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十一
 一方,伊賀屋商店でも,懸賞を実施してメールマガジン購読会員を集めるというのは同じことであった。仮想ショッピングモールの中に店を構えているだけでは,たまたま通り掛かった人が買いに来てくれるということは滅多にない。店舗の存在を知らしめるためには広告を打ったり,懸賞を実施するしかないのである。しかし,年商十数億円程度の伊賀屋には,大規模な広告を打つ予算などない。自社のお勧め商品を賞品にして懸賞を実施し,懸賞の告知は十万円程度の広告費を掛ける他は,懸賞情報の無料登録サイトを利用していた。
 このようにして集めた会員は,そもそも伊賀屋の商品に興味を持った者に限られるので,会員数の増加が売上増に比例はしないまでも,かなり貢献していることは目に見えて分かった。
 また,売上を伸ばすためには,勿論戦略的に値引きする商品もあったが,伊賀屋ではむしろ,商品の良さをしっかりとアピールすることで,顧客の購買意欲をそそるとともに安心感を醸成し,販売数量を伸ばす戦略を用いていた。
 これらを実際に担当するのは直行であった。広告の文案作成や懸賞サイトへの登録は,慣れれば数時間でこなせるもので,大して負担には感じなかった。しかし,商品の説明と顧客対応は非常に手間のかかるものであった。
 輸入雑貨というものは,いわばあってもなくても構わないものである。それを買わせるためには,その商品を余程魅力的に感じさせなければならない。そのために,直行はその商品が製造された国の文化から始まって,そのメーカーの長所や特徴,その商品の素材や製造方法等迄詳細に調べ上げた。そしてそれらを整理してアピールしながら,買わせるように工夫した文章を書いて,ページに掲載するとともに,メールマガジンにまとめて配信するのである。
 このような商品であるから,顧客からの問い合わせも少なくない。場合によっては問い合わせ内容について生産国に照会したり,インターネットで延々と調べてから回答することもあった。
 ある日,直行が夜九時頃メールを書いていると,突然事務所の扉が開いた。
 「駒須君,遅くまで頑張ってるな。」
 「あ,社長。」
 「どうやら単月収支はトントンに近付いて来たようだね。」
 「はい,お蔭様で。」
 「なんとか早く君の人件費くらい稼げるようにしてくれよ。」
 「はい・・・。」
 伊賀屋の楽勝市場店では,売上が伸びるにつれて配送手配や在庫に要する費用が増加し,なかなか黒字にはならなかったが,ようやく採算分岐点が見えて来たところであった。しかし,その収支計算には,直行の給料や事務所の家賃,その他伊賀屋がこの事業のために支払っている筈の経費の大半が含まれていなかったのである。
 「本当の黒字にするには,年商一億円は必要だな。」
 直行は溜息をついた。
 
十二
 亜土子と直行は月に数回逢って食事を共にしていたが,まだ恋人というには程遠い,どこかよそよそしい関係であった。それでも,お互いメールの遣り取りやデートをするのが楽しみであり,また二人がそのようにするのが当然のことのように感じ始めていた。四月の半ば,亜土子の携帯電話に直行から電話が掛かって来た。
 「四洲さん,今度のゴールデンウイーク,前半が三連休で後半が四連休ですね。僕は後半だけ帰省するけど,四月中にどこかへ行きませんか? お台場なんか面白そうですよ。」
 「あ,ごめんなさい。私,一日と二日は有給休暇を取るから,二十八日からずっと仙台に帰っちゃうんです。」
 「そうですか・・・。」

 亜土子は二十八日の朝の新幹線で帰省した。亜土子が仙台の家に帰るなり,母が言った。
 「亜土子,今度の金曜日,朋子ちゃんの結婚式に出るんだって。」
 「うん,仙山館でやるそうよ。」
 「金曜日は友引よね。お前も早く嫁に行ってくれないと,心配で心配で。」
 「お母さん,またそんなことばっかり・・・。」
 「東京で誰かいい人を見付けなさい。」
 「え,そんなこと言ったって。」
 亜土子はそう言いながら,恥ずかしそうに笑った。
 仙山館は地元の酒造会社の経営で,結婚式場,高級料亭,フランス料理店が隣接して設けられている。この結婚式場で亜土子の高校の同級生である朋子が挙式するのである。早目に着いた亜土子は,仙山館の周囲を歩き回ってみた。フランス料理店の入り口にパンフレットが置いてあったので何気なく手に取ってみた亜土子は思わず声を上げた。
 「あれ,東京にもお店を出したんだ。」
 仙山館は数年前にパリにレストランを開店し,さらにそのパリの店の支店という触れ込みで,東京のお台場に店を出していたのであった。
 朋子の結婚式会場で,亜土子は久し振りに会った旧友たちと思い出話に花を咲かせた。一同が席に着いて,司会者の挨拶が終わると,ウエディングドレスを着た朋子が新郎とともに入場して来た。暫くして,亜土子はウエディングドレスを着た自分がタキシード姿の直行にエスコートされる姿を思い浮かべている自分に気付いた。
 朋子の結婚式の後,亜土子は独身の友人数人と仙台駅の近くの居酒屋へ行き,近況を語り合った。友人達と語り合いながらも,亜土子は直行のことを考えていた。友人達と別れて地下鉄の駅に向かおうとした亜土子は,気が付くとJR仙台駅の二階にいた。そして,最終の新幹線で東京へ戻りたい衝動に駆られていた。しかし,直行が九州へ帰省していることを思い出した亜土子は,俯いて階段を降りて行った。
 
十三
 五月も終わりに近づいた二十六日土曜日の午後,亜土子は直行と新橋で待ち合わせ,ゆりかもめに乗って,お台場へ行くことにした。お台場海浜公園や船の科学館を見た二人は,最近出来たショッピングモール,ヴィーナスフォートへ向かった。ヴィーナスフォートは建物の中の廊下を全て二階迄吹き抜けにし,天井を空に見立て,両側に古い西洋風の建物に似せた店舗を配置している。中の構造はかなり複雑で,二人は二十分位掛かってやっと目的の店を見付けた。
 「四洲さん,ここですね。」
 「センザン・パリ,そうそう,これです。」
 ヴィーナスフォートでは,二階にある店は二階の回廊から入るのであるが,この店は一階の入り口から二階へ上がる階段があったので,二人はなかなか見つけることが出来なかったのである。
 二階の店内は赤を基調とした現代風のデザインであった。
 「何だか,仙台のお店とは全然イメージが違いますよ。」
 「そうなんですか。」
 やがてボーイがメニューを持って来た。二人は暫く相談して,コース料理を注文した。
 「四洲さん,ビールにします?」
 「どうせならシャンパンでも飲みませんか?」
 「え,シャンパンですか。」
 亜土子は朋子の結婚式での乾杯を思い出し,直行とシャンパンで乾杯したくなったのであった。
 「ねえ,直行さん,いいでしょ。」
 直行がやや驚いた顔をしたので,亜土子は自分が初めて直行のことを駒須さんではなく,直行さんと名前で呼んでしまったことに気付き,恥ずかしそうに俯いた。
 ソムリエが注文を取りに来ると,直行はシャンパンを注文した。
 コース料理は焼いた石が用意され,フォアグラをそこに載せて自分で焼いて食べるフォアグラ寿司から始まり,仙台名物の牛タンなども含まれていた。食事を終えた二人は,ヴィーナスフォートの中を歩き始めた。
 薄暗い回廊には,若いカップルの姿が少なくなかった。
 「なんか,若い人たちって平気で手を繋いで歩いてますね。」
 「でも,最近は若くない人も結構平気で繋いでませんか。」
 「じゃあ,僕たちも繋ぎましょうか。」
 そう言いながら,直行は冗談のつもりで右手を亜土子の左手の近くに差し出した。その時,偶然亜土子の左手が直行の右手に触れ,亜土子は無意識のうちに,ほんの一瞬,軽く直行の手を握ってしまった。次の瞬間,亜土子が慌てて手を放そうとした時,直行が亜土子の手をしっかりと握り締めた。二人は暫く無言のまま手を繋いで歩いていた。
 ヴィーナスフォートから出る時,出口が狭かったので,二人は手を放した。そして外へ出てからも無言のまま並んで歩き始めた。気不味い雰囲気を打ち破ろうと,直行が口を開いた。
 「亜土子さん,観覧車に乗りましょうか。」
 自分自身も直行から初めて名前で呼ばれた亜土子は笑顔で頷いた。
 二人が観覧車に乗り込み、隣のゴンドラを見ると、カップルが寄り添っていた。二人は無言で外に視線を向けた。やがて上昇して行くと、隣のゴンドラが全く見えなくなり、二人だけの世界となった。直行はどうしてよいか分からず、咄嗟に
 「あのビルは何でしょう。」
と、亜土子の斜め後ろのビルを指差した。その時、二人の視線の中に再び隣のゴンドラが入ってきたが、果たしてそこには抱擁するカップルの姿があった。二人は同時に視線をそらし、俯いた。
 更に観覧車が回転し、再び隣のゴンドラが見えなくなった時,直行が突然亜土子の手を握って引き寄せ,顔を近付けた。亜土子はそっと目を閉じた。
 
十四
 この頃から伊賀屋商店の楽勝市場店は売上が大きく伸び,商品アイテムの増加に伴って,商品に関する問い合わせや配送ミス等に関するクレームが増加していた。これらに対応するため,直行は毎日終電近く迄サービス残業をするようになっていた。
 一方,アイティエスネット販売の売上は低迷していたが,丹羽社長の思い付きの企画を検討するために頻繁に会議が開かれていた。アイティソリューション食品を担当している広告代理店は非常に時間にルーズで,また午後八時や九時から会議を平気で開くため,亜土子も遅く帰る日が続いていた。
 二人とも休日は出勤するか,疲れて寝ているかのどちらかで,六月も七月も一度ずつしか会っていなかった。それも夜十時頃待ち合わせ,食事をしたら駅迄手を繋いで行き,後はまっすぐ帰るだけであった。それでも,お台場の夜以来,二人はすっかり打ち解けて親しくなっていた。
 八月のお盆休み,アイティソリューション食品では通常一週間連続で休暇が取れるのであるが,e−コマースは営業を続けているため,交代で細切れに休むことになった。そのため今年は帰省しないことにした亜土子は,同じような事情で東京に残っていた直行と上野公園で待ち合わせ,昼食を共にした。その後二人は手を繋いで不忍池のほうへ歩き始めた。
 「亜土子さん,ボートに乗ろうか?」
 「うん。」
 二人は池に漕ぎ出した。池の中ほどで直行が船を停めると,亜土子はバッグから何か取り出した。
 「はい,直行さん,あーんして。」
 「え,何?」
 「クッキー焼いて来たの。はい。」
 「亜土子さんの手作りなんだ。ありがとう。」
 「これでクッキーが有効になったから,直行さん,もうリセットしても私のことを忘れることは出来ないわよ。」
 「えっ? はははは,クッキーか,なるほど。ところで,亜土子さん。そっちは売上どう?」
 「全然だめよ。年間5億円売るとか言ってて,今年まだたったの1千万円よ。」
 「え,そんなに酷いの? うちも月に150万売れればいいほうだけど。」
 「それならいいじゃない。そっちは月に5万円しか掛からないんだから。」
 「でも,人件費なんかも考えたら大赤字だよ。毎日終電までメールを書いていて,こんなことしてて一体何になるんだろうって空しくなることがあるよ。」
 「そうよね。うちなんか,人件費まで考えたら,何億ドブに捨ててることやら。」
 「さあさあ,折角のデートなんだから,不景気な話はやめて,ボウリングでもしようか?」
 「うん,そうしましょう。」
 二人はボートを降りると,手を繋いで池の反対側へ向かった。



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