おむつ保育実習


《 9 引き返せない道 》

 誰にも目を合わせまいとしてぎゅっと閉じていた真澄の瞼が微かに震えたのは、美香が支え持つ哺乳壜の水が残り五分の一ほどになった頃だった。瞼と同時に腰とお尻がびくんと震え、僅かに口元が緩んで、哺乳壜の乳首を咥えた唇の端から湯冷ましの水がこぼれ出し、頬と顎を濡らして胸元に滴り落ちる。よだれかけのシミが更にまた大きくなった。
「先生、真澄ちゃん、様子が変だよ。どうしちゃったのかな」
 真澄の異変に気づいた美香が心配そうな顔をして淳子を呼んだ。
「たぶん、おむつだと思うわよ。ほら、見てごらんなさい」
 真澄の異変が何を意味するのか充分わかっていながら、淳子はわざと考えるふりをしてから、真澄の下半身を指さして言った。淳子が指さす先、真澄は太腿を小刻みに震わせながら、内腿を摺り合わせるような仕種を繰り返している。
「ほら、小っちゃな子がこんな仕種をするのは、たいてい、おしっこが出ちゃった合図なのよ。いいわ、おむつが汗で濡れてないかどうか確かめるつもりだったから、今のうちにおむつの様子を調べてみましょう。あ、美香ちゃんはそのまま哺乳壜を持って、お水を飲ませていてあげて」
 淳子は続けてそう言うと、床にぺたんと座りこんでいる真澄の斜め前に膝をつき、両手を伸ばしてロンパースの股間に並ぶボタンを五つとも手早く外して、ボトムの生地をさっと捲り上げた。
「本当は調べなくてもわかってるわよ。おしっこ、出ちゃったのよね? いい子ね、真澄ちゃんは。ちゃんと先生の言いつけを守って哺乳壜が空になるまでにおもらしできるんだから。でも、美香ちゃんたちが見てるから、ちゃんと調べるふりをしておきましょうね」
 淳子は真澄の耳元に囁きかけると、あらわになったおむつカバーの裾ゴムを指先で押し開くようにして、おむつカバーの中に右手をそっと差し入れた。
「やっぱりだ。思った通り、おむつが濡れちゃってる。それでお尻が気持ち悪くてもじもじしてたのね、真澄ちゃん」
 右手をおむつカバーの中に差し入れてすぐ、淳子は教室中に響き渡るような声で言った。
「ふぅん、真澄ちゃん、おもらしだったんだ。でも、朝のご挨拶の時におむつを取り替えてもらって、すぐまたしちゃったんだね」
 美香は真澄にともなく淳子にともなく、独り言みたいに呟いた。
「そうね、さっきのおもらしからすぐだったわね。でも、トドラークラスの赤ちゃんだから仕方ないんじゃないかな。さ、そんなことより、早くおむつを取り替えてあげないと真澄ちゃんが可哀想ね」
 淳子は美香に頷いてみせ、ベビーサークルのサイドレールから身を乗り出して、おむつの入ったバスケットとバスタオルを抱え上げた。
「先生、哺乳壜、どうしよう?」
 淳子が真澄のおむつを取り替える準備をしている様子を目にして、美香は、まだ湯冷ましの水が残っている哺乳壜と真澄の顔とを見比べながら訊いた。
「あ、いいわよ、そのまま飲ませてあげてちょうだい。美香ちゃんがお水を飲ませていてもおむつを取り替えられるから。――はい、真澄ちゃんはバスタオルの上にころんしようね」
 淳子は美香に笑顔で応え、広げたばかりのバスタオルの上に真澄を横たわらせた。
「おむつを取り替える間、美香お姉ちゃんに哺乳壜でお水を飲ませてもらえてよかったわね、真澄ちゃん。これからもこうしてもらえば、給食の時もオヤツの時も、途中でおもらしをしちゃっても、美香お姉ちゃんに哺乳壜でミルクを飲ませてもらいながらおむつを取り替えてあげられるね」
 淳子は、美香が真澄に哺乳壜の湯冷ましを飲ませている様子を満足げな表情で観察しながら、真澄のおむつカバーの前当てと横羽根を開いた。
「あら、さっきのおもらしから一時間半ほどしか経ってないから、やっぱり量は少ないみたいね。いつもだと、おむつに乾いたところがまるでないほど濡れてるのに、今はところどころ乾いたままだわ」
 淳子は、あらわになった動物柄のおむつに手の甲を押し当てて濡れ具合を確かめると、大げさに感心してみせた。
 どこか揶揄するような淳子のそんな言い方に真澄は唇を噛みしめた。しかし、美香の手で哺乳壜の湯冷ましを飲まされている最中だから、唇ではなくゴムの乳首をきゅっと噛むことになる。哺乳壜の中に残った湯冷ましの水面にぶくぶくと泡がたって、口の中に予想外のたくさんの水が流れ込む。水にむせてケホンケホンと真澄が咳をした拍子に、口の中に溜まっていた水がごぼっと溢れ出し、頬から顎先にかけてのあたりをびしょびしょに濡らしながらバスタオルに滴り落ちた。
「あらあら、真澄ちゃんはまだ哺乳壜のお水も上手に飲めないくらい小っちゃな赤ちゃんだったのね。それなら、優子お姉さんのおっぱいを毎晩吸っているのも仕方ないかもね」
 真澄がむせて水を吐き出したのに驚いた美香が慌てて哺乳壜を床に置く様子を眺めながら、淳子はくすくす笑って言った。
 だが、真澄は一言も言い返せない。いつもならまるで意識しなくてもおよそ二時間ごとに決まって溢れ出し、おむつをぐっしょり濡らすおしっこなのに、いやらしいお汁の痕跡を洗い流すために意識して出そうとする時に限ってなかなか流れ出さない。それでも、何度も深呼吸を繰り返して下半身の力を抜いてみたり、自分が便座に腰かけている様子を思い浮かべたりして、哺乳壜の中の水が残り僅かになってようやく溢れ出したおしっこ。やっとのこと膀胱からじわじわと溢れ出したおしっこが布おむつに吸い取られながらじくじくと下腹部全体を濡らしながら広がってゆく感触に、これで園児たちに愛液のことを知られずにすむと内心ほっとしたものだ。けれど、そのすぐあとで、自分がとんでもないことをしてしまったことに気がついた。園児たちにいやらしいお汁のことを知られるのをどうしても避けたいという思いで気持ちばかりあせる中、淳子に言われるまま自らの意思でおもらしをしてしまったものの、それがどんな意味を持つことなのか、ようやく我に返った真澄は、激しい慚愧の念とともに覚った。それは、二度と引き返すことのかなわぬ道に自分から足を踏み入れる行為だった。
「大丈夫? 真澄ちゃん、大丈夫だった?」
 哺乳壜を床に置いた美香は、よだれかけの端で真澄の頬と顎、唇の端に残っている水滴を甲斐甲斐しく拭い取り始めた。
 けれど真澄は、そんな美香の言葉も耳に届いていないのか瞼をぎゅっと閉じ、淳子のなすがまま足首を高々と差し上げられ、抵抗する気力など微塵も残っていないかの様子でおむつを取り替えられるばかりだった。




 教室の引き戸をノックする音が聞こえたのは午後三時少し前。オヤツを目の前にした園児たちが、お昼寝から覚めたばかりの真澄のおむつを淳子が取り替えるのを首を長くして待っている最中のことだった。
「はい、どうぞ」
 真澄のお尻の下に新しいおむつを敷き込みながら、淳子は引き戸の方に振り向いて声をかけた。
「すみません、おじゃまします」
 恐縮した様子でそう言いながら引き戸を開けて教室に入ってきたのは優子だった。
「あら……真澄ちゃんのお姉さん。こんな時間にどうかされたんですか?」
 思いがけない人物の登場に、淳子は真澄のおむつを取り替える手を止めた。
「いえ、その、どうしたということはないんですけど、午後の講義が休講になってしまったもので、少し早いかなとは思ったんですけど真澄ちゃんを迎えにきたんです。本当は昼食のすぐ後から時間が空いていたんですけど、それだとあまりに早すぎると思って、いろいろ買い物をしてからこちらに来たんです。でも、あの、お迎えにはまだ早すぎますか? 教室へ来る前に職員室に立ち寄って、そこにいらした園長先生にうかがった時には大丈夫でしょうっておっしゃっていただいたんですけど」
 一斉に自分の方に向けられた園児たちの視線を痛いほど感じながら、優子は遠慮がちに言った。
「あ、そういうことですか。結構ですよ、連れて帰っていただいても。基本的には、お昼からなら保護者の方の都合に合わせますので。でも、今おむつを取り替えてあげているところですから、その間だけお待ちください」
 優子と自分がマンションで隣どうしということや実は優子が真澄の姉などではないことを園児たちに気づかれないよう、二人きりの時とはまるで違う他人行儀な言葉遣いで淳子は応えた。
「あの、真澄ちゃん、やっぱり保育園でも何度もおむつを汚しちゃうんでしょうか」
 優子は、ベビーサークルのそばに近づくと、手際よく真澄の下腹部を新しいおむつで包み込む淳子の手元を覗き込んで言った。
「そうですね、今日の場合だと、これまでに、朝のご挨拶のすぐ後で一度、それから一時間半ほどしてから一度おむつを汚して、あと、お昼前に一度と、次は給食を食べながらだったかな。それと、お昼寝の間におねしょをしちゃって、こうして取り替えてあげているところなんです」
 淳子は少し考えて言った。
「え? お昼前におもらししちゃって、それからまたすぐ、給食を食べながらですか?」
 優子は半ば呆れたように聞き返した。
「ええ、今日から真澄ちゃん、飲み物は哺乳壜で飲むようになったんです。それが影響しているのかどうかわかりませんけど、午前中の失敗も哺乳壜で湯冷ましの水を飲みながらでしたし、給食の時は、哺乳壜のミルクを飲みながらおもらししちゃったんです。トドラークラスの赤ちゃんになって甘えんぼうさんになっちゃったのかもしれませんね。――あ、真澄ちゃんがトドラークラスに移ったこと、お姉さんにはまだ連絡してませんでしたっけ」
 淳子は少し心配そうに言った。
「あ、いえ、トドラークラスのことはさきほど職員室で園長先生からうかがいました。だから、今朝は制服で保育園に送ってきた筈の真澄ちゃんが今は赤ちゃんみたいな格好をしてベビーサークルの中でおむつを取り替えてもらっているのを見ても驚かずにすんだんです」
 優子は淳子にそっと目配せをしながら、いささか説明ぽい返答をした。
「そうだったんですか、園長から説明を受けられたんですね。そのおかげでお姉さんを驚かせるようなことにならずにすんでほっとしました。それじゃ、話を戻しますけど、そういったことで、おむつを汚す回数は昨日より間違いなく増えていますね」
 淳子はおむつカバーの横羽根と前当てを重ねて留め、おむつカバーの形を整えてからロンパースのボトムをボタンで留めながら、溜息まじりに言った。
「そうですか、おもらしの回数が増えてるんですか」
 優子の顔が曇った。
 真澄のおもらしの回数が昨日よりも増えているのは間違いのない事実だった。午前中、美香に哺乳壜の湯冷ましを飲ませてもらいながら意識的におむつを汚したおもらし。あの時のおもらしの感触が強烈な印象を伴って真澄の心に強く刻み込まれたのが、おもらしの増えた理由だった。二十歳にもなって自分で意識しながらおしっこでおむつを汚すというような行為を体験することは普段なら絶対にない。絶対にない筈の異様な行為を体験してしまったことで、おむつに吸い取られながらじわじわと下腹部に広がってゆくおしっこの生暖かい感触と、その時に口にふくんでいた哺乳壜の乳首の感触とが相い合わさって、淳子が睡眠誘導剤を使って与えた強力な暗示と同じくらいくっきりと真澄の胸の内に刻みつけられた結果、さほど尿意を感じていない時でも哺乳壜の乳首を口にふくんだ途端に膀胱の緊張が解けておしっこを溢れ出させてしまうような身体になってしまったのだ。淳子から与えられた暗示によって尿意を覚えた瞬間におもらしをしてしまう体質はそのまま、その上に、哺乳壜の乳首を咥えるとおしっこが出てしまう体質になってしまったのだから、おむつを汚す回数が増えるのは当然のことだった。
「さ、できた。おむつを取り替えてあげたから、これでお姉さんと一緒にお家に帰れるわよ」
 淳子は真澄を立たせると、厚めにあてたおむつのためにぷっくり膨らんだロンパースのお尻を優しくぽんと叩いてから抱き上げ、ベビーサークルの外におろした。
「あの、お手数をかけさせてすみません」
 優子は、淳子が鍵を使ってベビーサークルから出てくるのを待って、ぺこりと会釈をした。
「いえ、仕事ですから気になさらないでください。それより、真澄ちゃんをお家に連れて帰ってもらうにあたって一つ説明しておきたいことがあります。――美香ちゃん、こっちへ来てちょうだい」
 淳子は、頭を下げる優子に向かって軽く首を振ると、こちらの様子をじっと窺っている美香に手招きをして自分の傍らに呼び寄せた。
「この子は、保育園で真澄ちゃんのお姉さん役をしてくれている、クラス一番のしっかり者の三澤美香ちゃんです」
 淳子は美香の体を優子の目の前に押しやって紹介した。
「こんにちは、真澄ちゃんのお姉さん。三澤美香です」
 緊張した面持ちながら、初対面の優子にも臆することなく美香は笑顔で挨拶をした。
「こんにちは、美香ちゃん。ほんと、ちゃんとご挨拶できて、しっかりさんなのね、美香ちゃんは」
 思わず目を細めて優子が応える。
「ええ、とってもしっかりした子です。ただ、一つだけ困ったことがあって、実は一昨日までおむつのお世話になっていたんですよ」
 美香の顔を優しく見おろす優子に、苦笑交じりに淳子が言った。
「あ、先生、ひどい。そんなこと、真澄ちゃんのお姉さんに言わなくてもいいのに」
 美香は頬をほんのりピンクに染め、淳子に向かって唇を尖らせた。
「だって、一昨日までのことだから話してもいいじゃない。もしもまだおむつだったら美香ちゃんも恥ずかしいでしょうけど、今はちゃんとパンツなんだから。――それで、美香ちゃんは一昨日でおむつが外れたんですけど、それからまだ三日も経っていませんから、念のためにと思って、美香ちゃんのお家から預かっているおむつはまだお返ししていないんです。実は今日、それで助かったんです」
 淳子は美香に向かって悪戯っぽく指を振ってみせてから、優子の方に向き直って言った。
「さきほども言いましたように、真澄ちゃんは今日、何度もおもらしをしちゃいました。それで、通園鞄に入っていた替えのおむつも、予めこちらで用意していたおむつも、みんな使っちゃったんです。あいにく今日は曇りがちのお天気だから午前中に洗濯したおむつもまだ乾いてなくて、真澄ちゃんがお昼寝の間におねしょしちゃったんですけど、取り替えてあげようにも替えのおむつがなくて困っていたんです。その時に思い出したのが、まだ預かったままになっている美香ちゃんのおむつのことでした。それで、美香ちゃんにお願いしてみたら――」
「美香、真澄ちゃんにおむつ貸してあげてもいいよって言ったんだよ。昨日も、真澄ちゃんがたくさんおもらししちゃっておむつが足りなくなったら美香のおむつ使っていいよって先生に言ったんだよ」
 一昨日までのおむつのことが話題に上ったために恥ずかしそうにしていたのが、一転、誇らしげに胸を張って美香が淳子の説明を引き継いで言った。
「ええ、そういうことなんです。さっき真澄ちゃんにあててあげたのは美香ちゃんのおむつですし、通園鞄にも美香ちゃんのおむつを入れておきました。それと、うちの保育園では、園児のお家から預かったおむつには油性のマジックインキで子供の名前を書く決まりになっているんです。ですから、お家で真澄ちゃんのおむつを取り替える時、知らない名前がおむつに書いてあるのを見ても驚かれないよう、そのことをお伝えしておきたいと思いまして」
「あ、そういうことなんですか。わかりました、美香ちゃんのおむつ、ありがたく使わせていただきます。――美香ちゃん、真澄ちゃんにおむつを貸してくれてありがとう」
 優子は美香の肩に掌を置いて、にこっと笑って言った。
「だって、美香はパンツのお姉ちゃんだけど、真澄ちゃんはおむつの赤ちゃんだもん。おむつ貸してあげるの、当たり前だよ」
 はにかんだ表情で美香は言って、そのすぐ後、弾けるような笑顔になった。
「お伝えしておくことはそれだけです。これで、真澄ちゃんをお家に連れて帰っていただいて結構です」
 淳子はわざと事務的な口調でそう言ってから、優子の耳元に顔を寄せて小声で囁きかけた。
「それじゃ、今夜も真澄ちゃんのことをお願いするわね。真澄ちゃん、すっかり優子お姉さんになついちゃって、私の部屋に連れて帰っても駄々をこねるでしょうから」
「わかりました、石田さん。今夜もたっぷり甘えさせてあげます」
 優子も小声で応えると、意味ありげにウインクしてみせてから、真澄の手を握って言った。
「さ、お家に帰りましょう。真澄ちゃんが喜びそうな物をたくさん買ってきたから、お家に帰ったら見せてあげるわね」
「……こ、こんな格好で帰るの? こんな、赤ちゃんみたいな格好のまま……」
 手を引いて歩き出す優子に、真澄は激しく首を振って両足を踏ん張った。
「そうよ。だって、真澄ちゃんはトドラークラスの赤ちゃんだもの。赤ちゃんが赤ちゃんの格好をするのは当たり前でしょ?」
 足を踏ん張る真澄のお尻を掌で前の方に押し出すようにして淳子が言った。
 お尻を押された弾みで真澄の足が一歩二歩と前へ進む。それに合わせて優子がぐいっと手を引くものだから、もう立ち止まることはできない。
「や、やだ……こんな格好で保育園の外へ出るなんて……」
「それじゃ、先生は真澄ちゃんたちを見送ってくるから、その間、みんなはオヤツを食べていてね。美香ちゃん、『いただきます』のご挨拶、お願いね」
 激しく首を振りながら優子に引きずられるようにして教室を出て行く真澄に続いて、淳子はそう言い残して教室をあとにした。

「やれやれ。こんなに手こずらせるなんて、真澄ちゃんにも困ったものね」
 真澄を後部座席に押し込み、チャイルドシートに座らせて体をベルトで固定してから、ようやく淳子は一息ついて優子と顔を見合わせ、溜息交じりに呟いた。
「そうですね。ほんと、念のためにチャイルドシートを付けておいてよかった」
 優子は、とうとう抵抗を諦めたのかチャイルドシートに座って体を固くする真澄の様子を眺めながら相槌を打った。
 優子の説明では、朝、真澄を保育園に送ってきた時は車の後部座席には何も付いてなかったが、買い物の途中に自動車用品の専門店に立ち寄ってチャイルドシートを取り付けてもらったということだった。幼児を車に乗せるのにチャイルドシートに座らせていないのを警官にみつかって免許証の点数が減るのを防ぐためというのが元々の理由だが、赤ちゃんの格好のままマンションへ帰るのはいやだと言って暴れる真澄をおとなしく座らせることができたから、設置してすぐ、思わぬ形で役に立ったというところだ。
「それで、買い物って、何を買ってきたの? 真澄ちゃんが喜ぶ物ばかりよって教室で言ってたけど」
 園児や他の保育士が近くにいないこともあり、淳子はいつもの親しげな口調に戻って優子に尋ねた。
「そんな、たいした物じゃありませんよ。赤ちゃん用品を扱っているお店ならどこにでも売っているような物ばかりなんです。一晩だけだったけど真澄ちゃんを預かったらとても可愛くて、もう手放せなくなって、今夜も石田さんにお願いして真澄ちゃんを預からせてもらうつもりで、育児用品を買い揃えてきたんです。昨夜の真澄ちゃん、とっても甘えんぼうさんで、とてもじゃないけど保育園に通ってるお姉ちゃんには思えなかったんです。それで、赤ちゃんみたいにしてあげたらすごく可愛いだろうなと思って」
 優子は淳子の顔を見ながらそこまで言うと、チャイルドシートに座る真澄の姿を再び眺めながら続けた。
「でも、保育園でも赤ちゃんになってるなんて思いませんでした。だけど、これなら、買ってきた物は一つも無駄にならないでしょうね。あ、そうだ。どうせだから、見てもらえます?」
「なるほど、どこにでもある育児用品ね。哺乳壜にオシャブリ、ベビーパウダー、それとヌイグルミやガラガラに……」
 淳子は、優子が車のトランクを開けると、積んであった紙袋の中身を一つ一つ手に取って確認していった。確かに、どれも普通に赤ちゃん用品の店に売っている物ばかりだ。けれど、チャイルドシートに座らされて二人の会話を耳にする真澄にしてみれば、それをみんな自分が使わされるのかと思うと、たまったものではない。保育園では強引にトドラークラスに入れられて赤ん坊扱いされ、マンションに帰ってからもやはり優子の手で赤ん坊として扱われるのだから羞恥の極みだ。けれど、今朝になって目が覚めた時に吸っていた優子の乳首の感触を思い出すと、妙に切ない気分になってくるのも事実だった。
「あら、おむつも買ってきたのね。真澄ちゃんのおもらしの回数が増えておむつが足りなくなりそうだってこと、前もってわかっていたの?」
 一つ目の紙袋の中身を確認し終わって別の紙袋を覗き込んだ淳子が少し驚いたように言った。
「ううん、そんなこと前もってわかりっこないですよ。ただ、お店の中をうろうろしていたら布おむつの陳列棚が目について、それで幾つかパッケージを手に取って見てたら、こんな可愛いおむつがあるのに気がついて。それで、思わず買ってきたんです。こんな可愛いおむつをあててあげたら真澄ちゃん喜んでくれるだろうなって思って」
 優子は軽く首を振って説明した。
「あ、そうだったの。でも、真澄ちゃんが喜んでくれるのは確かだと思うわよ。だって、こんなに可愛いキティちゃんのおむつだもの」
 説明を聞き終えた淳子は優子に向かって笑顔で頷いて、紙袋からおむつの袋を一つ取り出すと、周囲の目を気にしてかチャイルドシートの上で身を縮こませている真澄の目の前に突きつけた。
「ほら、可愛いでしょ? 優子お姉さんが真澄ちゃんのために買ってきてくれたんだって。よかったわね、真澄ちゃん。今夜はキティちゃんのおむつをあててもらって優子お姉さんのおっぱいを吸いながらねんねできるのよ」
 優子が買ってきたおむつを目の前に突きつけられて真澄が羞恥に頬を染める様子を満足そうに眺めてから、淳子は笑いを含んだ声で言った。
「それとも、美香お姉ちゃんから貸してもらったおむつの方がいいかしら。美香お姉ちゃんが何度も汚してそのたびにお母さんがお洗濯をして柔らかになっているおさがりのおむつの方がお肌には優しいものね。お部屋でおむつを取り替えてもらう時、どっちのおむつがいいのか、ちゃんと優子お姉さんに教えてあげてね。でないと、お姉さん、迷っちゃうから」
「そうよ、真澄ちゃん。ちゃんと教えてくれたら、真澄ちゃんの好きな方のおむつをあててあげるからね。好きな方のおむつをあてて私のおっぱいを吸いながらねんねしておねしょするのよ、真澄ちゃん。うふふ。真澄ちゃんがそんなふうにたくさんおねしょとおもらしをするから、ほら、お洗濯のおむつがあんなにあるわ。お迎えに来て車を停めたら物干し場が見えて、びっくりしちゃった」
 淳子の言葉に頷いて、優子は、車を停めた道路脇からもよく見える物干し場を指さした。
 優子が指さす先、物干し場に張った細いロープや円形のハンガーに吊るされて、たくさんのおむつが風に揺れていた。  
「あのおむつ、みんな、真澄ちゃんが汚しちゃったんですよね、石田さん」
 物干し場の様子を眺めながら、優子は確認するように言った。
「そうよ。教室でも言ったけど、今日は曇りがちだからまだ乾かなくて、ああして干したままなの。日が暮れる前には取り込まなきゃいけないけど、少しでも乾かしたいから五時過ぎくらいまでは干しておこうと思ってるの」
 園児を迎えにくる保護者が最も多くなるのは四時過ぎから五時過ぎまでの時間帯だ。それを承知の上で淳子は真澄が汚したおむつを干したままにするつもりだった。こうしておけば、今日と明日、お喋るに興じる母親たちの話題はもう決まったようなものだ。巧妙に仕掛けておいた罠に真澄を追い込むための策略は着々と進んでいるわけだ。



《 10 保育実習が終わっても 》

「ふう、重かった。さすがに、大きな紙袋を一度に四つも持つと大変ね」
 ロンパース姿の真澄を先に部屋の中へ入れ、あとから、両手に紙袋を二つずつ提げた優子が部屋に入ってドアを閉めた。左手に持った紙袋は優子が自分で買ってきた物で、右手の紙袋には、真澄ちゃんに着せてあげてねといって園長から渡されたロンパースやベビードレスといった衣類が詰まっている。
 優子がドアを閉めるのを見届けた途端、真澄がへなへなと廊下にしゃがみこんでしまった。
「どうしたの、真澄ちゃん。急に体中の力が抜けちゃったみたいだけど」
 紙袋を廊下の壁にもたせかけるようにして置いた優子は、廊下の端にお尻を落としてしゃがみこむ真澄の顔を慌てて覗き込んだ。
「こんな格好で……こんな赤ちゃんみたいな格好で……」
 真澄は、すがるような目で優子の顔を見た。マンションの駐車場から優子の部屋までの間、幸い、他の住人と会うことはなかったが、階段を昇っている時は誰か後ろからついてくるんじゃないか、共用廊下ではいつか誰かと出会うんじゃないかとびくびくし通しだったし、車に乗っている時も、信号待ちで車が止まるたびに、隣の車に乗っている人がこちらを見るんじゃないかと早鐘を打つように心臓がどきどきし続けていた。それが、優子の部屋に辿りついたことで、ようやく緊張を解くことができたのだ。体中から力が抜けてしまうのも無理はない。
「ああ、誰かに会うのが恥ずかしくて緊張していたけど、部屋に入って気持ちが緩んだのね。あらあら、気持ちだけじゃなくてお口も緩んじゃって」
 優子の言うように、極度の緊張の反動か真澄は口を半ば開いたままで、唇の端からよだれが流れ出し、ロンパースの胸元を覆う大きなよだれかけを濡らしていた。
「でも、私はちょっと残念ね。真澄ちゃんの可愛い格好を誰かに見てもらいたかったんだけどな。――はい、これで綺麗になった。じゃ、いつまでもこんな所にいないでリビングへ行きましょう。私が早く迎えに行ったから、真澄ちゃんはオヤツを食べられなかったんだよね。お買い物の途中、おいしそうなシュークリームをみつけたから買ってきたんだ。さ、一緒に食べようね」
 優子はポケットから取り出したハンカチで真澄の口元と顎を拭きながらくすっと笑い、よだれを綺麗に拭い取ると、真澄の脇の下に手を差し入れて立たせ、いったん廊下に置いた紙袋を再び持ち上げて歩き出した。

「はい、ここにお座りして。昨夜の夕ごはんは年少さんだったから椅子にお座りして大きなテーブルで食べたけど、真澄ちゃん、トドラークラスの赤ちゃんになっちゃったから、今夜から床にお座りして食べるのよ。そのお稽古に、ここでオヤツのシュークリームを食べようね」
 リビングルームに足を踏み入れた優子は、造り付けになっている物置部屋から引っ張り出してきた小さな座卓を部屋の中央付近に置いて、その前に真澄を座らせた。
「……どうしてトドラークラスだと椅子じゃなくて床にお座りするの?」
 お尻を床にぺたんとつけて座った真澄は、優子の顔と座卓とを見比べて訊いた。
「だって、赤ちゃんはおとなしく椅子にお座りできないもの。ちょっとでも目を離すと落っこちちゃうから危ないでしょ? だから、床にお座りなのよ」
 優子は真剣な表情で言ってから、急に悪戯っぽく微笑んで続けた。
「それに、椅子にお座りしてると、おもらしでおむつを取り替えてあげる時、抱っこして床におろしてあげないといけないでしょ? だったら最初から床にお座りしていた方がいいものね」
「……」
 おもらしのことを言われると何も言えなくなってしまう。最初の頃は「真澄、赤ちゃんじゃない」と何度も言っていたが、自分よりもずっと年下の園児たちの目の前で何度もおむつを取り替えられ、一つ年下の優子の手でおもらしとおねしょのおむつを取り替えられ、ついさっきはロンパースを着てベビーサークルの中に横たわった姿でおむつを取り替えられるところを優子と園児たちの目にさらした真澄だから、それも仕方ない。
「それじゃ、オヤツにする前にオシャブリをないないしようね。これを咥えたままだと、せっかくのシュークリームが食べられないものね。でも、ずっと咥えてるなんて、真澄ちゃんはオシャブリが大好きなのね」
 シュークリームの箱を開けかけた優子だが、真澄がオシャブリを咥えたままなのに気がついて、真澄の口元に右手を伸ばした。
 真澄にしても、オシャブリが好きでずっと咥えているわけではない。園長室で制服からロンパースに着替えさせられた時に強引に咥えさせられたのだ。もちろん、真澄は抵抗した。一度は咥えさせられたオシャブリを即座に吐き出しもした。けれど、真澄が吐き出したオシャブリを再び咥えさせながら園長が
「私の指示に従えないのなら保育実習の成績は『不可』として、すぐにでも実習を中断、短大に戻っていただきます。もちろん、短大の教務課は『不可』の理由を問い質してくるでしょう。その時の返答は決まっています。『園児たちの目の前でおもらしをしてしまい、指導保育士の手でおむつを取り替えられるような人が保育士になれるわけがありません』私はそう答えて、証拠のビデオテープも提出するつもりです。それぞれの教室には防犯カメラが設置されています。カラーで鮮明な画像を録画できる最新鋭の防犯カメラです。このカメラに、田村先生が石田先生におむつを取り替えてもらっている場面が何度も写っています。これほど確かな証拠はありませんでしょう?」
と囁きかけてきた。口調こそ穏やかだが、「私の言うことをきけないなら、恥ずかしい姿を録画したビデオテープを短大に送りつけますよ」といって脅しをかけているのは明らかだった。結局、真澄はその脅しに屈して、哺乳壜で何かを飲む時以外は常にオシャブリを咥えることを強要されることになったのだった。その上、ずっとオシャブリを咥えているとどうしてもよだれをこぼすからといって、食事時以外もよだれかけを着用することを強要されることになったのだ。
「はい、これでいいわ。あ、でも、飲み物がまだだったわね。保育園のオヤツの時間、飲み物はミルクなんだよね? じゃ、お家でもミルクがいいわね」
 優子は手にしたオシャブリをそっと座卓に置くと、身軽に立ち上がって、ダイニングルームとキッチンとを隔てるカウンターにもたせかけて置いた紙袋の一つに手を突っ込んで新品の哺乳壜を取り出した。
「え? そ、それで飲むの?」
 優子が手にした哺乳壜を目にした真澄は、目の下を赤く染めて蚊の鳴くような声で訊いた。
「そうよ。淳子お姉さんが、真澄ちゃん今日から飲み物は哺乳壜になったって教室で言ってたじゃない。お店でこれを買う時、ひょっとして真澄ちゃんが恥ずかしがって可哀想かなとも思ったんだけど、今日から保育園でも哺乳壜を使うようになったから丁度いいわね。うふふ、買っておいてよかった」
 優子は目を細めて言い、真新しい哺乳壜を流し台でさっと水洗いして綺麗に拭き清めてから、冷蔵庫のミルクを八分目ほど満たして、真澄のすぐ横に正座した。
「あ、さっきは言い忘れたけど、椅子じゃなくて床にお座りすると、こんなこともできるんだよ。ほら、甘えんぼうの真澄ちゃんがとっても喜ぶ座り方」
 優子はにこっと笑うと、真澄のお尻を自分の太腿のあたりに載せ、首筋から背中にかけてを左腕で後ろから支えるようにして座らせた。こうすると、小柄な真澄の顔が大柄な優子の顎より少し下、胸元あたりにくる。
「ね、真澄ちゃんの大好きなおっぱいがお顔に当たるでしょ? 真澄ちゃん、こんな座り方が大好きなんだよね」
 優子は、ほんのりピンクに染まる真澄の頬を、いとおしそうに人さし指でつついた。
「……ゆ、優子お姉ちゃん。真澄、真澄ね……」
 何か思い詰めたような表情していた真澄が突然、体を捻るようにして優子の体にしがみついた。
「どうしたの、真澄ちゃん。何があったの?」
 優子は真澄の背中を何度も撫でさすりながら、真澄の耳朶に鼻の先を付けるようにして甘い声で言った。
「真澄、真澄ね……明日から保育園へ行くの、やなの。保育園、お休みする」
 真澄は優子の胸元に顔を埋めて言った。声がくぐもっているのは口が優子の胸元に押さえつけられているせいだろうが、ひょっとすると、真澄は泣いているのかもしれない。
「どうして? どうして保育園をお休みしたいの? 保育園には優しいお姉ちゃんやお兄ちゃんがたくさんいて遊んでくれるのに」
 優子は吐息で真澄の耳朶をくすぐるようにして重ねて訊いた。
「だって、みんなで真澄のこと苛めるんだよ。真澄、赤ちゃんじゃないのに、真澄のこと赤ちゃんだって言うんだよ。先生もお友達も、みんなそう言うんだよ。だから、保育園、行きたくないの」
 真澄は、幼児がいやいやをするように首を振った。ツインテールにまとめた髪が揺れて優子の首筋に毛先が触れる。
「それは違うわよ、真澄ちゃん」
 真澄の訴えに、優子は優しくたしなめるように言った。
「違う? 何が違うの?」
 真澄は優子の胸元に顔を埋めたまま訊いた。
「みんな、真澄ちゃんを苛めてるんじゃないのよ。みんな、真澄ちゃんが可愛くて仕方ないから赤ちゃん扱いするの。だって、世の中で一番可愛いのが赤ちゃんだもの」
「でも、でも、真澄がやめてって言っても、真澄のこと赤ちゃんだって言うんだよ。真澄、赤ちゃんだって言われるのいやだからやめてってお願いしてるのに、みんな、真澄のこと赤ちゃんだって言ってやめてくれないんだよ。みんな、そうやって真澄を苛めるんだよ」
 真澄は、優子の背中にまわした両手に力を入れて、ますます強くしがみついた。
「そうかな、真澄ちゃんのことを赤ちゃんだって言うの、真澄ちゃんを苛めてることになるのかな?」
 優子は真澄の背中を優しくぽんぽんと叩いて言った。
「そうだよ。真澄、赤ちゃんじゃない。赤ちゃんじゃないのに赤ちゃんだって言うの、苛めてるんだよ」
 優子の胸元に顔を埋めて気持ちの高ぶりが幾らか鎮まってきたのか、真澄は甘えるように言った。
「じゃ訊くけど、私が真澄ちゃんのこと赤ちゃん扱いするのも苛めてるのかな。私が真澄ちゃんのおむつを取り替えてあげたり、お風呂で体を洗ってあげたり、おつぱいを吸わせてあげるのって、真澄ちゃんを苛めてることになるのかな?」
 優子は真澄の顎の下に人さし指と中指を滑り込ませ、仔猫にそうするように真澄の首筋を優しく撫でた。
「ううん、違う。優子お姉ちゃんが真澄のこと赤ちゃんだって言うの、苛めてるんじゃない。真澄、わかるもん。優子お姉ちゃんが真澄のこと可愛いって思ってくれてるからだもん」
 真澄は優子の胸元に頬を擦り付けるようにして首を振った。
「そうよ。真澄ちゃんが可愛くて仕方ないから、私は真澄ちゃんを赤ちゃん扱いしてるのよ。だったら、みんな同じじゃないかな? 淳子お姉さんも美香ちゃんも他のお友達も、みんな真澄ちゃんのことが可愛いから赤ちゃんだって言うんじゃないかな?」
「で、でも……」
 でも、真澄は本当は二十歳なんだよ。みんな真澄が二十歳の短大生だって知ってて赤ちゃん扱いするんだよ。園児扱いだけでもとっても恥ずかしかったのに、今度は赤ちゃん扱いなんだよ。いっそ、そう言いたかった。そう言って泣き喚けば、その瞬間は鬱憤が晴れたかもしれない。けれど、そんなことをしたが最後、優子に自分の正体を知られてしまうのだ。真澄は唇を噛みしめて、続く言葉を飲みこんだ。
「真澄ちゃん、やっぱりお腹が空いてるのね」
 優子が突然、これまでの会話とは何の関係もないように思える言葉を口にした。
「え……?」
 思わず真澄はきょとんとした表情で顔を上げた。もう乾いてしまっているようだが、両目の下には、うっすらと涙のあとが残っている。
「あのね、お腹が空くと、悲しいことばかり考えちゃうのよ。お腹がいっぱいだと、みんなが自分のことを可愛がってくれてるんだって思えることでも、お腹が空いてると、同じことなのにみんなが自分のことを苛めてるんだって感じちゃうの。そんな時はね、何か食べるといいんだよ。甘くておいしい物を食べると、悲しい考え方なんて消えちゃって、楽しい考え方ができるようになるの。だから、ほら、おっきしてシュークリームを食べようね」
 顔を上げた真澄の体を自分の太腿の上に引き起こして、優子は大きなシュークリームを一つ箱から取り出した。
「ほら、あーんして。真澄ちゃん、おっきなお口できるかな」
 優子がシュークリームを口元に近づけると、バニラの甘い香りがふわっと広がった。思わず喉がごくっと動いて、知らず知らずのうちに真澄は大きな口を開けていた。その時になってようやく真澄は、自分がとてもお腹を空かせていることを思い出した。オヤツを食べそびれたのもそうだが、考えてみれば、給食も殆ど食べていないのだ。昨日、年少クラスの園児として扱われていた時の給食は、他の園児たちと同様、クリームシチューにパンと紙パックの牛乳、それにデザートの果物といった組み合わせだったのが、トドラークラスの赤ん坊として扱われることになった今日の給食は、真澄の分だけ、野菜やチキンのペーストに柔らかいお粥と哺乳壜に入ったミルク、それにデザートにはゼリーといった離乳食だった。それも、美香の手で哺乳壜からミルクを飲まされている最中におむつを汚してしまい、それから後は給食を口にする気にもなれず、殆ど残してしまっていた。そんなところに、シュガーパウダーをたっぷりふりかけたシュークリームの香りを嗅いだものだから、我慢などできる筈がない。
 けれど、あまり慌ててむしゃぶりついたものだから、シュークリームの皮がざくっと割れて、中に詰まっているクリームが真澄の口元にべっとり付き、あるいは皮の裂け目からぽたぽた落ちて、ただでさえシミが大きく広がっているよだれかけを更に汚してしまう。
「ほらほら、あんまり慌てて食べるからこんなに汚しちゃって。ちゃんと食べなきゃメッ!ですよ」
 優子は楽しそうに笑いながら、よだれかけのまだ汚れていない箇所で真澄の口元からクリームを拭い取って、座卓の上に置いていた哺乳壜を持ち上げた。
「はい、あまり頬ばると喉が詰まるから、ミルクと一緒に食べちゃおうね」
 顔が少し上を向くよう真澄の体を自分の胸元にもたせかけさせて、優子は哺乳壜の乳首を真澄の唇に押し当てた。
 淳子や美香の手で飲まされる時とは違い、いたって素直に真澄の口が開いてゴムの乳首をふくみ、ちゅうちゅうと音を立てて吸い始める。哺乳壜を八分目ほど満たしているミルクが少しずつ減って、ミルクの水面に小さな泡がぷくぷくと立つ。
「そうそう、お上手よ、真澄ちゃん。ちゃんと哺乳壜からミルクを飲めて、真澄ちゃんは本当にお利口さんだわ」
 相好を崩してそんなふうに言いながら、優子は哺乳壜の傾きを少し大きくした。それに合わせて真澄も少し上を向いて乳首を吸い続ける。真澄の体の大きささえ気にしなければ、赤ん坊がいる家庭ならどこにでもありそうな平穏な授乳の時間そのものだ。
 けれど、次の瞬間、真澄が哺乳壜の乳首をきゅっと噛んだ。そのため、乳首を搾るような感じになって、乳首の穴から口の中へミルクが迸り出る。そのすぐ後、真澄の口が僅かに開いて、唇の端からミルクが白い条になって流れ出した。
「あらあら、どうしちゃったの、真澄ちゃん。そんなに急いで飲まなくても……」
 慌ててミルクの条をよだれかけの端で拭き取ろうとして真澄の顔を正面から覗き込んだ優子は、真澄が優子と目を合わせまいとしてぎゅっと瞼を閉じ、小刻みに腰を震わせているのに気がついた。同時に、「哺乳壜で飲み物を飲むようになったのが影響しておもらしの回数が増えたのかもしれない」といった淳子の言葉を思い出す。
「……あ、そういうことか。じゃ、私はおむつを調べるから、真澄ちゃんは自分で哺乳壜を持ってちょうだい」
 そう言って優子が哺乳壜を手渡すと、真澄が両手で受け取る。そうしておいて優子は真澄が身に着けているロンパースの股間に並ぶボタンをぎこちない手つきで外すと、右手の中指と人さし指をおむつカバーの中に差し入れた。
「やっぱりだ。ミルクを飲みながらおもらししちゃったんだね、真澄ちゃん。保育園でおねしょのおむつを取り替えてもらってからまだ一時間も経ってないのに。ほんと、淳子お姉さんの言う通りおもらしの回数が増えちゃったんだ」
 優子はそう言っておむつカバーから指を引き抜くとすっと立ち上がり、哺乳壜を取り出したのと同じ紙袋からキルティング生地の柔らかなマットを取り出して真澄の体の後ろに広げ、その上に真澄を寝かせた。
「おむつを取り替えてあげている間、ちゃんと自分で哺乳壜を持ってなきゃ駄目よ。あ、そうだ。真澄ちゃん、どっちのおむつがいいの? 私が買ってきてあげたキティちゃんのおむつ? それとも、美香お姉ちゃんのおさがりのおむつ? さ、真澄ちゃんはどっちのおむつが好きなのかな」
 おむつカバーの前当てに指をかけながら、優子は悪戯っぽく微笑んで真澄の顔を覗き込んだ。




「――ほら、こうすると、またずっと可愛くなるでしょ? 本当に真澄ちゃんは赤ちゃんのお洋服がよく似合うんだから、もう、可愛くて可愛くてたまらなくなっちゃう」
 脱衣場の壁に填め込みになっている大きな鏡の前に立つ真澄は、丸っこいふわっとした三部袖のワンピースタイプのベビードレスに、ベビードレスと同じ色合いだけれど少し淡い色の生地でできた真新しいよだれかけ、それに、足首のところにサクランボ形のボンボンをあしらった純白のソックスという姿だった。髪は、ツインテールをほどいて全体をふんわり整えながら、前髪と耳の後ろの髪にボリュームを持たせ、毛先をくるっと内巻きにした幼児めいた可愛らしい髪型に変わっていて、周囲をフリルのレースで縁取りした、ベビードレスと同じ生地できたベビー帽子をかぶっている。丈の短いベビードレスの裾からは、お尻の方に上下三段の飾りレースをあしらったベビーピンクのオーバーパンツが半分ほど見えていて、そのオーバーパンツは、たっぷりあてられたおむつのせいで丸く膨らんでいた。
 オヤツのシュークリームで口元とよだれかけをべとべとに汚し、哺乳壜のミルクを飲みながらおむつを汚してしまった真澄の体を綺麗にするため、シャワーを浴びさせて入念に洗ってから脱衣場に連れ出した優子が真澄に着せたのが、この装いだ。そんな真澄の姿は、まだようやくよちよち歩きであんよができるようになったぱかりの赤ん坊そのままだった。
 一方、真澄の姿を頭のてっぺんから爪先まで見渡して満足そうに頷いている優子は、シャワーを浴びたすぐ後ということで、厚手のバスタオルを体に巻いただけという格好だ。並んで鏡に映る二人の姿は、それこそ、若い母親と幼い娘そのものだった。
「オヤツを食べたばかりだから、晩ごはんはもう少ししてからにしましょうね。その間、赤ちゃんの真澄ちゃんが寂しくないように抱っこしてあげる」
 優子は真澄の手を引いて寝室に向かうと、ベッドの端に腰をおろし、横抱きをするような姿勢で自分の膝の上に真澄のお尻を載せて座らせた。
 と、真澄がおずおずと右手を伸ばして優子の胸元に触れる。
「うふふ、おっぱいがほしいのかな、真澄ちゃん。わかってるわよ。シャワーを浴びさせてあげてる時から私のおっぱいをじっと見てたものね」
 真澄は気恥ずかしそうにちらと目をそらしたが、表情は満更でもなさそうだ。
「いいわよ。昨夜から今までずっと我慢してたんだもんね」
 優子は、乳房の上で重ねて留めていたバスタオルの端をすっと緩めると、あらためて乳房の下で重ね直した。大柄な体にふさわしいぷりんとした乳房があらわになって、ぴんと勃ったピンクの乳首が現れた。
「さ、いいわよ。最初は右の方からね。本当におっぱいが出たら嬉しいんだけど、こればかりはそうもいかないよね。あ、でも、真澄ちゃんがずっと吸ってくれたら、いつか出るようになるかな」
 優子はそう言って、右の乳首を真澄の口にふくませた。
 はにかんだような表情を浮かべて、真澄がちゅうちゅう音を立てて優子の乳首を吸い始める。
 そんな真澄の髪をベビー帽子の上からそっと撫でつけ、時おりあやすように真澄の体を優しく揺する優子。真澄は優子を信頼しきった表情で乳首を吸い続ける。
「確かに、こんなに可愛い姿を見ていたら、真澄ちゃんのこと、赤ちゃんにしたくなっちゃうわよね。本当は保育園児の年少さんどころか、私より一つ年上の二十歳の短大生なのに」
 他のことは何も考えず無心に乳首を吸う真澄の横顔を見おろして、優子がぽつりと言った。
 予想もしなかった優子の言葉に真澄の体がびくっと震える。
「あら、私が真澄ちゃんの正体に気づいていたからって、そんなに驚くことはないのよ。だって、ちょっと考えればおかしなことばかりだったでしょう? いくら体格のいい血筋だっていっても、さすがに一メートル五十センチ近くもある保育園児なんていないわよね。それに、私が初めておむつを取り替えてあげた時に気づいた真澄ちゃんのお股。綺麗に剃ってあったけど、剃った跡はすぐにわかったわよ。だいいち、本当の幼児とじゃ、あそこの形とか様子とかが違うものね。真澄ちゃんが本当は保育園児なんかじゃないってことはすぐにわかった。たぶん小学生でもないってことも。――だから、今朝、真澄ちゃんを保育園に送っていってあげた時、淳子お姉さんにいろいろ訊いてみたのよ。真澄ちゃんが本当はどんな子なのか。それと、夕方になってお迎えに行った時も、今度は園長先生に訊いてみたの。朝の淳子お姉さんの説明だと、園長先生も関係しているみたいだったから」
 独り言みたいに淡々と話す優子とは対照的に、真澄の方は心臓が止まるような驚きだった。自分の正体をとっくに知っている優子に向かって精いっぱい幼児のふりをしてみせ、あまつさえ、優子の手で何度もおむつを取り替えられた上に、優子の乳首を吸いながら眠ってしまったのだ。かといって、この場から逃げ出そうとすれば優子と目が合ってしまう。優子が今どんな表情で真澄にことの成り行きを説明しているのか、そんなもの、見られるわけがない。今の真澄にできるのは、優子と目を合わせないよう、優子の胸元に顔を埋めることだけだった。
「二人の話を聞いて、やっとわかったの。真澄ちゃんは知らないでしょうけど、園長先生と淳子お姉さんは『恋人』なのよ。そう、女性どうしの恋人。だから、いくら愛し合っても子供はできない。でも、子供好きな二人だから、どうしても可愛い赤ちゃんがほしくてたまらなかったのね。それで、ちょっと乱暴な方法だけど、真澄ちゃんを自分たちの赤ちゃんにしちゃう計画を立てたのよ。でも、二人がそんな計画を立てることになったきっかけは真澄ちゃん自身なのよ。真澄ちゃんさえ保育実習をさせてほしいって頼みに行かなかったら、こんな計画、思いつきもしなかったんだから。そうよ、真澄ちゃんの可愛らしさが全ての始まりだったのよ」
 そう言って優子は真澄の顔をじっと覗き込んだ。
 真澄は身を縮こませて、ますます深く優子の胸元に顔を埋める。
「でも、二人ともひどいわね。昨夜、初めて真澄ちゃんに出会ってすぐ後にそんな事実を知っていたら、私だってこんなに真澄ちゃんの可愛らしさのとりこにならずにすんだのに。真澄ちゃんのおむつを取り替えてあげて、真澄ちゃんに晩ごはんを食べさせてあげて、真澄ちゃんをお風呂に入れてあげて、真澄ちゃんにおっぱいを吸わせてあげて、そうやって真澄ちゃんの可愛らしさを知っちゃった後にそんなこと説明されても、もう今更、真澄ちゃんを手放す気になんてなれないんだから。――だから、二人にお願いしたの。私も二人の計画の仲間に入れてほしいって。これからは、園長先生と淳子お姉さんが真澄ちゃんのパパとママで、私が真澄ちゃんのお姉ちゃんになるのよ。あ、でも、そうすると、美香ちゃんも真澄ちゃんのお姉ちゃんだから、私と美香ちゃんは姉妹になるのかしら。手のかかる赤ちゃんの真澄ちゃんのお世話をする優しい長姉とおしゃまな次姉ってところかしらね」
 優子はくすっと笑って言い、とびきり優しい声で真澄の名前を呼んだ。
「ほら、真澄ちゃん、優子お姉ちゃんに可愛いお顔を見せてちょうだい。いつまでもお顔をないないしてるままじゃ、お姉ちゃん寂しくてしようがないんだから」
 その呼びかけに、少し迷ってから真澄がおそるおそる顔を上げた。
 真澄の目の前にあったのは、どんなわだかまりも恐れも怯えもたちどころに溶かし去ってしまうようなあたたかな笑顔だった。
 優子の乳首を吸いながら、真澄はくい入るように優子の顔をみつめた。
「おっぱいを吸いながらおしっこしようね、真澄ちゃん」
 慈母の声で優子は言った。
「……おむつの中に?」
 少しだけ迷って真澄は言った。
「そうよ。真澄ちゃんは赤ちゃんだもの」
 優子が目を細めて頷いた。
 おむつカバーとオーバーパンツの生地越しに、生温かい液体がじわっと広がる感触が優子の太腿に伝わってきたのは、そのすぐ後のことだった。




 保育実習を終えて真澄が短大に戻ったのは、予定通り二週間後のことだった。園長が認定した保育実習の成績は『特優』。但し、保育実習生としての成績ではなく、保育される側としのて成績だ。しかも園長は、短大を卒業したらタンポポ保育園に就職できるよう既に内定を出していた。もちろん、これも保育士としてではない。
 短大に戻った真澄のスカートがいつも丸く膨らんでいることを目敏い同級生たちは気づいていた。けれど、真澄が一度もトイレへ行かないことと、その代わりに、二時間に一度くらいの割合で両脚の内腿を摺り合わせながら医務室へ向かうことに気がついた同級生は意外に少なかった。

[完]



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る