家族の肖像



 駐車場で早苗たちと別れた雅美たち家族を乗せた車は、それから十五分ほどで新居に到着した。
 荷物をおろしてすぐ、勲は車を返すためにレンタカー会社に向かった。
「じゃ、お父さんが帰ってくるまでに、私たちはご近所に挨拶まわりをすませておきましょう。お父さんと私は何度かここへ来て簡単な挨拶はしているけど、雅美ちゃんと万里子はまだだものね」
 車からおろした荷物を廊下に置いて、美智子はあらためて玄関の鍵を閉めた。
「え? この格好で行くんですか?」
 雅美は泣き出しそうな顔で言った。まさか、丈の短いサンドレスにピンクのおむつカバーという格好のまま近所の家を訪れることになるなんて思ってもいなかった。
「だって、旅行の間に着ていた洋服はお洗濯しなきゃいけないし、前のお家から送った荷物はまだ片づけてないから、着る物を探すだけで時間がかかるでしょう? もうすぐ日が暮れる頃だから、遅くなると、どこも夕飯の支度のお邪魔をすることになっちゃうじゃない。初めて顔を会わせるのに、そんなことで良くない印象を持たれると後々困るわよ」
 美智子は穏やかな声で言った。
「でも、だって……」
「だってじゃありません。早くすませておきましょう。万里子、雅美ちゃんの手を引いてあげて」
 まだ何か言おうとする雅美の言葉を遮って、美智子が先に立って歩き出した。

 訪れるのは、とりあえず両隣の家と向かいの家。その他の近所にはまた時間がある時に行けばいいでしょうということになった。
 旅行の土産を渡し、雅美と万里子が名前を言って、これからよろしくお願いしますと頭を下げるだけの簡単な挨拶で、両隣の家はすぐにすんだ。雅美も万里子も年齢は口にしなかったのだが、どちらの家の奥さんも「利発そうなお嬢さんと可愛いお嬢さんですね」と言って目を細めたところをみると、万里子の方を姉だと勝手に思い込んでいるに違いない。もっとも、それも仕方のないことだろう。一目見ただけで体つきがまるで違う上に、着ている物も、雅美の方がずっと幼いのだから。それに、雅美はスカートの丈の短さを気にしてずっとサンドレスの裾を引っ張っていたから前から見た時には気づかれなかったかもしれないけれど、後ろからだと、スカートが丸く膨らんでいるのがはっきり見える。その膨らみを目にすれば、育児の経験がある女性には、それが何なのか一目瞭然だ。どちらの家の奥さんともが雅美のことをまだおむつの外れない小さな子供だと思うのも無理はない。

 両隣を終えて、最後に向かいの島谷家。
 門柱に取り付けてあるインターフォンを鳴らして「向かいに越してきた坂上です。本日は娘を連れてご挨拶に伺いました」と美智子が言うと、すぐに玄関のドアが開いて、人の好さそうな奥さんが出てきた。そうして、ご挨拶だけですからと固辞するのを、どうぞどうぞと三人を家の中に招き入れて居間に案内する。
「本当に利発そうなお嬢さんと可愛らしいお嬢さんですね」
 座卓の前に敷いた座布団に座る美智子と万里子にはコーヒーをすすめ、雅美の目の前にはジュースのコップを置いて、島谷家の奥さんはいかにも人の好い笑顔で、両隣の奥さんと同じことを言った。
「ありがとうございます。それより、リフォーム工事の間は何かとご迷惑をかけまして申し訳ございませんでした」
 美智子は丁寧に頭を下げた。
「いいんですよ、そんなこと。お互い様なんですから。上のお嬢さんは大学生でらっしゃるのかな」
 奥さんは鷹揚に手を振って、窮屈な話はもうひとつ苦手なのか、さりげなく話題を変えるみたいに万里子の方に振り向いて言った。
「あ、いいえ、高校生です。星陵台高校の一年生です」
 実際の年齢より上に見られることになれている万里子は、微かに苦笑して応えた。
「あら、星陵台の一年生。じゃ、うちの娘の今日子と同じね」
 奥さんが驚いたように言った。
「え、今日子さん? じゃ、もしかして、同じクラスの島谷今日子さんのお家なんですか?」
 今度は万里子が驚く番だった。
 クラブは別だし、さほど親しいというわけではないものの、気づかぬうちに同じクラスの同級生の家を訪れていたのだと知ると思わず声が弾む。
「あらあら、同じクラスだったの? 一年三組の? それじゃ、せっかくだから今日子も呼びましょうね」
 奥さんは軽い身のこなしで立ち上がると、居間を出て廊下の奥に行くと、階段の上の方に向かって大きな声で娘を呼んだ。初対面の美智子や万里子の前でそんなことをするのはあまり行儀のよいことではないけれど、その開けっぴろげなところが好ましく思える。
 待つほどもなく、とっとっとっと足音が聞こえて今日子が居間に入ってきた。そうして、その背中に隠れるようにして、少女が続いて入ってくる。
「娘の今日子と明日香です。――お向かいに越してこられた坂上さんよ。ご挨拶なさい」
 二人が自分の隣の座布団に座るのを待って奥さんは言った。
 最初は緊張していた今日子が、万里子の顔を見るなり、きょとんとした顔で言う。
「え、沼田さん――沼田万里子さんじゃないの? 坂上さんって、どういうこと?」
「うふふ、驚いた? まだクラスのみんなにも言ってないんだけど、うちのお母さんと雅美ちゃんのお父さんが結婚したのよ。それで、坂上万里子になったってわけ。夏休みが終わったら最初のホームルームで先生が発表してくれることになってるんだけど、そうよね、まだ誰も知らないわよね」
 うふふと笑って万里子が応えた。
「へ〜え、そうだったの。で、雅美ちゃんていうの、新しい妹さん。よかったじゃない、沼田さん……あ、ううん、坂上さん。坂上さん、妹がほしいって言ってたよね」
 今日子は頷いて雅美の方に振り向いた。
 さほど親しいわけではないといっても、そこは年ごろの女の子だ。掃除や理科実習の準備などで同じ当番になった時はお喋りに興じてあれこれ話す。だから万里子が妹をほしがっていることを今日子が知っていても不思議ではない。ただ、今日子がなんの疑いも持たずに雅美の方が年下だと思いこんでいるのが当の雅美にしてみれば情けないだけだ。けれど、この格好でまさか本当は大学生ですと言い返すこともできない。
「そうなの、妹ができて本当に嬉しいんだ。それも、こんなに可愛い妹だもん。そういえば島谷さんは年の離れた妹がいるって言ってたよね。妹さんの名前、明日香ちゃんていうんだね」
 今日子の言葉に大きく頷いてから、万里子は、今日子の隣にちょこんと座っている少女の方を見た。
「うん、そう。ひょっとしたら同い年くらいかな。あ、でも、雅美ちゃんの方がちょっと年上かな」
 今日子は自分の妹と雅美を何度か見比べて言った。
「明日香ちゃん、お年はいくつ?」
 今日子の隣に座って興味深げに雅美の方をじっとみつめる明日香に万里子が訊いた。
「あ、あの、明日香、五つです。さくら保育園の年長クラスです」
 初対面の万里子に急に訊かれて恥ずかしそうにしながら、それでも明日香はちゃんと万里子の方に向き直って応えた。
「あ、五つで年長さんなんだ。だったら雅美ちゃんと同じだよ。雅美ちゃん、五つで、かもめ幼稚園の年長さんだもん」
 わざとらしくぽんと手を打って万里子が言った。
 余計なことは言わないでよというふうに雅美が万里子のブラウスの袖口を引っ張ったけれど、万里子は意に介するふうもない。
「え、そうなの? 雅美ちゃん、明日香と同じ五つで年長さんなの?」
 目の前にいる雅美が自分と同い年だと聞かされて、明日香はぱっと顔を輝かせた。
「よかったじゃない、明日香。これまでは近所の年中さんとか年少さんと一緒に遊んでたけど、これからは同い年の雅美ちゃんと遊べるようになるんだから」
 今日子は明日香の肩をぽんと叩いた。
「この近所、明日香ちゃんと同い年の子はいないの?」
 万里子が今日子に聞き返した。
「うん、そうなの。二丁目とか三丁目まで行けば明日香と同い年で同じ保育園に通っている子も多いんだけど、一丁目は明日香より小さい子ばかりなのよ。明日香一人で二丁目や三丁目まで行くのは危ないから、どうしても年下の子と遊ぶか、私がかまうかしてあげないといけなくて」
 今日子は軽く肩をすくめてみせた。
「じゃ、ちょうどいいわね。雅美ちゃんもよかったね、新しい街で一人ぼっちで心配だったけど、同い年のお友達がこんなに早くできて」
 旅館の予約を取るために年齢を偽った雅美。本当なら旅行が終われば再び十八歳の女子大生としての生活に戻る筈だった。なのに、雅美の意思とはまるで無関係に、新居に到着してからも五歳の幼女としての生活を余儀なくされようとしている雅美。けれど、今ここで本当は十八歳なのよと叫ぶことはできない。丈の短いサンドレスを着せられ、その下には布おむつとピンクのおむつカバーという格好で実際の年齢を口に出すことなどできるわけがない。今はただ、この羞恥に満ちた時間が一刻も早く終わるようにと祈るばかりだ。
「でも、残念だなぁ」
 いったんは顔を輝かせた明日香が、急にしょぼんとした口調で呟いた。
「え? どうしたのよ、明日香。新しいお友達ができて喜んでたのに」
 明日香の突然の変わりように今日子が怪訝な顔をして問い質した。
「だって……」
 明日香は上目遣いに姉の顔を見上げた。
「……夏休みの間はいいけど、夏休み終わったら、雅美ちゃん、別の幼稚園だもん。明日香、さくら保育園だけど、雅美ちゃん、かもめ幼稚園だもん。夏休み終わったら一緒じゃないもん」
「なぁんだ、そんなことだったの。でも、幼稚園からお家に帰ってきたらいつでも遊べるじゃない。ずっと別々になるわけじゃないわよ」
 くすっと笑って今日子が言い聞かせる。
「だって、いつも一緒がいいんだもん」
 よほど同い年の友人がほしかったのか、それとも、初めて会ったのによほど雅美のことが気に入ったのか、明日香はなおも言い募った。
「あらあら、そんなに雅美ちゃんのことを好きになってくれたの。じゃ、おばちゃんがいい方法を考えてあげましょうね」
 言い募る明日香の方に体を向けて言ったのは美智子だった。
「ほんと?」
 現金なもので、美智子がそう言うのを聞いた途端、明日香の顔が再びぱっと輝く。
「失礼ですけど、坂上さん、何かそういう関係にお知り合いでもいらっしゃるんですか?」
 明日香の明るい顔と対照的に、明日香の母親は不思議そうな表情を浮かべた。
「すみません、申し遅れました。私、かもめ幼稚園で園長を務めています。ですから、さくら保育園の園長先生や理事長先生のことを存じ上げないわけじゃないんです。幼稚園を管轄するのは文部科学省で保育園は厚生労働省の管轄と行政の上では別々ですけど、現場の人間は、同じ幼児教育に携わる者として、できるだけ活発な交流が進むよう心がけていますから。ひょっとしたら、理事長先生か園長先生にお力を貸していただけるかもしれません」
 美智子は母親の方に向き直って言った。
「でも、具体的にはどういうふうに?」
 母親は僅かに首をかしげて聞き返した。
「簡単に申し上げれば、雅美ちゃんをかもめ幼稚園からさくら保育園に転園させればいいわけです。そうすればいつも明日香ちゃんと一緒にいられるわけですから」
 なんでもないことみたいに美智子は言った。
 まさかとは思いつつ、雅美は気が気ではない。まさか本当に私を保育園に入れちゃう気じゃ……でも、まさか、そんなことできないわよね。十八歳の私を保育園に入れるなんてことできるわけがないわよね。でも、冗談を言ってるような表情じゃないし……ううん、まさか、いくらなんでも大学から保育園への転園なんて……。
「でも、そんなことができるんでしょうか」
 少し疑わしげに母親は言った。
「たしかに簡単なことではありません。幼稚園も保育園も義務教育ではありませんから、もともと、転園という制度がありません。かといって、新しく保育園に入園させるにしても、いろいろと厳しい審査が待っています」
 本来、保育園というのは、家庭の事情で両親ともが家庭にいられない子供を預かるための施設だ。今では保育園での教育内容も高度になってきて幼稚園の行事と同じようなことをするようになったため『長時間に渡って子供を預かってくれる幼稚園』というふうに見られがちだが、本来の目的があるからこそ、幼稚園が昼までしか子供を預かってくれないのに対して、保育園は保護者が迎えにくるまで夜七時を過ぎても子供を預かってくれるのだ。ただ、だからこそ、片親であるとか両親が共働きであるとか、ちゃんとした理由がなければ子供を入園させることはできない。
「そうですね。明日香を入園させる時も、私がパートに出ているから審査を通ったんです。さくらんぼ幼稚園というのも近くにあるんですけど、ここいらはどちらかというと新しい住宅地で、家のローンを返すのにパートに出る奥さんたちが多いから、幼稚園よりも、保育園に子供を預けるお宅の方が多いんですよ」
 開けっぴろげな性格の母親は、自分の家庭の事情も隠すことなく美智子に話した。
「でも、表向きはそうでも、別のルートで入園させることもできるんです。理由を表立って言えないけれど家で子供の面倒をみることができない家庭というのも少なくないんです。それに、いつも決まってパートに出るわけではないものの或る季節だけご実家の手伝いに出なければいけない奥さんという方もいらっしゃいます。入園の審査を杓子定規に当てはめると、そういう家庭の子供たちは、それこそ行き場を失ってしまいます。そんな子供たちのために、福祉事務所の審査とは別に、それぞれの園の裁量で受け入れることのできる枠があるんです。福祉事務所の方も積極的に認めているわけじゃありませんけど、黙認という形を取っています。奥様もご存知ですよね?」
 にこやかな表情で美智子は言った。
「ええ、そういうことも聞いています。審査に通らなかったらこんな方法もあるよと、仲のいい母親どうしで教え合ったりしていましたし」
 母親は頷いた。
「その制度を使ってみようと思います。もう新しい年度が始まって何ケ月も経っているから難しいかもしれませんけど、さくら保育園の理事長先生と園長先生ならなんとかしていただけると思います。もしも年長クラスが裁量枠も含めて定員いっぱいなら、年中クラスや年少クラスに入れることを考えてもいいですし」
 にこやかな表情を変えることもなく、美智子は言った。
「え? でも、いくらなんでも、それは無理でしょう? 五歳の雅美ちゃんを年中クラスや年少クラスに入れるなんて」
 少なからず驚いた顔で母親は聞き返した。
「いえ、絶対できないということでもないんです。保育園の場合は、教育施設ではなく、あくまでも保護養育施設ということになっています。ですから、一年目でこれこれを習熟し、二年目ではこういったことを習熟するといったことが決められているわけではありません。一応は年齢別のクラス割になっていますけど、各クラスごとの児童の数と保育士さんの人数との割合とか、それぞれの児童の成育具合――たとえば一人で着替えができるかできないかとか、一人でトイレをすませられるかどうかといった成育具合によってクラス割を変更することもできるんです。その制度を使えば、五歳の雅美ちゃんを年少クラスに入れることもできないわけじゃないんです」
 こともなげに美智子は母親に説明した。
「とはいっても、実際には難しいんでしょう? 成育具合なら、雅美ちゃんは体も明日香より大きいし、ちゃんと正座してお座りするくらいだからしっかりしているようですし、下のクラスに入れる理由は見当たらないようですけど」
 不思議そうな表情で母親は言った。確かに、母親が訝るのも無理はない。雅美の方が明日香よりも体が大きいのは一目でわかるし、大人みたいにきちんと正座して座布団に座っているのだから。もっとも、雅美が正座しているのは、行儀がいいという理由からではない。明日香のように体育座りをするより、正座の方が、まだスカートが広がらなくて、少しでもおむつカバーが見えにくいだろうと思ってのことだった。
「そうですね。雅美ちゃん、明日香ちゃんより体は大きいし、聞き分けのいい手のかからない子です。でも、一つだけ困ったことがあるんですよ。その困ったことを園長先生に伝えれば、年中クラスどころか年少クラスに入れることも考えていただけると思います」
 美智子は意味ありげに微笑んで万里子に目で合図を送った。
「困ったことというのは何ですの?」
 母親が座卓の上に身を乗り出すのと、美智子から合図を受けた万里子が雅美のスカートの裾に指をかけるのが同時だった。
 慌てて雅美がスカートを押さえたけれど遅かった。
 万里子が左手をさっと振り上げると、サマードレスの裾が大きく捲れ上がって、淡いピンクの生地にキャンディー柄のおむつカバーがあらわになった。
「雅美ちゃん……おむつなの?」
 明日香の一言で、サンドレスの裾が捲れ上がらないよう足が痺れるのを我慢して正座を続けてきた雅美の努力が無になった。
「これなんですよ、困ったことというのは。年長さんにもなってまだおむつが外れないんです。幼稚園でも、年長さんでおむつなのは雅美ちゃんだけなんです。だから、いっそ保育園に移るなら年中クラスや年少クラスでもいいかなと思って」
 美智子はわざとらしく溜め息をついてみせた。
「あらあら、そうだったんですか。こんなにしっかりしているようなのに、まだおむつだなんて、それはお困りでしょうね」
 同情気味に母親は相槌を打った。
「でも、いいじゃない。おむつでもいいじゃない」
 母親と美智子の会話に思わず顔を伏せる雅美を見て、少しムキになって明日香が言った。まるで、おむつ離れが遅いのをなじられる妹を庇う姉みたいだ。
「雅美ちゃんだって、おむつなの恥ずかしいんだよ。年長さんでパンツじゃないの恥ずかしいんだよ。恥ずかしいのに、そんなにみんなで困った困ったなんて言わなくていいじゃない。それに、それに――おむつの雅美ちゃん、とっても可愛いんだから」
「あ、ごめんなさいね、明日香ちゃん。ううん、おばちゃん、雅美ちゃんがおむつなの、本当は困ったりしてないのよ。雅美ちゃんがまだおむつなのが可愛くて、それでついつい面白がって言っただけなの。本当は面白がるのもいけないんだけどね」
 そう説明しながらも、雅美を庇う明日香の様子がそれこそ本当にいじらしくて可愛らしくて、ついついみんなしてじっとみつめてしまう。
「本当? 本当に困ったりしてない?」
 明日香は真剣な顔つきで美智子の顔を見上げた。
「本当ですよ。本当に、おむつの雅美ちゃんが可愛いだけですよ」
 美智子は繰り返した。
 それを聞くなり明日香は座布団からお尻を浮かせると、雅美のそばに歩いて行って、伏せたままの雅美の顔を下から覗き込んだ。
「雅美ちゃんのお母さん、雅美ちゃんがおむつだから可愛いって。本当は困ってないって。よかったね、雅美ちゃん。だから顔を上げてちょうだい」
 雅美のそばに膝立ちになってさかんに雅美を慰める明日香。雅美の近くに寄ってくる少女たちが一人の例外もなく雅美を妹扱いするのは、雅美が持つ雰囲気のせいだろうか。
「あ、そうだ。雅美ちゃん、トイレへ行きたくない? おしっこしたくない? 明日香が連れて行ってあげるから、トイレへ行こうよ。トイレでちゃんとおしっこできたら、おむつなんてバイバイできるよ」
 なかなか顔を上げない雅美を気遣って、明日香がそんなことを言い出した。
「そうね、それがいいかもしれないわね。おむつカバーを見られたのが恥ずかしいなら、ちょっと歩いて気分を変えた方がいいかもしれないわね。明日香、雅美ちゃんを連れて行ってあげなさい」
 その場の雰囲気を変えようとでもするみたいに今日子が言った。
「ほら、いつまでもぐずってないで、明日香ちゃんに連れて行ってもらいなさい。ミモザでもおしっこはしてないから、もうそろそろでしょ?」
 時計を見て万里子も言った。
 たしかに、最後のパーキングエリアで紙おむつを取り替えてもらってから、まだトイレへ行っていない。本当は新しい家のトイレへ行くつもりだったのに、殆ど家の中へ足を踏み入れることもなく挨拶まわりに連れ出されたものだから、もう我慢も限界に近い。それでも、気の弱い雅美としては初めて訪れた家でトイレを借りるのが躊躇われて、正座をした両脚の内腿をすり合わせて辛抱していたのだ。
 周りから何度も促され、万里子に手を引かれて雅美はようやく立ち上がった。
 けれど、居間の出口に向かって歩き出そうとした途端、正座を続けてきたせいでひどく痺れた両脚が思うように動かせなくて、そのまま大きな音をたてて尻餅をついてしまう。
 万里子が右手を引いていたから上半身は起こしたままで頭を打たずにすんだのは幸いだったけれど、雅美の顔には、言いようのない絶望的な表情が浮かんでいた。それは、痛みに耐える顔つきなどではなく、もっと屈辱と羞恥に満ちた表情だった。
「大丈夫? 雅美ちゃん、大丈夫?」
 慌てて明日香がすぐそばに膝をついて、倒れた拍子に捲れ上がってしまったスカートの裾のことも意識していないかのような、どこか遠くをみつめるような目をした雅美の顔を覗き込んだ。
「万里子お姉さん、雅美ちゃん、大丈夫? 雅美ちゃん、痛いの?」
 それまで握っていた雅美の手を離して様子を窺っている万里子に明日香はひどく心配そうに尋ねた。
「大丈夫よ。怪我はしていないわ。ただ……」
 万里子は明日香にそう応えて、スカートの裾が捲れ上がって殆ど丸見えになっているおむつカバーの中に右手を差し入れた。
「……おしっこは大丈夫じゃなかったみたいね。せっかく明日香ちゃんがトイレに連れて行ってくれるところだったけど、間に合わなかったみたい」
 雅美のおむつカバーから抜いた右手の指をハンカチで拭いながら万里子は言った。
「雅美ちゃん、おしっこ出ちゃったの? おむつ、おしっこで汚しちゃったの?」
 明日香は万里子の顔を見上げて訊いた。
「そうね。もう少し早かったら間に合ったかもしれないけど、駄目だったみたい」
 万里子は小さく頷いた。
 万里子の言う通り、もう少し早かったら、尻餅をついた衝撃も我慢してしくじることもなかったかもしれない。でも、それは『もしも』の話だ。現実に五人の目の前にいるのは、倒れた衝撃でおしっこを溢れ出させておむつを濡らしている雅美だった。

「でも、どうしようかしら。こんなことなら替えのおむつを持ってくるんだったわね」
 雅美のおしっこが全部出てしまった頃を見計らって美智子がぽつりと呟いた。
「あら、お持ちじゃないんですか、替えのおむつ?」
 美智子の言葉を耳にした母親が、確認するみたいに聞き返した。
「ええ、すぐに帰るつもりで出てきたものですから」
 美智子は困ったように応えた。
「すみません。私が引き留めてしまったものだから」
 母親が恐縮顔で頭を下げた。
「あ、いいえ、そんなことはありません。お家に上げてもらったおかげで万里子はお友達に会えたんですし、雅美ちゃんは新しいお友達ができたんですから」
 美智子が慌てて手を振る。
「そう言っていただけると助かります。でも、このままではお困りですね。いくら近いとはいっても濡れたおむつのまま帰すのは雅美ちゃんが可哀想だし。あの、少しだけお待ちいただけますか。すぐに用意してきますから。――今日子、お母さんと一緒に来てちょうだい」
 倒れた格好のまま今にも泣き出しそうにしている雅美の姿をちらと見て、母親はそう言い残すと、居間から走り出て小走りに廊下の奥に消えた。それに続いて、今日子も小走りでついていく。

 ほどなくして戻ってきた母親と今日子は、両手でダンボール箱を一つずつ抱えていた。
「これを使ってください。押入から出した時に念のために蓋を開けて様子を見てみたんですけど、埃一つ付いていませんでしたからから」
 母親は美智子の目の前にダンボール箱を置くと、いそいそと蓋を開けてみせた。
「何なの、お母さん?」
 それまで雅美に寄り添っていた明日香が、いかにも子供らしく好奇心には勝てないといった感じでダンボール箱の中を覗き込んで、中から一枚の布をつかみ上げた。
「あ、これ、おむつだ。明日香んちにおむつなんてあったの?」
 箱の中から自分がつかみ上げたのが動物柄の布おむつだとわかると、少し不思議そうな顔をして美智子に言った。
「そうよね、いくらなんでも、自分が赤ちゃんの時に使っていたおむつなんて憶えてないわよね」
 明日香の顔と布おむつを見比べて、面白そうに母親が言った。
「え? これ、明日香が赤ちゃんの時のおむつなの?」
 思ってもみなかった母親の言葉に、明日香が少しだけ頬を赤くして驚きの声をあげた。
「そうよ。今日子お姉ちゃんが赤ちゃんの時に使っていたおむつは親戚の子にあげちゃったけど、明日香のおむつはこうして取ってあるのよ。どこか近所で赤ちゃんができたらあげようと思ってたんだけど、裏のお家の美保ちゃんができた時は、すぐ上のお姉ちゃんの詩織ちゃんが使ってたのが残っていたから要らなくて、それでまだこうして残っているの」
 母親は、明日香が箱から取り出した布おむつを受け取ると、明日香の目の前でさっと広げて言った。
「でも、ずっと置いていても仕方ないから雅美ちゃんにあげようと思うの。雅美ちゃんにあげてもいいかな、明日香?」
「うん、いいよ。雅美ちゃん、おむつ汚しちゃったのに新しいおむつ持ってきてないんでしょ? だったら、明日香のおむつをあげる。濡れたおむつのままだなんて、雅美ちゃん可哀想だもん」
 まるで迷いもせずに明日香は応えた。なんだか、自分が赤ん坊の頃に使っていたおむつが今度は新しい友達のお尻を包み込むのが嬉しくてたまらないといったふうだ。
「ということですから、どうぞお使いください」
 母親は、ダンボール箱から一抱えの布おむつを取り出して床に広げた。
「それから、荷物になって申し訳ないんですけど、箱の中のおむつもお持ち帰りください。おむつなんて、いくらあっても邪魔にはなりませんから」
「それじゃ、お言葉に甘えて頂戴します。――万里子、雅美ちゃんをねんねさせてあげて」
 肌触りをたしかめながら布おむつを五枚手早く重ねて美智子は言った。
「いや、こんな所でおむつなんていや!」
 それまで押し黙っていた雅美が、美智子の言葉を聞くなり、涙声で叫んだ。
「我が儘言っちゃ駄目よ、雅美ちゃん。濡れたおむつのまま歩いたりしたらおむつからおしっこが漏れ出して畳も廊下も汚しちゃうんだから。それに、ほら、明日香ちゃんが可愛いおむつをくれたのよ。雅美ちゃんに似合いそうな可愛いおむつだから、ほら、早く取り替えましょうね」
 あやすように美智子は言い聞かせた。
 けれど、雅美は激しく首を振って、おむつはいや〜!と叫ぶばかりだ。
「今日子、そっちの箱もおろしてちょうだい」
 手足をばたばたさせる雅美の姿を見て、母親は、かたわらに立つ今日子に言った。
「ああ、この箱の中に入ってるのであやしてあげるのね」
 今日子は頷いてダンボール箱を畳の上におろすと、蓋を開けて明日香に手招きした。
「明日香、どれでもいいから、ここに入ってるのを使って雅美ちゃんがぐすらないようあやしてあげるのよ。私より、同い年の明日香があやしてあげた方が雅美ちゃんも喜ぶと思うわ」
「何が入ってるの? ――あ、すっご〜い。これも明日香が赤ちゃんの時のかな」
 今日子に手招きされるままダンボール箱の中を覗き込んだ明日香は、ぱっと顔を輝かせると、嬉しそうに箱の中に両手を突っ込んで、プラスチックでできたガラガラを取り出した。
「そうよ、明日香が使っていたオモチャも取っておいたのよ」
 母親が目を細めて応えた。
「じゃ、明日香があやしてあげるね。ほら、雅美ちゃん、泣いちゃ駄目でちゅよ。お姉さんにおむつを取り替えてもらう間、いい子にしてなきゃ駄目でちゅよ。ほぉら、がらがら〜」
 半ば強引に畳の上に寝かしつけられ、それでもまだ起きあがろうとする雅美の顔の上で明日香がガラガラを振った。いつまでもおむつ離れできなくて自分の目の前でおむつを汚してしまい、自分が赤ちゃんの時に使っていたおむつに取り替えられようとしている雅美のことを自分よりもずっと年下だと思うようになってきたのか、いつのまにか幼児言葉であやし始めている。
 からころからころ。
 からころからころ。
 優しい音色が居間の空気を震わせた。
「ほら、年長さんの明日香お姉ちゃんがあやしてくれてるんだから、いい子にしてまちょうね。おむつを取り替える間、おいたは駄目でちゅよ」
 雅美の肩を押さえつけながら、明日香に合わせて幼児言葉で美智子が言った。
「年長さんの明日香お姉ちゃん? でも、雅美ちゃんも年長さんだよ?」
 雅美に向かってさかんにガラガラを振ってみせながら、明日香が、美智子の言葉に不思議そうな顔をした。
「ううん、やっぱり雅美ちゃんは明日香ちゃんより小っちゃい子よ。こんなに大勢の人のお世話にならなきゃおむつも取り替えさせてくれない聞き分けのない子は、さくら保育園に入っても年長さんになるのは無理だと思うわ。年長さんは、下の子たちのいいお手本にならなきゃいけないのに、雅美ちゃんは我が儘言ったりぐずったりするばかりだもの。だから、さくら保育園に入る時は年少さんからやり直してくれるよう園長先生や理事長先生にお願いします。年少さんだもの、年長さんの明日香ちゃんがお姉ちゃんでいいのよ」
 まんざら冗談を言っているとも思えない表情で美智子が言った。
「いや、年少さんなんていや。雅美、年少さんなんかじゃない」
 ひどい不安を覚えて、雅美は、すぐ目の前にある美智子の顔に向かって叫んだ。
「でも、仕方ないでしょ? いつまでもおむつが外れない上にこんなに聞き分けのない子を年長さんのクラスに入れられるわけがないもの。理事長先生と園長先生にちゃんと事情をお話して、雅美ちゃんにお似合いのクラスに入れてもらうから心配しなくていいんでちゅよ」
 美智子は軽く首を振って言った。そうして、雅美の耳元に唇を近づけて、明日香や今日子には聞こえないよう声をひそめて続ける。
「今日と明日、一度でもおむつを汚したらパンツは返してあげないわよって約束したでしょ? だから雅美ちゃんはこれからずっとおむつなのよ。でも、そうなると、夏休みが終わると困るわね。おむつのまま大学に行かなきゃいけないんだもの。――ああ、だけど、村野のお姉さんにおむつのお世話をお願いしておけばいいかしら。お父さんとは研究室が隣どうしだし、旅行の間にすっかり仲良しになったから、喜んでお世話してくれるでしょう。そうね、そうしましょうか」
 そういう美智子の言葉に、雅美は激しく首を振った。
「そう、いやなの。でも、夏休みが終わったら万里子も高校だし、雅美ちゃんのお世話をできる人がお家にはいないもの、ちゃんとした所に預かってもらわなきゃね。大学へ行くのがいやなら、やっぱり、さくら保育園に入るしかないわね。大丈夫、お母さんにまかせておけばちゃんとしてあげるから心配しなくていいのよ。本当は年齢を確認するために住民票とかを出さなきゃいけないんだけど、そんなこと、顔見知りの理事長先生と園長先生がきちんと手をまわしてくださいますからね。だから、雅美ちゃんは、ちゃんと五歳児として入園できますよ。五歳だけどおむつが外れないから年少さんクラスに入れてもらえるんですよ。よかったわね」
 その言葉に雅美がいっそう激しく首を振ろうとするのを、美智子が雅美の頬を両手の掌で包みこむようにして動けなくしてしまう。けれど、それは、あくまでも雅美を優しくいたわるような手の動きだったから、美智子が雅美に何を話しかけて雅美がどんな反応をしめしたのか、本当のところに気づく者は一人もいなかった。
「おばちゃん、雅美ちゃんと何をお話していたの?」
 激しくかぶりを振った後、急におとなしくなった(正確にいえば、おとなしくさせられてしまった)雅美の様子を見て、きょとんとした顔で明日香が尋ねた。
「最初はね、夏休みが終わったら明日香ちゃんと別々の幼稚園に行かなきゃいけないね、それでもいいのって訊いてみたの。そうしたら、そんなのいやだって」
 笑顔で美智子は言った。
「あ、それで、首を振ってたんだね」
 明日香はガラガラを振りながらこくんと頷いた。
「そうよ。それで、さくら保育園に入れるようにしてあげようねってお話してたの。もちろん、雅美ちゃん、大喜びしてくれたわよ」
 まるっきりの嘘ではない。嘘ではないけれど。
「ふぅん。でも、雅美ちゃん、なんだか泣きそうな顔してるよ。明日香と同じ保育園に入るの、本当は嬉しくないのかな」
 すぐそこにある雅美の顔を見おろして、明日香は小さく首をかしげた。
「そんなことないわよ。雅美ちゃん、明日香ちゃんと同じ保育園に行けるのが嬉しくてしようがないの。でも、そうすると、かもめ幼稚園のお友達とさよならしなきゃいけないでしょう? それがちょっと寂しいだけなのよ」
 美智子は相変わらずの笑顔で言った。
「あ、そうなんだ。そうだよね、今の幼稚園のお友達とさよならしなきゃいけないの、寂しいよね。だけど、大丈夫だよ。明日香もいるし、早苗ちゃんもいるし、美保ちゃんのお姉ちゃんの詩織ちゃんもいるよ。すぐに仲良くなれるから大丈夫だよ」
 明日香はちょっと考えて、そう言いながらガラガラを振った。
「ね、明日香ちゃん。その早苗ちゃんとか美保ちゃんのお姉ちゃんの詩織ちゃんって、同じ保育園の子?」
 ミモザにある子供服専門店で耳にした名前が明日香の口から出てきたのを万里子は聞き逃さなかった。ひょっとして別の子かもしれないけどと思いつつ、雅美のおむつを取り替えながら訊いてみる。
「うん、そうだよ。詩織ちゃんと美保ちゃんちは明日香のお家のすぐ裏だし、早苗ちゃんのお家は詩織ちゃんちのお隣で、早苗ちゃんも詩織ちゃんも保育園の年中さんなの」
 早苗が試着室で言った「お隣の美保ちゃん」という言葉と、「さくら保育園の年中さん」という言葉。あの子供服専門店で出会った早苗という少女もすぐ近くに住んでいて、さくら保育園に通っているのは間違いなさそうだ。
「そう、そうだったの、早苗ちゃんのお家、すぐそこだったのね」
 雅美のお尻を明日香からおさがりでもらった動物柄の布おむつで包みこみ、おむつカバーの横羽根でしっかり留めながら、万里子はにっと笑った。もう雅美の逃げ場はどこにもない。両隣の住人は雅美のことを万里子の小さな妹だと思いこんでいるのは明らかだし、今日子の家族は雅美のことを明日香と同い年の少女――それも、まだおむつのとれない幼女だと信じている。その上、子供服専門店で雅美の紙おむつ姿を目にした早苗まで近所に住んでいるのだ。今さら雅美が本当の年齢を告げても、「小さい子は自分のことをお姉ちゃんだと思いたがるからそんなことを言ってるのね」と、まともには取り合ってもらえないだろう。またどこかに引っ越しでもしない限り、この町で生活する限り、雅美は万里子の幼い妹として生活することを運命づけられたのだ。
「よかったでちゅね、雅美ちゃん。さくら保育園に入る前からたくさんのお友達と出会えたんだもの。これで、夏休みが終わって保育園に行くようになっても、知らない顔ばかりじゃないんでちゅよ。だから、もう、寂しがらなくてもいいんでちゅよ」
 万里子はそう言って、おむつカバーの前当てを横羽根に重ねてマジックテープで留めてから、おむつカバーの裾からはみ出ている布おむつを優しく押し込んだ。




 美智子が布おむつの入った箱を抱え、万里子がオモチャの入った箱を持ち、自分が汚した布おむつを入れたビニール袋を手に提げた雅美が島谷家から自分たちの新しい家に戻った時には、もう勲が帰ってきているようで、門柱にも玄関にも明かりがともっていた。
「ただいま帰りました。遅くなってごめんなさい」
 美智子は、門柱に取り付けてあるインターフォンのボタンを押して言った。
『ああ、お帰り。今あけるよ』
 インターフォンのスピーカーから勲の声が聞こえて、待つほどもなく玄関のドアが内側から開いた。
「おやおや、どうしたんだい。ご近所へ挨拶まわりを兼ねてお土産を持って行ったんじゃなかったのかい? なのに、逆に何かもらってきたみたいだね」
 勲は三人の姿を見るなり、なんだか呆れたような顔で言った。
「ええ、旅行のお土産はちゃんと渡してきたんですけどね、島谷さんのお宅で、代わりのお土産をいただいちゃって」
 苦笑気味に美智子が応えた。
「代わりのお土産?」
「ええ、そうなんです。雅美ちゃん、お父さんにお見せしなさい」
 美智子は、一番後ろをとぼとぼ歩いてきた雅美を勲の目の前に押し出した。
「どんなお土産をもらってきたのかな。お父さんに見せてごらん」
 大学生の娘にというより、美智子や万里子に合わせて、それこそ幼稚園児に対するような口調で言って、勲はビニール袋に右手を伸ばした。
「いや、見ちゃ駄目!」
 雅美は慌ててビニール袋を胸元に抱きかかえた。
「あらあら、駄目じゃない、雅美ちゃん。せっかくのお土産を隠したりしちゃ」
 雅美が両手で胸元に抱きかかえたビニール袋を、万里子が後ろからさっと右手を伸ばして取り上げ、勲に渡してしまう。
「はい、お父さん。雅美ちゃんのとっておきのお土産」
「駄目だったら駄目なの。中を見ないでってば!」
 雅美は甲高い声で叫んだが、ビニール袋を取り戻そうにも手が届かない。
「雅美がもらったとっておきのお土産か。どれどれ――」
 言いながらビニール袋の中を覗き込んだ勲の顔が微かにこわばった。車の中で雅美がパンツタイプの紙おむつを穿かされ、それを何度も汚してしまうところは勲も見ている。けれど、それは、渋滞のせいだから仕方ないと思っていた。なのに、まさか、近所への挨拶まわりの途中でおむつを汚してしまうなんて、そんなこと思いもしなかった。美智子と万里子に雅美を子供の頃に戻してやってほしいと依頼したものの、まさか、これほどのことになろうとは想像もしていなかった。
 とはいえ、今更そんなことはやめさせようと思い直すわけでもない。どんな事情があったにせよ、トイレへ行く機会はあったに違いない。なのに、それでもおむつを汚してしまった雅美だ。本当におむつを汚すのが嫌なら、十八歳にもなって恥ずかしい失敗をしてしまうのが嫌なら、ちゃんとトイレへ行くことができた筈だ。なのにそうしなかったのは(自身は、そうできなかったんだと思っているにせよ)雅美自身が無意識の心の奥底に、おむつに心惹かれている部分を隠し持っているのかもしれないと直感したたからだ。小さい頃に母親を失って、新しい母親ができた今になってその代償を、母親に甘えるという行為の象徴を、おむつに求めるようになったのかもしれないと。
「あなたもご存知でしょうけど、幼稚園や保育園でおもらししちゃった子が濡れたパンツをビニール袋に入れて持って帰るのを『お土産』と呼んでいます。だから、これが雅美ちゃんのお土産なんですよ」
 しれっとした顔で美智子が言った。
「なるほど。で、二人が持っているダンボール箱は?」
 苦笑しながら勲は言った。
「これは雅美ちゃんのお土産のオマケみたいなもんかな。お向かいの島谷さんが雅美ちゃんにって」
 万里子が、自分の持っているダンボール箱を勲の目の前に差し出した。
「オマケね。何だろう」
 手早く蓋を開けてダンボール箱の中を見た勲は、少しばかり呆れたような顔になった。それから美智子が持っている箱の中を覗きこんで、ぽりっとこめかみを掻く。
「たしかに、雅美のお土産のオマケだね、これは。せっかくいただいたんだから、大切に使うといい」
 やはり苦笑気味に勲は言った。
「うん、そうする。せっかく明日香ちゃんが雅美ちゃんにおさがりでくれたんだもん。ね、雅美ちゃん」
 薄く黄色に汚れた布おむつを勲に見られて顔を伏せている雅美に、万里子は明るい笑顔で言った。
「やだ……」
 顔を伏せたまま雅美がぽつりと呟いた。
「やだ。おむつなんて、もう、やだ」
「だって、仕方ないでしょう? ちゃんと約束したんですから。今日と明日のうちに一度でもおむつを汚しちゃったら、これからずっとおむつだって約束したんですからね」
 雅美の言葉を聞き咎めた美智子が強い調子で言った。
「だって……」
「だってじゃありません」
 美智子は雅美の言葉を遮った。
「……お父さん、お父さんからお母さんに言ってよ。私は小っちゃな子供じゃないんだからおむつなんて要らないって。私、大学生なんだから……」
 雅美は力なく顔を上げると、勲の顔を振り仰いだ。
「でも、約束は約束だから」
 勲は素っ気なく応えるだけだった。
 雅美の顔がこわばった。誰も私の言うことなんてきいてくれない。そう思うと、身も世も無いほど情けなくなってくる。情けなくなって、ひどく感情が高ぶってくる。
「馬鹿! お父さんの馬鹿! お父さんなんて大っ嫌いだ!」
 高ぶった感情にまかせて、これまで口にしたことのない言葉が雅美の口をついて出た。
 勲が困ったような顔になる。それとは対照的に美智子はこれほどはないくらい真剣な顔つきになって雅美に言った。
「なんですか、その言い方は。ちゃんとお父さんにあやまりなさい」
「どうして私があやまらなきゃいけないのよ。だいいち、あなたは私のお母さんじゃないのよ。それなのに、どうしてあなたから指図されなきゃいけないのよ!」
 叫ぶように雅美は言い返した。
「お母さんのことを『あなた』だなんて――わかりました。言ってもわからない子には体で覚えさせなきゃわからないみたいですね。聞き分けのない子は、ここに立って反省してなさい!」
 美智子は、これまで聞いたことのないような強い口調で言った。そうして、二人のやり取りを心配顔で見守っている勲と万里子を家の中に入らせると、自分もさっさと玄関に入って、内側からばたんとドアを閉めてしまった。
「あ……」
 鍵を閉める音が聞こえて、独り残されたことに気づいた雅美は、どこか呆然とした顔で玄関のドアをみつめるばかりだった。




 玄関の外に取り残されてもう一時間半近くも経つだろうか。夏とはいえ、日が暮れると肌寒い風が吹く日もある。そんな中、薄いサンドレスしか身に着けていないから、体もだんだん冷えてくる。
 ちゃんとした格好さえしていれば、大学の友人の家にでも身を寄せることもできるだろう。けれど、幼女が着るようなサンドレスとおむつカバー姿ではどこへ行くこともできない。いよいよ立っているのも辛くなってきた雅美は、自分で自分の肩を抱いて玄関の前に座りこんだ。
 そうして、ふと、小さい頃に母親をなくしたためにこれまで一度もこんなふうに叱られたことがないことに気がつく。もともと男親は女の子に甘いところにもってきて母親を失った寂しさを味わわせまいとして、勲は雅美を叱ったことが殆どない。ましてや、こんなふうに玄関の外に放り出されたことなど一度もない。それが今になってこうして独り玄関の外に取り残されると、なんだか妙に切ない思いがしてくる。まるで本当の幼児みたいに叱られ、聞き分けのない子は外で反省しなさいと言って玄関の外に独り取り残されて、本当なら惨めになるばかりだろう。自分が惨めになって情けなくて、その惨めさに下唇を噛んで耐えるばかりだろう。なのに、こうして玄関の外に放り出されて、なんだか、妙に甘酸っぱい感情が胸の中に湧き上がってくるような気さえするのも事実だった。なんだか、母親が生きていれば小さい頃にこんなふうに叱られたのかなと思うと、鼻の奥がつんと痛くなってくる。

 不意に、涼しいというより冷たいといった方がいいような風がさっと吹いて、さっきから我慢している尿意がますます高まってきた。雅美はぶるっと体を震わせて身を縮めた。
「雅美ちゃん、そんな所で何をしてるの!?」
 突然、聞き覚えのある声が雅美の耳に届いたかと思うと、こちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。足音は二つ。
 玄関の前にうずくまったまま顔を上げた雅美の目に映ったのは、今日子と明日香の姿だった。自分の家から慌ててとんできたらしい姉妹が雅美の目の前に立っていた。
「……」
 雅美は何も応えず、ただ弱々しく首を振るばかりだ。
「ひょっとして、お母さんに叱られちゃったのたのかなぁ? 何かいけないことをして叱られて、それで玄関の外に出されちゃったのかなぁ?」
 うなだれた雅美の様子に、今日子がわざとおどけた口調で言った。
 悪いことをしたわけではない。だから、叱られるというのは当たっていないと雅美は思った。けれど、傍目にはそうとしか見えないのだろう。母親に口ごたえをするとか、何か悪戯をしでかして、その罰として玄関の外に放り出されたと思われるのが普通なのだろう。
「私も小さい頃、こんなふうに放り出されたことが何度かあるわ。心細くて泣いちゃって、でも、意地になって絶対にあやまらなくて。だけど、後になって考えてみれば自分が悪いことをしたからだってわかって」
 今日子は昔を思い出すような目になって雅美のすぐ前に立つと、雅美の両脇の下に掌を差し入れて、そっと抱き起こした。
「今夜は月がとても綺麗だっていうから明日香と一緒に玄関に出てみたら雅美ちゃんがうずくまってるんだもの、びっくりしちゃった。今夜は冷えるからそんな格好のままだと体に良くないわよ。私も一緒にあやまってあげるから、雅美ちゃん、ちゃんとお母さんにごめんなさいしようね。ごめんなさいして、お家の中に入れてもらおうね」
 雅美が立ち上がると、今日子は、雅美の体をぎゅっと抱き寄せて、背中を何度も優しくさすりながら言った。
 すっかり冷え切った体に今日子の体温があたたかい。そのぬくもりに触れた途端、雅美の両目から涙が堰を切って溢れ出した。
「雅美、わるいことなんてしてないよ。いけないことなんてしてないよ。なのに、お母さんが、お母さんが……え、え〜ん、ふぇ〜ん……」
 唇を噛みしめてこらえていた涙は、いったん溢れ出すと、もうどうにも止まらなくなる。
「雅美、悪い子じゃないもん。なのに、なのに……うう、ひ、ひっく……」
 雅美は今日子の腰にしがみついた。
「雅美、雅美……えぐ……今日子おねえちゃ〜ん、雅美、悪い子じゃないよぉ」
 今日子のぬくもりに包まれて、思わず雅美は今日子のことを『おねえちゃん』と呼びながら、まるで本当の幼児のように泣きじゃくった。
「そうよ、雅美ちゃんは悪い子じゃないわ。ただ、ちょっと聞き分けがよくなかっただけかもしれないね。だから、ちゃんとごめんなさいしましょう。雅美ちゃんはいい子ね。だから、もっといい子になるよってごめんなさいしましょう。お姉ちゃんも一緒だから、ちゃんとできるよね?」
 今日子は雅美の背中を掌でとんとんと叩いた。
「うん……雅美いい子だから、ちゃんとごめんなさいする」
 今日子に言われて、なぜだか胸の中を温かいものが満たすような感覚を覚えて、雅美はこくんと頷いた。すると、なんだかこれまで張りつめていた糸がぷつんと音をたてて切れるような感じがあって、体中の力が抜けてゆく。知らず知らずのうちに、膀胱の緊張も解けてしまう。
 生温かい液体がじわっと広る感触がお尻の方から伝わってきた。
 雅美の体がびくんと震える。
「どうしたの、雅美ちゃん?」
 自分の腰にしがみつく雅美の手が小刻みに震え出すのを感じて、今日子は雅美の顔を覗き込んだ。けれど雅美は、目を合わすまいとするかのように今日子のお腹に顔を埋めてしまう。その様子に何か思いあたるふしがあるらしく、今日子は、それまで雅美の背中を優しく叩いていた右手を、雅美の左右の内腿の間に差し入れた。
 おむつカバーの生地を通して、温かな流れが迸る感触が今日子の掌に微かに伝わってきた。
「明日香、インターフォンのボタンを押して雅美ちゃんのお母さんを呼んでちょうだい。それで、雅美ちゃんがおむつを汚しちゃったって伝えて」
 今日子は掌に雅美のおしっこの感触を感じながら、すぐ横にいる明日香に言った。
「うん、わかった」
 明日香はこくんと頷くと、門柱に走り寄って、爪先立ちで手を伸ばした。
 人差し指の先がかろうじてインターフォンのボタンに届いた。
『はい、どちら様でしょうか』
 スピーカーから美智子の声が流れ出す。
「あの、あの、明日香です。島谷明日香です。おばちゃん、玄関に出てきてください。雅美ちゃん、おむつ汚しちゃってるんです」
 自分の頭より高い所にあるインターフォンに向かって、明日香は叫ぶように言った。
「あら、明日香ちゃん。そのことを教えてくれるためにインターフォンのボタンを押してくれたの? ごめんなさい、すぐに開けるわね」
 思いがけない来客に少し戸惑ったような口調ながらも、美智子はそう応えると、すぐに玄関のドアを開けて顔をのぞかせた。
「あ、おば様。雅美ちゃんが……」
 玄関に姿を見せた美智子に、今日子が慌てて言った。
「ごめんなさいね、すっかり二人のお世話になっちゃったみたいで。雅美ちゃん、おしっこなんですって?」
 美智子は、雅美の内腿の間に右手を差し入れたままの今日子のかたわらに立って言った。
「ええ、我慢できなかったみたいで。それに、長い時間ここにいたんでしょうか、すっかり体が冷えきっているみたいなんです」
 右手をそっと引き抜いて今日子が応えた。
「どんな様子?」
 今日子に言われて、美智子は雅美の手をそっと握った。それから、額に掌を押し当てる。
「本当ね、いくらなんでも少し冷たすぎるみたいね。ごめんなさい、雅美ちゃん。こんなに長い間お外にいさせるつもりはなかったのに、本当にごめんなさい。さ、お家の中に入りましょう。お家に入っておむつを取り替えましょうね」
 美智子は雅美の肩を抱いた。
「ほら、雅美ちゃん。今のうちにちゃんとお母さんに」
 今日子が雅美の耳元で囁いた。
「あ、あのね……」
 今日子に言われて、雅美がおずおずと美智子の顔を見上げた。
「ん、どうしたの、雅美ちゃん?」
 雅美を玄関に独り残した時とはまるで違う、にこやかな表情で美智子は雅美の顔を覗き込んだ。
「あのね……ごめんなさい。雅美、いい子にします」
 屈辱を覚えないわけがない。幼児みたいに叱られて幼児みたいにあやまるのだから、羞恥で胸が張り裂けそうになる。なのに、ごめんなさいという言葉を口にした途端、なんだか、胸がきゅんと締めつけられるみたいな、顔がかっとほてるみたいな、心臓がどくんと高鳴るみたいな、なんとも言いようのない切ない感覚を味わったのも本当だ。それが、小さな子供が叱られて親にごめんなさいした時の感覚なのかどうか、それは雅美にはわからない。わからないけれど、いい子にしますという言葉を口にすると、なぜとはなしに甘酸っぱい気持ちになるのだった。
「そう、いい子になるのね。でも、雅美ちゃんはいつもいい子だったわよ。だから、もっといい子になるのね」
 今日子が雅美を慰めて言った言葉を知ってでもいたかのように、美智子はにこやかな笑顔で言った。
 よかったねというふうに今日子が雅美にウィンクしてみせる。それを真似て明日香もウインクしてみせようとしたけれど、どうしても片目だけをつぶることができなくて、ついつい両目を閉じてしまう。
「うん。雅美、もっともっといい子になる」
 明日香が両目を閉じてしまったのを見てくすっと笑いながら、雅美は美智子の顔を振り仰いだ。
 途端に、周りの景色がぐにゃりと歪んで見えて、ふっと意識が遠のいた。
「雅美ちゃん、どうしたの、雅美ちゃん」
 ぐにゃりと崩れ落ちる雅美の体を両手で支えながら、美智子は何度も呼びかけた。
「雅美ちゃん、雅美ちゃんてば」
 今日子も明日香も慌てて雅美のもとに駆け寄って名前を呼び続けたけれど、雅美は真っ蒼な顔をしてぶるぶると体を震わせるばかりだった。



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き