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十五
 「あれ,これ結婚式場じゃないの?」
 「そうだけど,この地下がボウリング場になってるんだ。」
 「結婚式かぁ・・・。」
 「亜土子さん,結婚しよう!」
 「えっ!?」
 「はははは。」
 「もう,笑ってごまかさないで。」
 「ははははは。」
 二人がボウリングを終えて階段を上がってくると,既に日は暮れかかっていた。二人は南の方へ歩き始めた。
 「ねえ,直行さん。つい1年ちょっと前は,私たちもIT革命で人類が幸せになれると信じてたのよね。」
 「そうだね。でも,IT革命なんて幻影に過ぎなかったんだ。」
 「そうよね。幻影だったのね。でも,私たちまだ,毎日その幻影を追いかけて一生懸命働いてるのよ。」
 「確かにそうだ。僕たち,空しい幻影を追っているんだ。」
 「ねえ,直行さん,教えて。このまま追い続けて,その幻影の果てには一体何があるの? ねえ,私たち,どこへ行こうとしているの? ねえ。」
 「・・・・・。」

 3時間後,二人は地下鉄千代田線の湯島駅のホームで寄り添っていた。
 「亜土子さん,このレール,あっちの方はどこまで繋がってると思う?」
 「え,取手まで?」
 「いや,そこから水戸を過ぎて仙台,そこから青森,北海道まで繋がってるよ。」
 「じゃあ,私の田舎まで乗り継いで行けるんだ。」
 「そう。じゃあ,反対側はどこまで?」
 「え,本厚木?」
 「そこから小田原,箱根まで。でも,途中で御殿場線に繋がって,沼津から東海道線に入れば,熊本,鹿児島まで繋がってるよ。」
 「へえ,私たちの故郷は一本のレールで繋がってるのね。」
 「今の仕事だめだったら,お互い田舎へ帰るしかないな。亜土子さん,一緒に来てくれる?」
 「え・・・。」
 その時代々木上原方面行きのホームに電車が入って来た。
 「亜土子さん,じゃあ。」
 直行がそう言った時,ホームに放送が流れた。
 「この列車は当駅止まりです。ご乗車にはなれませんのでご注意ください。」
 
十六
 その後もお互い多忙な日々が続いたが,亜土子と直行は無理をしてでも月に何回かは共に過ごすようにしていた。しかし,夜遅くお互いの部屋に泊まりに行っても,疲れていて食事を済ませるなり眠ってしまうことも少なくなかった。慢性的な過労状態の二人はどうしても苛立ってしまい,折角一緒にいても言い争いになることさえあった。
 この頃から,アイティソリューション食品の社内ではインターネット営業室の経費の使い方について批判が高まっていた。
 アイティソリューション食品では六月からカンパニー制に移行したが,この新体制は実際には殆ど意味をなしていなかった。三つのカンパニーのうち,業務用食品カンパニーと不動産事業カンパニーはもともと独立性の高い事業部がそのままカンパニーとなったものである。そして,家庭用食品カンパニーは三事業部がまとめられたもので,カンパニー長は富屋社長が兼務していた。ところが,独立採算意識の低い事業部が一つのカンパニーにまとめられ,各事業部の組織はそのまま継続されたので,ますますコスト意識が低下していたのである。
 そのような家庭用食品カンパニーの一部に組み込まれていたインターネット営業室の経費については,当初は数億円の支出もそれほど目立たなかった。しかし,カンパニー全体の収益が悪化するに従って,各事業部が使える経費が制限されるようになり,インターネット営業室の経費が事業部から厳しい目で見られるようになって来たのである。
 十月になって,遂にインターネット営業室の課長級スタッフが一名,大阪支社へ転勤となって,欠員の補充はなされないことが決定された。この欠員を補うため,丹羽室長は広告代理店のスタッフを派遣社員として受け入れることにした。大阪へ転勤になった丹羽室長の腹心はパソコンを殆ど使えなかったため,グループウェア用の古い端末を使用していたのであるが,新しい派遣スタッフのためにパソコンを一台新調することになった。
 インターネット営業室に限らず,全社のパソコン等の調達はすべて情報システム部で一括して行っていた。情報システム部から回されてきた経費付替伝票に従って経費を計上するよう指示された亜土子は,その内訳を見て唖然とし,情報システム部へ内線電話を掛けた。
 「はい,情報システム部小西です。」
 「あ,緑,四洲だけど。」
 「あ,亜土子,こんにちは。」
 「ねえ,ちょっと,このマウスとテンキーが各一万円で年間保守契約料各千五百円って何なのよ?」
 「え,何なのってどういうこと?」
 「マウスやテンキーなんてその辺で千円くらいで売ってるじゃない。」
 「だって,変なの付けて故障したら困るじゃない。ちゃんとした正規のを使うっていうのがうちの部長の方針だもん。」
 「緑,あなた自分でパソコン買ったことあるの?」
 「え,パソコンなんか持ってないわよ。お金ないもん。」
 「・・・・・・。」
 電話を切った亜土子は諦めたように伝票を書き始めた。その伝票は3枚複写式で,全部の紙に担当者から経理部の責任者まで合計5人が押印するようになっていた。記入を終えた伝票は亜土子が入力し,入力内容を印刷して確かめなければならない規則であった。



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 この作品はフィクションであり、登場する人物・団体等は実在のものとは一切関係ありません。