前へ


 


 次の週末、いよいよ村上が高松を離れることになった。彼は東京の本社の課長に栄転するのである。悠一は高松駅迄村上を見送ることにした。悠一が車で社宅に着いた時には、村上家の家財道具は全て引っ越し業者のトラックで運び出された後で、村上夫妻と三歳位の女の子ががらんとした和室の畳に座って缶飲料を飲んでいた。部屋には大きなバッグが二つあるだけであった。
 奥さんが言った。
 「伊藤さん、すみませんねえ。」
 「いえいえ、それより最後やから一緒にお昼でもどうです。」
 「いや、早う向こうへ着いてゆっくりしたらんと、子供が可哀想や。」
 「あ、そうですね。」
 四人はまっすぐ駅へ向かった。改札口を入ったのは十一時半であった。奥さんが子供をあやしている間に、悠一は村上と話し始めた。
 「村上さん、本当にお世話になりました。どうか気を付けて。」
 「君もな。」
 「横浜には何時頃着くんですか。」
 「新横浜に五時ちょっと前や。ホテルも新横浜の駅の近くやから、晩飯もゆっくり出来る。」
 「明日は戸塚の社宅ですね。」
 「うん。君もこのままやったらいずれ本社に帰って来るやろけど、それよりもな。」
 「はい。」
 「こんな不景気な世の中や。会社もあてにならんで。それよりも折角ええ話あるんやから、頑張りや。」
 「はい、頑張ります。」
 「吉田さんにはまた向こうから電話してよう言うとくから。」
 「はい。よろしゅうお願いします。」
 岡山行きの快速列車が入線して来た。村上らは列車に乗り込むと、プラットホーム側の席に座った。悠一は列車の窓に駆け寄った。
 「伊藤君、元気でな。」
 「伊藤さん、ありがとうございました。」
 「いとうさん、バイバイ。」
 「皆さんもお元気で。」
 列車は瀬戸大橋目指して走り始めた。

 翌週の火曜日から、悠一は一人で高知へ出張した。勿論、吉田電器店には真っ先に連絡した。今回はあいにく都合が悪くて悠一に泊まりに来て貰う訳には行かないと言われてはいたが、訪問は大歓迎とのことで、悠一ははやる気持ちを抑えながら吉田電器店を訪ねた。
 「伊藤さん、いらっしゃい。」
 由美子が笑顔で出迎えた。
 「お父さん、伊藤さんいらしたよ。」
 「ああ、伊藤さん、いらっしゃい。」
 吉田社長が出て来て、暫く仕事の話をしたところで、悠一が訪ねた。
 「伸子さんはどうなさいました。」
 「伸子か。伸子は友達と遊びに行く言うて出掛けてしまいました。伊藤さん、まあ折角やからお昼でも食べてき。」
 「悠一が二階に上がると、夫人が冷や麦を茹でていた。由美子が食器とおかずの皿を並べ始めた。
 「伊藤さん、まあ座っとって下さい。」
 悠一は何か納得の行かない面持ちで食卓に着いた。



 

 次の週、悠一は高松の事務所で仕事をしていた。営業所勤務のセールスといっても外回りばかりではなく、伝票の整理などの事務作業もあれば、外回りの準備のために新製品のカタログやチラシを取りまとめるなどの仕事もあって、デスクワークも少なくないのである。また、得意先と電話で遣り取りすることも重要なセールスの手段であった。
 ある日の午後、悠一がインスタントコーヒーを啜りながら、営業所に届いたばかりの新製品のカタログを見ていると、彼のデスクの上の電話が鳴り出した。
 「はい、東京電算機四国営業所伊藤でございます。」
 「もしもし、村上やけど。」
 「あ、こんにちは。」
 「元気か。」
 「まあ、お蔭様で。」
 「あんまり元気でもなさそうやな。」
 「はあ。」
 「夕べ吉田さんとこへ電話してみたんやけど、どうも伸子さん、あんまり乗り気やないみたいでなあ。」
 「はあ、そうですか。」
 「他に好きな人もおらんようやし、まあ恥ずかしがっとんのか、まだ結婚する気にはならんのかよう分からんけど、まだまだ諦めるのは早い。頑張りや。」
 「はあ。」
 悠一は急に不安になった。そして、これ迄の伸子との想い出が次々と頭の中を駆け巡った。想い出とは大袈裟なようであるが、初めて伸子と逢った時のこと、伸子が料理する姿、黒くて長い髪、車を運転する姿、二人で見た記念館の展示物、伸子のさりげない仕草、二人で歩いた夕暮れの桂浜、その時の伸子の横顔。悠一にとっては久しぶりの恋であったのだ。
 翌週、悠一は高知へ出張したが、顧客からのクレームの処理などで時間を取られ、吉田電器店を訪れる時間は取れなかった。車ではりまや橋の横を通り過ぎる時、悠一は胸が締め付けられるような気がした。
 ゴールデンウイークを挟んでその次の週は高松でデスクワークに時間を取られ、高知へは緊急の用件で日帰りしただけであった。そしてその次の週には東京、横浜方面へ出張があって、高知へは行けなかった。横浜で村上と会ったが、お互い仕事で忙しく、二人でゆっくりと話す時間はなかった。
 その次の週、悠一は久し振りに高知市をゆっくりと巡回できることになった。約二ヶ月振りに吉田電器店を訪れたのは、例によって金曜日の夕方であった。夕方とは言っても既に五月の末のことであり、陽はまだまだ高かった。
 「伊藤さん、こんにちは。」
 この日悠一を笑顔で出迎えたのは、伸子その人であった。
 「の、伸子さん、こんにちは。大変ご無沙汰致しました。」
 悠一は不意を突かれ、やや動揺しつつも、嬉しさを隠し切れぬかのように満面に笑みを浮かべ、伸子をじっと見詰めてしまった。ほんの一瞬ではあるが、二人は見詰め合う格好になった。すぐに伸子が目をそらし、くるりと振り返って奥の方に声を掛けた。
 「お父さん、伊藤さん来たよ。」



 

 その夜、悠一は吉田家の歓待を受けた。海の幸、山の幸。そしてワインと日本酒。しかしこの日も夫人と伸子は全く飲まず、伸子は食事が終わると、さっさと自分の部屋へ戻ってしまった。由美子の大学の話、ボーイフレンドの話などしているうちに九時前になり、宴は果てた。
 翌朝、吉田夫妻と悠一が朝食を摂り始めると、由美子もすぐに起きて来て加わった。悠一が味噌汁を啜っていると、パンを持って食堂に現れた伸子と目が合い、二人は挨拶を交わした。
 「お早うございます。」
 「お早うございます。」
 「ノビゴンはまた寝坊したね。でも今日は早いほうや。」
 由美子がからかった。
 朝食が終わり、吉田社長は事務所へ下りて行き、夫人が片づけを始めた。由美子が言った。
 「お姉ちゃんが相手したらんから、伊藤さん手持ちぶさたで困ってるよ。まあ写真でも撮ろか。」
 由美子は何時の間にかどこかからカメラを持って来て、二人に向けた。伸子は悠一に寄り添ってポーズを取った。悠一は複雑な表情をしていた。
 カメラを片付けると、由美子は一階へ下りてしまった。それから暫くの間、悠一は伸子と二人で語り合った。他愛ない話をしていただけであったが、悠一には何よりも嬉しいことであった。
 しかし、伸子はこれから商店街の集まりに出るため出掛けてしまうと言う。悠一が途方に暮れていると、吉田社長が上がって来て、天気がいいから釣りにでも行こうと悠一を誘った。
 吉田社長は夫人と由美子に店を任せ、釣り具をボルボのトランクに積み込むと、悠一を乗せて出発した。二人はまず弁当屋に寄って昼食用のおにぎりと缶飲料を仕入れ、次に釣具店へ行き、仕掛けと餌を買い揃えた。
 「新港て立派な港造ったけど、まだ船はおらんから、そこへ行って見よ。」
 「はい。」
 二人は殆ど車が走っていない道路を進み、まだ整地されていないところに車を停めた。新港はまるで巨大な釣り堀のようで、数十人の釣り人が糸を垂れていた。吉田社長が二人分買い揃えたのは投げ釣り用の仕掛けであったが、悠一は投げるのが苦手であった。悠一の竿も社長が投げてくれ、悠一はリールを巻くばかりであった。この日は潮の流れが悪かったのか、時間も遅かったせいなのか、二人ともなかなか釣れなかったが、三十分程してやっと、吉田社長が小振りのシロギスを釣り上げた。
 いつの間にか正午を回っていた。社長が今度は小さなハゼを釣り上げると、
 「おにぎりでも食べよか。」
 「はい。」
 悠一はリールを巻くと、最後迄上げてしまわずに、堤防釣りの要領で糸を垂らしたまま、おにぎりを食べ始めた。初夏の陽射しはやや眩しかったが、風が心地良かった。
 結局、新港での釣果は吉田社長が釣った小魚二尾だけで、二人は場所を変えることにした。十分程車を走らせ、堤防の近くに駐車すると、二人は堤防を超えて浜辺へ下りて行った。景色は一変して、太平洋の荒波が打ち寄せる中で投げ釣りに挑んだ。しかしここでも釣果はさっぱりで、吉田社長は数回投げた後は座り込んで海を眺めていた。悠一は更に数回試みたが、やはり駄目だった。
 「帰るか。」
 「はい。」
 しかし二人はまっすぐには帰らず、近くの漁港の側の小さな魚市場へ寄ることにした。堤防のすぐ上が急な坂道になっていて、道がカーブしているところに小さな建物があり、その建物の横に猫が十匹近く、行儀良く座っていた。吉田社長が市場の人と話しながら魚を選び始めると、悠一は自分の目と耳を疑った。
 「ええキンメやな。」
 「大きいでしょ。でも今日はこれ一つだけやけど。これは千円でいいですよ。」
 「じゃあ、貰おか。このカレイは今日も百円かな。」
 「はい。あ、そうそう、今日はイイダコも美味しいですよ。」
 「伊藤さん、これをさっと塩茹でして、茹で立てを食べるのが旨いよ。」
 吉田社長は五千円札を出すと、少なからぬ釣り銭を受け取り、悠一は海の幸で一杯になったトロ箱を持って車へ向かった。ふと足許を見ると、猫が悠然と顔を洗っていた。



 
十一

 悠一は結局その週末は伸子とそれ以上ゆっくり話すことは出来ずに高知を後にした。悠一は悩んだ。伸子さんは僕のことをどう思っているのだろう。なかなか僕の前に出て来ないのは、恥ずかしがっているだけなのだろうか。それとも僕のことが嫌いなのだろうか。他に好きな人とか忘れられない人でもいるのだろうか。お父さんはどうなんだろう。僕を自分の息子のように可愛がってくれる。やはり僕を跡継ぎにしたいのだろう。いや、誰にでもこれくらい優しくしてくれる人なのかも知れない。お母さんはどうなんだろう。お母さんも本当に優しくしてくれる。由美子ちゃんも僕が伸子さんと結ばれることを喜んでくれそうだけど。
 悠一は本人らに面と向かっては、社長、奥さん、由美子さんなどと呼んでいるが、心の中ではお父さん、お母さん、由美子ちゃんと呼んでいた。伸子のことは本人に向かっても心の中でも伸子さんと呼んでいた。立場上はお嬢さんとでも呼ぶところかも知れないが、お嬢さんが二人いるのが幸いで、名前で呼ぶことが出来たのであった。
 悠一にはもう一つ悩みがあった。会社のことである。コンピュータは売れてはいるが、価格競争が激しく利益の薄い商売である。折からの不況のせいで、他の家電製品も軒並み不調で、六月に大規模なリストラが発表されるという噂で持ち切りだったのである。悠一は転勤して三ヶ月程ではあったが、これからどうなるのか全く予断を許さない状況であった。
 果たして六月の第一月曜日の朝礼の時、六月十日付の人事異動が発表され、四国営業所の人員がかなり減らされることになった。悠一は異動の対象とはならなかったが、担当地域が増えた上、営業所の総務の仕事も兼任することになった。また、従来の業務の大幅な見直しが行われた結果、何日も掛けて高知へゆっくりと出張することは許されない雰囲気になってきた。
 今回の異動では、村上も転勤になった。横浜にある管理部門の課長で、左遷という程でもないが、およそ栄転とは言えぬ部署であった。悠一は村上に電話してみた。
 「もしもし、伊藤です。」
 「ああ、伊藤君か。」
 「なんや、この度はえらい動きがありましたね。」
 「うん。会社もだいぶ怪しなって来たなあ。夏はともかく、冬のボーナスあてにならへんで。」
 「そちらはどうですか。」
 「ああ、事務センターか。通勤が楽でええわ。八時過ぎに起きても間に合う。仕事も楽やし、言うことないなあ。」
 村上は相変わらず脳天気であった。
 「ところで、吉田社長、なんか言うてはりました。」
 「特に何とも言うてはらへんだけど、伸子さんと話してみたら、何や難しそうやな。伊藤君、ちょっと押しが甘いんとちゃうか。」
 「はあ。」
 「もっと頑張りや。」
 「はい。」
 それからお盆休み迄二ヶ月位の間、悠一は新しく加わった業務に追われ、緊急の用件で二度日帰り出張した以外は高知へ行くことはなかった。吉田社長とは何度か電話で話したが、吉田電器店を訪れることはなく、伸子との話も棚上げになったままであった。



 
十二

 八月も下旬になると、まだまだ暑いとは言うものの、日は徐々に短くなり、太平洋の荒波が激しくなってくる。悠一が久し振りに吉田電器店を訪れたのはそんな日の、陽もやや傾き始めた頃のことであった。
 「こんにちは。」
 「あ、伊藤さん、こんにちは。お父さん、伊藤さん来たが。」
 店番をしていた伸子がやや引き吊った笑顔で悠一を迎えたが、吉田社長が出て来ると、二階へ上がってしまった。
 「伊藤さん、久し振りやなあ。」
 「ほんと、ご無沙汰してしまいました。」
 「まだまだ暑いなあ。まあ上へ上がって冷たいもんでも飲み。」
 「ありがとうございます。」
 吉田社長は二階へ声を掛けた。
 「伊藤さんに麦茶でもあげて。」
 悠一は吉田社長に促され、一人で二階へ上がって行った。
 「伊藤さん、いらっしゃい。」
 悠一に挨拶しながら、夫人は麦茶の入ったコップをテーブルに置いた。
 「こんにちは。お久し振りです。」
 「暑いでしょ。まあ、麦茶でも飲んで下さい。」
 「ありがとうございます。戴きます。」
 悠一には夫人の笑顔がどこかよそよそしく感じられたが、久し振りに会ったせいだろうと気にしなかった。暫くして、由美子が帰って来た。
 「あ、伊藤さん。」
 「由美子さん、こんにちは。」
 「こんにちは。」
 いつもの由美子の無邪気な笑顔は見られなかった。悠一は急に胸騒ぎがした。
 この日、悠一は仕事の都合で長居出来ず、夕食前には吉田電器店を辞して高松へ帰って行った。
 翌日、悠一は村上に電話して、前日のことを話してみた。
 「そうか、やっぱりあかんかったか。」
 「えっ。」
 「いやな、こないだ電話したら、伸子さんやっぱり嫌や言うて、社長も諦め掛けてる風やったんや。まだ分からん思て、君には言うてへんかったんやけど。」
 翌週、悠一は急用で高知へ出張した。吉田電器店へは連絡していなかったが、悠一は突然居ても立ってもいられなくなり、車をはりまや町へ向けた。
 店に入ると丁度伸子が一人で店番をしていた。
 「あ、伊藤さん。」
 「こんにちは。」
 悠一はやや小声で挨拶すると、素早く伸子に歩み寄り、耳元で囁いた。
 「やっぱりあきませんか。」
 「ごめんなさい。」
 伸子は軽く頭を下げ、そのまま下を向いてしまった。
 奥から吉田社長が出て来た。
 「あ、伊藤さん、どうしたんや。」
 「急に用事が出来て近く迄来たんで、顔だけ出さして貰いました。」
 「そうか、まあお茶でも飲んでき。」
 「いや、ちょっと急ぎますんで。」
 「そうか、またその内ゆっくり遊びにおいで。」
 その時はどの面提げて遊びに来られるものかと思ったが、悠一は結局その年の晩秋と翌年の二月に泊まり掛けで歓待を受けている。吉田夫妻も由美子も、そして伸子本人さえも何事もなかったかのように悠一をもてなしてくれた。過去のことにくよくよしないのが、土佐の人の良いところなのであった。

 
十三

 数年来の不景気のため、東京電算機の業績は益々悪化して行った。以前から噂はあったが、三月の決算が終わった直後に、遂に大規模な人員整理の方針が発表された。札幌と神戸の工場が閉鎖され、本社や営業所でも人員が大幅に削減されることになったのである。四月十日付で早々と人事異動が発令され、それから概ね十日毎に発表される異動に、皆戦々恐々としていた。連休前、悠一にも遂に辞令が下った。
 四国営業所営業第四係長兼総務課課長代理伊藤悠一、東算プロモーション有限会社出向を命ず。
 東算プロモーションは東京電算機の百パーセント子会社で、東京都中央区に本社を置いている。もっとも中央区とは言っても東京電算機本社のある銀座とは異なり、どこか下町の風情の残る八丁堀の、とある雑居ビルに小さな事務所を構えているだけである。ここはパソコン教室の企画、運営等が主な業務であるが、実際にはリストラの受け皿として、窓際族からもこぼれ落ちた定年前の社員を飼い殺しにしておくようなところであった。ここへ五月十日頃迄に赴任するように指示を受けたのである。悠一は愕然とした。しかし、パソコン教室には興味があったし、仕事は暇で、引き続きちゃんと給料を貰えるのだから、有り難いことだと自分を慰めることにした。
 急なことでもあり、悠一は特約店に片っ端から電話で挨拶することになった。吉田電器店には最後に電話した。
 「はい、吉田電器です。」
 「社長、ご無沙汰してます。東京電算機の伊藤でございます。」
 「ああ、伊藤さん、こんにちは。」
 「実は、今度転勤になりまして、連休明けには東京へ帰ることになりました。」
 「え、急なことやな。」
 「はい、何や会社も、えらい大変なようです。」
 「そうか、連休はどうするの。」
 「荷造りもあるけど、四国最後の休みやから、どうしよか考えとるとこです。」
 「じゃあ、うちおいで。別荘で送別会したる。」
 「いや、そんなこと申し訳ない。」
 「遠慮せんでもええが。そうや、村上さんも呼んだろ。五月になってからなら来られるやろ。」
 かくして、悠一が初めて吉田電器店を訪れて、浦戸の別荘に招かれた時と同じメンバーで宴を催すことになったのである。
 悠一は残務整理で忙しく、高知へ行ったのは土曜日のことであった。今回はプライベートな旅行でもあり、列車で高知へ向かうことにした。朝八時半には高松駅に着き、立ち食いのうどんで朝食を済ませ、九時前の汽車に乗り込んだ。悠一はいつも高知へは車で来ていたので、大歩危小歩危を見るのは初めてであった。生憎雨が降って来たが、雨模様の大歩危は実に絶景であった。汽車が高知駅に着いたのは、十一時少し前のことであった。悠一は市電で吉田電器店迄行くからと言ったのであるが、車で迎えに行くからパン屋の前で待つように言われていた。改札を出て右側のみどりの窓口の向こうにパン屋が見えるので、傘を差してその方向へ歩き始めると、駅前のロータリーに白いクラウンが滑り込んで来た。果たして、運転席から悠一に微笑み掛けたのは伸子であった。伸子が運転席から身を乗り出すようにして助手席のドアを開けようとした時、悠一もドアに手を掛けた。
 「伊藤さん、こんにちは。」
 「こんにちは。わざわざ迎えに来て貰て、ありがとうございます。」
 悠一は傘を畳むと後部座席のドアを素早く開け、傘と鞄を放り込んでから、助手席に乗り込んだ。



 
十四

 この日、吉田電器店は休業していて、一階は電気が消えていた。伸子と悠一は真っ直ぐ二階へ上がって行った。夫人が出迎えた。
 「伊藤さん、いらっしゃい。」
 「こんにちは。お世話になります。」
 「あ、伊藤さん、こんにちは。」
 「伊藤君、やっと着いたか。」
 まだ昼食前というのに、吉田社長と村上はビールを飲んでいた。
 「伊藤さんも飲むか。」
 「いえ、お昼はやめときます。」
 暫くして夫人と由美子がちらし寿司を食卓へ運んできた。
 「良かったら白いご飯もありますよ。それから赤いご飯も。」
 「赤飯ですか。」
 「いや、村上さんが持って来た。」
 「タイの赤米や。美味しいで。」
 「村上さん、また変わったもんばっかり買うて来る。」
 六人の賑やかな昼食が終わった。夫人が由美子に言った。
 「由美子さん、これから鮪取りに行くろ。伊藤さん連れてって市場見したり。」
 「そうやね。明日は市場休みやし。」
 「市場ですか。」
 「車ですぐやし、色々あって面白いですよ。行きましょ。」
 悠一は由美子の運転する赤いボルボの助手席に乗り込んだ。
 「今度お父さんが新しい車買うから、これ私にくれるんですよ。」
 「卒業祝いですね。」
 「ちょっと遅いけど、そうですね。」
 市場は広い倉庫のような建物であった。中には魚屋や八百屋が沢山あるような感じであったが、由美子はその中のとある魚屋へ真っ直ぐ向かって行った。中年の女性が筋だらけの鮪を包丁で撫でるようにして、身を削ぎ取っていた。
 「吉田さん、いらっしゃい。もうすぐ出来ますから。」
 一分程して、女性は三パックの剥き身を由美子に渡し、代金を受け取った。
 「伊藤さん、一通り見てみましょ。」
 悠一は由美子に連れられて市場の中を一周することになった。
 「文旦に小夏ですね。美味しそうやな。」
 「文旦はうちにあったから、小夏買うてきましょ。」
 「はい、小夏は大好物です。」
 由美子が千円札を出し、悠一は大好物を一箱受け取って、市場を後にした。
 車のトランクを開けながら、由美子が言った。
 「伊藤さん、このボルボ、うち迄運転してみませんか。」
 「いいんですか。」
 「はい、面白いですよ。」
 由美子がさっさと助手席に座ってしまったので、悠一は運転席に乗り込んだ。
 「何や、直進安定性の悪い車ですね。」
 「手ぇ離すと左へ左へ曲がってくから、少し右にハンドル切って下さい。」
 「あれ、ウインカーすぐ戻ってしまう。」
 「手で押さえとらんと、戻る時があります。」
 「ほんま、面白い車やなあ。でも慣れると運転しやすそう。」
 「そうでしょ。」
 「何かゴロゴロ音がしますけど。」
 「あ、そろそろガソリンがないわ。お腹空いた、ガソリンくれ言うてます。」
 「大丈夫ですか。」
 「うち迄なら大丈夫ですけど、そこのスタンドで入れてきましょ。」
 悠一はボルボを角のガソリンスタンドへ入れた。



 
十五

 悠一と由美子がはりまや町に戻ると、丁度伸子も野菜を買い込んで帰って来たところであった。
 「お姉ちゃん、何で竹竿担いどんの。」
 「竹竿て、ハチクやが。」
 「えらい大きいなあ。そんなん買うて来てどうするの。」
 「野菜買いに行ったらおまけにくれたが。伊藤さん、横浜へ持ってく。」
 「独身寮に物干し台あったかなあ。」
 「もー、竿と違うて。」
 三人が二階へ上がると、村上はソファでいびきをかいて寝ていて、吉田社長は新聞を読んでいた。夫人が台所から出て来て言った。
 「あれ、伸子さん、竹買うて来た。」
 伸子はふくれっ面をした。
 暫くして村上が起き出すと、六人は浦戸の別荘へ向かった。伸子が運転するクラウンに吉田夫妻と村上が乗り込み、悠一は由美子のボルボに乗ることになった。
 「伊藤さん、うちら船で行きましょか。」
 「船でですか。」
 悠一は冗談だと思ったが、由美子は途中からクラウンとは別の道に入った。
 「これ、浦戸とは反対側と違いますか。」
 「そやから船で渡るんです。」
 車は小さな港に着いた。港と言うよりは、小さな船着き場の前に空き地があるようなところに車一台と数人の人が船を待っていた。やがて船が着き、車四台と十人程の人が降りてきた。由美子は車を船に載せた。二人は車を降り、デッキへ出た。
 「この船、車やといくらですか。」
 「ただです。地元の人のために市がやってますから。」
 船は岸を離れた。
 「雨が上がって良かったですね。」
 「はい。あ、陽が射してきた。これで虹でも出たらええんやけど。」
 由美子は束ねている髪を直そうと、輪ゴムを外した。由美子の髪が潮風に吹かれて乱れた。
 二人が別荘に着いたのは、日も暮れかかった頃であった。伸子と村上が二人に声を掛けた。
 「どうしたん、えらい遅かったなあ。」
 「二人でホテルでも行っとったんやろ。それにしてはえらい早いなあ。伊藤君、修行が足りんぞ。」
 「そう、伊藤さんびっくりするくらい弱かったわ。」
 「由美子さん、何ということを。」
 「ははは、うそうそ、私ら船で渡って来たの。」
 一同大笑いした。悠一は初めは赤くなっていたが、すぐに笑いに加わった。
 悠一はテーブルの上に目を遣った。
 「あれ、もうワイン開けたんですか。」
 「ああ、これはブルネッロディモンタルチーノや。」
 「ブルメロ?」
 「ブルネッロ。」
 吉田社長の言うワインの名前が悠一には分からないので、村上が助け船を出した。
 「社長のご高説によると、開けてから何時間か経ったら美味しなるワインやて。」
 「お父さん、それ例の卸団地の店で買うたん。」
 「あ、あの美人三姉妹の。」
 「お父さん、美人三姉妹て何やの。」
 「いや、あそこはほんまにええワイン置いちょるき。」
 宴は夜半迄及んだ。
 翌朝、遅い朝食を済ませると、悠一と村上を由美子が送って行くことになった。村上は飛行機で東京へ帰るが、悠一は一旦高松へ戻るので、悠一を高知駅で降ろしてから高知空港へ向かうのである。
 天気はすっかり回復していた。車は初夏の陽射しを浴びながら、高知駅のロータリーに着いた。悠一が降りて由美子と村上に挨拶すると、由美子が窓を開けて顔を出した。
 「また来て下さい。」
 この時、悠一には何故か由美子の笑顔が、この日の陽射しのように眩しく感じられた。



次へ   浦戸心中目次   小説のページ   ホームページ