじるしかなかったんだ。
 けれど沙耶香の力は、そんな僕の体を軽々と抱え上げてしまうほどに強かった。沙耶香の手が僕の体を締めつけたかと思うと、力まかせにぐいっと持ち上げた。途端に、沙耶香に背中を向けたまま体を丸くしかけていた僕の上半身がマリオネットのように伸びて、まるで無抵抗な姿勢にされてしまう。
 沙耶香の手は相変わらず蠢き続けた。もう、沙耶香が冗談なんかでそんなことをしてるんじゃないってことは痛いほどわかっていた。もう沙耶香の顔を見ることもできず、ただ力なく流し台の縁に両手を置いて、ひきつった顔でわなわなと震えているだけの僕の腰がふっと緩んだ。いつのまにかジーンズのジッパーも引きおろされて、それどころか、ジーンズそのものが膝の上までずりおろされてしまったせいだ。
「あ……」僕の肩がびくんと震えた。
「可愛いいお尻ね」ジーンズに続いてブリーフに手をかけた沙耶香が、ぞくぞくするような笑い声で言った。
「もうやめようよ。やめようよったら、沙耶香……」シンクの中で少しずつ、本当にゆっくり少しずつ消えていく洗剤の泡をぼんやり眺めながら、僕は弱々しく呟いた。
「いまさら何を言ってるのよ。今日は私たちの記念すべき『初夜』だっていうのに」沙耶香の笑い声は蜂蜜みたいだった。蜂蜜みたいに甘くて、蜂蜜みたいにねっとりと体に絡みついてくる。
 ジーンズと同じように、紺色のブリーフも簡単に引きおろされてしまった。僕は観念したような表情で、自分の下腹部にのろのろと目を向けた。
 ――途端に、僕はくっくっくっと笑い出してしまう。
「何、いったい何を笑ってるの?」突然のことに驚いたように、沙耶香は少し早口で言った。
「だって……そりゃ、沙耶香にかかれば僕なんて、いくらでも好きなように扱えるだろうさ。押し倒すなんて、雑作もないことかもしれない。でも、その後をどうするつもりだい? びびってこんなに小さくなっちゃったペニスで、僕と沙耶香がどうして愛し合えると思う? 最後の最後で、沙耶香にも自由にならないことがあったんだよ」僕は、尚も引きつったような笑い声で応えた。ぎりぎりのところで沙耶香の企みが果たせなくなったおかしさと、自分よりも年下の女の子に凌辱されそうになりかけていたのを、ペニスが黒い茂みの中にこそこそ隠れるように縮こまってしまったために助かったと安堵している僕自身への憐れみを含んだ情けない笑い声だった。
 けれど、沙耶香の口から洩れてきたのもまた、笑い声だった。心底おかしそうな、僕の言ってることなんててんで気にもかけていないような哄笑。
「――それで済むと思ってるの?」ひとしきり笑ってから、沙耶香は冷たく言った。「おにいちゃんの情けないおちんちんがどうなったって、そんなこと私は知らないわ。ぜんっぜん関係ないことだもの」
「関係ないだって? だけど、僕の――が小さいままじゃ……」
「何か誤解してるみたいね、おにいちゃんは」沙耶香は僕の顔を見おろして軽く溜息をついてみせた。「おにいちゃんは何もしなくていいのよ。ただ、みんな私にまかせてじっとしていればいいんだから」
「なに……」
 僕が口を開くのと、沙耶香が自分の巻きスカートをさっと一枚の布きれにして床に放り出すのとが同時だった。
 沙耶香のスカートの下から、なにか凶悪そうな黒い影が現われた。そいつは僕を睨みつけるみたいにして鎌首をもたげ、今にも跳びかかってきそうに身構えていた。そういえば、沙耶香のスカートの股間のあたりがなんとなく妙な具合に膨れていたように見えていたっけ。それに、僕の背中に体を押しつけてきた時に感じた、ちょっとごりごりした感触。
 ちらちらと目だけを向けて沙耶香の様子をうかがっていた僕は、そいつの姿を目にした途端に思わず叫び出しそうになるのをかろうじてこらえるので精一杯だった。そうして沙耶香は、そんな僕の様子を面白そうに眺めてから、股間に屹立しているその禍々しい黒い影をぐいっと持ち上げてみせた。――その影は、僕の両脚の間で小さくなっている情けない肉棒によく似ていたけれど、僕のものよりも何倍も大きく、遥かに激しくいきり立っていた。
 気がつくと、僕はがたがたと膝を震わせながらその場から逃げ出そうとしていた。
 なのに、膝までずりおろされたジーンズとブリーフがじゃまをして、まともに脚を踏み出すことができない。
 流し台から手を離すのと同時にバランスを崩した僕は、台所の床に倒れこんだ。慌てて両手を突き出して、かろうじて体重を受け止める。顔を床に打ちつけることだけは免れたけれど、両方の膝頭は固い床板の上にまともに落ちた。思わず体が硬直して、微かな呻き声が洩れる。僕は、よつん這いになって膝の痛みに耐えていた。
「そう、それでいいのよ」背後から沙耶香の声が降ってきた。
 這って逃げようとする僕の体は沙耶香の腕に捕まって、その場におさえつけられてしまった。
 沙耶香の両手は、可哀相な獲物をその鋭い爪でもってがっしりと抱えこむ鷲のように、僕の腰をつかんで離さなかった。そのまま沙耶香は自分も床に膝をついて、じわじわと下腹部を寄せてくる。
 硬質ゴムでできた作り物のペニスが僕のお尻に触れて、ひんやりした感触が背中を這った。
「やめて……もう、やめてよ……」僕は泣き声になっていたに違いない。『やめてくれよ』とも『やめなさい』とも言えず、涙の雫さえこぼしながら、ただ力なく『やめてよ』と懇願する僕。
 それは、どんなにか倒錯的な光景だったろう。小柄な男性が、それよりもずっと大柄な女の子に、まるで無力な少女のように力ずくで犯されようとしているその光景は。
「心配することはないわ。周りが女の子ばかりの生活を続けてきたおかげで、女の子を悦ばせる方法をいつのまにか身につけてきたのよ、私は。汚らしい男から悦びを与えられるよりも、私は、同性に悦びを教えてあげる方を選んだの。――私が可愛がってあげた子の中には、お尻で感じる子もいたわ。そんな子にするみたいに、優しくしてあげる。だから、おにいちゃんは体の力を抜いて、ただ私に……」沙耶香のねっとりした声は、耳元で囁いているみたいに僕の耳たぶに絡みついてきた。「滑りやすいように、前もってゼリーも塗っておいたわ。だから、おにいちゃんは余分な力を抜いておとなしくしているだけでいいのよ。さ、これが私たちの『初夜』よ。おにいちゃんの『処女』を私が優しく奪ってあげるわ」
 沙耶香が、黒光りする硬質ゴムのペニスバンドをつけた下腹部を動かした。
「あう……」これまでに経験したことのない痛みに体を貫かれて、僕は目を見開いた。

 冷たくて固いフローリングのせいで膝がとても痛い筈なのに、そんなことに僕はちっとも気づかなかった。それよりも、まるで肛門から脳髄までを容赦なく串刺しにされたみたいに体が硬直してしまい、体の内側から太くて熱い金串で焼かれるような灼熱感に包まれて、僕はだらしなく舌を突き出して喘ぐだけだった。
 沙耶香がゆっくり、けれど大きく腰を動かし続けたけれど、床の上に手と脚を突っ張ったままの僕の体は彫像のようにぴくりとも動かなかった。ただ、沙耶香の作り物のペニスがずぶりと根元まで侵入してくる度に、あまりの痛みに耐えかねて思わずお尻を僅かに突き上げるように動かすことを除いては。
 それまで僕の腰をつかまえていた沙耶香の左手がそろそろと伸びてきて、親指と人差指で僕の乳首をつかんだ。そうして指に挟んで、こりこりと転がし始める。
「は……」ぞくぞくするような、どういっていいのかわからない妙な感覚が左胸から下腹部へ走った。
「あんなに怖がってたくせに、体は正直なものね。おにいちゃんの乳首、ちゃんと立ってるわよ。女の子みたいにね」ゆったりと腰を動かしながら、沙耶香が低く笑った。それから、僕の乳首をきゅっと捻る。
「あ……ん」僕の口から呻き声が洩れ出た。
「いい声よ、おにいちゃん。ほんとに女の子みたいにいい声だわ。うふふ、そんなに気持ちいいの?」沙耶香は念を押すみたいに訊いてきた。
 気持ちいいわけがない。まるで犬みたいな格好でゴムのペニスにお尻を串刺しにされて、真っ赤なマニキュアを塗った爪で乳首を責められて、それが気持ちいいわけがない。どこまでが僕の体なのかわからなくなるくらいの痛みに包まれ、燃え盛る業火に内側から焼かれる思いだ。……でも、この奇妙な切なさはどういうわけだろう?
「いいわ、もっといい気持ちにさせてあげる」 僕が何も応えないうちに沙耶香はそう言うと、今度は右手を腰から下へ伸ばした。
 そこには、怯えたように縮こまった僕のペニスが力なく垂れ下がっていた。
 沙耶香はそのペニスを右手の掌でそっと包みこむと、自分の腰の動きに合わせるようにゆっくりと前後させ始めた。――僕の意志なんててんで無視するみたいに、それまでだらしなく萎えていた筈の肉棒がむくむくと体をもたげようとする。
「あらあら。乳首を立たせただけじゃ物足りなくて、今度はおちんちんまで。はしたないとは思わないの?――それとも、これはクリちゃんなのかしらね。随分大きなクリちゃんだけど」沙耶香は執拗だった。両手で僕の敏感な部分を責めながら腰の動きもゆるめずに、そのうえ羞ずかしい言葉で僕を嬲り続ける。
 僕は標本箱の蝶々だ。銀のピンの代わりにゴムのペニスで体を貫かれた哀れな蝶々だ。
「さ、そろそろかしら。大きなクリちゃんから恥ずかしいお汁が出かかっているみたいよ」沙耶香の手の動きが少し早くなった。
 沙耶香の言うとおりだった。僕のペニスの根元が熱くなってきて、どくどく脈うってるのがはっきりわかる。
 熱くほてったお尻と、乳首をこりこり転がされて溶け出してしまいそうにぞくぞくしている薄い胸。そうして、沙耶香の掌に包まれて震えているペニス。
 突然、沙耶香が腰に力を入れて、作り物のペニスをぐいと押し込んだ。
「あ……」僕は顔をのけぞらせた。体がひくひく震えて、沙耶香の手の中でペニスが爆発する。
 沙耶香がゴムのペニスをもっと深く突き刺した。いっそう激しく身震いして、僕のペニスはどくんっと大きく脈うった。
 沙耶香の手に弄ばれた末の射精だった。
 だけど、それを――これまでに経験したことのないその激しく力強い射精を、僕は僕自身のペニスから迸り出たものだとは実感できなかった。それよりもむしろ、沙耶香が腰に巻き付けているペニスバンド――実際にそれが射精なんてするわけがない人工の肉棒が僕のお尻に向かって迸らせたもののような気がしてならなかった。
 それは、ある筈のない奇妙な妄想だ。でも、僕が絶頂に達した瞬間にこれまでで最も激しく僕のお尻を貫いた沙耶香のペニス。
 そう。僕は沙耶香のペニスに責められ、そこから放たれた白いザーメンを浴びせかけられたに違いないと感じられてならなかったんだ。
 これまでに生きてきた二十年と半年の時間をかけて少しずつ築いてきた心の中の城が今、がらがらと音をたてて崩れさった。
「あ……」僕はもういちど首をのけぞらせて、冷たい床の上に崩れ落ちた。



 その後のことは、あまり憶えていない。
 手からも脚からも力が抜けちゃって床の上に俯せに倒れ込んだ僕の体を沙耶香がそっと仰向けにして横抱きに持ち上げた(ああ、沙耶香にしてみれば、僕の体を抱き上げるなんて雑作もないことだったんだ。それこそ、逞しい男性が初夜の花嫁を抱き上げるみたいに)ところはぼんやり憶えている。僕の体がすっと浮いて、それまで意識したこともなかった沙耶香のバストが小高い丘みたいに目の前に迫ってきたっけ。それで僕は目の遣り場に困ったような気になって、そっと首をまわしたんだ。それで僕が見たのは、フローリングの床を点々と白く汚してる幾つかの滲みだった。それは多分、僕がこぼしちゃった恥ずかしい液体だったんだろう。僕につられるように一緒に床を見おろした沙耶香がそれを目にして、「でも、精液には見えないわね。なんていうか――シーツの上に滴ってる血みたいに見えない? そりゃ、白と赤だもの、ぜんぜん違うわよ。だけど、あれは間違いなく清らかな血だと思うわ。私がおにいちゃんの処女を奪ってあげた時に溢れ出た、けがれのない血」って、唇を奇妙な形に歪めて笑っていたような気がする。
 でも、そんなことを言われても、僕は顔を赤くすることもなかったと思う。僕の頭の中を真っ白のミルクみたいな、それこそ自分の手の指も見えないくらいに濃い霧が渦巻いていて、沙耶香が口にする言葉はその霧に溶けこんでどこかへ流されて行っちゃうんだから。それだから、沙耶香が僕に言ってるのがとても羞ずかしい言葉なんだってことに気がつくこともなかったんだろう。
 そうして、搾りたてのミルクみたいなその霧は、僕自身の言葉をさえ遮って分厚いカーテンみたいに揺らめくんだ。僕は今、いったい何をしているんだろう――ここはどこだ? 僕は何をしているんだ? 僕の体はどうして宙に浮いているんだ? 僕が僕自身に向かって問いかけるそういった言葉も易々と白い霧に呑みこまれて、その行き場を失ってしまう。
 僕はその時、とろんとした目をしていたかもしれない。
 僕は……僕は、どうしちまったんだろう。
 僅かな衝撃があった。白い滲みが遠ざかってゆく。一歩、また一歩。自信に充ちた歩みでもって、沙耶香が歩いて行く。
 沙耶香は僕をどこへ連れて行こうっていうんだろう。
 頭の中に揺らめく霧が晴れる気配は微塵もなかった。



 大きな姿見の鏡の中に、少女がひとり立っていた。
 眉の少し上で切り揃えた前髪と、小さな顔をふわりと包みこむみたいにゆるやかにカーブする横髪。長い睫毛が時々ゆれて、淡いピンクの唇がちょっとだけ開いている。チェック柄のミディのスカートに、レースのボレロを組み合わせた純白のブラウスがよく映えて、とても可愛らしい感じの少女だ。
 思わず僕は、その少女に微笑みかけた。
 てんで迷うふうもなく、少女が微笑み返してくれた。僕はなんとなく嬉しくなって、手を振ってみせようとした。
 その直後だった。
「とてもお似合いよ。もう私みたいな大女じゃ着れないから、うらやましいくらいだわ」さっきからずっとすぐ側にいたらしい沙耶香が僕の顎先に指をかけて、くいっと上を向かせて言った。
 いつのまにか、少女の傍らにも大きな人影があった。少女の姉か何かだろうか、とても背が高くて、とても大きな目がらんらんと輝いている。その女性は僕にするみたいに、少女の顎先に指をかけて何か囁いていた。
 僕が少女と女性の方に目を向けるのと、助けを求めるみたいな目で少女が僕を見るのとが同時だった。
「それにしても、こんなに似合うなんてね」僕の体を、それこそ頭の先から爪先までまじまじと見まわして、沙耶香は感心したように言った。それから急に、僕の顎に指をかけていた手を僕の膝のあたりにもっていくと、ぱっと何かをたくし上げるみたいに動かしておかしそうに言った。「これを見なきゃ、誰だって信じられないでしょうね」
 鏡の中で、少女のスカートの裾がさっと翻った。
 ふわっと捲れ上がったスカートの中から現われたのは、下着を着けていない下腹部だった。そして、あまりヘアの濃くない股間に力なく垂れ下がっている情けない肉棒。
 あれは……僕の頭の中で、白い霧がようやく晴れようとしている。
 股間にあるあれは……突然吹き始めた風に流されるみたいに、白い霧の粒が激しく飛んで行く。
「ここは……」うっとりしたように姿見をみつめていた僕は突然、はっとしたように周りを見まわした。
 薄いイエローのベッドカバー、爽やかな青みがかったレースの薄いカーテン、本棚にちょこんと腰かけているヌイグルミ――それは、沙耶香の部屋に違いなかった。
 それじゃ、あの少女は。鏡の中で慌ててスカートの裾をおさえているあの少女は――僕は、おどおどした目つきで自分自身の下半身に目を向けた。
 その目に、スカートをおさえている僕の両手が映った。
「ちょっと髪の毛を手入れして薄くお化粧してあげただけでこんなに可愛いい女の子になっちゃうんだもの、私の目にくるいはなかったわ。――プレゼント、気に入ってもらえたかしら?」沙耶香がクスクス笑った。もちろん、鏡の中の沙耶香も、鏡の中の僕に笑いかけている。
「プレゼント……?」僕はおずおず訊き返した。
「そうよ。今おにいちゃんが着ている洋服――そのブラウスもボレロも、もちろんスカートも、みんな私からのプレゼント。おにいちゃんが私のものになった記念の、花嫁衣装かしらね」沙耶香は両手で僕の頬を包みこんだ。「もっとも、私が中学校の時に着ていた物ばかりだから、ちょっとお古だけど。それにしても、女の子の格好がこんなに似合うなんてね」
 沙耶香の感心するみたいな声を聞きながら、あらためて僕は横目で鏡を盗み見た。そこに映っている僕の姿は、たしかに、どう見ても女の子だった。沙耶香の中学の時の物というだけあってちょっと子供っぽいデザインの洋服だったけれど、それが、小柄な僕に妙によく似合っているように思えてしまう。
 なぜだかわからないけれど、胸がざわめいてくるみたいだった。女の子みたいに犯されて、気がつけば女の子の格好をさせられて――僕の胸の中は悔しさと恥ずかしさと情けなさとで一杯になって、それ以外の感情が割りこんでくる余地なんてない筈なのに……なのに、なんだか疼くような切ないような、この奇妙な感覚。
 顔がかっと熱くなるのがわかった。
「でも、やっぱり、花嫁衣装にしては子供っぽすぎるかもしれないわね」沙耶香は僕の頬に掌を押し当てたまま、もういちど僕の姿をじっくりと眺めまわした。そうしてすぐに、悪戯めいた笑顔になった。「うふふ、いいわ。それなら、私のお嫁さんじゃなくて妹にしてあげる。いいわね? おにいちゃん――由紀ちゃんは今日から私の妹よ」
「……」僕は何も応えない。応えられるわけがなかった。
「由紀ちゃんはとても可愛いいわ。汚らしい男たち――ママと私を棄てて出て行ったパパや、電車の中でいやらしい目で私の体を見て私の裸を想像している若い男の子たちとはまるで別の生き物よ。だからご褒美に、私の可愛いい妹にしてあげるの」ようやく沙耶香は僕の頬から手を離した。
「……」
「そうと決まったら、さ、早くパンツも穿かせてあげなきゃね。これから二人でお出かけするんだから」
「お出かけ……?」僕は呆けたように、沙耶香の言葉を繰り返した。
「そう、お出かけよ。私の可愛いい妹になってくれた由紀ちゃんをみんなに見てもらうために、ね」沙耶香は平然と言って、ベッドの上に置いてあった白いブルマーのようなパンツをつかみ上げた。
「いや……いやだ。こんな、こんな……女の子みたいな格好で外を歩くなんて……」僕は今にも消え入りそうな細い声を出して弱々しく首を振った。
「だめよ。由紀ちゃんはおねえちゃんの言うことをちゃんときくいい子なのよ。だから我儘はだめよ」沙耶香は優しそうな声で、けれど聞く者が逆らうことを絶対に許さない厳しい口調で言った。
「だって……」僕は、そう言うのが精一杯だった。沙耶香に嬲られ、沙耶香に処女を奪われた瞬間の光景が鮮やかに甦ってきた。沙耶香に貫かれたお尻がじんじん疼いた。


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