幼児への誘い・4



「それはね、真澄ちゃん」
 説明に窮した香奈を助けるために横合いから美智子が言った。
「雅美ちゃんが、大学生でもない赤ちゃんでもない、微妙な心を持っているからなのよ。雅美ちゃんはずっと赤ちゃんになりたいと思っていた。思いきり誰かに甘えられる赤ちゃんの頃に戻りたいと願っていた。そして、その願いは、私がかなえてあげた。もしも雅美ちゃんが小さな子供なら、ずっとずっと願ってきたことがかなったら大喜びするでしょうね。両手を振り上げて、わーいって喜べばいい。でも、雅美ちゃんは大学生だもの、そんなに簡単な喜び方をできないのよ。できないっていうか、雅美ちゃんがずっと胸の中に隠し通してきた願い事っていうのは、小さな子供みたいな、お人形が欲しいとか遊園地に連れて行ってほしいとか、そんなものじゃなくて、大学生にもなって赤ちゃんの頃に戻りたいっていう、普通なら人に話せないような願いなんだから、もしもその願いがかなったとしても、大喜びする姿を誰かに見られるのが憚れるのよ。でも、本当は、とても嬉しいの。自分一人じゃトイレにも行けなくておむつを汚しちゃう赤ちゃんになれたことが、自分じゃスプーンも使えなくて誰かに哺乳壜でミルクを飲ませてもらわなきゃ食事もできない赤ちゃんになれたことが、自分の脚じゃベッドにも上がれなくてサークルメリーをまわしてもらってお腹をぽんぽん叩いて寝かしつけてもらわなきゃお昼寝もできない赤ちゃんになれたことが。胸の中は嬉しさで一杯なのに、それは、誰にも言えない嬉しさなのよ。――それって、初めてキスした時とか、初めてエッチした時とかと同じだと思わない? 雅美ちゃんにとっては、赤ちゃんに戻ることは、香奈ちゃんや真澄ちゃんにとってのキスやエッチと同じなのよ。だから、香奈ちゃんにお尻をぶたれている間に、雅美ちゃん、自分がお仕置きの必要な小っちゃな子供に戻ることができたんだって感じられて、それで、とってもエッチな気分になっちゃったんだと思うの」
「う〜ん、なんだか、わかったようなわからないような……」
 真澄は上目遣いに天井を見上げて呟いた。けれど、じきに、ほっと息を吐いて美智子の顔を見て言った。
「難しいことはわからないけど、雅美おねえちゃんのあそこがぬるぬるになってるってことは、雅美おねえちゃん、赤ちゃんになったことが嬉しいんだよってことなんですね? 願い事がかなって嬉しくてぬるぬるになっちゃったってことなんですね?」
「そういうこと。だから、雅美ちゃんのあそこ、これからもあんなふうに濡れることがあると思うけど、そのことをからかったりしちゃいけないのよ。願い事がかなったことを大声に出さずに静かに喜んでるんだなって思ってあげてね」
 いたわるような美智子の口調だった。
「うん、わかった。香奈おねえちゃんもわかったわね? 雅美おねえちゃんがエッチな気分になってもからかっちゃいけないんだよ。ジーパンが汚れても叱っちゃいけないんだよ」
 大きく頷いた真澄は、したり顔で香奈に言った。
「はいはい、わかってますよ。あんたから言われなくても、伯母様の説明でちゃんとわかってますってば」
 妹から言われた香奈は苦笑まじりに頷いてみせてから美智子の方に振り向いた。
「じゃ、伯母様、私たち、おねえちゃんのこと本当の赤ちゃんだと思って接すればいいんですね? 本当の赤ちゃんと同じように扱った方がおねえちゃんは嬉しいんですよね?」
「そうよ。雅美ちゃんは本当はあなたたちのおねえちゃんだけど、そのことは忘れて、新しい妹ができたと思って接してあげてちょうだい。まだおむつの外れない小っちゃな赤ちゃんの妹だと思って」
 美智子は、香奈と真澄の胸に滲み渡るような低い落ち着いた声で言った。
「わかりました、伯母様」
 真澄は美智子に向かってにっと笑って応えると、声を弾ませて香奈に言った。
「じゃあさ、香奈おねえちゃん。雅美おねえちゃんのこと、いつまでも『おねえちゃん』て呼ぶの、変じゃない? 私よりも年下の妹なんだから、『雅美ちゃん』の方がいいんじゃないのかな」
「確かに、そうかもね。じゃ、そうしようか。これからは雅美おねえちゃんのこと、雅美ちゃんでいいわね」
 二人の姉に囲まれてずっと妹をほしがっていた真澄の気持ちを知っている香奈は、まるで迷うふうもなく二つ返事で応じた。
「じゃ、これから雅美ちゃんは二人の妹ね。とすると、雅美ちゃんも、ふたりのことを『おねえちゃん』て呼ぶ練習をしなきゃいけないわね。そうだ、せっかくだから言ってごらんなさいよ、雅美ちゃん。『香奈おねえちゃん、真澄おねえちゃん、雅美、おとなしくするから、おむつをあててくだちゃい』って」
 二人の会話を聞いていた美智子が、香奈に抱っこされたままの雅美に向かって笑顔で言った。
「そ、そんな……」
 雅美は弱々しく首を振った。
「でも、おねえちゃんのままでいる方が恥ずかしいと思うわよ。おねえちゃんなのに、おむつをあててるなんて。いっそ、小っちゃな妹になりきっちゃった方が恥ずかしくなくなるんじゃないかしら」
 美智子は諭すように言った。
「でも、だって……」
 それでも尚も頷かない雅美。
「ふぅん。雅美ちゃんは伯母様の言うこともきけない悪い子なんだ。そんな悪い子にはやっぱりお仕置きが要るのかなぁ」
 香奈が、雅美の体を胸元に抱き上げてわざとらしい笑顔で言った。
 途端に雅美の顔に怯えの色が浮かぶ。
「でも、本当は雅美ちゃん、悪い子なんかじゃないよね? 伯母様の言うこともおねえちゃんたちの言うこともちゃんときけるいい子だよね? おねえちゃんはそう信じてるのよ」
 雅美の顔に浮かんだ怯えの色を見て取った香奈は念を押すみたいに言って、じっと雅美の顔を見つめた。
「どうしたの、雅美ちゃん。ちゃんとお返事しなきゃいけないでしょ? それとも、雅美ちゃんはまだお口もきけないほど小っちゃな赤ちゃんになっちゃったのかな」
 香奈に調子を合わせた真澄の声も聞こえてきた。
「しようがないわね。華奈ちゃん、さっきみたいにお仕置きをしてあげなさい。躾けのためだもの、仕方ないわ」
 それでも押し黙ったままの雅美の様子に、やれやれとでもいうような口調で美智子が言った。
 香奈の右手が僅かに動いた。
「やめて……お仕置きはやめて……」
 裸に剥かれたお尻を実の妹にぶたれる屈辱が甦ってきて、雅美は、聞こえるか聞こえないかの小さな声で懇願した。
「じゃ、ちゃんと言えるのね? 私が教えてくれた通り、ちゃんと言えるのね?」
 美智子が雅美の顔をじっと覗き込んだ。
「言います。言うから、ちゃんと言うから、お仕置きは……」
 そこまで言って雅美は口をつぐんだ。
 そうして、舌の先で唇を湿してから、弱々しい声を絞り出す。
「香奈……香奈おねえちゃん、……真澄おねえちゃん、雅美、おとなしくするから、お、おむ……」
「あら、どうしたの? そこまで言えたら、もうすぐでおしまいなのに」
「お、おむ……おむつをあてて……あててください」
 ようやく最後まで言って、雅美は恥ずかしそうに目をそらした。
「はい、よく言えました。でも、おしまいのところが間違ってまちゅよ。私が教えてあげたのは『あててください』じゃなく『あててくだちゃい』だったでちょ? その方が赤ちゃんらしいものね。もういちど、ちゃんと言い直してみまちょうね」
 羞恥と屈辱にまみれて目を伏せている雅美に対して、美智子は容赦なかった。
「そ、そんな……」
 雅美の顔に、助けを求めるような頼りなげな表情が浮かんだ。
「ちゃんと言えるまでおけいこしなきゃ。躾けは最初が肝腎だから」
 美智子はそう言って、香奈に向かって目配せをした。
 美智子の目配せを受けて、香奈の手がぴくんと動く。
「待って。言う、言うから、お仕置きはやめて。……おむつをあてて、あててくだちゃい、香奈おねえちゃん、真澄おねえちゃん」
 肩を小刻みに震わせながら、今度こそ雅美は美智子に教えられた言葉を口にした。
「えらいえらい。よく言えたわね、雅美ちゃん。じゃ、香奈おねえちゃんにおむつをあてていただきまちょうね。――香奈ちゃん、雅美ちゃんにおむつをあててあげて」
「あ、はい。じゃ、雅美ちゃん、ベッドの上に戻りまちょうね」
 美智子に促された香奈は、美智子を真似た幼児言葉で雅美に囁きかけてから、あらためて雅美の体を抱き直して、すっと立ち上がった。
「ほら、ベッドの上に広げたおむつにお尻を載せるんでちゅよ」
 立ち上がった香奈は、雅美の体を、おむつの上にお尻がちゃんと載るように注意深くベビーベッドに横たわらせた。
「あん……」
 あらためて感じる新しいおむつの柔らかな肌触りに、雅美の口から喘ぎ声が漏れる。その肌触りに、妹たちから逆に小さな妹扱いされたせいでぬるぬるになった下腹部がますますいやらしく濡れてくるのがわかる。
「あらあら、こんなに濡らしちゃって、エッチな赤ちゃんでちゅね。それとも、おちっこちたいのかな」
 香奈はくすっと笑って雅美の足首を高々と差し上げた。
 そこへ、紀子が半透明の薄いシートのような物を差し出して言った。
「香奈お嬢様、二枚目のおむつと三枚目のおむつの間にこれを敷いておいていただけますか」
「それは?」
「さきほどポリバケツに入れたおむつから回収した発信器です。おむつが濡れるとこの発信器が電波を出して雅美お嬢ちゃまのおしっこを教えてくれます」
「ああ、伯母様がお持ちだった機械の」
「さようでございます」
「わかりました。それじゃ」
 香奈は雅美の足首を更に高く持ち上げてお尻を浮かせると、紀子の言葉に従って、二枚目と三枚目のおむつの間にシート状の発信器を敷き込んだ。
「よかったでちゅね、雅美ちゃん。これで雅美ちゃんが何も言わなくても、機械がおちっこを教えてくれるんでちゅよ」
 発信器をおむつの間に敷き込んで、香奈は雅美の足首をベッドの上に戻すと、両脚を左右に開かせて、その間を通して布おむつをお腹の上に重ねた。
 最近の本当の赤ん坊と同じ股おむつだから、あとは、おむつカバーの横羽根でおむつを押さえ、その上におむつカバーの前当てを重ねてマジックテープで留めれば、それでいい。
「はい、できた。おとなしくしてて、雅美ちゃんは本当にいい子だわ」
 香奈は、幼児めいた髪型をした雅美の頭をベビー帽子の上から優しく撫でた。
「本当、いい子だったわね、雅美ちゃん。じゃ、いい子だったご褒美に水族館に連れて行ってあげましょうか。雅美ちゃん、お魚が大好きだものね」
 香奈が雅美の頭を撫でているところへ、美智子が突然、とんでもないことを言い出した。たしかに雅美は魚が好きだ。魚というか、正確に言えば海洋生物に興味があって、その研究をしたくて、大学も、一浪してまで理学部の生物学科に入ったほどだ。普段なら、水族館と聞けば喜んでとんで行く。けれど、まさか、こんな格好で家の外へ連れ出されるなんて、とてもではないが、こればかりは美智子の言葉に従うことはできない。
 けれど、美智子の言葉をとんでもないことと感じたのは雅美だけだった。香奈も真澄も紀子も、それがとんでもないことだとはまるで思わないし、突然のことだとも感じていない。
「うん、賛成〜。私も雅美ちゃんと一緒に水族館へ行きたいんだからぁ」
 少しばかりわざとらしい口調で真澄が美智子の言葉に同意した。垂水区の美智子の家から、隣の須磨区にある神戸市立須磨海浜水族園まで、車で三十分もかからない。昨年までも美智子は真澄たちが遊びに来るたびに水族館へ行ってみようかと提案したこともあるのだが、真澄は「水族館なんて子供っぽいからイヤ」と美智子に言っていた。それが今度ばかりは自分から進んで水族館へ行きたいと言い出したのは、雅美が昼寝をしている間にみんなで相談してそうしようと決めていたからだ。おむつをあてた恥ずかしい姿の雅美を人混みの中に連れ出すために、みんなで口裏を合わせることにしていたからだった。本当のことを言えば、水族館である必要はない。動物園でも、遊園地でも、商店街でも、人が大勢いる中に雅美を連れ出すのが目的だから、どこでもよかった。ただ、雅美が海洋生物に興味があるから、それを口実に水族館を選んだだけのこと。
「私も行ってみたかったんだ。須磨海浜水族園、イルカショーもあるんでしょう?」
 雅美の頭から手を離して、香奈もおおげさに頷いてみせた。
「じゃ、決まりね。みんなそう言うと思って、紀子さんに用意しておいてもらったのよ。香奈ちゃんたち、お昼ご飯まだでしょう? だから、サンドイッチを作っておいてもらったの。ランチバスケットに詰めておいてもらったから、それを持って行きましょう」
 あらかじめ口裏を合わせていた通り香奈と真澄が同意したのを受けて、美智子が笑顔で言った。
「ちょ、ちょっと待って……」
 このままでは赤ん坊そのままの格好で外に連れ出されてしまうと思った雅美が慌てて口をはさんだ。
「あら、どうしたの、雅美ちゃん。雅美ちゃん、お魚が大好きだから水族館だったら大喜びしてくれると思ったんだけど?」
 わざと不思議そうな表情を浮かべて美智子が首をかしげてみせた。
「で、でも……こんな格好じゃ……」
 こんな赤ちゃんみたいな格好じゃ――はっきりそう言うのが恥ずかしくて、ついつい言葉を濁してしまう雅美。
「ああ、そうね。いくら雅美ちゃんが小柄だといっても、一メートル三十センチはあるんだから、そんなに背の高い赤ちゃんなんていないわよね。そんな大きな赤ちゃんを水族館に連れて行ったら、まわりの人たちにじろじろ見られちゃうわね」
 美智子は雅美の言葉にあっさり頷き返した。とはいっても、雅美を水族館へ連れて行くのを取りやめたわけではない。
「雅美ちゃんがお外で着られるような可愛いお洋服、何か適当な物はないかしら」
 美智子は紀子の方に振り向いて言った。
「それでしたら、雅美お嬢ちゃまにお似合いのお召し物がございます。しばらくお待ちください」
 美智子に問いかけられた紀子は恭しく頭を下げると、造りつけになっているウォークインクローゼットの扉を開けた。
(今度はどんな格好をさせられるのかしら。紀子さん、変なお洋服を持ってこなきゃいいんだけど)ウォークインクローゼットに足を踏み入れる紀子の後ろ姿を見送る雅美は気が気ではない。

「お待たせいたしました。これなどはいかがでございましょう」
 待つほどもなくみんなの前に戻ってきた紀子が両手で捧げ持っていたのは、涼しげな薄いブルーの生地でできたセーラースーツだった。胸元に何か鳥みたいなアップリケを縫いつけて、濃いコバルトブルーの大きな襟が愛らしいワンピース型のセーラースーツと、同じ色合いのセーラーキャップ。
「あ、カモメ幼稚園の制服だ」
 紀子が捧げ持つセーラースーツを一目見るなり、真澄が大きな声で言った。
「真澄お嬢様のおっしゃる通りでございます。これは、お嬢様方が通われたカモメ幼稚園の制服でございます」
 紀子がそう言うのを聞いて、雅美は、それが、自分も含めて姉妹が三人とも通った、埼玉の家の近くにあるカモメ幼稚園の制服だということに気がついた。
 男の子の制服も女の子の制服も色使いは同じだけれど、男の子の制服が上着とハーフパンツとの組み合わせになっているのに対して、女の子の制服は、上着の裾を長く取って柔らかいシルエットでふんわり膨らませたスカートに仕立てたワンピースになっている。紀子がウォークインクローゼットから持ってきたのは、そのカモメ幼稚園の女の子用の制服だった。それも、季節に合わせて、半袖の夏用の制服だ。
(でも、どうしてカモメ幼稚園の制服がこんな所に? それも、誰かのお古じゃない、まだ真新しく見える制服が?)
「お嬢様方のお母様でらっしゃる美佐江様は、何か行事がお有りのたびに写真を送ってきてくださいました。お嬢様方のどなたかが幼稚園の入園式を迎えられたとおっしゃっては写真を送ってきてくださいましたし、どなたかが小学校の音楽会でピアノを独奏されるとおっしゃっては写真を送ってくださいました。それで、幼稚園の制服をお召しになったお嬢様方の写真はたくさんございます。その写真を基に、仕立て屋さんにお願いして作ってもらっておいた制服でございます。雅美お嬢ちゃまのために特別にベビー服やおむつカバーを作っていただく時、一緒に注文しておいたお召し物でございます」
 雅美の胸の内を見透かすように、紀子は『雅美お嬢ちゃまのために特別にベビー服やおむつカバーを作っていただく時、一緒に』というところを微妙に強調して説明した。
「え? こっちで特別に作った制服なんですか? ふぅん、でも、よくできてますね」
 香奈は紀子に向かって両手を差し出して制服を受け取ると、その制服を目の前に広げてみたり裏返してみたりしてから、感心することしきりというふうに言った。
「腕の立つ仕立て屋さんなんですよ。ほら、雅美お嬢ちゃまが今お召しになってらっしゃるパジャマもベビー帽子も、雅美お嬢ちゃまにぴったりでございましょう? 同じ仕立て屋さんに作っていただいたからでございます。それに、美佐江様が送ってくださった写真はたくさんございますから、デザインの小さなところまで確認できましたし」
 まるで自分が誉められたみたいに嬉しそうな顔で紀子は応えた。
「へーえ、本当によくできてる」
 今度は真澄が制服を受け取って、やはりこちらも香奈と同じようにしきりに感心して呟いた。そうして、胸元に縫いつけてあるアップリケに目をやると、くすっと笑って香奈に言った。
「見て見て、香奈おねえちゃん。ちゃんと名札も縫い付けてあるんだけど、ほら、『たむら まさみ』って書いてあるの。田村雅美って、おねえちゃん――雅美ちゃんのことだよね」
「あ、本当だ。それに、アヒル組になってる。アヒル組って、年少さんのクラスの名前だったよね?」
 香奈も真澄が指さしたアップリケを覗き込んで歓声をあげた。カモメ幼稚園の制服は、アップリケの中の白い部分に園児の名前とクラスを刺繍して名札にしているのだった。
「そうだよ。まだよちよち歩きの年少さんがアヒル組で、なかなか静かにしない年中さんがスズメ組、それで、これから大空に羽ばたく年長さんがカモメ組なんだよって、入園式の時に園長先生が言ってたの、今でも憶えてるもん」
 少し自慢げに真澄が応じた。
「そういえば、私も聞いたことがあるわ、その説明。やだ、あの園長先生、毎年同じ挨拶をしてたのね」
 おかしそうに言う香奈の口元がほころんだ。
「いいわね。よくできてるわ。じゃ、これを雅美ちゃんに着せてあげて。着替えが終わったら出かけましょう」
 いったん真澄の手から受け取って縫製の仕上がり具合を確認した美智子は、制服をあらためて真澄と香奈に返しながら言った。
「はい、伯母様」
 二人は声を揃えて返事をした。
 そうして香奈が、
「はい、雅美ちゃん、おっきしまちょうね。立っちして、お着替えでちゅよ」
と言いながら、おむつをあてるために横たわらせた雅美の体を再び抱き上げて、そっと床の上におろす。
 雅美の両足が床についたのを見届けてから香奈は手を離した。けれど、その途端、雅美の体がふらっと揺れて、今にも倒れそうになってしまう。
「あ、危ない」
 慌てて真澄が手を伸ばして支えたおかげで雅美は倒れずにすんだものの、膝がぷるぷると小刻みに震えている。
「うふふ、雅美ちゃんたら、私がお手々をつないであげないと倒れそうになっちゃうなんて、本当に赤ちゃんみたい。可っ愛いんだからぁ」
 真澄は雅美の両手を上に引っ張り上げるようにして雅美の顔を見おろした。
 雅美は、自分がどうして倒れそうになってしまったのか、どうしてちゃんと立っていられないのか、まるでわからないという表情で真澄の顔を見上げた。どうして本当に小っちゃな子供みたいに立っちもできないのかわからないけれど、そのまま真澄が手を離せばすぐに尻餅をついてしまうだろうということだけはわかる。
 雅美は気づいていないものの、雅美の脚がそんなふうになってしまったのも、美智子と紀子の企みのせいだった。雅美が美智子の家にやって来た日のうちに、二人は雅美におむつをあてて赤ちゃん扱いするようになった。もともと赤ちゃんになりたいという思いを胸の中に隠し持っていた雅美だから、二人に赤ちゃん扱いされているうちに、次第次第に自分は赤ちゃんなんだと思い込むようになっていった。だから、食事の時も、お風呂の時も、美智子と紀子が代わる代わる雅美の体を抱いてダイニングへ連れて行ったり浴室へ連れて行ったりしても、雅美は敢えてそのことに反抗することもなかった。自分の足で歩くより、そんなふうにされる方が、自分は赤ちゃんなんだと思い込むことができたからだ。そうして、そんなふうに自分の足を全く動かさない日が続いた結果、寝たきりの病人と同じで、脚の筋肉が細く弱くなってしまったのだった。突如として二人の妹が現れて、それまで自分のことを赤ちゃんだと思い込んでいた雅美の意識は大学生としての雅美の意識に戻ったものの、筋肉の弱体化という肉体的な状態はすぐには元に戻らない。
「よかったわね、雅美ちゃん。真澄おねえちゃんにお手々をつないでもらって。お着替えが終わるまで、そうしてまちょうね」
 美智子は、倒れまいとして必死に真澄の手にすがりつく雅美に向かってひょいと腰をかがめ、微かに笑いを含んだ声で言った。
「じゃ、香奈ちゃん、今のうちに着替えさせてあげてちょうだい。雅美ちゃんが倒れちゃわないうちに」
「わかりました、伯母様。いいわね、真澄。そのままちゃんと手をつないでいてあげるのよ」
 美智子に向かって頷き、真澄に対してそう言って、香奈は、ベビードレスふうのパジャマより先にベビー帽子を脱がせるのに、顎の下で結わえてある紐をほどくために雅美の顎先に指を伸ばした。
「すぐでちゅからね。すぐすむから、じっとしてまちょうね」
 顎先の結び目を手早くほどきながら香奈は雅美の耳元に囁きかけ、ほどいた紐の端をつかんで、淡いピンクのベビー帽子をそっと脱がせた。
 耳の前で横髪を三つ編みにまとめたいかにも幼児めいたヘアスタイルがあらわになって、それを見た香奈と真澄が揃って目を細める。ベビー帽子をかぶっていた時も赤ん坊めいて見えたが、こうして幼児そのままのヘアスタイルを見せている様子も可愛らしさに満ちている。
「うわ、可愛い。よかったわね、雅美ちゃん。こんなに可愛い髪型にしてもらって。じゃ、髪型はこのまま変えずに、お洋服だけお着替えしまちょうね」
 ベビー帽子に続いて、香奈は雅美が着ているパジャマの背中に並んだボタンを外した。赤ちゃんの肌が痛くないようにプラスチック製のボタンをベルベットみたいな布で包み込んだ、気遣いの行き届いた、それこそ本当の赤ちゃんに着せてもちっともおかしくない仕立てになっているパジャマだった。たしかに、ここまで気を遣って縫い上げてくれる仕立て屋だからこそ、カモメ幼稚園の制服もあれほど本物にそっくりにきちんと仕上げることができるのだろう。
「はい、ボタンはこれでいいわね」
 独り言みたいに呟いた香奈はその場にしゃがみこむと、雅美のパジャマの裾を持ってそのまますっと持ち上げ、持ち上げた裾を真澄に握らせて、今度は自分が雅美の腰を支える側にまわった。
「いい、真澄? 雅美ちゃんは私が倒れないようにするから、そのままパジャマの裾と袖口を引っ張ってちょうだい」
「うん、わかった」
 香奈に言われるまま真澄がパジャマの裾と袖口を引っ張り上げると、殆どひっかかることもなく、すっと脱げた。
 そうすると、あとに残るのは、水玉模様のおむつカバーだけになってしまう。
 おむつカバーだけを身に着けて今にも倒れそうに膝をぷるぷる小さく震わせて立っている雅美の姿は幼児そのままだった。まだ立っちも上手でなく、まだおむつの外れない、小っちゃな幼女だ。
 その姿に、思わず顔を見合わせて笑顔で頷き合う香奈と真澄。
「でも、いいわね、雅美ちゃんは。ブラが要らないから胸が窮屈じゃなくて」
 頷きつつ、半ば冗談半分、半ば本気で香奈が言った。バスケットボールのように激しいスポーツをしていると、胸の揺れが本当に邪魔になることがある。
「あ、香奈おねえちゃんたら、ひどいこと言ってる。ダメよ、雅美ちゃん、香奈おねえちゃんの言ったこと気にしちゃ。雅美ちゃんだって、大きくなったら胸も出てくるからね」
 こちらも半ばからかうみたいに真澄は言って、足元にしゃがんで雅美の体を支えている香奈に声をかけた。
「それじゃ、香奈おねえちゃん、雅美ちゃんの体を持っててよ。雅美ちゃんが尻餅をついて泣きベソかいたら、香奈おねえちゃんのせいだからね」
 言うと同時に真澄は、特別注文のカモメ幼稚園の制服を手にして袖をぱっと引っ張ってシワを取り、スカートになっているところに空気をふくませてふわっと膨らませてから、そのまま雅美の頭の上からすっぽり被せて裾をさっと引きおろした。それから、頭の上に上げさせた雅美の両手を今度は前に突き出させて袖を通し、襟元から胸元に三つ並んでいるボタンを手際よく留めてゆく。そうしておいて、制服と同じ色使いのセーラーキャップをかぶせてゴム紐を顎の下で留めてやれば、本当なら大学生の田村雅美が、カモメ幼稚園アヒル組(年少組)に通う『たむらまさみちゃん』に変身してしまう。それでも、今までのベビードレスみたいなパジャマやベビー帽子の赤ちゃんに比べれば、幼稚園のおねえちゃんに成長したことになる。
 ただ、紀子が用意した制服は本当の制服に比べるとスカートの部分が短いみたいで、雅美のお尻を包み込んでいるおむつカバーがかろうじて隠れるか隠れないかという感じになってしまっている。これでは、雅美が腰をかがめたり椅子に座ったりすれば、水玉模様のおむつカバーが丸見えになってしまうに違いない。



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