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十七
 丹羽室長はインターネット営業室の経費支出に対する批判をかわすためには,売上を増加させるしかないと考え,秋から年末に掛けて,更に大幅な値引き販売やキャンペーンを実施した。問屋や小売店等,既存の販売チャネルへの遠慮も何も考えず,実に露骨な値引き販売を断行したにもかかわらず,結局平成十三年中のアイティエスネット販売の売上高は当初予算五億円の二十分の一,約二千五百万円に過ぎなかった。そして,この年末キャンペーンのために支出した諸経費はこの年間売上高にも匹敵する金額に及んでいた。
 このようなキャンペーンの費用に限らず,広告代理店やベンダへの支払等,ネット販売に関わる経費の多くはアイティエスネット販売ではなく,親会社のアイティソリューション食品のインターネット営業室が持つ予算で負担していた。売上予算が五%しか達成されていないのに,経費支出は当初の予算を大きく上回った結果,全ての費用を連結で計算すると四億円近い赤字であった。更に,表には出て来ない正社員の人件費や福利厚生費,様々な本社固定費の割掛分迄計算すれば,実に十億円近い赤字となっていたのである。
 アイティソリューション食品の社内では,丹羽室長の更迭や,インターネット営業室を解散してインターネットビジネスから撤退することが真剣に議論され始めていた。更には,このビジネスの開始を決裁し,一貫して擁護する立場を取って来た副社長の経営責任を問う声さえも上がっていた。そんな状況にあって,本来は反副社長派の代表である筈の財務担当専務が,不気味なくらい沈黙を守っていることを,幹部社員はみんな不思議がっていた。
 そんな上層部の争いや混乱には関係なく,亜土子は相変わらず忙しい日々を送っていた。十二月九日の夜,亜土子は直行と逢う約束をしていた。
 「もしもし,直行さん。」
 「あ,亜土子さん,今どこ?」
 「まだ会社なの。ごめん,月末決算終わりそうにないから,今日は行けそうにないわ。」
 「え,何だよ。僕だって頑張って仕事終わらせたのに。日曜の夜くらい何とかしてよ。」
 「だって,仕事終わらないんだもん,仕方ないじゃない。」
 「何だよ,もういいよ。」
 「何よ。」
 結局この日も,亜土子は深夜迄残業して,終電で独りアパートへ帰ったのであった。亜土子は暫く眠れなかった。そして色々と考えた。
 今の仕事が恨めしい。お互いもっと普通に帰れる仕事なら,いつでも逢って楽しめるのに。でも,直行さんと出会えたのはこの仕事の御蔭なのよね。
 でも,どうかしら。私と直行さんって,暇だったとしても,本当にうまく行くのかしら。まだお互いの性格の半分も理解し合っていないような気がする。実は直行さんには私の嫌いな面が隠れているのかも知れない。直行さんだって,私のことをもっと分かって来たら,嫌いになってしまうかも知れない。
 そんなことを考えながら,亜土子は眠りに落ちて行った。
 
十八
 多忙を極めた平成十三年も終わりに近付いた十二月二十九日の午後,前日深夜迄残業をしていた亜土子は昼前に起床し,急いで身支度を整えた。やがて彼女の部屋に直行がやって来た。二人とも久し振りにゆっくりと眠ったことと,仕事から暫し解放されたことから清々しい表情をしていた。
 「直行さん,こないだはあんなこと言ってごめんね。」
 「いや,僕こそ悪かった。ごめん。」
 「さあ,ちょっと遅くなっちゃったけど,私たちのクリスマスパーティーの準備をしましょ。」
 年末はお互い忙しく,とても二十四日に逢うことなど出来なかった。また,仕事で苛立って喧嘩をしていたが,何とか仲直りし,二人とも帰省するのは大晦日迄延ばして,五日遅れのクリスマスをゆっくりと過ごすことにしたのであった。
 二人は簡単に昼食を済ませると,連れ立って買い物に行き,食材やケーキを買い込んで来て,パーティーの準備を始めた。
 「あ,このチキンの料理美味しそう。」
 「七面鳥の代わりだけど,いいでしょ。」
 「うん。そうだ,シャンパン冷えたかな。オッケー。」
 「ねえ,直行さん。シャンパンってほんとは音を鳴らさずに開けるのが正式なんだってね。」
 「そうらしいね。でも折角だから少しだけ鳴らしてみよう。」
 直行はポンと軽く音を鳴らしてシャンパンの栓を開けた。
 「メリークリスマス。」
 「メリークリスマス。」
 「お仕事お疲れ様。」
 「お疲れ様。」
 「何だか大変な一年だったわね。」
 「うん,e−コマースなんてやるもんじゃないね。あ,でもその御蔭で亜土子さんと出会ったんだった。」
 「うふふ。そうよね。うちの会社,今年とんでもない大赤字よ。」
 「うちだって,二千万円足らずの売上で,見掛け上は少し黒字だけど,僕の給料は別の予算から出てるんだもんね。」
 「それはお互い様よ。」
 二人はシャンパン一本と料理を平らげた。
 「あ,そうだ。クリスマスケーキを忘れてたわ。」
 亜土子がデコレーションケーキをテーブルに置くと,直行がナイフを右手に持ち,左手で亜土子の右手を掴んで引き寄せた。
 「さあ,新郎新婦がケーキに入刀です。」
 亜土子は直行に導かれるままに手を添え,二人でクリスマスケーキをカットした。その時,直行は無邪気に嬉しそうな顔をしていたが,亜土子はどこか虚ろな表情をしていた。
 
十九
 翌平成十四年の一月は四日が金曜日であり,七日の月曜日から出勤にする会社も少なくなかったが,亜土子も直行も三日の午後には東京へ戻ってデートし,四日から出勤した。
 四日の午後,直行は伊賀屋商店の服部社長に呼ばれた。
 「社長,お呼びでしょうか。」
 「駒須君,実は他でもない,楽勝市場のことなんだが。」
 「はい。」
 「よくよく計算してみたんだが,どうやっても儲かるようにはなりそうにないね。」
 「はあ。」
 「それに,今のところ月額五万円で楽勝市場に店を構えていられるけど,近いうちにシステム利用料が大幅に値上げされるという噂もある。」
 「え,そうなんですか?」
 「知らなかったのかね。そんなわけで,我社はe−コマースから撤退することにした。君には一生懸命やって貰って申し訳ないが,ここは一つ理解して欲しい。」
 「はあ・・・。」

 一月二十日の日曜日,久々に休日出勤から開放された亜土子は,直行の部屋へ遊びに来ていた。
 「ねえ,直行さん,伊賀屋さんはe−コマースやめるんでしょ。これからどうするつもり?」
 「なんだか,もう会社にいる気もなくなってきたし,田舎に帰って家業を継ぐかな。」
 「家業を継ぐって,直行さん,農業なんか出来るの?」
 「なんとかなるさ。亜土子さん,一緒に来てくれる?」
 「え,急にそんなこと言われたって。私,長女だし,田舎の両親が心配で・・・。」
 「君の会社だって,危ないんだろ。」
 そう言いながら,直行は亜土子を抱き寄せ,唇を重ねようとした。亜土子は最初顔をそむけていたが,直行の唇が亜土子の唇を強引に捉えると,そっと目を閉じ直行と舌を絡ませた。直行はそのまま亜土子を押し倒した。
 情事を終えても,暫くの間亜土子はベッドにうずくまっていた。直行は先にシャワーを浴びに行った。
 「亜土子さんも早くシャワー浴びて,ビールでも飲も。」
 直行は冷蔵庫からビールを取り出し,テレビのスイッチを入れた。亜土子は風呂場へ向かった。
 亜土子がシャワーを浴びて出てくると,直行が缶ビールを開け,亜土子のグラスに注ぎ始めた。その時,テレビではニュース番組を放送していた。
 「次のニュースをお伝えします。準大手食品メーカーでインターネット販売に力を入れていた,アイティソリューション食品株式会社が倒産しました。負債総額は120億円で,メインバンクである○○銀行が債権放棄を拒否したため,再建を断念したものです。」
 テレビの画面には,左右に副社長と財務担当専務を従え,深々と頭を下げる富屋社長の姿が映っていた。 (完)



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 この作品はフィクションであり、登場する人物・団体等は実在のものとは一切関係ありません。