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 単なるお茶汲みOLとして扱われてはいたが,部下はいないものの一応係長待遇になっていた亜土子には,ある程度の機会が与えらることもあった。
 翌平成十三年二月のある日,亜土子は都内のホテルで開かれるe−コマースの研修会に出席することになった。これはあるコンサルティング会社の主催で,演者はe−コマースを成功に導く達人という触れ込みであった。三万円の参加費は亜土子には如何にも無駄に感じられたが,以前に広告代理店に勧められて会社が金を既に払ってしまっていたため,手の空いている亜土子に行かせたというのが実際のところであった。
 講演内容は実に単純明快なものであった。CSを高めるためにはCRMが重要です。顧客からの問い合わせメールには迅速に対応し,また頻繁にメールマガジンを配信しましょう,というような内容であった。しかし,亜土子のプロジェクトでは,立派なページを作ることにばかり注力して,この演者の言うような顧客対応が出来ていないことは確かであった。もしクレームのメールでも来ようものなら,どのように対応するか会議を開き,みんな責任を取らされるのが嫌だから逃げ腰の発言ばかりして,なかなかまとまらずに返事出来ないのであった。また,懸賞実施のコツや,コストを掛けずに告知するノウハウなどの話もあったが,アイティエスネット販売がやっていることは殆ど反対の方向を向いていた。
 講演会のあと,隣の部屋で立食形式の懇親会があった。参加者たちは名刺を交換し,そして情報を交換し合った。
 一人の青年が亜土子に声を掛けた。
 「あ,アイティソリューション食品の方ですか。」
 「はい,インターネット営業室におります,四洲亜土子と申します。よろしくお願いします。」
 「伊賀屋商店の駒須直行と申します。よろしくお願いします。あっ!」
 亜土子の名刺を見て駒須は声を上げた。
 「え,どうなさったのですか?」
 「四洲さん,上級シスアドをお持ちなんですか。」
 「ええ,こないだ受かりましたけど,まぐれですよ,まぐれ。」
 一月の半ば,亜土子の許には上級シスアドの合格証書が届いていた。亜土子はこれを丹羽室長に見せ,名刺に資格を入れて良いか尋ねた。何を生意気なという顔をしていた丹羽室長は,国家試験の文字と経済産業大臣の署名捺印を見て顔色を変え,名刺に入れることを許可したのであった。
 「ところで,伊賀屋さんは何を販売してらっしゃるのですか?」
 「輸入雑貨です。ショッピングモールの楽勝市場に出店しているのですが,なかなか売上が伸びなくて。」
 「でも,楽勝市場なら固定費が安くていいですね。うちなんか,独自サイトでお金ばかりかかって。」
 「そうなんですか。」
 「それに広告費も馬鹿にならないですよ。」
 「それはうちも同じことです。」
 三十分後,会場の隅でグラス片手に楽しそうに談笑している亜土子と直行の姿があった。
 
 翌日,亜土子はe−コマース研修会の内容をレポートにまとめ,丹羽室長に提出した。しかし,丹羽室長はレポートに目を通すでもなく,回覧を指示するでもなく,机の上に積んだままにしてあった。
 その日の午後,亜土子が昼食を終えて席に戻り,パソコンをチェックすると,メールが届いていた。

   お礼
四洲亜土子様
昨日は色々と有意義なお話をお伺いでき,大変参考になりました。
ありがとうございました。
また一度,ゆっくりとお話できればと思いますが,いかがですか?
これからもよろしくおねがいします。
株式会社伊賀屋商店マーケティング企画部 駒須直行

 「あら,デートのお誘いかしら?」
 そう呟く亜土子の表情はまんざらでもないようであった。

 翌週の金曜日の夕方,仕事を終えた亜土子は東京駅に着くと,通勤に使っているJRではなく,地下鉄丸の内線に乗って,次の銀座駅で降りた。改札を出て周囲を見回した亜土子は,時計を見て,まだ十分前ねと呟いた。赤いブラウスこそ着てはいないものの,亜土子は時計を覗いてはソワソワしていた。
 やがて新宿方面からの電車が到着し,改札口から一斉に出て来た人込みの中から直行が亜土子に手を挙げて近づいて来た。
 「四洲さん,お待たせしました。」
 「いえ,私もさっき着いたところですよ。」
 二人は地上に出て銀座の街を歩き始めた。
 「イタリア料理なんて久しぶりです。」
 「雑誌で見ただけなので僕もよく分からないけど,あんまり期待しないで下さいよ。」
 「いえいえ,わざわざ銀座までお越しいただいたのに,私,最近銀座に行ってないんで,お店選びまで駒須さんにお任せしてしまって。」
 「あ,ここだ。」
 そこはパスタを中心にしたカジュアルなイタリア料理店であった。
 「四洲さん,最初はビールでいいですか。」
 「はい。」
 「ワインも取りましょうか。」
 「私,あまりお酒強くないですから。」
 「あれ,そうでしたっけ。」
 「じゃあ,一本だけ。」
 「ははは,一本だけね。じゃあ,奮発して一番高いの飲みましょう。」
 「え,そんな・・・。」
 「だって,ワイン七種類しかなくって,一番安いのが千八百円で,一番高いのが二千五百円ですから。」
 「うふふ,じゃあ一番高いの飲みましょう。」
 
 一月から三月までのアイティエスネット販売の売上高は二百万円足らずであった。亜土子の目から見れば,幾らでも打つ手はあるように思われたが,丹羽社長以下スタッフの考えたことは,大規模な広告と値引き販売であった。
 バナー広告などでメールマガジン購読会員を集めようとすることは以前に失敗しているので,今回は大規模なプレゼントを企画した。全部で千名が当選する懸賞は,特賞がペアでハワイ旅行,一等賞がハイビジョンテレビ,二等賞が東京ディズニーランド入場券など,アイティソリューション食品の商品とは無関係のものばかりであった。自社商品の良さをアピールし,食の大切さと面白さを訴えよう等という発想はどこにもなく,とにかく人気のありそうな賞品で人を集めようというだけであった。また,この懸賞実施を告知するために,懸賞情報を提供するサイトの他,新聞や雑誌にも大規模な広告を打った。
 しかし,インターネットの実態を知っている亜土子は,このようなことでは売上増加に繋がらないと考えていた。インターネットの懸賞応募は,従来の官製はがきによる応募とは異なり,パソコンがインターネットに繋がっている状態であれば,指を動かすだけでお金を掛けずに応募できてしまうので,ごく軽い気持ちで応募してくるのである。また,懸賞に応募すると,大抵の場合メールマガジンが送られてくるが,懸賞マニアの間では,懸賞応募専用のメールアドレスを,無料のフリーメールサービスで用意しておくのが常識になっていたのである。
 この懸賞によって,アイティエスネット販売は二万人近い新規会員を獲得したが,新規の顧客は殆ど増えていなかった。亜土子はデータサーバにアクセスし,新規会員のアドレスと氏名を抽出して眺めてみた。最初に目にしたのは,同一人物の名前で少しずつ違うフリーメールアドレスがずらりと並んでいるものであった。また,家族の名前を使って五十件以上応募している者もあった。大手プロバイダや会社のメールで登録してある者も少なくなかったが,メールマガジンを発行するたびに解除が相次いで,本当に読んでいる会員がどれ程いるのか,実に心もとないものであった。
 また,アイティエスネット販売では,当初はメーカー希望小売価格でしか商品の販売を行っていなかったが,スタッフは値引き販売が売上増に有効であると考えた。さすがに既存の卸・小売の販売ルートの手前,露骨な安売りはできないので,いくつかお勧めセットを作り,三割ほど値引きした上に送料をサービスすることにした。このセットは人気になり,一気に百万円程度の売上があった。ところが,このセットが発売されてから,通常の商品はますます販売が落ち込み,実質の売上金額の増加分は数十万円程度であった。
 それでも,売上が上向いたことに丹羽社長以下スタッフ一同は喜んで,祝賀会と称して会社の金で飲みに行ってしまった。こういう場面で亜土子が誘われる筈もない。彼女はみんなが出掛けた後,すぐに帰ろうと思ったが,ふと思いついて,計算を始めた。
 「あれ,粗利は二割減じゃないの。」



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