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   浦戸心中中篇

 


 翌日の土曜日、由美子は村上に任せておくことにして、悠一は朝早く羽田空港へ向かった。
 「よう考えたら昨日もここへ来たなあ。」
 悠一は熊本行の飛行機に乗り込んだ。飛行機が水平飛行に移り、飲み物が出されると、悠一は鞄から菓子袋を取り出した。昨夜由美子が別れ際にくれた、高知土産の芋ケンピである。悠一は伊豆半島を眼下に眺めながら、芋ケンピをつまんだ。
 「由美子ちゃん、えらい大人っぽく見えたけど、まだまだ子供やな。可愛いもんや。」
 この日、悠一は熊本市内で二回パソコン教室をやった。午前中に打ち合わせ、昼食を挟んで、午後一時からと三時半からの二回である。その日は早めにホテルに入り、夜はぐっすりと眠った。
 翌日も午後からパソコン教室であるが、午前中は予定が空いていた。悠一は少し朝寝坊してから、熊本城を見ることにした。市電を降りて歩いて行くと、川の向こうに城があるようである。橋を渡ろうとした悠一は、その橋の袂に加藤清正公の像を見付け、立ち止まって説明を読み始めた。東京にも清正公前というバス停があったと思い出しながら、悠一は橋を渡って、熊本城の入り口に辿り着いた。ここはメインの出入り口ではないようで、人影もまばらであったが、入場券を売る窓口があったので、券を買って中に入ることにした。
 熊本城は実戦向きに造られた難攻不落の城として知られ、武者返しと呼ばれる独特の形状の石垣や、櫓等が多く残っている。悠一は入場券を買った時に貰った地図で場所を確かめながら、順に見て回った。やがて本丸の天守閣が見えて来た。この天守閣は再建されたもので、内部は様々な展示があって、博物館のようになっていた。
 展示を一通り見て外へ出ると、向こうに売店が見えたので、悠一は何気なく覗いて見ることにした。売店には御多分に漏れずありきたりの土産物が並んでいたが、隅に置いてあった肥後象嵌を見て、悠一は立ち止まった。これは熊本の伝統工芸品として名高い金細工で、酸化第一鉄の上に金銀で非常に細かい細工が施してあって、花や蝶などの模様が形造られているものである。悠一は暫くこれを眺めていたが、そろそろパソコン教室へ行く時間になったので、熊本城の近くで軽い昼食を済ませてから会場へ向かった。
 パソコン教室が終わって会場を出た時には五時半を過ぎていた。最終の飛行機に乗るには六時前に空港に着いていなければならないので、悠一はもう一泊ホテルを予約してあった。あとは翌朝帰ればいいだけの気楽さで市内をぶらぶらしていた悠一は、たまたま通り掛かったデパートに入った。
 地下一階の食料品売り場の隣に土産物のコーナーがあった。ここは饅頭や煎餅などの食べ物ばかりで、民芸品の類いは置いていなかった。悠一は熊本城で見た肥後象嵌がもう一度見たくなって、店員に尋ねると、地下二階の玩具売場の横にあると言う。地下二階に降りてみると、果たしてガラスケースの中にずらりと肥後象嵌が並んでいた。ブローチ、ペンダント、ネクタイピン、カフスボタン、イヤリングなど、様々な形と模様があった。悠一の目はガラスケースの中央辺りにあったペンダントに釘付けになった。
 漆黒の中に浮かび上がる黄金の蝶。一見地味なようで、実は妖しい輝きを放ち、しかも掴み所のない自由な蝶。悠一はいつしか鴫沢美弥子の姿をこの蝶に重ねていた。
 悠一は傍で説明していた店員に言った。
 「じゃあ、これ下さい。」
 悠一はこのペンダントを綺麗に包装して貰って、デパートを後にした。



 

 翌朝、悠一は羽田から直接会社へ行き、夕方には退社して寮へ戻った。由美子からメールが来ていた。また二人のメールの遣り取りが始まった。

   ありがとうございました
高知に帰ってきました。
先日は大変ありがとうございました。次の日は村上さんに横浜を案内してもらい、中華料理をいただきました。
ドラクロワも自由の女神も見てきました。思ったよりも、どちらも小さかったです。美術館はチケットを買うのに混んでました。それから銀ブラもしました。そんなところです。
吉田由美子

   どういたしまして
女の子に一度に貢いだ金額の新記録を作らせてくれた由美子さんへ
では、今度は合宿でお会いしましょう。
九州で高知産の芋を食べていた伊藤より

   太ったかも
新記録を樹立した芋食いの伊藤さんへ
本当に新記録ですか。すごいですね。どうしましょう・・・。
実は次の日のお昼にもフレンチ食べに行ったのですよ。その後村上さんと中華でしょ。その翌日がもんじゃという・・・。食事はとっても充実していました。
きっと太ったと思う由美子より

 翌日、悠一が会社で仕事をしていると、彼のデスクの電話が鳴った。
 「はい、東算プロモーション、伊藤でございます。」
 「伊藤君、私、鴫沢だけど。」
 「あ、こんにちは。どうしたの。」
 「もし良かったら、今夜食事でもどうかと思って。」
 「いいよ。」
 「じゃあ、六時半に広尾で大丈夫?」
 「オッケー。」
 悠一は机の引出しを開け、熊本で買って来た肥後象嵌の包みを取り出して鞄に入れた。
 悠一が広尾駅に着いたのは六時二十五分頃のことであった。十五分程して美弥子が現れた。
 「お待たせ。待った?」
 「少しね。これ位気にしなくていいよ。で、どこ行くの。」
 「最近ご無沙汰してたけど、いいお店があるの。」
 「それは楽しみ。」
 二人が入ったのは、小さなイタリア料理店であった。支配人が美弥子を親しそうに出迎えた。
 「いらっしゃいませ。富山さん、お久しぶりですね。」
 美弥子は苦笑した。二人は席に着くと、食前酒を注文した。
 「富山さんて呼ばれていちいち説明するの面倒だから。」
 「なるほど。」
 支配人がメニューを持って来た。美弥子が言った。
 「シェフにお任せします。」
 「はい、かしこまりました。」
 支配人は美弥子の言葉を予想していたかのように軽く微笑み、ワインリストを置いて行った。
 「ねえ、私がワイン選んでいい?」
 「うん、任せた。」
 「じゃあ、これ。カステッロ・ディ・アーマの九三年。」
 悠一はどうせイタメシと軽く考えていたが、支配人は高そうなクリスタルガラスのデカンターを用意して、ワインを仰々しくデカントし始めた。料理も伊勢海老に極上のバルサミコ酢とエクストラ・ヴァージン・オイルを掛けたものや、白トリュフをたっぷりと使ったパスタなどが次々と出て来て、悠一は目を丸くした。
 デザートになって、悠一は我に帰ったようにポケットから包みを取り出して、美弥子に差し出した。
 「これ、熊本のお土産。」
 「えっ。ありがとう。開けてもいい?」
 「どうぞ。」
 「わあ、綺麗。」
 「熊本の名産品らしい。」
 「ありがとう。」
 美弥子は肥後象嵌のペンダントを嬉しそうに首に掛けた。
 その後、そのペンダントの十倍以上の勘定書を見て悠一が青ざめたことは言う迄もない。



 

 翌日、悠一は五時半過ぎに退社し、真っ直ぐ横浜へ帰った。寮の近く迄来ると、村上とばったり会った。
 「おう、八丁堀。久し振りに一杯やらへんか。」
 「よろしいなあ。行きまひょ。」
 二人は近くの居酒屋に入った。すぐ近くに住んでいる割には、二人がゆっくり話すのは久し振りのことである。話題は情報機器展の時のことになった。
 「ところで伊藤君、由美子さんどう思う。」
 「どう思うって?」
 「伸子さんあかんだけど、いっそのこと由美子さんはどうや。」
 「えっ、そんなこと・・・。」
 「まあ、よう考えて見いや。本人にはこないだ話しといたから。」
 悠一は寮へ帰って、これ迄のことを思い浮かべてみた。由美子の写っている写真があったのを思い出し、取り出して暫くの間じっと眺めていた。やがて悠一はパソコンに向かった。

   えっ、そんなこと・・・
妹にしそこなった由美子さんへ
さっき村上さんに会ったら、大胆な提案が・・・。横浜で由美子さんにも話したそうですが、そんな、ねえ。でも、ちょうどいいかも・・・。もし由美子さんが少しでも可能性を検討してみてもいいという気持ちがあって、そしてご両親もお姉さんも説得出来そうなら・・・。
明日からまた出張です。何かこのままだと連休中落ち着かなくておかしくなりそう。メール、いや、電話貰えます? あ、何を無茶なことを言ってるんだろう。
突然の大胆な提案に動揺してるけど、何か不思議と嬉しいような気もする伊藤より

 その夜、由美子から電話はなかった。翌朝になってもメールも来ていなかった。悠一は仕事で長野へ出掛けた。
 翌日、悠一は寮へ帰るとすぐにパソコンのスイッチを入れ、パソコンが立ち上がる間ももどかしく、メールをチェックしたが、由美子からの返事は来ていなかった。悠一は落胆した表情になったが、机の上に置いてあった由美子の写真を手に取り、そっと接吻した。

   雪景色
なんと言っていいか分からなくなってしまった由美子さんへ
一昨日は動揺してしまってごめんなさい。帰ってきました。
長野は雪でした。そちらはもう桜ですか。
一昨日は無茶を言ったかも知れませんが、もしそういうことを検討するのなら、また合宿でもやってゆっくり考えましょう。由美子さんが「そんなことは全然考えないよ!」と言うのなら、もっと気楽に合宿だ! いいワインを持って、三島社長と浦戸へ雪崩れ込みます。いつがいいかな。ゴールデンウイークでしょうか。
しかし、男女の関係(変な意味じゃない)って難しいものですね。何だか、面倒くさくなって来ちゃいました。いっそ、人妻と食事でもしてたら気を遣わなくてもいいかも。今度は文子さんにご馳走しようっと。こんな風にやり投げになるから、いつ迄経っても結婚出来ないのかなあ。
村上さんに乗せられて、伸子さんの弟になってみようかなんて馬鹿なことを考えてしまった伊藤より

 翌朝、悠一がメールをチェックすると、由美子から返事が来ていた。そのメールの件名を見て、悠一は一遍に目が覚めて、飛び上がった。
 「由美子さん!」
 悠一ははやる気持ちを押さえ切れず、マウスを床に落としてしまった。マウスを拾い上げ、やっとのことでメールを開封した悠一の顔色が変わった。



 

   サクラサク
何をおっしゃる伊藤さんへ
いやぁ、びっくりしてしまいました。思わず、村上さんに確認とってしまいましたよ。
で、で、でも、ちょっとそのお話は困りますねえ。実はちょっと、迫られている(?)人がいまして・・・。
合宿は合宿でしましょう。掃除しに行かなければ・・・。日程はいつでもいいですね。今からなら、ゴールデンウイークが無難でしょうね。
こちらは一応、開花宣言しました。でも、今日は雨でとても寒かった。
では、次は文子さんにどうぞ。
東京で逢い引きしていた由美子より(内緒ですよ!)

 「なんや、サクラサクって、本物の桜の話か。何っ、東京で逢い引き?」

   返信 サクラサク
妹にも何とかにもし損ねた(?)由美子さんへ
ハハハ、白状したな。由美子さんみたいな素敵な人が何にもないなんて筈はない! でも、ちょっと悔しい。
今週は東北へ行く伊藤より

   まだまだ寒いですよ
東北はどこですか? 伊藤さん
合宿の計画もまた相談しましょうね。
伊藤さんに秘密を握られてしまった由美子より

   温めてください
ラ・グランド・トゥールの帰りがけに彼氏から電話が掛かって来て、携帯で長電話していた由美子さんへ
では、村上さんの無謀な計画はお互い聞かなかったことにしましょう!
東北は福島県の白河(ほとんど栃木)です。
あのレストランへ連れて行ったのはお世話になったし、そもそも自分が美味しいものを飲み食いしたかったからで、決して下心があって八万円貢いだ訳ではないことだけは信じて欲しい伊藤より(長い!)

   そんな豪勢な!
美味しいものを共に飲み食いした伊藤さんへ
電話が掛かって来た人は彼氏ではないのですよ、残念ながら。そっちをそうしたいのだけど・・・。彼氏といえるかどうかは?ですが、そういう人は某コンピュータ関係の仕事に就いています。どこで出会ったか・・・?
またまた秘密をばらしている由美子より

   ばらしちゃおうかな
ついつい秘密が漏れてしまう幸せそうな由美子さんへ
僕は実は口が軽いかも・・・。うそうそ、内緒にしておきます。多分ね!
また明日から出張です。どこへでも行き、何でもしてしまう旅芸人です!
僕は当分放浪する運命なんでしょうね。どこか安住の地を探さなければ。
八十八ヶ所巡りをしてみたくなった伊藤より

   ばらさないで!
信用している伊藤さんへ
旅芸人・・・??
八十八ヶ所巡りですか。一番札所は徳島ですよ。
まぁ、秘密にしておくこともないんだけど。東京で逢い引きしたと言えど、大阪の人ですし。
ちなみに電話の相手は同級生です。電話が「お客様の都合により」で連絡が取れない相手だから長くなってしまいました。
それに幸せかというと?なんですわ。と悩んでいる由美子より



 

   地方巡業
もう少し具体的に秘密を明かしてくれそうな由美子さんへ
僕は今夕から地方巡業(?)へ出発します。週末には帰りますので、掛け合い漫才の続きはまた週末にやりましょう。
村上さんに突っ込まれると由美子さんの秘密を喋ってしまいそうなので、なるべく顔を合わせないようにしている伊藤より

 土曜日、悠一が横浜へ帰っても、由美子から返事は来ていなかった。悠一は再び由美子にメールを打った。

   まだばらしてません
もう少し具体的に秘密を喋らせてみたい由美子さんへ
まだ誰にも喋ってませんよ。大体話は見えてきたけど、まだちょっとわかりにくいなあ。コンピュータ関係の人だったら丁度いいんじゃないですか。ご両親も喜んでくれると思います。伸子さんには僕から話しておきましょうか?
さて、地方巡業も終わって、暫くは東京でつまらない暮らしのようです。早く旅芸人を四国に呼んで下さい。
最近飲み友達に遊んで貰えない伊藤より

 日曜の朝、昼前に起き出した悠一がメールをチェックすると、由美子から返事が来ていた。

   まだ内緒
飲み友達はどうなってますか?伊藤さんへ
話が見えて来たって? うーん、どこ迄想像がついているのか・・・。まだまだ伸子さんには言わないで下さいよ。
ついつい喋ってしまいそうな由美子より

   情報交換
古い話ですが、大阪で逢い引きのついでに東京電算機の商談会に行った由美子さんへ
由美子さんに喋らせるために、こちらの話を白状しちゃいましょう。
飲み友達は大学の同級生で、卒業後も何人かで会うことがありましたが、実は結構彼女に憧れていました。彼女が結婚したのは七年前、相手は某銀行の頭取の御曹司で、アメリカでMBAとか取って来た人。こりゃ全然話にならん。
彼女のことは良く思い出していたけど、もう逢えない人だと思ってました。そしたら突然彼女が僕の目の前に現れて、二年前に未亡人になったと聞かされたのです。どういう訳か、そのあとそのまま一緒に食事でもということになって、それから二度ほど。それが全てです。
では、次は由美子さんの具体的なお話を伺いましょう。
これから電話するけど、何かもう飲み友達とは逢えないような気がする伊藤より

   返信 情報交換
告白している伊藤さんへ
逢い引きのついで? 違いますよ。だってその時初めて会ったんだもの。と言うと、どこの会社・・・? こないだ情報機器展にも出展していましたね。
もうばれてますか? 大阪の某有名(?)会社ですね。社長さんはご存知の筈ですよ。一緒にワインを飲んだ仲です。
伊藤さんの次の日、銀座の別のフレンチに行ってきました。昼間っからまたしても飲んでしまいました。その後村上さんと会ったけど・・・。
今日はここまで。
段々口が滑っている由美子より。ワインのせいかな?



 

   大当たり!
すっかりばれてしまった由美子さんへ
やっぱりあそこの会社の人だった!
だからご両親も喜んでくれるだろうと言ったんですよ。大体、次の日のフランス料理からして怪しいと思った。グローソフトの大阪本社だったらあの人かな・・・。僕の分迄幸せになって下さい!
でも進展が速いなあ。僕だって彼女と二月に再会したのに、全然話が進んでいない。そちらのペースの速さが、そして何よりも若さが羨ましい・・・。
もしそちらもこちらも両方破綻したら、合宿所で慰め合いましょう。片方だけがうまく行っても恨みっこなし!
羨ましいが恨めしいに変わらないように自分に言い聞かせている伊藤より

   正解です
大当たりの伊藤さんへ
良くわかりましたね。え? フランス料理が怪しかったって?
その人は多分、伊藤さんが知らない人ですよ(と思うのだが・・・)。会場ではあんまり(全く?)話してませんでしたよ。
一月に初めて会って、それからだから、速いと言えば速いですね。世の中便利になったもので、遠距離でもメールという手段がありますから。
若さぁ?若さぁ?若さぁ?
あんまりM社長にはこのことは触れないように、くれぐれもお願いする由美子より

   しゃべっちゃおうかな
一月よりもずうっと前からメールでお話ししてたのに、全然恋が芽生えなかった由美子さんへ
ごめんなさい。「あの人かな」というのはカマを掛けただけです。実を言うと、グローソフトの大阪本社の若い人はあんまり知らないんです。
でも、その人が色んな意味で、つまり由美子さん個人にとっても吉田電器店にとってもいい人だったら、お父さんもお母さんも三島社長もみんな本当に喜んでくれるでしょうね。期待しています。
いつ誰に話そうっかなぁ。
喋りたくてたまらない伊藤より

 このメールを送った翌日の午後、悠一が会社で仕事をしていると、彼のデスクの電話が鳴った。
 「はい、東算プロモーション、伊藤でございます。」
 「もしもし、私。鴫沢です。」
 「あ、美弥子さん、こんにちは。どうしたの。」
 「ねえ、今夜忙しい?」
 「別に予定はないけど。遊ぼうか?」
 「じゃあ、一緒にお食事しましょ。」
 「オッケー。」
 この日二人が行ったのは、美弥子のオフィスに近い、表参道のワインバーであった。
 「料理はシェフにお任せでいい?」
 「いいけど、ワインバーにシェフがいるの?」
 「うん。かなりの腕よ。」
 悠一の予想通り、シェフのかなりの腕は、かなりの金額になったのであるが、それ以上に美弥子の選んだワインが高かったのであった。
 前菜の後、メインディッシュを待つ間に美弥子が言った。
 「ねえ、伊藤君がこないだお土産にくれたペンダント、父に見せたら一目見て肥後象嵌だなって言うのよ。父も昔、カフスを持ってたんだって。」
 「お父さんに見せたの?」
 美弥子が自分のことを父に話したということが、悠一にはとても嬉しかった。
 二人が店を出て駅へ向かって歩いていると、ショーウインドーにウエディングドレスが飾られていた。悠一はこれ迄美弥子の過去については敢えて触れないようにしていたので、黙って通り過ぎようとすると、美弥子が言った。
 「結婚式っていいものよ。」
 悠一は何と言っていいのか分からず、思わずこんなことを口走ってしまった。
 「そう、じゃあ、もう一回してみる?」
 「もう一回? いいわね。」
 悠一は美弥子の本心を測りかねていた。
 二人は表参道から千代田線で代々木上原へ行き、丁度来た小田急の各駅停車に乗った。下北沢で目の前の席が二人分空いたので、悠一と美弥子は並んで座った。美弥子はかなり酔っているようで、悠一に寄りかかって眠ってしまった。やがて電車は成城学園前駅に着いた。
 「美弥子さん、着いたよ。」
 「あ、眠っちゃった。じゃあ、お休みなさい。着いたら電話してね。」
 「うん、おやすみ。」
 悠一はそのまま登戸迄行き、南武線に乗り換えて、川崎で東海道線の最終にぎりぎり間に合った。



 

 悠一が寮に戻ったのは午前一時前のことであった。悠一は約束通り美弥子に電話を掛けた。
 「もしもし、今着いたよ。」
 「ああ、よかった。」
 「子供じゃないんだから、ちゃんと帰るよ。」
 「だって、主人は相模大野迄行ったり、反対の電車に乗って我孫子へ行っちゃったこともあるのよ。」
 「へえ、やっぱり小田急線沿線に住んでたんだ。」
 「うん。王禅寺よ。」
 これから他愛ない話が延々と続き、悠一が受話器を置いたのは午前二時過ぎであった。それから二人は、毎日のように電話で話すようになった。
 悠一は毎晩メールをチェックしていたが、由美子からは一週間程メールが来なかった。ある日の夕方、悠一は久し振りに由美子にメールを送ってみることにした。

   お久しぶり
最近メールをくれないので、村上さんにどれだけ秘密を話しているのかよくわからない由美子さんへ
その後どうですか? こちらはぼちぼちです。合宿の相談もしましょうね。
今度村上さんに会う迄にメールをくれないと、由美子さんの秘密を全部喋ってしまいそうな伊藤より

 その夜の内に返事が来た。また悠一と由美子のメールの遣り取りが始まった。

   ごぶさたしました
秘密を握られている伊藤さんへ
村上さんに会いましたか?
そうであったら、もう喋られてしまっているのではと、ハラハラです。まあ、そのうちばれてしまうのかも知れませんが・・・。
また逢い引き計画を立てている由美子より

   全部喋っちゃった!
表題を見て驚いた由美子さんへ
嘘ですよ。村上さんにはまだ会ってません。でも、もし訊かれたら、取り敢えず由美子さんには好きな人がいるらしいとだけ言っておきましょう。
意外と口の固い伊藤より

   びっくりしました
酷いことをする伊藤さんへ
えっ?えっ?えっ?と驚いてしまいました。しかし、いずればれることだと覚悟しています。
そろそろ合宿の予定も考えなければ。
今度は広島へムンク展見に行こうと思っている由美子より

   びっくりさせてしまいました
広島で逢い引きを計画している由美子さんへ
びっくりさせてごめんなさいね。でも、悪い話じゃないんだから、由美子さんにその気があるのなら、みんな(ご両親、M社長等々)に話して、周りからも攻めて逃げられないようにして、一気に捕まえてしまったらどうですか。と、無責任なことを言ってしまう・・・。
ところで文子さんの式はいつですか。出席できた義理でもないけど、何か御祝い(と言っても祝電くらいかな)をしないと。あの若さで結婚か。いいなあ。
近日中に村上さんと宴会をやって全部喋ってしまいそうな伊藤より

   どの気?
結構口が固い伊藤さんへ
その気ってどの気ですか?
捕まえると言うより捕まってしまったという感じなんですが・・・。
文子さんは七月頃だそうですよ。確かにちょっと羨ましいなあ。
今日は頑張って仕事している由美子より



 

   その気
その気になっているだろう由美子さんへ
その気って、要するにわかりやすく言うと、もしその人が電気屋の長男とかだったら由美子さんがお嫁に行くとか、逆にそうでなかったらその人を婿養子に迎えて伸子さんにプレッシャーを掛けるとかです。もしお父さんが三島さんに是非にと話を持って行ったら、その人はきっと逃げられなくなるでしょ! それで伸子さんの居場所がなくなったらもう一度・・・あ、未練がましいなあ。
村上さんが先日僕達に奇抜な提案をし、僕が一瞬本気になりかけて由美子さんが思わず秘密を喋ってしまったわけですが、村上さんも由美子さんに家を継がせることを考えて、あんな事を言いだしたのだと思います。僕は珠履の恩に報いることの出来なかった不徳の者ではありますが、これでも吉田電器の将来には心を痛めているのですよ。
ところで、僕は今、疲労困憊しています。いっそ一思いに殺してくれと叫んで玉砕してしまおうかと・・・。昨日程苦しい思いをしたことはありません。
今度高知へ行く時には僧形で現れるかも知れない伊藤より

   計画
坊主頭も似合いそうな伊藤さんへ
はあ、そういうことですか。まず、長男ではありません。でも今後どうなるのか分かりませんが。
ところで、何をそんなにお疲れなのでしょうか?
そろそろ高知合宿計画を考えましょう。
尼にはなりたくない由美子より

   返信 計画
幸せを少し分けて欲しい由美子さんへ
では、お父さん、お母さん、伸子さん、それから三島社長には僕からよろしく言っておきます! それは冗談として、村上さんにはそろそろ話してもいいでしょ。
どうして疲れてるかって? 生殺しにされているからです。もしかしたら由美子さんも彼氏を同じ目に会わせてるのかも知れない・・・。あまり苦しめてはいけませんよ。
気晴らしに合宿をやりましょう。日程は合宿部長にお任せします。休日、連休なら多分大丈夫なので、早めに声を掛けて下さい。
合宿迄生きているか自信のない伊藤より

   日程
生殺しの伊藤さんへ
まあ、そのうちばれることだから、村上さんに言ってもいいでしょう。こちらもそろそろ逢い引きの日が近づいてきているので言わなければというところです。でも、余計なことは言わないで下さいね。
生殺しかあ。さあね、どうでしょう。
合宿の日程ですが、こちらはいつでもいいですよ。
中村と土佐清水に行って来ました。途中大雨に降られて浸水しかけているところを見ました。でも次の日は晴れて、なかなか良い日和でした。
逢い引きの詳細をメールで連絡取り合っている由美子より

   村上さんに全部喋って、お母さんに電話しました!
お母さんに電話した時に中村へ行っていた雨女の由美子さんへ
村上さんに全部喋ってしまいました。どういう人か、どこで知り合ったか、いっそ婿養子がいいだろうとか・・・。
そうしたら村上さんが由美子さんに電話してみようと言いだして、とっさに携帯の番号が思い出せなかったので、自宅に電話してみたらお母さんが出て、合宿の予定とかいろいろな話をしました。それから・・・
ほらほら、あせってるな! 村上さんに全部話したのは僕のほうのことですよ。由美子さんのことは、どうやら男が居るらしいといったら、村上さんもそれは知ってると。それ以上のことは一切話してません。
僕は相変わらず生殺しですが、また希望を持たせるようなことも言ってくれる困った女です。彼女の会社の人たちにはすっかりばれてしまったし、向こうの両親にも僕のことは話してあるそうで、これで捨てられたら本当に出家しちゃいましょう。
合宿ですが、連休は飛行機も列車も取りにくいし、彼女の両親に挨拶に行くことになりそうなので、連休の前後の土日のほうがいいかも知れませんね。
由美子さんが振らせた雨のおかげで彼女と三十秒程相合い傘を楽しんだ、口は固いけど、ちょっと意地悪な伊藤より

 

   日程その二
行く末が楽しみな伊藤さんへ
ほうほう、なかなか面白い展開になってきているようですね。伊藤さんもなかなかやるではありませんか。
村上さんから電話があったと聞きましたが、メールを見て一瞬冷や冷やしてしまいました。しかし、村上さんはそういう人がいることをどうして知ってたんだろう。言った覚えはないのに・・・。
そうですね、確かに連休中は動かないほうが良いようですね。連休前だと今から慌てなくてはならないので、後にしましょう。
ちなみに私は晴女ですよ。
でも、東京へ行くたびに必ず雨に降られるので相合い傘が出来た由美子より(でも、例の人じゃない? ん? 食事の後に掛かってきた人)

   やっぱり!
二股掛けてる由美子さんへ
例の電話の人は取り敢えず突っ込まなかったけど、どうもそんな気がした。フランス料理だけじゃなくってもんじゃも怪しいと思ってました。でも僕も人のことは言えない。あの時はまだ彼女とは全然話が進んでなかったとはいえ、村上さんに乗せられて誰かさんにちょっかいを出そうとしたのだから・・・。
でも、何か状況が複雑ですね。もしかしてもんじゃの人には妻子があったりして。
人妻を奪い取った伊藤より(あ、違う違う、未亡人になってから口説き始めた!)

   二股?
口説き上手の伊藤さんへ
二股じゃないですよ! いや、そうかなあ・・・?
残念ながらもんじゃは違う人(女の子)です。そのあと当人(電話の人)の働いている居酒屋に一緒に行った。
まあ、同級生です。あの電話は、会う約束はしていたものの、向こうが「電話代払ってなくて携帯が使えないから」と、こっちからの連絡に困りそうだったので、つい長く。それに、独身ですよ!
今、芋けんぴ食べてる由美子より

   合宿日程
二人も生殺しにしている由美子さんへ
懸案の合宿ですが、五月十五日とかでどうですか?
若い頃二股掛けられた挙げ句に捨てられたけど、その女性もその女性と結ばれた男性も恨んではいない伊藤より

   返信 合宿日程
伊藤さんへ
生殺し〜?
合宿は五月十五日で調整しましょう。
さて、とうとう秘密をばらしてしまいました。相手はグローソフトの人と言うことも。いろいろと質問責めにあってますが、問題はなさそうです。反対に、長男? 婿に来られるの? と勝手な質問をされて困りもんです。どうせ言われると思ったけど・・・。
吉田 由美子

   清算
秘密をネタにいじめる楽しみがなくなってしまった由美子さんへ
彼女は休みなのに全然連絡くれない。もしかして二股掛けられてたりして・・・。まあ、うまく行く確率は半分以下、もっとずっと低いかもと覚悟しています。何か、来年あたり死ぬような気がする・・・。
グローソフトの人について家族に話したと言うことは、僕が先日言ったようなこと、つまり由美子さんが婿を取って家を継ぐと言うことが動き始めたに等しいのですから、もんじゃの後の居酒屋の人は、いつ迄も生殺しにしておかないで、一思いにとどめを刺してあげて下さい。その人に成り代わってお願いします。
村上さんには機会があったらグローソフトの人の方の話はしておきますが、二股の話は誰にも言いません。僕の胸の内にしまっておきましょう。あ、ということは、まだ由美子さんの秘密を握ってるんだ! でも、僕にも弱みはあるから大丈夫。
では、戦況の報告をお待ちしています。
女に生まれたほうが良かったかな、男は損だなと思い始めている伊藤より



 

   秘密
まだまだ秘密を握っている伊藤さんへ
まだまだ死ぬには早いですよ。でもノストラダムスによると来年まで持つか・・・?
彼氏については早速質問責めで、お姉様は嬉しそうでした。勝手に話を進めないでよ〜!です。
そんなわけで、ちょっとウキウキしてるユミコでした

   力をも入れずして天地を動かし
ウキウキしている由美子さんへ
先日はみんなに話して彼氏を逃げられなくしてしまえと言いましたが、どうやら由美子さんが逃げられなくなってしまったみたいですね。
僕のほうは彼女が絶妙のタイミングで生殺し状態を保ってくれます。夕べ突然電話が掛かってきて、来月はじめ迄は生殺しにしておいて貰えそうです。電話をくれたのは、メールで和歌を送っておいたから。
また逢ふ瀬ありと思へば行く水に数画き待つも楽しかりけり
彼女の祖父は歌人だったとか。と思ったら、「メール? まだ見てない。」
あれ?
藤原朝臣悠一

   つまりは楽して儲けるですか
まだ生きてる伊藤さんへ
大体タイミングなんてそんなもんかも知れませんね。その昔好きだった人からエアメールが来たのが、祖父のお通夜の日だったり、夢の中に出て来たら、日本に帰ってきたという噂を聞いたりとか。
二股は掛けてるかも知れないけど、二人とも生殺しにはしていないですよ。むしろ片方には生殺しにされているというのが正しいかも。
逃げ惑う由美子より

   古今集の仮名序ですよ!
逃げ惑う由美子さんへ
楽して儲けるって? 違いますよ。土佐日記の作者の紀貫之が書いた古今和歌集の仮名序です。和歌は力をも入れないで天地を動かす力があるということで、読んでもいない彼女に電話を掛けさせる力があったというほどの意味ですよ。
タイミング? そういえばあの日、たまたま僕が彼女に会わなければ、まだ再会していなかったかも。もう二ヶ月か・・・。
概してタイミングの悪い伊藤より

   古典は苦手
伊藤さんへ
古今集ですか。古典は大の苦手でした。
土佐弁以外はよく分からない由美子より

   村上さんに喋っちゃった
銀座で折角いいワインを飲ませてあげたのに、翌日のデートのことで頭が一杯で上の空だった由美子さんへ
村上さんに喋っちゃいましたよ。大阪のほうだけね。それよりも僕のほうのことを根掘り葉掘り聞かれて、村上さんが酔い潰れた後も奥さんに問い詰められて・・・。
三日連続違う男とデートした由美子さんの初日の相手をつとめた伊藤より



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