小説 浦戸心中 目次


     1   2   3   4   5   6   7   8   9  10
 11  12  13  14  15
  
前篇    1   2   3   4   5   6   7   8   9  10
 11
  
中篇    1   2   3   4   5   6   7   8   9  10
 11  12  13  14  15  16  17
  
後篇    1   2   3   4   5   6   7   8   9  10
 11  12  13  14  15
  
終篇    1   2   3   4   5   6   7   8   9  10
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浦戸心中



 土佐の恋多き女、Y子嬢にこの作品を捧げる

     二千六百六十二年春 武州荏原郡馬込文士村にて   本多 忠親






 
   浦戸心中序

 

 数日来日本列島を覆っていた寒波も漸く緩み、浦戸湾はのどかな朝を迎えていた。時折吹く風は流石にまだ少し冷たく感じられるものの、前日の朝よりはずっと暖かくなり、むしろ、すぐそこ迄来ている桜前線を感じさせるようにさえ思われた。西の空に残る有明の月の下を、大阪から来た定期フェリーが、静かな海面に波紋を広げながら、ゆっくりと汽笛を鳴らして通り過ぎて行く。
 有名な桂浜のすぐ近くであるが、この辺りの海岸線は砂浜ではなく、コンクリートの堤防で固められている。堤防の外にはテトラポットが積まれていて、所々残っている土からは枇杷やグミの木が生えている。海には数艘の釣り船が浮かんでいるが、この堤防の辺りには釣り人の姿は見られない。
 その堤防の内側には、車一台がやっと通れる程の狭い路地があり、その路地に面して小さな民宿や別荘が建ち並んでいる。その朝、そんな別荘の中の一軒の周りだけが、嫌に騒がしかった。
 この別荘は市内中心部のはりまや町に店舗兼住宅がある、吉田電器店の吉田宏社長の所有であるが、普段は殆ど使われていなかった。週末のセカンドハウスなどというものは、普通の日本人にとっては夢のような話であろうが、いざ別荘を建ててみると、毎週末そこへ行くというのも億劫なものである。ましてや休んだ分だけ収入が減る個人商店の経営者一家には、なかなか家族でのんびりする余裕などはなかったのである。そういう訳で、この別荘は年に何回か、友人が来た時に宴会をやってそのまま泊まって貰うような時に使うだけで、いつもは閉め切ったままになっていた。近所に住んでいる親戚の人に鍵を預けてあって、時折窓を開けて風を通して貰っていたのである。
 別荘とは言うものの、何ぶん土地の狭い高知のことであり、広い庭などがある訳ではない。三十坪足らずの敷地に目一杯家が建っていて、辛うじて車二台が停められる余地が残っているだけである。そこに停めてある旧型の赤いボルボを三人の男が慌ただしく調べている。別荘の前にはパトカー二台と乗用車数台、それに救急車が一台停まっている。やがて別荘の玄関の扉が開き、白い布で覆われた担架が二つ運び出されて来た。



 

 吉田家は代々はりまや町で呉服商を営んでいたが、先代が電器店を始め、戦後蛍光灯が普及した時に大儲けをしたらしい。その後高度成長期に至って所謂三種の神器の販売に力を入れ、代が替わって今の社長になってからも、いち早くクーラーを売り始めるなど、新しもの好きの血筋も幸いして、商売は順調に発展してきた。現在はご他聞に漏れずパソコンで繁盛しているが、これも昨日今日に始めたものではない。吉田社長は二十年以上も前に自分でマイクロコンピュータを組み立て、次女の由美子が物心付いた時には、小学校高学年になる姉の伸子が父の作ったマイコンで遊んでいたのである。中学生の時からパソコン通信をやっていた由美子のことであるから、吉田電器店のホームページを独力で作り上げるのに大して苦労もなかった。一方、姉の伸子は伸子でハードウェアやソフトウェアをよく研究していて、仕入も的確だが顧客への説明も上手で、この姉妹がいる限りは吉田電器店は安泰だと言われたものである。しかし、跡取り息子がいないことだけが吉田社長の悩みであった。
 伊藤悠一がその吉田電器店を初めて訪れたのは、三年前の平成九年春のことであった。
 悠一は関西の出身であるが、東京の大学で情報処理を専攻し、そのまま東京電算機株式会社に入社した。東京電算機は横浜市西部に広大な敷地を所有し、そこには工場や研究所をはじめ、様々な組織が集まっている。悠一はその敷地内の独身寮に入り、本社や営業所で様々な職種を経験した後、香港を中心に活動している現地法人に出向した。二年の任期を終えて帰国し、本社に一年余り在籍した後、香川県高松市にある四国営業所に配属されたのが三年前の春であった。
 悠一は高知市とその周辺の担当になった。赴任した翌々日には、彼の前任者の村上と二人で高知市内の特約店に挨拶廻りをすることになった。村上は悠一よりも年長で、かつて本社で悠一と一緒に仕事をしたこともあった。二人は不思議と気が合い、仲良しの先輩後輩といった間柄であった。
 二人は朝早く車で高松を出発し、高知に着いたのは午前十時頃であった。大型スーパー一軒と町の電器店二軒を訪問した後、村上の行き付けの食堂で昼食を摂ることにした。
 「伊藤君、お昼は軽めにしといたほうがええと思うよ。」
 村上が意味ありげに言うので、悠一は天ぷらうどんを注文した。村上も同じものを取った。村上がうどんをふうふう吹きながら言った。
 「君ももうすぐ三十四や。そろそろ真面目に考えなあかんなあ。」
 「真面目にといいますと。」
 村上はにやりとしてうどんを啜った。
 二人が吉田電器店を訪れた時には午後五時を回っていた。二人が店に入ると奥から吉田社長が出て来て、悠一が挨拶しようとするのを気にも留めず、
 「こっち、おいで。」
と言って、二階の茶の間へ二人を連れて行った。悠一は改めて姿勢を正し、名刺を差し出した。
 「今度こちらを担当させて戴くことになりました、伊藤悠一と申します。」
 「あ、名刺は店に置いてきた。あとであげる。」
 吉田社長は言ったが、悠一は結局最後迄社長の名刺を貰えなかったのであった。
 「行こか。」
 「行きましょ。」
 吉田社長と村上が立ち上がるので、悠一も訳が分からないままに立ち上がり、
 「どこへ行くんですか。」
 「別荘や。美味しいもん食べさしたげるから、ゆっくりしてき。」
 悠一は村上の顔を見た。
 「桂浜の近くや。今晩は泊めて貰うから、いくらでも飲めるで。」
 三人は社長の赤いボルボに乗って浦戸へ向かった。



 

 日が暮れると急に気温が下がり、風も少し出て来たが、浦戸湾は穏やかであった。別荘の横に停めてあった白いクラウンの前にピタリとくっ付けて、社長のボルボが停まった。三人が車から降り玄関を入ると、すぐ横のダイニングキッチンで夫人と二人の娘が料理を準備していた。
 「あ、村上さん、いらっしゃい。」
 夫人が言った。悠一は三人に向かって会釈し、
 「今度村上の後を担当させて戴くことになりました、伊藤悠一です。よろしくお願いします。」
と言い終わるか終わらないうちに、まだ大学生だった由美子が、
 「お姉ちゃん、ええ男やないの。」
と冷やかすように言うと、二十八歳になる伸子は少し恥ずかしそうに下を向いた。
 「まず二階に荷物を置いて来たらええ。」
 吉田社長に言われ、悠一は村上の後に付いて階段を上って行った。二階には和室と洋室が一つずつと、海に面してベランダがあった。ベランダには白い丸テーブルと椅子が二脚置かれていた。
 「立派な別荘ですね。」
 「どうや、欲しなったやろ。」
 「えっ。」
 村上は微笑むと、階段へ向かった。悠一も従った。
 二人が一階へ戻ると、ダイニングキッチンの奥にある和室で吉田社長が缶ビールを開けてコップに注いでいるところであった。
 「こっち来て、ビールでも飲も。」
 村上はずかずかと入って行く。悠一も数歩遅れてキッチンを横切って奥へ行こうとしたが、その時一瞬伸子と目が合ってしまった。
 男三人がビールで乾杯すると、夫人が蒲鉾とからすみを切ったのを皿に盛って持って来た。三人は仕事の話をするでもなく、初対面の吉田社長と悠一が自己紹介し合うでもなく、ビールが旨いの蒲鉾が旨いのと、取り留めもない話をしていた。
 「出来ましたよ。」
 夫人に言われ、三人はダイニングキッチンへ移った。テーブルは掘炬燵のような形になっていて、十人程が座れる大きさであった。これに白いテーブルクロスが掛けられているのが何か和洋折衷で、悠一には面白く感じられた。
 「ワイン飲むか。シャブリにチリのカベルネにキャンティ。好きなん飲み。」
 吉田社長は慣れた手つきでコルクを抜き始めた。
 村上にこれ旨いでと言われ、悠一は遠慮がちに皿の上の大トロらしき刺身に箸を伸ばした。醤油を付けて口に入れると、脂は乗っているが、歯ごたえがある。
 「それはマグロのカマや。大トロよりも旨いやろ。これも食べてみ。」
 吉田社長に言われ、悠一は恐る恐るレバーの刺身のようなものを口に入れた。
 「何やと思う。」
 「分かりませんけど、思ったより血生臭くなくて、あっさりしてますね。」
 「マグロの心臓や。」
 「えっ。」
 「冷凍は食べられたもんやないけど、生のマグロの心臓はいける。」
 「なるほど。」
 「これはただでもろて来たんや。金を出せば旨いのは当たり前。金を掛けんと美味しいものを探すのが本当のグルメや。」
 「恐れ入りました。」
 この後、マグロの目玉を煮たものや鯨鍋が出され、宴は夜遅く迄続いた。社長も村上もすっかりご機嫌であった。悠一は遠慮がちのつもりであったが、いつの間にか相当飲んでいた。由美子もかなり飲んだが、夫人は全然飲まず、伸子もほんの一口飲んだだけであった。十一時半頃になって簡単に後片付けを済ますと、娘二人は家へ帰ることになった。いつの間にか雨が降り始めていた。
 「伊藤君、お姉ちゃんを車迄送って行ったりな。」
 村上に言われ、悠一は傘を差して伸子を車迄送って行った。二人とも無言であった。由美子は先に自分で傘を差して駐車場へ行ってしまい、二人が来た時には父のボルボを動かして、クラウンを路地に出しているところであった。



 

 翌朝悠一が目を覚ましたのは八時前のことであった。昨夜酔い潰れて先に寝てしまった村上は、既に起き出して堤防の上を散歩していた。悠一が慌てて顔を洗い階段を降りて来ると、吉田社長は奥でテレビを見ていて、夫人が朝食の準備をしていた。
 「お早うございます。」
 「お早うございます。伊藤さん、夕べはよう寝られた。」
 「はい、お蔭様で。」
 「あ、伊藤さん、お早う。」
 「お早うございます。」
 丁度その時玄関から村上も入ってきた。吉田社長と村上が食卓に着くので、悠一も座った。夫人が焼いて持って来た干物を見て悠一は驚いた。
 「これ、鯛ですか。」
 「はい、鯛です。こんな小さいのは干物にしかならんから。」
 悠一は南国の海の豊かさを知らなかったのであった。
 朝食が済み、夫人が後片付けを始めた。吉田社長が言った。
 「なあ、君らどうせ金曜日迄おるんやろ。週末はどうする。」
 悠一は村上から、高松へ戻るのは日曜になると言われていたのを思い出し、彼の顔を見た。
 「どうせ日曜の晩迄に帰ったらええのやから、伊藤君に高知の町を見せたろと思てます。」
 「それならまた、うちへおいで。」
 後片付けが終わると、四人はボルボではりまや町の店に戻った。
 村上と悠一は吉田電器店を辞し、挨拶廻りを続けることにした。
 郊外の田園の中の道を走りながら村上が言った。
 「なかなか風光明媚なとこやろ。」
 「はい。」
 「こんなとこ、ずうっと住んでみたいと思わんか。」
 「そうですね。」
 村上はにやりとして、独り頷いた。
 「伸子さん、どう思う。」
 「どう思うって。」
 「ええ子やろ。」
 「はい、可愛い人ですね。」
 「嫁さんにどうや。」
 「えっ。」
 「吉田さんとこ、跡取りがおらん。君が婿養子に入って跡を継いだらええ。」
 「はあ。」
 「頑張れ、伸子さんも店も別荘も皆君のもんや。」
 「はあ。」
 「どうした。伊藤君、他に好きな人でもおるんか。」
 「いいえ、全然おりません。」
 「ほな、頑張れ。」
 「はい。」
 気のない返事をしているようであるが、それは突然こんなことを言われたからで、悠一もまんざらでもなかった。というよりも、伸子に対して微かに恋心を抱き始めている自分に気付いていた。また、悠一にとっては吉田電器店での生活も夢のように思われた。彼は身持ちの良くない小金持ちの男が外に作った子供で、両親が揃った家庭を知らなかった。母の仕事の関係で、子供の頃から住居を転々としていたのである。素朴で優しい両親がいて、立派な家があって、店があって、その上別荘迄ある。そんな生活を一度でいいからしてみたいものだ。あの伸子と結ばれ、あの両親と、あの妹と暮らせたら、どれだけ楽しいことだろう。
 吉田悠一。うん、いい名前だ。お父さん、お母さん。いい響きだ。伸子。呼び捨ては何か恥ずかしいな。伸子さん。何かよそよそしいかなあ。伸ちゃん。ちょっと子供っぽいかなあ。そして由美子ちゃんが僕の妹。
 「伊藤君、着いたよ。」
 郊外のとある電器店の前に車を停めた村上の声に、悠一ははっと我に返った。



 

 二人が再び吉田電器店を訪れたのは金曜日の夕方のことであった。
 吉田電器店の店舗は意外と広く、店だけで十坪程あり、奥に小さな事務所、更にその奥に倉庫がある。また、車二台分の車庫もあって、これらの上が丸々二階の自宅になっているので、かなり広い家である。二階には台所、食堂、居間、風呂場や洗面所等の他、夫妻の寝室、伸子の部屋、由美子の部屋、そして八畳程の客間があった。この日は浦戸の別荘へは行かず、悠一と村上はこの客間に泊めて貰うことになった。
 「ええ鮃やろ。」
 吉田社長が台所の前で取り出した鮃の大きさに悠一は目を丸くした。
 「これで千八百円や。」
 また浴びる程飲むのかという悠一の心配をよそに、この日はフランスの安い白ワイン一本と日本酒の四合瓶を開けただけで、八時には食事が終わった。しかし、悠一は吉田社長のグルメぶりには改めて感心させられた。獲れ立ての鮃の刺身の旨さは勿論であるが、その皮をさっと湯引きしてポン酢で食べるのの美味しさには驚かされた。また、フランスのジュラとかいうところのワインがなかなかいけたし、何よりも社長の友人の蔵元から直接分けて貰った「瀧風」の生酒の旨さといったらなかった。由美子は結構飲んだが、夫人と伸子は先日と同様に全く飲まなかった。
 翌朝、由美子は朝早くから友人と遊びに行ってしまった。伸子はまだ起きてこない。村上は子供がまだ小さいせいか、いつも朝が早く、悠一も居候の手前、早くから起き出した。夫人が朝食の準備をしていた。
 「お早うございます。」
 「お早うございます。今朝はニロギ汁を作りました。」
 悠一は何のことか分からなかったが、村上が嬉しそうにしているので、きっと美味しいものに違いないと考えた。吉田社長も出て来て、一同食卓に着き、夫人が小さな丸っこい魚が何尾も入った汁を椀によそった。ニロギとはヒイラギのことで、このニロギ汁こそは知る人ぞ知る土佐の珍味である。
 「箸でこう掴んで、背中からこうやって食べる。」
 吉田社長に食べ方を教わり、悠一も食べてみた。悠一は澄まし汁に魚を入れたものは概して好きではなかったのだが、このニロギ汁はすっかり気に入ってしまった。
 朝食が済んで食器を片付けながら、夫人が言った。
 「コーヒーでも入れましょか。」
 社長が頷くと、夫人はコーヒーメーカーに豆と水を入れ、スイッチを入れた。
 四人がコーヒーを飲んでいると、Tシャツにジャージ姿の伸子が起き出してきて、ニロギ汁には見向きもせず、まだ少し残っていたコーヒーをカップに注ぐと菓子パンを取り出して食べ始めた。夫人が言った。
 「この人はパン食党やから。」
 「僕も普段はパン食です。」
 悠一がそう言って伸子を見ると、伸子も悠一に視線を向けた。今朝の悠一はここで微笑むだけの余裕があった。伸子も軽く微笑み返した。



 

 この日は伸子の案内で市内を観光することになった。伸子がクラウンを運転し、悠一は助手席に座った。村上は後部座席で寝そべっていた。
 伸子が運転しながら説明する。
 「ここが一番の目抜き通りで、もうすぐはりまや橋が見えます。」
 「日本三大がっかり名所の一つや。」
 村上がチャチャを入れる。悠一も調子を合わせた。
 「もう一つはきっと札幌の時計台でしょう。あと一つは何ですか。」
 「何やろ。適当に言うてみただけや。」
 はりまや橋は確かにうっかりすると見落としてしまいそうな位小さなもので、大通りの横の歩道に小さな朱塗りの橋が遠慮がちに置いてあるという感じであった。
 三人は桂浜方面へ向かった。突然村上が自由民権記念館へ寄ろうと言い出した。これは高知市制百周年を記念して造られた施設である。
 「この先、警察署のちょっと向こう。」
 「こんなんあるの、知らんかったわ。」
 伸子は車を駐車場へ入れた。
 展示場は二階である。村上がガラスケースの中の短刀を見つけた。
 「これが板垣退助が刺された短刀や。板垣死すとも自由は死せず。」
 「あとで元気になってからそう言うたことにしたんと違いますか。」
 悠一が言うと伸子が笑った。
 明治時代に高知の日曜市が始まった頃の模型があった。村上が言った。
 「昔から今とおんなじとこでやっとったんやな。」
 「今こんなに人おらんけど。」
 伸子が言った。悠一はまだ日曜市を見たことがなかったが、何かおかしくなって笑ってしまった。
 三人は再び桂浜方面へ向かった。村上が今度は坂本龍馬記念館へ行こうと言う。高知といえば坂本龍馬であるが、実は龍馬の評価は地元では分かれている。庶民階級は手放しで龍馬を評価するが、藩の重役やそれに近い立場の家柄の人々の一部には龍馬を毛嫌いする人もいる。山内家は徳川幕府に土佐一国を与えられた恩がある。容堂公も幕府に協力的であった。しかし、薩長土肥と並び称されるのは、坂本龍馬ら郷士や下級士族が藩の方針に背いて勝手に倒幕に向かって進んだためである。代々御用商人を勤めた吉田家としては龍馬を評価できない訳で、吉田社長は長宗我部の城跡に郷士ごときの記念館を建てるとは不遜極まりないと大反対したという。しかし、伸子にはそのようなわだかまりはなかったし、悠一はそんなことを知るよしもない。
 坂本龍馬記念館は建てられた時にその斬新なデザインで評判になったもので、海の眺めも良いが、展示も工夫されていた。旧国名で表示された大きな日本地図があって、ボタンを押すと龍馬の足跡に従って順にランプが点滅する装置を、悠一と伸子は面白がって無邪気にはしゃいでいた。
 一時間程で記念館を後にした三人は桂浜を散歩することにした。いつしか悠一は伸子と二人で並んで砂浜を歩き、村上は少し離れて歩いていた。
 「子供の頃ようここで遊びました。」
 伸子は桂浜のこと、子供の頃の想い出などを語り始めた。歩いているうちに、ふと二人の肩が触れ合った。



 

 翌朝の八時前、吉田家の食卓では、吉田夫妻、村上、悠一の四人が揃って朝食を摂っていた。暫くして由美子も起きて来て食卓に加わった。
 「ノビゴンはまた朝寝坊や。」
 伸子は昨夜気分が優れぬと言って、先に休んだのであるが、由美子の言い方がおかしくて、悠一は笑ってしまった。
 朝食が終わり、コーヒーを飲みながら夫人が言った。
 「伊藤さん、日曜市見てったらどう。」
 「はい。」
 「それがええ。案内したろ。」
ということで、悠一は村上に連れられて日曜市を見に行くことになった。
 日曜市は昨日の伸子の言葉に反して多くの人々で賑わっていた。大通りの一部を使って細長い空間に延々と市が立っている様子は、どこかパリのマルシェを思わせる。日曜市は元来近郊の山の幸を売りに来るもので、今日でも野菜を中心に、惣菜や菓子、日用品などが売られている。
 「この饅頭旨そうやな。帰りに腹減ったら食べよ。」
 村上はポケットから小銭を取り出し、一パック二百五十円の饅頭を買った。
 狭い道には人が溢れ、両側には相変わらず野菜や日用品等を売る店が並んでいる。何箇所か交差する通りのところで途切れながら、市は高知城の前迄続いていた。
 「あれが高知城や。そのうちゆっくり見て来たらええ。」
 「はい。」
 二人が軽く昼食を済まし、吉田電器店へ戻ったのは二時前であった。悠一が由美子に尋ねた。
 「伸子さんはどうしました。」
 「ノビゴン一回起きて来てパン食べよったけど、頭痛い言うて、また寝てしまいました。」
 村上と悠一はいよいよ高松へ帰ることになり、吉田夫妻に丁重に礼を言った。
 「村上さん、また来るろ。」
 「はい、そのうちきっと。」
 「伊藤さん、またいつでも来て。」
 「ありがとうございます。本当にお世話になりました。伸子さんにもよろしくお伝え下さい。」
 こう言った悠一は、その言葉を聞いて微笑んだ由美子と目が合い、思わず照れ笑いをした。
 二人は車で高松へと向かった。村上が運転しながら言った。
 「伸子さんどうしたんやろなあ。恥ずかしがっとんのかなあ。」
 「でも、ゆうべは辛そうでしたよ。」
 「恋煩いやろか。」
 「まさか。」
 「まあ、社長にはよう言うてあるし、ご両親共に乗り気や。」
 空は快晴で、高速道路も順調に流れていた。川之江の辺りに差し掛かったところで村上が言った。
 「饅頭取って。」
 悠一は後部座席の袋を取った。村上が日曜市で買った饅頭である。悠一がパックを開けると、村上は饅頭を一つつまみ、
 「君も食べな。」
 悠一も饅頭を頬張った。



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