幻影の果て


 
 平成十四年二月のある日のこと,東京はこの冬一番の寒波に見舞われていた。都心でも約三センチの積雪があり,うっすらと雪化粧をした街並みは,いつもよりも明るかった。そして,大都会特有の雑多で醜い物の多くが雪で覆い尽くされてしまったため,東京の街はいつになく美しく輝いていた。皇居のお堀には薄く氷が張っていて,二重橋の近くでは,雪で滑って転びそうになる者の姿も見られた。
 都心では道路に降った雪はすぐに溶けてしまっていたが,歩道の端にはところどころ雪が積もり始めていた。昼休みの丸の内オフィス街を行き交う人々は皆,一様に寒そうにしていた。ある者はコートの襟を立て,ある者はポケットに手を入れて,雪のないところを選んで足早に歩いていた。
 東京駅でも赤煉瓦の駅舎の屋根はすっかり雪に覆われていたが,山梨県内での不通の影響を受けた中央線快速以外には,列車の遅れは今のところ出ていなかった。その中央線ホーム,一番線に七分遅れで到着した橙色の電車から,扉が開くなり一人の男が血相を変えて飛び出して来た。彼は一目散にエスカレーターを駆け下りて行った。
 一時間後,その男の姿は八重洲側にある東北新幹線ホームにあった。彼は,大きなバッグを肩に掛けた女の両手をしっかりと握り締めていた。やがて,小雪の舞う中を新幹線の列車がホームに入って来た。扉が開くと,ホームにいた人々は皆,先を争うように慌ただしく列車に乗り込み始めたが,二人は依然として,手を取り合い,黙ったままじっと見詰め合っていた。
 「間もなく,二十三番線から東北新幹線やまびこ十五号盛岡行,秋田新幹線こまち十五号秋田行が発車致します。」
 発車ベルが鳴り始めると,女は躊躇いながらも男の手を振り払うかのようにして彼に背を向け,小走りに列車に乗り込んだ。そして,デッキで立ち止まると振り返って叫んだ。
 「直行さん!」
 それまでじっと見送っていた男も慌てて列車に駆け寄ったが,彼女のすぐ側まで来た時に扉が閉じ,列車は静かに動き始めた。
 「亜土子さん!」
 列車のドアにしがみ付くようにして手を振る亜土子を追ってプラットホームを走り出した直行の頬には,一筋の涙が伝っていた。ホームの端迄走って行った直行は,列車が見えなくなってからも暫くの間,呆然と北の方を見詰めて立ちすくんでいた。
 
 四洲亜土子は故郷の仙台の高校を卒業後,昭和六十一年春,東京のある私立大学の経済学部に入学し,一人暮らしを始めた。亜土子の家は金持ちというほどではないが,ある程度余裕があったため,亜土子は東京で一人暮らしの女子大生生活をそれなりに謳歌することが出来た。そして,四年後の平成2年春には大学を卒業し,東京丸の内に本社がある中堅食品メーカー,富屋食品工業株式会社に入社した。
 折りしもバブルの絶頂期で,創業者の三代目である富屋唯継社長は設備投資を積極的に推し進めていた。そして,その原資とするために,転換社債やワラント債を大量に発行していたが,バブル期にはこのような債券の引き受け手は幾らでもあったのである。
 更に,富屋社長はメセナ活動と称して音楽ホールや美術館などを次々と建設し,あるいはヨーロッパの古城を買い取るなど,会社の規模にしては派手な活動をすることで有名であった。また,自らが財界人と呼ばれることを好み,大会社の社長らと交わって世界経済について語ることを誇りとしていた。平成三年には財界団体の一つである全日本経営者協会の理事に就任し,一時期は会社の経営をほったらかして,財界の活動ばかりしていたこともあった。
 富屋社長は当時流行していた事業部制を導入したが,その実態は本社の主な部の名称を事業部と変えただけで,事業部の独立採算制とは程遠いものであった。例えば冷凍食品しか作っていない工場の経費が冷凍食品事業部ではなく,全社の生産関係の経費としてドンブリ勘定されていたのである。
 こういった調子で放漫経営を続けていても,バブル期には売上も利益もそれなりに上がって会社経営は一見順調であった。御他聞に漏れず,バブル崩壊後には富屋食品の業績は急速に悪化していったのであるが,保有株式や都市部の遊休不動産,更には一部の工場の売却などによって,辛うじて黒字決算と配当を維持してきたのである。
 このような状況にあって,諸経費の削減が全社的な課題となった。しかし,無理な人員削減や的外れな支出抑制によって,様々な歪みが生じていたことも否めなかった。
 例えば,技術担当の柴田専務は,生産体制を合理化すれば工場の人員は四割削減できるというコンサルティング会社の話を鵜呑みにし,三百人いた工場所属の正社員を百八十人に削減する計画を断行した。しかし,具体的な生産体制の改善計画もないまま機械的に人員を削減して,以前と同じように生産が続けられる筈もなく,人員不足を補うためにパートを大量に雇用することになった。そして,慣れない者が作業をするためにしばしばラインが停止したり,不良品率が上昇するなど,生産効率が大きく低下した結果,寧ろ全工場で生産コストが上昇してしまったのである。
 しかし,この頃から,社員数を減らすことがリストラであり,これを行わない会社は健全な経営をしていないと見做される風潮になってきた。そのためにこのような社員削減策が正当化されていたのである。富屋食品では,削減した工場の人員の解雇は最低限に留めた代わりに,彼らを子会社の所属とし,営業の補助スタッフとして全国の支店に配属した。その結果,正社員数は見掛け上減少したものの,出向社員の転居費用や諸手当,更には子会社の事務経費等のために,全体の人件費はかなり増加していた。また,工場で生産現場や事務を担当していた社員を慣れない営業現場に派遣したために,得意先から不信感を抱かれることも少なくなかったようである。
 
 丸の内の本社でも多くの社員が業務改善・効率化を叫んでいたが,大抵は口先だけで実効性のある改革はなされていなかった。オフィスの机等の配置は旧態依然たるもので,部屋の奥に窓を背にして部長が座り,少し離れた位置に向かい合わせに机が並べられ,部員が肩書に応じて上座から順に並んでいたのである。また,一般の社員がアイデアを自由に出せる雰囲気はなく,役員・部長らの力関係を考えて調整・根回しをするという仕事の進め方も昔のままであった。
 平成八年から,社内には順次グループウェアが導入され,平成十一年には本社の全社員に一人一台ずつパソコンが配布されていた。同時に全員にメールアドレスが与えられたが,実際に使いこなせる者は少なかった。また,グループウェアも殆どの機能が活用されておらず,本来備えている筈の社内掲示板や電子稟議などの機能は使用出来るようにすら設定されていなかった。したがって,パソコンが得意な者が内線電話の代わりにメールを使って連絡を取り合う場合もある,という程度にしか利用されていないのが実状であった。機能としては全社員が誰にでもメールを打つことが出来たが,直属の上司よりも上の者に直接メールを打ってはならないという暗黙の了解があり,例えば平社員が役員にメールを打つことなどは凡そ考えられなかった。
 また,各パソコンにインストールされているワープロは半数くらいの社員が報告書の作成に使用していたが,表計算ソフトを業務に利用出来る者はごく一部であった。データベースやプレゼンテーション等のソフトに至っては,使いこなせる者は殆ど皆無であった。社外との連絡に電子メールを使用したり,インターネットで情報収集をすることが出来る者も極めて稀であった。
 そのような中にあって,亜土子はパソコンを上手く使いこなせば,様々な業務が効率よく処理できることに気付いた。営業部に所属していた亜土子であるが,営業のノルマは与えられておらず,いわばコピーやお茶汲みが仕事の内勤OLであった。しかし,部内にはパソコンが使える社員が少ないので,会議のための様々な資料や重要な報告書等をまとめる仕事もしていた。彼女はパソコンの表計算などの操作を勉強するうちにどんどん興味が湧いてきて,やがて本を買って来てパソコンをいじりながら勉強するようになった。そして平成12年春には,遂に初級シスアドに合格するまでになったのである。彼女は,更に経営的な視点からの業務改善にも興味を持ち,秋に試験が行われる上級シスアドを目指すべく勉強を続けていた。
 そのような亜土子を社内の人間は殆ど理解してくれなかった。何だか分からないがワープロが上手に使えるOLだという程度の認識しかされていなかったのである。
 亜土子が受験した平成12年春の初級シスアドの合格発表が行われる少し前のある日,亜土子は突然,上司の丹羽部長に呼び出された。
 「四洲君,これから副社長のところへ行くんだが,一緒に来てくれないか。」
 「えっ!?」



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