幻影の果て 目次



 この作品の短篇版はメールマガジン,「シスアドちゃんこ鍋」に連載されました。中篇版はこの短篇版を元に,全面的に書き直したものです。
 なお,この作品はフィクションであり、登場する人物・団体等は実在のものとは一切関係ありません。


短篇版中篇版
 第1回(第29号 2002. 5.20)        
 第2回(第30号 2002. 6. 7)  
 第3回(第31号 2002. 7.11)        
 第4回(第32号 2002. 7.31)        
 第5回(第33号 2002. 9.19) 十一  十二  十三  十四 
 第6回(第34号 2002.11.14) 十五  十六 
 最終回(第35号 2003. 1.21) 十七  十八  十九 
番外エピソード




 
連載小説『幻影の果て』           本多忠親

 
第1回

 平成14年2月のある日,小雪の舞う東京駅の東北新幹線ホームで,黙って手 を握り合ったまま,じっと見詰め合う男女の姿があった。やがて発車ベルが鳴る と,女は躊躇いながらも,男の手を振り払うかのようにして列車に乗り込み,デ ッキで振り返って叫んだ。
 「直行さん!」
 扉が閉じ,列車は静かに動き始めた。
 「亜土子さん!」
 列車のドアにしがみ付くようにして手を振る亜土子を追ってプラットホームを 走り出した直行の頬には涙が伝っていた。

 東北地方出身の四洲亜土子は東京の私立大学の経済学部を卒業し,平成2年春 に中堅食品メーカーである富屋食品工業株式会社に入社した。折りしもバブルの 絶頂期で,創業者の三代目である富屋唯継社長は設備投資を積極的に推し進めて いた。そして,その原資とするために,転換社債やワラント債を大量に発行して いたが,バブル期には幾らでも引き受け手があったのである。更に,富屋社長は メセナ活動と称して音楽ホールや美術館などを次々と建設し,あるいはヨーロッ パの古城を買い取るなど,会社の規模にしては派手な活動をすることで有名であ った。また,自ら財界人と呼ばれることを好み,大会社の社長らと交わって世界 経済について語ることを誇りとしていた。
 バブル崩壊後,御他聞に漏れず富屋食品の業績は悪化したが,保有株式や都市 部の遊休不動産,更には一部の工場の売却などによって,辛うじて黒字決算と配 当を維持してきた。このような状況にあって,諸経費の削減が全社的な課題とな った。しかし,無理な人員削減や的外れな支出抑制によって,様々な歪みが生じ ていたことも否めなかった。
 多くの社員が業務改善・効率化を口先だけで叫ぶ中,亜土子はパソコンを上手 く使いこなせば,様々な業務が効率よく処理できることに気付いた。彼女はパソ コンの表計算などの操作を勉強するうちにどんどん興味が湧いてきて,平成12 年春には,遂に初級シスアドに合格するまでになった。そして,更に経営的な視 点にも興味を持ち,上級シスアドを目指すべく勉強を続けていた。
 その平成12年春の初級シスアドの合格発表が行われる少し前のある日,亜土 子は突然,上司の丹羽部長に呼び出された。
 「四洲君,これから副社長のところへ行くんだが,一緒に来てくれないか。」
 「えっ!?」

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第2回

 役員室は富屋食品本社ビルの最上階にあるが,亜土子はこの階には殆ど行った ことがなかった。エレベーターを降りると,そこは下のオフィスとは別世界であ った。廊下の照明は蛍光燈ではなく,やや照度を抑えた白熱灯で,エレベーター の前にはシャンデリアがあった。廊下には分厚い絨毯が敷き詰められていた。
 副社長室の入り口を入ると,そこには秘書のデスクがある。
 「失礼します。」
 「丹羽部長,副社長がお待ちですよ。」
 「はい,ありがとうございます。」
 秘書の女子社員はみな,得意先の問屋などの令嬢を縁故採用したものであるた め,部長といえども非常に気を使っていたのである。
 亜土子は丹羽部長に従って,奥の部屋へ向かった。
 亜土子が初めて近くで見る副社長は意外と気さくそうな人物で,畏まって立っ ている部長と亜土子を応接セットのソファに座らせ,自分は下座の椅子に向かい 合って座った。現在でも営業本部長を兼任する副社長には,営業マン上がりらし い気遣いが感じられた。
 「君が四洲さんですか。パソコンが得意だそうですね。」
 「はい・・・。」
 「実は他でもない,今度我が社が立ち上げる新しいプロジェクトに参加して貰 いたいと思って呼んだのです。」
 「はあ,新しいプロジェクトと申しますと?」
 「ご存じの通り,我が社の業績は思わしくない。今まで通りの営業を続けてい ると,ジリ貧なのは分かるでしょう。そこで,IT技術を利用した最新の販売方 法を導入してe−コマースに参入することにしました。」
 「E−コマース,ですか?」
 「そう,インターネットのホームページ上で顧客から直接注文を受け付け,販 売するのです。」
 「卸や小売店を通さずに直接販売するのですか?」
 「そうです。しかし,一応別会社を設立して,販売元はその会社になります。 丹羽部長にはそこの社長になっていただきます。」
 「でも,そんなことをしたら,既存の卸や小売との関係が悪化しませんか?」
 「四洲君,何ということを!」
 丹羽部長が口を挟んだ。
 「いや,いいんです。四洲さんの意見ももっともだ。でも,これからは古い商 慣行を打破しなければ生き残って行けません。これはまだ内緒だが,我が社は来 年からアイティソリューション食品株式会社と社名を変更します。」
 「アイティソリューション食品,ですか・・・。」

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第3回

 6月1日付でインターネット営業室が開設され,丹羽部長が室長を兼任した。 また,9月1日に社名を変更することが発表され,販売子会社であるアイティエ スネット販売株式会社が丹羽部長を社長として同じ9月1日に設立されることも 発表された。しかし,亜土子の異動の辞令はなかなか発令されなかった。
 ある日の夕方,仕事を終えて会社を出ようとした亜土子は,同期入社で情報シ ステム部所属の緑とばったり逢った。
 「あ,亜土子,久しぶり。」
 「あ,緑じゃない。そうそう,私,シスアド受かっちゃった。」
 「え,何,それ?」
 富屋食品では情報システム部とは名ばかりで,実際のシステム開発・運用・保 守はすべてシステム会社に委託していた。情報システム部は単なる連絡窓口であ り,また事務処理を行う部署であった。そのため,今回のe−コマースのプロジ ェクトにも殆ど関知していなかったのである。
 7月になって,恒例の人事アンケートが行われた。これには取得済の資格を記 入する欄があったので,亜土子は初級シスアドを書くのを楽しみにしていた。ア ンケート用紙をよく見ると,「情報処理(特殊,一種,二種)」とあった。亜土子 はよく分からなかったが,特殊に丸を付け,下に初級シスアドと記入した。彼女 が生まれた頃から平成の初めまで,特殊ならぬ「特種」情報処理技術者試験が行 われていたことなど,亜土子は知る由もなかった。
 秋の上級シスアド試験の準備も大詰めに近づいた10月1日,亜土子にインタ ーネット営業室へ異動する辞令が下った。
 インターネット営業室で亜土子に与えられた仕事は,専らコピーや書類の整理 であった。丹羽室長が集めたスタッフは,彼の息が掛かった中堅営業マンばかり で,亜土子は所詮お茶汲みのOL扱いだったのである。
 試験直前の水曜日から金曜日まで,亜土子は有給休暇を申請したが,何の抵抗 もなく認められた。上級シスアドの試験会場は,なんと有明の国際展示場であっ た。3百人以上入るバンケットルームで受験した亜土子は,確かな手応えを感じ つつ午後II論文を提出して,東京駅行きの都バスに乗り込んだ。

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第4回

 インターネット営業室で書類のコピーや整理をしているうちに,亜土子はこの プロジェクトに疑問を抱き始めた。
 まず,丹羽室長が集めたスタッフは,旧来の問屋やスーパーを回る営業しか知 らない人間で,インターネットやマーケティングに関する基本的な知識すら持っ ていなかった。また,パソコンの操作が不自由な者も半分くらいいた。そのため, 実際の業務は怪しげなコンサルタントと広告代理店,そしてベンダの言いなりに 進めていたのである。コンサルタントはカタカナやアルファベットの略語をさも 高尚なもののように振り回すが,その中身が大した物でないことは,亜土子には すぐに分かった。
 また,大胆な販売計画に基づく予算も疑問であった。年商500億足らずのア イティソリューション食品が,ネット販売だけで初年度年間5億円の売上を上げ ることを前提に,3億円以上投資する計画だったのである。亜土子の目で見れば, ちょっと工夫すれば数万円で出来そうなことや,効果が未知数の広告媒体に対し, 何の疑問も感じることなく百万円単位の金を平気で支払っていたのである。
 そして,システムのことが分からないスタッフが時折的外れな要求をするため 常に進捗が遅れ,すべての機能が完成するのは翌年になってしまった。
 このようなことに一介のOLである亜土子が口出しすることは許されなかった。 しかし,部下はいないものの,一応係長待遇になった亜土子には,ある程度の機 会が与えられた。平成13年2月のある日,亜土子は都内のホテルで開かれるe −コマースの研修会に出席した。
 CSを高めるためにはCRMが重要です。顧客からの問い合わせメールには迅 速に対応し,また頻繁にメルマガを配信しましょう,というような内容の講演会 のあと,立食形式の懇親会があった。参加者たちは名刺を交換し,そして情報を 交換し合った。
 「あ,アイティソリューション食品の方ですか。」
 「はい,四洲亜土子と申します。よろしくお願いします。」
 「伊賀屋商店の駒須直行と申します。よろしくお願いします。あっ!」
 亜土子の名刺を見て駒須は声を上げた。
 「え,どうなさったのですか?」
 「四洲さん,上級シスアドをお持ちなんですか。」
 「ええ,こないだ受かりましたけど,まぐれですよ,まぐれ。ところで,伊賀 屋さんは何を販売してらっしゃるのですか?」
 「輸入雑貨です。ショッピングモールの楽勝市場に出店しているのですが,な かなか売上が伸びなくて。」
 「でも,楽勝市場なら固定費が安くていいですね。うちなんか,独自サイトで お金ばかりかかって。」
 「そうなんですか。」

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第5回

 8月のお盆休み,アイティソリューション食品では通常1週間連続で休暇が取 れるのであるが,e−コマースは営業を続けているため,交代で細切れに休むこ とになった。そのため今年は帰省しないことにした亜土子は,同じような事情で 東京に残っていた駒須直行と上野公園で待ち合わせ,昼食を共にした。その後二 人は手を繋いで不忍池のほうへ歩き始めた。
 「亜土子さん,ボートに乗ろうか?」
 「うん。」
 二人は池に漕ぎ出した。池の中ほどで直行が船を停めると,亜土子はバッグか ら何か取り出した。
 「はい,直行さん,あーんして。」
 「え,何?」
 「クッキー焼いて来たの。はい。」
 「亜土子さんの手作りなんだ。ありがとう。」
 「これでcookieが有効になったから,直行さん,もうリセットしても私のこ とを忘れることは出来ないわよ。」
 「えっ? はははは,クッキーか,なるほど。ところで,亜土子さん。そっち は売上どう?」
 「全然だめよ。年間5億円売るとか言ってて,今年まだたったの1千万円よ。」
 「え,そんなに酷いの? うちも月に150万売れればいいほうだけど。」
 「それならいいじゃない。そっちは月に5万円しか掛からないんだから。」
 「でも,人件費なんかも考えたら大赤字だよ。毎日終電までメールを書いてい て,こんなことしてて何になるんだろうって空しくなることがあるよ。」
 「そうよね。うちなんか,人件費まで考えたら,何億ドブに捨ててることやら。」
 「さあさあ,折角のデートなんだから,不景気な話はやめて,ボウリングでも しようか?」
 「うん,そうしましょう。」
 二人はボートを降りると池の反対側へ向かった。

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第6回

 「あれ,これ結婚式場じゃないの?」
 「そうだけど,この地下がボウリング場になってるんだ。」
 「結婚式かぁ・・・。」
 「亜土子さん,結婚しよう!」
 「えっ!?」
 「はははは。」
 「もう,笑ってごまかさないで。」
 「ははははは。」
 二人がボウリングを終えて階段を上がってくると,既に日は暮れかかっていた。 二人は南の方へ歩き始めた。
 「ねえ,直行さん。つい1年ちょっと前は,私たちもIT革命で人類が幸せに なれると信じてたのよね。」
 「そうだね。でも,IT革命なんて幻影に過ぎなかったんだ。」
 「そうよね。幻影だったのね。でも,私たちまだ,毎日その幻影を追いかけて 一生懸命働いてるのよ。」
 「確かにそうだ。僕たち,空しい幻影を追っているんだ。」
 「ねえ,直行さん,教えて。このまま追い続けて,その幻影の果てには一体何 があるの? ねえ,私たち,どこへ行こうとしているの? ねえ。」
 「・・・・・。」
 3時間後,二人は地下鉄千代田線の湯島駅のホームで寄り添っていた。
 「亜土子さん,このレール,あっちの方はどこまで繋がってると思う?」
 「え,取手まで?」
 「いや,そこから水戸を過ぎて仙台,そこから青森,北海道まで繋がってるよ。」
 「じゃあ,私の田舎まで乗り継いで行けるんだ。」
 「そう。じゃあ,反対側はどこまで?」
 「え,本厚木?」
 「そこから小田原,箱根まで。でも,途中で御殿場線に繋がって,沼津から東 海道線に入れば,熊本,鹿児島まで繋がってるよ。」
 「へえ,私たちの故郷は一本のレールで繋がってるのね。」
 「今の仕事だめだったら,お互い田舎へ帰るしかないな。亜土子さん,一緒に 来てくれる?」
 「え・・・。」

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最終回

 秋から年末にかけての大幅な値引き販売やキャンペーンにもかかわらず,結局 平成13年中のアイティエスネット販売の売上高は約2500万円であった。経 費の多くは親会社のアイティソリューション食品が負担しているが,連結で計算 すると4億円近い赤字で,更に人件費や様々な経費まで入れれば,10億円近い 赤字となっていた。一方,伊賀屋商店楽勝市場店の売上も2千万円足らずであり, 翌平成14年になるとすぐ,伊賀屋商店は楽勝市場からの撤退を決定した。
 1月20日の日曜日,久々に休日出勤から開放された亜土子は,直行の部屋へ 遊びに来ていた。
 「ねえ,直行さん,伊賀屋さんはe−コマースやめるんでしょ。これからどう するつもり?」
 「なんだか,もう会社にいる気もなくなってきたし,田舎に帰って家業を継ぐ かな。」
 「家業を継ぐって,直行さん,農業なんか出来るの?」
 「なんとかなるさ。亜土子さん,一緒に来てくれる?」
 「え,急にそんなこと言われたって。私,長女だし,田舎の両親が心配で・・・。」
 「君の会社だって,危ないんだろ。」
 そう言いながら,直行は亜土子を抱き寄せ,唇を重ねようとした。亜土子は最 初顔をそむけていたが,直行の唇が亜土子の唇を強引に捉えると,そっと目を閉 じ直行と舌を絡ませた。直行はそのまま亜土子を押し倒した。
 情事を終えても,亜土子はベッドにうずくまっていた。直行は先にシャワーを 浴びに行った。
 「亜土子さんも早くシャワー浴びて,ビールでも飲も。」
 直行は冷蔵庫からビールを取り出し,テレビのスイッチを入れた。亜土子は風 呂場へ向かった。
 亜土子がシャワーを浴びて出てくると,直行が缶ビールを開け,亜土子のグラ スに注ぎ始めた。その時,テレビではニュース番組を放送していた。
 「次のニュースをお伝えします。準大手食品メーカーでインターネット販売に 力を入れていた,アイティソリューション食品株式会社が倒産しました。負債総 額は120億円で,メインバンクである○○銀行が債権放棄を拒否したため,再 建を断念したものです。」
 テレビの画面には,左右に副社長と財務担当専務を従え,深々と頭を下げる, 富屋社長の姿が映っていた。 (完)

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