現代短歌考


 やまとうたとは日本古来の歌が唐歌、つまり漢詩に対応して呼ばれるようになった名称であり、やまとことばだけで詠まれるのが本来の姿である。しかし、菊のように日本人の生活に、そして心ににすっかり定着し、やまとことばで言いようのないものは唐言葉を使っても良いようになってきた。しかし、近世に至る迄、歌に漢語を使用することは一般には無粋あるいは無学であるとされて来たのである。
 ところが明治になってから、漢語や欧米からの外来語を平気で歌に詠み込むようになって行く。やがて和歌と呼ぶのは気が引けるため、短歌と呼ぶようになったのであろう。特に、或る肺病に冒された俳人がもののあはれも理解出来ずに「紀貫之は下手な歌詠みだ」と言って古今以降の和歌を否定し、それを鵜呑みにした者たちが漢語や外来語を並べて最後に万葉風の「けるかも」を付ける歌を流行らせてから、すっかり和歌が廃れてしまったのである。昭和以降で美しい和歌を詠んだ歌人は少数であるが、谷崎の歌には定評がある。また、畏くも東宮妃殿下がやまとことばで美しい和歌を詠まれることは御存知の方も少なくあるまい。
 さて、けるかも歌が如き愚は永く続く筈もなく、今日では現代語を57577に並べて自由に表現する短歌が隆盛で、優れた作品も多く生み出されるようになった。皇族方におかれても、現代語を使用した短歌をエレガントに詠まれる御時世である。実は、後に述べるように、筆者もこの現代短歌の実験をしてみたことがある。
 今日において、我々が古今を範とした和歌を詠むと、千年前のやまとことばのフィルターを掛けられるために、実体験や考えたことがどうしても抽象化されて詠み込まれることになりがちである。しかし、現代短歌は日常使用している言葉を自由に詠み込むために、実際に体験した全てのことを直接的に表現することが出来るのである。いくつか私の試作品を見ながら考えてみよう。

  便りでは赤いメガネに替えたはず昔のままの君に戸惑う

 これは厳密に言うと和歌ということも出来よう。「たよりてはあかきめかねにかへたはすむかしのまゝのきみにとまとふ」としてみると、確かに和歌になる。この歌は、実はある一連のストーリーを持った8連作の中の1首なのであるが、これだけ取り出してみると意外と余韻があり面白い。しかし、これではまだ現代短歌の世界に入ってはいないようである。

  天気予報君と行こうと見た町の名だけリンクの色が紫

  君からの最後のメール選択し未読にすれば新着メール

 失恋の後の歌というのはすぐに分かるが、ちょっと生々し過ぎて気分がよろしくない。

  デート代カードで払うものじゃない別れた後に請求が来る

 こうなるともう、俳諧歌か狂歌になってしまうが、本人はいたって真面目だったりする。やはり私は現代語で歌を詠むのには向いていないようである。どれだけ向いていないか分かるように、全部公開してしまおう。(笑)


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