満たされた欲求・それから



 思わずその場に崩れ落そうになる雅美。
 その体を母親がさっと両手を伸ばして後ろから支えた。
「ほら、あんよは上手。さ、ちゃんと立っちしてごらん」
 本当に幼児に向かって言うように、雅美の腰を両手で支えた母親が言って、自分の体ごと、ガラガラを振っている智恵美の方に押し出した。
 おぼつかない足取りながら、やっとのことで一歩だけ前に進む雅美。そんな雅美を励ますみたいに盛んにガラガラを振り鳴らす智恵美。たしかに、傍目には、ようやくよちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊にあんよの練習をさせている仲睦まじい家族としか映らないだろう。まさか赤ん坊と母親が実は高校の同級生で、赤ん坊の体を支えている祖母が本当は母親なのだと思う者はいないだろう。
 実際、砂場で子供を遊ばせていた若い母親も、三人の正体にはまるで気がつかなかった。気づかないながら、ガラガラの軽やかな音が聞こえて、その音に続いて「ほら、あんよは上手」という声が耳に届いたものだから、ふと興味を抱いて芝生の方に振り向いただけだ。
「あ、あかちゃんがあんよのおけいこしてる。いってみようよ、ママ」
 小さなスコップで砂場の砂を掘り返していた子供にもガラガラの音が聞こえたのだろう、母親と殆ど同時に振り向いたかと思うと、ぱっと顔を輝かせて、さっと立ち上がった。年齢は三歳ちょっとといったところだろうか、愛くるしい顔立ちをした女の子だ。
「駄目よ、邪魔になるから」
 たしなめるように言って母親は子供を押しとどめようとしたが、この年齢の子供は親が思っているよりも活発に動きまわれるようになっていて、母親が伸ばした手を簡単に避けると、元気よく、たたたっと駆けだした。
「おばちゃん、あかちゃんのママ? あかちゃん、あんよのおけいこなの?」
 あっと思う間もなく智恵美のすぐそばに駆け寄った子供は、まるで遠慮するふうもなく智恵美の顔を見上げて言った。
「え? ええ、そう、あんよのおけいこよ」
 突然のことに驚きの色を隠せず、智恵美は少しばかりしどろもどろになりながら応えた。
「わたし、ちか。あかちゃん、おなまえは? わたし、みっつ。あかちゃん、おとしは?」
 驚きながらも智恵美が返事をしてくれたことに気をよくしたのか、子供は立て続けに訊いた。
 そこへ子供の母親がベビーバギーを押しながら慌ててとんできて、恐縮した顔で言った。
「お邪魔をして本当にすみません。この子は砂場に連れ戻しますから気になさらずに続けてくださいね。――駄目って言ったでしょ、千佳。ほら、行くわよ」
「だって、さなえ、まだあんよしないもん。あんよして、ちかといっしょにあそべるあかちゃんがいいんだもん」
 ぷっと頬を膨らませて、千佳と名乗った少女は、母親が押しているベビーバギーに乗った赤ん坊と雅美とを交互に見比べた。
「仕方ないじゃない。早苗はまだ生まれて四ケ月なんだからあんよができるわけないわよ。でも、もう少ししたら這い這いするようになって立っちできるようになって、それで、あんよもでるきようになって千佳と一緒に遊べるようになるから、それまで我慢しなきゃ」
 どうやら早苗というのはベビーバギーに乗っている赤ん坊で、千佳の妹らしい。千佳にしてみれば、妹ができたのは嬉しいものの、まだ小さくて一緒に走り回って遊べないのがつまらないのだろう。それで、あんよの練習をしている雅美に興味をしめしたらしい。
「あ、いいんですよ、お母さん。お嬢ちゃんのお名前、千佳ちゃんだっけ? じゃ、千佳ちゃん。千佳ちゃんみたいな年の近い子が一緒にいてくれると雅美ちゃんのあんよのおけいこもはかどるかもしれないから手伝ってくれるかな?」
 強引に千佳を砂場に連れ戻そうとする母親と千佳に、雅美の母親が穏やかな口調で話しかけた。
「けど、お邪魔になりません?」
 雅美の母親の言葉に、それでもなおも恐縮したように千佳の母親は言った。
「いいんですよ。この子、雅美っていうんですけど、雅美も、大人ばかりを相手に練習するより、自分と年の近いおねえちゃんが一緒の方が喜ぶと思うんです。だから、そちらさえよければ、こちらからお願いします。千佳ちゃんに手伝っていただけないでしょうか」
 雅美の母親は雅美が倒れないよう腰を支えたまま、盛んに頷きかけた。
「じゃ、そこまでおっしゃっていただけるなら千佳もご一緒させていただきます。でも、少しでも邪魔になりそうならそうおっしゃってくださいね」
 少し迷いながら、けれど母親は千佳の体から手を離した。
「ありがとうございます。じゃ、千佳ちゃん、そこにいるおばちゃんからガラガラをもらって雅美ちゃんに向かって振ってくれるかな。雅美ちゃん、そこまで歩いて行くから」
 雅美の母親は、智恵美に、ガラガラを千佳に渡すよう目で合図を送った。
「じゃ、これ。お願いね、千佳ちゃん」
 千佳から『おばちゃん』呼ばわりされた智恵美は複雑な心境だった。本当なら智恵美はまだ高校生だ。いくら相手が小さな子供でも『おばちゃん』と呼ばれることには抵抗がある。けれど、公園で出会う人たちに正体を気づかれないようにと雅美の母親の手で実際の年齢よりも年上に見えるようお化粧をしてもらった智恵美としては、本当のことも言えない。小さな溜め息を漏らして智恵美は千佳にガラガラを渡した。
「あかちゃん、まぁみちゃんっていうんだね。じゃ、まぁみちゃん、おねえちゃんがガラガラしてあげるから、ここまでおいで。ほら、ガラガラ」
 杏里もそうだったように、これくらいの年齢の子供は『さしすせそ』の発音がまだ上手ではない。そのため、どうしても『まさみ』が『まぁみ』になってしまう。
 ガラガラを振る千佳の姿を目にし、そのガラガラの音を耳にした雅美の脳裏に、あらためてキッズコーナーの光景が鮮やかに甦ってきた。
(私、やっぱり赤ちゃんなのかしら。スーパーでもそうだったし、この公園でも、私よりずっと年下の小っちゃな子にガラガラであやしてもらっているんだもの。そんな高校生なんていないよね。年下だと思っていた子より私の方が年下じゃなきゃガラガラであやしてもらうことなんてないよね。でも……)雅美の心は、三重でそうなったように、高校生としての意識と赤ん坊としての意識との狭間で揺れ始めた。同時に、両脚からますます力が抜けて、母親の支えにもかかわらず、とうとう芝生の上にお尻をおろしてしまう。
「まぁみちゃん、まだあんよできなんいだね。でも、はいはいはできるんでしょう? はいはいでもいいよね、おばちゃん」
 心配そうに言って千佳は智恵美の顔を見上げた。ちゃんとあんよができなくて雅美が智恵美に叱られるんじゃないかと心配しているのがありありだ。まだ幼い千佳なのに、あんよができなくても這い這いができればいいから雅美ちゃんを叱らないであげてねと智恵美に訴えているのだ。
「いいわよ、這い這いで。あんよは、まだおけいこの途中だもの」
 千佳の気遣いに触れた途端、胸の中がなんだか暖かくなったみたいだった。思わず笑顔になって智恵美は明るい声で言った。
「よかったね、まぁみちゃん。まぁみちゃんのママ、はいはいでいいっていってるよ。だから、はいはいでこっちまでおいで。ほら、ガラガラ〜」
 心配そうな表情が消え去って子供らしい笑顔に戻った千佳が再びガラガラを振り始めた。
 からころ。
 からころ。
 公園中に響き渡る軽やかな音色に誘われるように、まるで力の入らない脚と腕とをそれでもゆっくり動かして雅美が這い始めた。スーパーのキッズコーナーの時とは違って、今は誰かの手で強引に這い這いさせられているのではない。千佳の振るガラガラの音色にいざなわれるまま自分で手足を動かしている。けれど、雅美の母親や智恵美、千佳の母親が見守る中、自分よりもずっと年下の千佳が振るガラガラに向かって這い這いする姿は羞恥に満ちていた。そうして、その羞恥が被虐的な悦びに変わって下腹部を疼かせ、秘部が触れるあたりの布おむつをぬるぬるにしているのはスーパーの時とまるで同じだった。

 雅美が千佳のすぐ近くまで這って来るのに五分くらいかかっただろうか。
 その間に雅美の母親は芝生の上にビニール製の大きなレジャーシートを広げ、ようやく千佳の目の前にたどりついた雅美の体を抱き上げてレジャーシートの上に座らせた。そうして、千佳と千佳の母親にも
「ちょっと休憩にしましょう。どうぞおあがりくださいな」
とレジャーシートを勧めた。
「それじゃ遠慮なく。ちょうど早苗のおっぱいの時間ですし」
 すっかり打ち解けた様子の千佳の母親は、雅美の母親に勧められるまま、ベビーバギーから早苗の小さな体を抱き上げてレジャーシートの上に膝をついた。それに続いて千佳も靴を脱いでレジャーシートに上がり込んだが、雅美のそばから離れようとしない。
「あの、初対面の方にこんなことを言うのは失礼だと思うんですけど、おばあちゃまもお母さんも随分と背がお高いんですね。こうして雅美ちゃんと千佳が並んで座っていると、年上の千佳が小さく見えるくらい雅美ちゃんは発育がいいのに、お二人が大きいから、そうも思わなかったんですね、砂場から見ていた時は」
 最後に智恵美がレジャーシートに座るのを待って、千佳の母親が、雅美と千佳を見比べながら溜め息まじりに言った。
「雅美ちゃんが大きいのは家系かしら。でも、羨ましいわ。今からこんなに大きい子なら、将来は宝塚に入ってもいいし、バスケットボールとかバレーボールで有名になるかもしれないし」
「確かに、私も智恵美も大きい方ですね。でも、雅美が大きいのは家系のせいだけでもないんですよ」
 どう応えればいいのか戸惑うばかりの智恵美に代わって雅美の母親が言った。
「雅美も、生まれたばかりの頃はそんなでもなかったんですよ。むしろ、標準よりも小さな方で。なのに、生後三ケ月くらいからでしょうか、急に発育が早くなっちゃったんです。生育がいいから最初は喜んでいたんですけど、いくらなんでもということで病院で調べてもらったら、ホルモンの分泌に異常があるようだと言われたんです。私たちには難しいことはわかりませんけど、ホルモンのバランスが崩れて、成長ホルモンの分泌が異常に多いとかで。それで、今でも病院にかかっていますし、雅美は二歳だから本当ならもっと走りまわったりできる年頃なのに、自分の脚で自分の体重を支えきれなくて、まだあんよができないんです。それで、こうしてあんよのおけいこをしているような事情なんです」
 雅美の母親が話したのは、雅美の姪っ子である杏里の事情だった。けれど、二歳児にしては異様に発育のいい雅美の体つきを説明するのに杏里のことを話しておけばまず怪しまれないだろうと考えてのことだった。
「あ、そうだったんですか。そんな大変な事情だなんて知らずに、ついつい気楽なことを申し上げてしまって。本当に申し訳ありません」
 千佳の母親はいよいよ恐縮して頭を下げた。
「いえ、いいんです。そんなにお気になさらないでくださいね。事情を話してしまえばこちらも気が楽になりますし。――ところで、このお近くにお住まいなんですか?」
 雅美の母親は巧みに話題をそらした。
「ええ。少し前までは船橋に住んでいたんですけど、古いアパートで、子供が二人になるとちょっと手狭になるかなと思って、主人と相談してこちらのマンションに移ってきたんです。ほら、公園のフェンスの向こうにちょっと背の高い樹がありますでしょう? その隣に見えるマンションなんです」
 千佳の母親は少しばかり誇らしげに真新しいマンションを指さした。まだ建って間がないことが一目でわかる、壁も窓ガラスもぴかぴかのマンションだった。
「そうなんですか。でも、お若いのにあんな立派な分譲マンションだなんて、おえらいですね」
 雅美の母親は目を細めて言った。
「でも、正直言って大変なんですよ。今は子供にも手がかかるから私は勤めに出るわけにもいかなくて、主人のお給料だけでやりくりしなきゃいけないから、主人も自分から進んで残業をして毎日の帰りも遅いし、今日も休日出勤だって出かけています。最近、土曜日も日曜日もまともに休んだことがないんじゃないかしら」
 新築のマンションを指さしてみせた誇らしげな表情が顔から消えて、どこか寂しそうな口調で千佳の母親は言った。
 けれど、じきにはっとした表情になると、わざと明るい笑みを浮かべてみせる。
「ごめんなさい、暗い話になっちゃって。あらためて自己紹介しておきます。私、谷崎美代子。長女が千佳で三歳半、次女が早苗で生後四ヶ月です。本当、千佳が突然ご迷惑をおかけしました」
「いいえ、迷惑だなんて、ちっとも。じゃ、こちらも自己紹介しておきましょうね。私は島崎千里で、娘が智恵美、孫が雅美です。娘の旦那さんが長期出張の間、私の家に帰ってきているんです。家はここから少し離れた所で、S町なんですよ」
 雅美の母親は、あらかじめ打ち合わせておいた通りの説明をした。
「S町ですか? 確かに少し遠いですね。あ、でも、あのあたりは昔からのお家が多くて、小さな子供を遊ばせるような公園があまりなかったですね。だから、こちらへ?」
「そうなんです。新しく開けた住宅地はちゃんとした公園があって羨ましいかぎりです。――でも、こんなに立派な公園なのに、人影が見当たりませんね。いつもこんな感じなんですか?」
 周囲の様子をぐるりと見渡して雅美の母親は言った。
「そうですね。まだ建築中のマンションが多いし、完成したマンションも完売ってわけじゃないみたいですから。それに、もう少し涼しい季節ならともかく、こんなに残暑が厳しい季節のお昼すぎに公園へ出かけようっていう人はあまりいないと思いますよ。うちは千佳がお昼寝を嫌がってどうしても公園だって駄々をこねるから仕方なく来てますけど」
 千佳の母親・美代子は千佳の方に振り向いて軽く肩をすくめてみせた。それから、膝の上に抱いている早苗の体を胸元まで抱き上げると、申し訳なさそうに言った。
「すみません、この子におっぱいをあげる時間なんです。よそ様のレジャーシートをお借りして授乳なんて厚かましいと思いますけど、ごめんなさい」
「いいえ、どうぞどうぞ。赤ちゃんがお母のおっぱいを飲んでいる顔、とても可愛いから、そばで見せてもらえて嬉しいですよ」
 雅美の母親は如才なく応えた。
「それじゃ、ちょっと失礼して」
 いったん胸元まで抱き上げた早苗の体をもういちど膝の上に戻した美代子は、清潔そうな純白のコットンシャツのボタンを上から三つ手早く外すと、ストラップオープン式の授乳用ブラのカップを留めているホックを外して、子供が二人もいるとは思えない形のいい乳房を初秋の空気にさらした。まだあまり黒ずんでいない乳首がじっとり濡れている様子が智恵美の目にもはっきり見える。
「はい、早苗、おっぱいよ。暑くて喉が渇いたでしょう? たくさん飲んでちょうだいね」
 美代子があらためて早苗の体を胸元に抱き上げた。
 小さな唇を開け、嬉しそうに手と脚をばたばたさせて、早苗が乳房にむしゃぶりついた。
 目の前の光景に、不意に智恵美は胸が疼き出すのを感じた。昼食の前に雅美にふくませた乳首が疼き始めているのだ。
 思わず智恵美は雅美の顔を見おろした。雅美も智恵美の顔を見上げていた。いや、正確に言えば、雅美が見つめているのは智恵美の顔ではなく、ブラウスの中に隠された乳房だろう。
「ぱいぱい。まぁみ、ぱいぱい」
 とうとう我慢できなくなってきたのか、レジャーシートの上にお尻をおろしたまま、雅美は智恵美の胸元に向かって両手を伸ばした。
「あらあら、雅美ちゃんもおっぱいなの? でも、雅美ちゃんは二歳でしたよね。普通なら生後半年くらいで離乳食が始まるのに、ちょっと遅れているんですか?」
 美代子が少し驚いた顔で智恵美に訊いた。
「あ、あの、それは……」
 訊かれても智恵美はまともに応えることができない。まさか、雅美が本当は高校生なんだとは言えない。
「ほらほら、雅美ちゃんがおっぱいを欲しがっているじゃない。智恵美、さっさとなさい」
 しどろもどろの智恵美に向かって雅美の母親はそう言うと、美代子の方に向き直ってこう説明した。
「これにも事情があるんですよ。実は智恵美、母乳が出ない体質なんです。少ししか出ないとかいうんじゃなくて、本当にちっとも出ないんです。周りの人達から教えてもらってマッサージとかも試してみたんだけど、やっぱり駄目でした。でも、母親の性というのは哀しいものですね。雅美がおっぱいを欲しがると、母乳が出ないのはわかっているのに、知らず知らずのうちに乳首をふくませていることが続いたんです。ううん、続いたっていうんじゃなく、今もそうなんです。ちゃんと母乳が出る体なら、半年なら半年とか期限をつけておっぱいをあげた後できちんと断乳もできるんでしょうけど、まるでおっぱいの出ない乳房を雅美の口にふくませているうちに、それをやめるきっかけもみつけられずに今まで続いているんですよ」
 もちろん、嘘だ。まだ子供を生んでもいない智恵美の乳房から母乳が出る筈もない。けれど、雅美を智恵美の娘だということにするには、そんな説明しかなかった。
「あ、私、また、言わなくてもいいことを言っちゃって。ごめんなさい、気にしないでね」
 美代子は心の底から申し訳なさそうに言った。
「あ、いえ、私はちっとも……」
 ちっとも気にしていませんからと言いかけて、智恵美の言葉が途切れた。雅美の母親に言われるまま、部屋の中でそうしたようにブラウスのボタンを外し、ブラのホックを外してカップをずらし、あらわになった乳房を雅美の唇に押し当てた途端、「私だって本当は雅美ちゃんにおっぱいを飲ませてあげたい。早苗ちゃんのお母さんみたいにおっぱいを飲ませてあげたい。なのに、どうしておっぱいが出てくれないの」という思いにとらわれてしまったからだ。いつのまにか、「雅美を自分のものにしたい」という想いが「雅美を自分の赤ちゃんにしたい」という想いに変貌していることに、智恵美はこの時、ようやく気がついた。
「あの、お節介だとは思うんですけど、もしもよかったら、雅美ちゃんに私のおっぱいをあげてもいいですか? いえ、本当にお節介なことなんですけど」
 智恵美が言葉を詰まらせたことを我が子に母乳を飲ませてあげられない悲しみのためだと思い込んだ美代子は、せめてものことにと思い立って、おそるおそるながら、そんなふうに申し出た。
「え? あの……」
 思いもかけない申し出に、またもや言葉を失ってしまう智恵美。
 美代子の申し出に大きく頷き返したのは雅美の母親だった。
「本当にいいんですか? 本当に雅美におっぱいを飲ませてもらえるんですか?」
 念を押すみたいに雅美の母親は何度も繰り返した。
「お願いします。雅美、粉ミルクばかりで、本当のおっぱいを飲んだことが一度もないんです。だから、お願いします」
「いいですよ。じゃ、赤ちゃんを交換しましょうか。私が雅美ちゃんにおっぱいをあげてる間、早苗をお願いします。早苗、あまりおっぱいを飲まない子で、いつも片方のおっぱいだけでお腹がいっぱいになっちゃうみたいなんです。だから、どちらかのお乳が張ってることが多くて、雅美ちゃんに飲んでもらえるなら私も助かるんです」
 たしかに、早苗はもう満足したような顔つきをしている。
 美代子は早苗の体を雅美の母親に渡すと、代わりに、智恵美の胸元から雅美の大きな体を受け取った。
「すっごーい。こうして実際に抱っこしてみると、雅美ちゃん、本当に大きいんですね。体重もあるし、これじゃ毎日の育児も大変でしょう?」
 美代子が感嘆の声を漏らした。
「え、ええ」
 『毎日の育児』と言われても智恵美にはわからない。曖昧に頷くしかなかった。
「さ、雅美ちゃん、おっぱいでちゅよ。ママのおっぱいじゃないけどがまんちてね」
 雅美のことを赤ん坊だと信じて疑わない美代子は幼児言葉で話しかけて雅美の口に自分の乳首をふくませた。
 思いもしていなかったことに戸惑いと怯えの表情を浮かべていた雅美だが、やがて、おずおずと乳首を吸い始めた。乳首をふくまされたまま何もしないと、どうして雅美ちゃんはおっぱいを飲まないんだろうと美代子が思い始め、それがきっかけで自分の正体に気づかれるかもしれないと思ったからだ。千佳にガラガラであやされ、おむつで膨れたお尻を大きく振りながら這い這いをして自分は赤ちゃんなのかもしれないと思うようになりつつも、やはり、実際の年齢にふさわしく、そういうところにまで考えの及ぶ雅美だった。
 最初のうち、智恵美がいくら吸っても母乳は出てこなかった。けれど、それも仕方ないことだった。実際の乳首は、哺乳壜の乳首とは違って、ただ力を入れて吸えば母乳が出るというわけではない。それなりの吸い方をしないと、なかなか母乳が出ないような仕組みになっている。だから、雅美が、いつもみたいに哺乳壜の乳首を吸うように吸っても母乳がなかなか出ないのだ。
 なんだか雅美は情けなくなってきた。本当なら高校生の自分が義理の姉によっておむつをあてられ、それがきっかけになってどんどん赤ちゃん返りしてしまい、家に戻ってからも実の親から赤ちゃん扱いされ、同級生の乳房に顔を埋めるようにまでなってしまっただけでなく、今度は、本当の赤ん坊がいる若い母親の乳房を口にふくまされているのだ。これでちゃんと母乳が出ていれば、そちらに気を取られて、自分がどんな状況に置かれているのか、気にかける余裕もなかったかもしれない。けれど、母乳がかなかな出ないものだから、ついつい、これまでのことが思い出されて惨めになってくる。しかも、そこに、もともとは自分自身が赤ちゃんになりたがっていたからだという思いも加わるから、誰を責めることもできなくて、余計に情けなくなってくるのだった。その上、そんなになりながらも、赤ちゃん扱いされることに奇妙な悦びを覚えている自分自身をどうすることもできない無力感。そう、ひょっとすると、『無力感』という言葉以外に雅美を表現できる言葉は無いかもしれない。自分の性癖にがんじがらめにされる無力感。赤ちゃん扱いされてもそれに反論さえできない無力感。羞恥が奇妙な悦びに変貌することを止められない無力感。そうして、自分ひとりでは何もできない赤ん坊そのままの無力感。
 思わず雅美は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべてしまった。
 けれど、美代子は雅美のその表情を別の意味に解釈する。
「どうしたの、雅美ちゃん。泣いちゃ駄目よ。雅美ちゃんはおっぱいに慣れてないから上手に吸えないけど、そのうち上手に吸えるようになるわよ。だから、泣かなくていいの。おばちゃん、ちゃんとおっぱいが出るまで雅美ちゃんを抱っこしてお乳を吸わせてあげるから安心していいのよ」
 美代子はそう言って雅美をあやしながら、右手で背中を優しく撫でた。
 その言葉に、雅美の下腹部が突然じんと痺れ始める。これまでも大勢の人間に赤ん坊扱いされてきた雅美だが、この時の美代子が口にした言葉ほど赤ん坊扱いされたことはなかった。まるで、おっぱいが上手に飲めないから泣きそうにしているんだと思われるほどの赤ん坊扱いは。そうして、そんなふうに徹底的に赤ん坊扱いされる恥ずかしさが、これまで経験したことのないほどに激しい下腹部の疼きに姿を変えているのだった。
 雅美は、おむつカバーの中のおむつが再びぬるぬるになる感触を覚えた。無意識のうちに溢れ出た恥ずかしいお汁の感触だった。
 恥ずかしさと、その恥ずかしさが姿を変えた奇妙な悦びのために、雅美の体中からふと力が抜けた。同時に、それまで力まかせに乳首を吸っているばかりの唇の力も抜けたのが却ってよかったのだろう、美代子の豊満な乳房から白い母乳が溢れ出て雅美の口の中に流れ込み始めた。
 突然のことに雅美は母乳を飲み込むことができなくて、唇の端から幾らか白い筋になってこぼれ出してしまう。その上、気管の方に流れ込んだ母乳もあったのか、こほんこほんと激しく咳き込んでしまう雅美。
「ほらほら、そんなに慌てて飲まなくでもいいのよ、雅美ちゃん」
 美代子はいったん雅美の唇から乳房を離して、雅美の背中をぽんぽんと叩いた。しばらくそうしていると、気管に流れ込んだ母乳が、げっぷと一緒に唇からあふれ出て雅美の頬を伝い、出かける前にパジャマから着替えさせられたロンパースの胸元に滴り落ちそうになる。
「あら、困ったわね。このままじゃ、可愛いお洋服が汚れちゃう」
 美代子はハンカチを取り出すために自分のジーンズのポケットを探ろうとしたが、雅美の大きな体を抱いているため、思うにまかせない。
「これを使いましょう。これなら少しくらいおっぱいがこぼれても大丈夫だから」
 横合いから雅美の母親が差し出したのは、替えのおむつやベビーパウダー、ガラガラ等と一緒にバッグに入れて持ってきていたタオル地のよだれかけだった。真っ白の生地をピンクのバイアステープで縁取りして、真ん中よりも少し右下のところに動物のアップリケを縫いつけた可愛らしいよだれかけだ。
「それじゃ、私は雅美ちゃんを抱いたままにしていますから、よだれかけは雅美ちゃんのおばあちゃま、お願いできますか」
 美代子は雅美の母親に頷き返した。
「いいわよ。じゃ、智恵美は早苗ちゃんをお願いね」
 それまで片手で抱いていた早苗の小さな体を智恵美の腕に預けて、雅美の母親は雅美の首筋に大きなよだれかけを巻き付けた。よだれかけを留める紐は、首の後ろと背中、合わせて二ケ所できゅっと結わえる。
「はい、これでいいわ。ごめんなさいね、急に雅美が咳きこんでびっくりしたでしょう? そちらのお洋服は大丈夫だった?」
 よだれかけの紐を結び終えた雅美の母親は、今度は美代子が着ているコットンシャツに目をやった。
「いえ、私の方は大丈夫です。それに、もともと子供達と一緒だから汚れてもいい服を選んでいますし。――さ、ちゃんとよだれかけもつけてもらったし、今度こそたっぷりおっぱいにしましょうね」
 美代子は雅美の母親に軽く首を振ってから、あらためて雅美の唇に乳首をふくませた。
 いったんコツがわかると、あとは意外に簡単だった。雅美は少し力を抜くようにして乳首を吸った。乳首を吸うちゅうちゅういう音が「雅美ちゃんは今おっぱいを吸ってるんだよ。おっぱいを吸うのは赤ちゃんだよ。だから雅美ちゃんは赤ちゃんなんだよ。よだれかけを汚しながらおっぱいを吸う赤ちゃんなんだよ」と言っているみたいで、ますます雅美はおむつをぬるぬるにしてしまうのだった。
「まぁみちゃん、ずるい」
 下腹部の疼きとぬるぬる濡れた布おむつの感触にうっとりした目で乳首を吸い続ける雅美に向かって、突然、千佳が喚いた。ただ、喚いたとはいっても、怒りを感じさせるような声ではなく、どこか拗ねたような、どこか嫉妬しているような、少し甘えを含んだ声だった。
「どうしたの? どうして雅美ちゃんがずるいの?」
 突然のことに、たしなめるような口調で美代子が聞き返した。
「まさみちゃん、ずるい。さなえもずるい。ふたりともママのおっぱいのんで、そんなの、ずるい。ちか、ママのおっぱいのんじゃダメなのに」
 ほっぺを大きく膨らませて千佳は繰り返した。その言葉に、美代子も雅美の母親も智恵美も千佳が何を拗ねているのか、じきにわかった。雅美と早苗はおっぱいを飲ませてもらえるのに、千佳はおっぱいを飲ませてもらえないから拗ねているのだ。ちょっとしたヤキモチだった。
「だって、千佳はもうおねえちゃんでしょ? おっぱいは赤ちゃんが飲む物なの。千佳だって赤ちゃんの時はママのおっぱいを飲んでたのよ。でも、もうおねえちゃんだから飲んじゃダメなの。その代わり、おいしいハンバーグやオムライスを食べられるんだから」
 くすっと笑って美代子は言った。
「だって、ここにハンバーグ、ないもん。オムライス、ないもん。なのに、ママのおっぱいはあるんだもん。ちか、ここでハンバーグたべられないんだもん。なのに、さなえもまぁみちゃんもおっぱいのめるんだもん」
 千佳はますますほっぺを大きくした。
「あらあら、いつのまにそんな屁理屈をおぼえたのかしら」
 呆れたような顔で美代子は呟いた。そうして、しばらく考えてから、大きく頷いて千佳に話しかける。
「いいわ。じゃ、千佳にもおっぱいを飲ませてあげる。それならいいのね?」
「ほんと? ほんとに、ちかもおっぱい?」
 千佳はぱっと顔を輝かせた。
「本当よ。でも、さっきも言ったけど、おっぱいは赤ちゃんが飲む物なのよ。だから、千佳が赤ちゃんになるんだったらママのおっぱいを飲ませてあげる」
 悪戯っぽい声で美代子は言った。
「うん、ちか、あかちゃんになる。あかちゃんになってママのおっぱいのむの」
 千佳は何度も頷いてみせた。
「いいわよ。でも、赤ちゃんになったらハンバーグもオムライスも食べられないのよ。チョコレートも食べられないし、プリンも駄目。それでいいのね?」
 美代子は、ふぅんと頷き返した。
「……いいもん。さなえやまぁみちゃんみたいにママのおっぱいのめるから、チョコレートもプリンもいらないもん」
 しばらく迷ってからようやく千佳が口を開いた。
「それと、赤ちゃんはおむつをあてなきゃいけないのよ。赤ちゃんはトイレへ行けないから、おしっこはおむつなのよ。パンツじゃなくて、おむつなのよ。やだなぁ、おむつなんて恥ずかしいなぁ。あ、でも、赤ちゃんだったら恥ずかしくないんだ。赤ちゃんだったら、おむつでも恥ずかしくないんだ、そうなんだぁ」
 美代子はわざと千佳の羞恥心を掻きたてるように言った。



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