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十一

 悠一は暫く美弥子と逢っていなかった。ある夜、悠一が眠りに就いた頃、突然電話が鳴った。
 「はい。」
 「もしもし。」
 「あ、美弥子さん。」
 「ねえ、ちょっと聞いてよ。」
 美弥子は仕事で嫌なことがあったらしく、眠れなくて電話して来たのであった。それから数日の間、二人は毎晩のように電話で話していた。
 悠一が会社で時折疲れた表情を見せるようになったのはこの頃からであった。
 ある日の午後、悠一はパソコン教室の会場へ向かう途中、薬局の前を通り掛かった。悠一はそれ迄ドリンク剤などとは無縁であったのだが、そこでたまたま目に付いた瓶を買って飲んでみた。何か頭がすっきりし、元気になったような気がしたが、空元気を出した分、後でもっと辛く感じた。
 由美子と悠一のメールの遣り取りは続く。合宿の打ち合わせに村上も加わった。

   合宿
電話を掛けてもいなかった伊藤さんへ
早速村上さんから電話がありました。三島社長にはそちらから声を掛けておいてと言っておきましたが・・・。
そろそろ逢い引きが近づいている由美子より

   関東脱出
ゴールデンウイークの逢い引きで頭が一杯の由美子さんへ
僕のほうは連休中に死に場所の確認に行ってきます。五月十五日迄は、何とか生きていられるように努力してみます。でも、いっそ一思いに・・・。夕べは三時間しか眠れなかった。
さあ、合宿だ! 三島社長にはしっかり事情を説明した上で声を掛けておきましょう。ご両親も三島さんには色々とお話があるだろうしねっ!
とにかく関東から逃げ出したくなった、現実逃避の伊藤より

   合宿
村上はんへ
三島はんには村上はんから声を掛けはることになったそうやけど、きっとご両親も色々と話したいことがあるに違いないよってに、是非呼んだっとくんなはれ。
わては例の件でノイローゼ気味やよって、転地療法のつもりで行かせて貰お思てます。伸子はんも由美子はんも遊んでくれはらへんかったら、海でも見てボーっとしとります。
伊藤

   同窓会
関係者各位
グローソフトの三島社長参加とのことです。五月十五日夕方よりということでよろしいですね。私は多分当日の朝、フェリーで入ると思うので、車を貸してくれれば迎えに行きます。
メニューはどうしましょう。当日買い出しの相談をしましょう。
三島社長の会社の人の付き添いは要請しますか?
村上より

   事情?
現実逃避の割にはしっかり死に場所を確保する伊藤さんへ
次女、いえ、事情は説明しなくてもいいです。シークレットにしておいて下さい。
死にそう? 来年死ぬ? その前にノストラダムスの・・・があるのでは。その頃生きてたら御祝いしなくては。
ゴールデンウイークの前に逢い引きする由美子より

   合宿+α
グローソフトの人がいっぱい来て楽しくなりそうな由美子さんへ
十五日宴会、十六日解散ということですが、何なら十七日も残って、何かお手伝いしましょうか?
そろそろ切符を手配するので。
関東に帰るのが怖い伊藤より

   同窓会
関東にはいい人が待っている伊藤さんへ
好きなようにやって下さい。こちらはこんな調子なので、居残りされても結構です。
ちょっとひやひやしている由美子より(村上さんが・・・怖いかも)

 
十二

   居残り
同窓会で酒の肴にされそうな由美子さんへ
僕は十五日の朝、しまんと三号で高知駅に着きます。伸子さんが出迎えてくれたら嬉しいな。帰りは十七日のしまんと十号を取ってあります。もし邪魔だったら夕食前に追っ払って下さい。
吉田電器の図々しい居候の伊藤より

   出迎え
居候の伊藤さんへ
何時頃のお着きでしょうか? 伸子さんは忙しいので行けないかも知れませんが・・・。
デート楽しかったよ! のろけてやる! の由美子でした

   更新してしまいました
昨日迄記録保持者だった由美子さんへ
夕べ三週間ぶりに夕食を共にしたら、なんと大台に乗ってしまいました。このまま破滅に向かうのかも知れない。どうせだからのろけてやる。
(この後、レストランの食事とワインの素晴らしさ、レストランで有名人が隣りに座っていたこと、彼女の様子など、二千字に渡って記されていた。)
では、今度は由美子さんののろけ話を聞かせて下さい。
由美子さんに迎えに来て欲しい伊藤より

   おめでとうございます
更新し破滅に向かう伊藤さんへ
あれまあ、そんな出来事が。そのワインは名前しか聞いたことがない。やっぱり東京のレストランには有名人がいるんだ。テレビでは見たことがあるけど・・・。私の世界とはかけ離れた・・・。
ところで村上さんは酔っぱらうと色々しゃべりそうで怖いなあ。
記録を破られてしまった由美子より

   酔っぱらうと
のろけ話を聞かせてくれない由美子さんへ
合宿で酔っぱらうと、僕も口が軽くなりそうですから、気を付けて下さいね。「二股」の話はしないと思うけど。
昨日は横浜で昼夜九時間に及ぶデートを敢行し、更に帰宅後電話で二時間も話し込んでしまった伊藤より

 五月になって数日の間、二人のメール交換はなかった。連休が明けてから、二人は再びお互いの恋愛について語り始めた。

   連休は?
連休はどうでしたか? 伊藤さん
私は合宿で飲み食いするものをどうしようか考えていました。何がいいかなあ。
九時間も一緒だなんて火傷しそうです。 由美子

   シャトーラトゥール一九六三あるいはワインの女神の神殿巡礼記
合宿でのろけ合戦をやりたい、火遊びで火傷しそうな由美子さんへ
でも僕はまだまだ生殺しですよ。連休はどうだったかって? 本当に話してもいいんですか? 長いですよ!
五月三日の午前十時半、僕はスーツに身を固め、彼女が選んでくれたネクタイを締め、真っ赤な薔薇の花束を携えて、成城学園前駅のホームに降り立ちました。駅前のスーパーで手土産のメロンを調達してから(た、た、高い!)、彼女に電話を掛けました。彼女の屋敷は駅から三分だというので、駅前で花束を捧げて彼女を待つことにしました。ところが、三分経ち、五分が過ぎても彼女は現れません。十分近く経ってやっと現れた彼女に花束を渡そうとすると、薔薇は好きじゃないって受け取ってくれません。先に買い物をしてくるからそこの先の喫茶店で待ってくれって言うんです。一緒に買い物しようと言うと、近所の人に見られるから嫌だというので、仕方なく喫茶店でコーヒーを注文し、飲み終わって手持ちぶさたでいると、僕がさっきメロンを買ったスーパーの銀色の買い物袋を提げて彼女が現れました。僕は右手に花束、左手にメロンを持って、彼女の後に付いて行くことになりました。徒歩三分の筈が、駅から彼女の家に辿り着く迄三十分。何か最初からおかしい。



 
十三

さて、ご両親に挨拶をして手土産のマスクメロンをお渡ししたところ、私達はお構いしませんから、二階でごゆっくりどうぞとのこと。二階で二人きりでゆっくりと? まさか。
彼女専用のダイニングキッチンは、うちの寮の部屋の三倍位の広さ。彼女は折角戴いたのだからと薔薇を生け、実は亡夫から最初に送られたのが赤い薔薇だったことを話してくれました。昔、彼と付き合い始めて最初の誕生日に生憎出張が入った彼が、赤い薔薇の花束を贈って来たのだそうです。彼女はそれをドライフラワーにして大切にしていたのですが、結婚してから彼がドライフラワーを見て、冗談めかして言ったそうです。どちらかが先に死んだら、棺にこの花束を入れよう。そうすれば一人で旅立っても淋しくないだろうからと。夫が亡くなった時にこれを思い出した彼女は、それが夫の遺言のような気がして、棺に花束を入れたのです。それ以来、赤い薔薇を見ると無性に悲しくなると言うのです。僕は好きな女性に赤い薔薇を送るのはごく一般的なことだと説明しながら、ドライフラワーにしなくても萎れたら捨ててしまうように言いました。そう言われると反対に大切に取っておくだろうって? さあね・・・。
ふとテーブルの上を見ると、パニエに何とシャトー・ラトゥールが。年号を確かめると、一九六三年。僕達の生まれた年です。そしてワインクーラーにはドイツワイン。ラトゥールは夜で、お昼はこのカルタワインのアウスレーゼ。なるほど憎い組み合わせです。
まずはお茶でもと言うことで、木箱に入った何やら高級そうな紅茶を味わいつつ話し込むうちに、時計は十二時を回っていました。彼女はキッチンに立つと、慣れた手付きで中華風スープ、中華風サラダ、そして鶏の唐揚げのチンゲン菜添えを作り上げ、ラインガウで乾杯。話しながら食事してたら四時を回ってました。先日横浜で二人で選んだ烏龍茶(百グラム二千円!)の美味しいこと。
食事が終わってから、地下セラーの見学。何十万円もするワインがゴロゴロと・・・。
二階に戻ってアルバムなど見ながら昔話をしていると、もう夕食の時間。食べてしゃべる以外何にもしてないなあ。二人とも余りお腹が空いてないので(当たり前だ!)、シャトー・ラトゥールをテリーヌやチーズとフランスパンで楽しむことに。
彼女は安物のソムリエナイフでさりげなくコルクを抜き始めます。え、そんなんじゃ古いコルクは途中で切れちゃう!と思ったら、まるで一九九三年でも抜くように、さりげなく抜いてしまいました。彼女が自分でシャトー蔵出しを買って来たもので、三十年以上前に打ったコルクそのままなのです。それをこんなに簡単に抜いてしまうとは・・・。
次に彼女はシャトー・ラトゥール専用デカンター(シャトーで売ってるらしい)を取り出し、懐中電灯をつけて、喋りながらデカントを始めました。え?ビンの底に一センチ位しか残ってないよ。普通のソムリエなら三センチは残すけど・・・。ところが、彼女が懐中電灯で透かして見せてくれたワインは完璧に澄んでいました。彼女の言うには、巷のソムリエにサービスさせては、年代物のワインが可哀想だって・・・。
一九六三年というのは、物の本によるとどうしようもない外れ年。とても何十年も置いておくものではないのですが、そのラトゥールはまだ若々しくて、実に素晴らしいものでした。彼女は相当自信あったみたい。気が付くと時計は十時を回っていました。彼女はもう一本何か飲もうと言うのですが、終電は十一時過ぎ。泊めてくれるかと聞いても駄目だと言われるので、ハーブティーを飲み、結局手も握らずに帰されてしまいました。十二時間も二人きりで密室にいたのにねえ。
さて、その日は帰ってからは余り長電話しませんでした。次の日案の定電話が掛かって来て、翌日、つまり昨日の五月五日に逢うことになりました。昼間っからシャンパーニュで乾杯。この日はお父さんの誕生パーティーをやるからと夕方には帰って行ったけど、五時間半も一緒にいました。その夜、予想通りの時間に電話が鳴り、結局五時間の長電話。午前三時半迄寝かせて貰えなかった。
二週間で三十五時間以上二人だけの時間を過ごし、更に十時間以上電話で話し込んだのに、全然事態が進展していない伊藤より



 
十四

   ラトゥール一九六三!
すっかりのろけてる伊藤さんへ
ゴールデンウイーク、ほんとに長かったようですねえ。薔薇の花束がどうなっていくのか楽しみです。
一九六三年。同い年だとそういうことも出来るのですね。あたしも同い年の人にしようかな??
中華に辛口のラインガウかあ、美味しそうですね。十二時間、生殺しされてるのは彼女のほうだったりして。でも五時間の長電話と言い凄いですね。しかも予想通りの時間に掛かって来るというのが・・・いいなあ。しっかり合宿でのろけて貰いましょう。
実は今まで自分から電話したことがない由美子より

   同い年にする?
なかなかのろけ話を聞かせてくれない由美子さんへ
そちらの生殺しはどうなってます? そろそろ聞かせて下さいね。
最近由美子さんに白状させるのが下手になった伊藤より

   同い年? それもいいけど・・・
のろけ話をお待ちかねの伊藤さんへ
そう言えば、あんまりのろけてませんかねえ。
では。年の頃三十ですね。グローソフトに来たのは去年の十一月だと言ってました。それまでは京都で働いていたとか。詳しくは三島さんに・・・いやいや、それはちょっと・・・
今月末また逢うもん、ふふふ。
だからその前の合宿がちょっと身を削る思いの由美子より

   そろそろ決めましょう!
三十歳のほうか同い年のほうか決めかねている由美子さんへ
そろそろ観念して決定して下さい! 合宿のメニューを!
しかし、グローソフトの人、どうせ分かるから白状しなさい!
今月末また逢うって? 先週は四回、合計三十五時間も逢ったもん!
昨日は五時間しか逢ってないけどおねだりしてくれたし、土曜日は一日中彼女の部屋にいて少し火傷してしまった伊藤より

   そうですね
少し(?)火傷〜っ!してる伊藤さんへ
白状しろって? 彼の名前は野場っていいます。知ってるかなあ? それよりも、あらま、のろけ返されてしまいました。
おねだり? 土曜日は一日中彼女の部屋にいて?
私も今日は何時間話したんだろ・・・。
火傷の具合が気になる由美子より

 二人のメールの遣り取りは、悠一が高知へ発つ前日迄こういう調子で続いた。
 悠一は毎晩午前三時頃迄美弥子と電話で話し込むことが多かった。しかし二人の会話は必ずしも楽しいものではなく、堂々巡りの議論や言い争いが多く、悠一にとってはむしろ苦痛であった。しかし由美子はそんな悠一達が羨ましかった。
 悠一は金曜日の夜行で出発し、翌日の朝、何故か伸子が高知駅で出迎えてくれることになっていた。その前日の木曜の夜、悠一が例によって美弥子と電話で話していて高知の話をすると、突然美弥子が言った。
 「ねえ、明日仕事早く終わらせるから逢わない?」
 「え、東京駅十時丁度発の夜行に乗るけど、時間あるの?」
 「六時頃には東京駅へ行けるわよ。」
 「じゃあ、六時頃に八重洲南口で待ってるよ。」
 「こないだのとこよね。」
 「うん。」
 この夜の電話は意外に早く終わった。悠一は久し振りにぐっすりと眠った。
 金曜日は悠一の仕事はほぼ定刻に終わった。一旦寮へ帰って準備をしてから、横浜駅で夜行に乗るつもりでいた悠一は、東京駅へ着くなり切符の変更をしてから、八重洲南口で美弥子を待った。
 「伊藤君、お待たせ。」
 悠一が時計を見ると、珍しいことに、まだ六時三分前であった。

 
十五

 「じゃあ、食事する?」
 「うん。」
 「どこ行こう。荷物いっぱいあるからあんまり動きたくないけど。」
 「この辺はよく知らないから任せるわ。」
 「じゃあ地下街か、大丸の上かな。」
 二人は東京駅の八重洲側の駅ビルの大丸デパート八階にあるイタリア料理店へ入った。
 「さあ、今日は何が食べたいかな。」
 美弥子はいつもあれも食べてみたい、これも食べてみたいと言っては、注文する迄三十分以上掛かって、終電の時間を気にする悠一をやきもきさせていたのである。ところがこの日はすんなりと、悠一が食べようと言ったコースを二人とも取ることで、すぐに話がまとまった。悠一の列車の発車時刻迄は三時間半あるので、ワインも一本注文することにした。
 「ゲンメってDOCGじゃあなかったっけ?」
 「知らない。きっと最近上がったんじゃないの。」
 悠一は取り敢えずワインの話をしながら美弥子の表情を伺った。悠一は美弥子がどれだけヤキモチを焼いているか心配でもあり、期待もしていた。既に美弥子には高知のこと、特に伸子とのことは話してあったし、明朝伸子が出迎えてくれることも話してあったのである。ただ、流石に由美子に心を動かされそうになったこと迄は話していなかった。
 悠一の予想に反して、美弥子は余り話をしなかった。食事は淡々と進み、八時半にはデザートを食べ終わってコーヒーになってしまった。
 「まだ時間があるから、カクテルかリキュールでもゆっくり飲もうか。」
 「今日はやめといて、早く帰るわ。」
 悠一は拍子抜けした。十時少し前迄ゆっくりして、新宿方面へ帰る美弥子と一緒に改札を入り、前年から走り始めた最新型の寝台特急を美弥子にも見せて、ホームで見送って貰おう、悠一はそう考えていたのであった。ところが九時前に二人で改札を入り、逆に悠一が中央線ホームで美弥子を見送ることになってしまった。
 美弥子の乗った中央線の電車が行ってしまってから、悠一の乗る列車がホームに入って来る迄まだ五十分近くあった。悠一は一旦地下へ降り、待合所で暫くぼんやりと座っている羽目になった。
 九時四十五分頃、悠一は東海道線ホームへ上がって来た。十四両編成のうち七両だけが高松行きなので、悠一は乗車位置の表示を確認して、列車の入線を待った。やがてサンライズ号がホームに姿を現した。
 「えらい変わったもんや。」
 悠一が以前何回か乗った寝台特急瀬戸号は、いわゆるブルートレインで、普通の二段式寝台車であったが、この新型のサンライズ瀬戸号は個室になっていた。悠一の取った寝台は以前より千円高かったが、ベッドも広く、ラジオと目覚まし時計が付いていて、なかなか快適そうであった。
 十時丁度に列車は出発した。悠一は上着を脱ぎ、荷物を整理した。列車は横浜駅に着き、乗客を乗せるとすぐに発車した。悠一はブラインドを下ろし、浴衣に着替えようとして、はっとした。悠一はテレホンカードを取り出し、列車の中の公衆電話の位置を確認すると、ドアロックの暗証番号を美弥子の電話番号に設定し、電話のある車両へ向かった。
 この日は列車の中からということもあり、千円のテレホンカード一枚で美弥子との電話は終わった。悠一は自分の部屋に戻ると浴衣に着替え、目覚まし時計を岡山駅到着時刻にセットして横になった。
 列車は熱海駅に着いた。既に時刻は遅く、人の乗り降りも殆どなかった。列車は再び西へ向かって走り始めた。静岡駅を発車後暫くして、悠一は眠りに落ちた。



 
十六

 悠一が目を覚まして、ブラインドを少し上げて外を見ると、列車は丁度岡山駅のホームに着いたところであった。列車は山陰へ向かう七両を切り離してから出発し、瀬戸大橋線を南下し始めた。悠一は歯ブラシと列車に備え付けのポリコップ、そして手拭いを持って洗面所へ行った。部屋に戻ってブラインドを上げると、朝日に輝く瀬戸内海と塩飽諸島が美しかった。坂出で降りた悠一は、ホームで立ち食いの讃岐うどんを一杯食べて、高知行きのしまんと三号に乗り換えた。この日は快晴で、大歩危小歩危は昨年とは違った趣きを見せていた。
 悠一は高知駅に着くと、改札を出てロータリーを見回した。
 「先に来て待ってくれとるような人やないわな。」
 悠一は駅の公衆電話から吉田電器店に電話を掛けた。電話に出たのは伸子であった。
 「はい、吉田電器です。」
 「おはようございます、伊藤です。今駅に着きました。」
 「じゃあ、すぐ行きます。」
 悠一がパン屋の前で待っていると、暫くして見慣れない紺のベンツが悠一の前に停まった。助手席のドアが開き、運転席から身を乗り出して悠一に声を掛けたのは伸子であった。
 「伊藤さん、どうぞ。」
 「これ、お父さんが今度買い替えた車ですか。」
 「はい。私のクラウン車検に行ってますから、これ借りてきました。」
 「ボルボの次はベンツか、凄いなあ。」
 「でも中古やから、私のクラウンよりも安いんですよ。」
 二人はすぐにはりまや町に着いた。二階へ上がると、吉田夫妻と村上が歓談していた。
 「おう、八丁堀、着いたか。」
 「あれ、村上さん、今日はビール飲んでませんねえ。」
 「ああ、あとで三島さん迎えに行かんならんからなあ。」
 「村上さんら、まだまだ時間あるき、龍河洞でも寄って来たらどう。」
 「奥さん、それはええ考えや。」
 「龍河洞て行ったことないわ。伸子さん、一緒に行きませんか。」
 「伊藤さん、お姉ちゃんにはちょっと無理やわ。」
 丁度部屋から出て来た由美子が言った。
 「それ、どういうことよ。」
 伸子は怒った顔になった。
 「今夜のヒロインのお出ましや。」
 村上に冷やかされて、由美子は部屋へ戻ってしまった。
 村上は社長のベンツを借り、悠一を乗せて龍河洞へ向かった。龍河洞は土佐山田町にある鍾乳洞で、縄文人が生活していた跡などもある、広大なものである。見学コースが整備されてはいるが、体を横にして身をかがめてやっと通れるような所もあった。
 「伸子さんには無理って、このことやったんですね。」
 「まあ、通れんことはないと思うけどな。」
 二人は様々な鶏を展示している珍鳥センターを見てから車に戻ることにした。途中の土産物屋が並んでいる通りを抜けようとした時、ある店の前で悠一の足が止まった。そこはアクセサリーを売る店であった。
 「いらっしゃいませ。」
 「この紫水晶とか珊瑚とかはこの辺で採れるんですか。」
 「いえ、輸入品です。」
 「何かこの辺の特産品はありませんか。」
 「それなら土佐の黒ダイヤはどうですか。」
 そこには二千円前後のアクセサリーが並んでいた。奥の陳列ケースを見ると、一万円以上するものも並べてあったので、悠一はそちらへ歩いて行った。
 「こっちのはちょっと高いですよ。十八金とか使てますから。」
 「これ位ならいいですよ。」
 「このペンダントなんかどうです。可愛い奥さんにはピッタリですよ。」
 悠一は美弥子の姿を思い浮かべた。
 「可愛い奥さんか。じゃあ、これ下さい。」
 それはハート型の十八金の台に黒ダイヤをはめ込んだペンダントであった。
 村上は駐車場で待っていた。
 「お待たせしました。」
 「お、彼女に土産買うて来たな。」
 二人は空港へ向かった。丁度大阪からの飛行機が着いたところで、空港の出口から出て来た三島社長とばったり会った。
 「お、わざわざ迎えに来て貰て申し訳ないなあ。」
 「三島さん、やっぱり一人ですか。」
 「一人てどういうことや。」
 「ははははは。」
 「何や、意味深やな。」
 「はははははは。」
 「はははははは。」
 「何やろな。」



 
十七

 三人が浦戸へ着いたのは午後六時前のことであった。吉田夫人と二人の娘は食事の準備をしていて、吉田社長は食卓で新聞を読んでいた。
 「宏、久し振りやな。」
 「ああ、清、やっと来たか。」
 村上が早速冷蔵庫からビールを出して来て、男四人は乾杯した。まず村上が話を切り出した。
 「三島はん、グローソフトにはえらいええ男おるそうでんな。」
 「ええ男て、俺のことか。」
 「ちゃいまんがな。」
 「清、野場てどんな男や。」
 「野場て、うちにおる野場か。何で知っとんのや。」
 「何でて、お前知らんのか。うちの由美子と・・・。」
 「えっ、由美子ちゃんと?」
 「はははははは。」
 「はははははは。」
 村上と悠一が笑うと、由美子は赤くなって下を向いた。
 「何や、そういうことか、全然知らんかった。野場がいつの間に由美子ちゃんと・・・。そうか、それでこないだから何や、一人で来るのかとか何とか、意味深なことを言うて・・・。はっきり言うてくれたら連れて来たのに。」
 「知らぬは社長ばかりなり。」
 「全然知らんとは困ったやっちゃ。」
 「はははははは。」
 宴の準備が整い、一同食卓に着いた。由美子は両親と三島社長に囲まれて、針の筵に座らされたような顔をしていたが、食事が始まると、野場の話題はあまり出なかった。吉田夫妻と三浦社長との暗黙の了解で、暫くは若い二人をそっと見守ろうということになったようであった。
 悠一がワインのビンを手にとって、吉田社長に話し掛けた。
 「コルビエールて、南フランスのワインですね。」
 「そう、南フランスでも貧乏なほうのワインやから、安くて美味しい。」
 「なるほど。金を掛けんと美味しいもんを探すのが本当のグルメでしたね。」
 悠一は東京での美弥子との派手な生活を思い浮かべ、恥ずかしくなった。
 外で車の音がして、別荘の前で止まった。ドアが開いて、入って来たのは文子であった。
 「こんばんは。」
 「文子ちゃん、遅かったなあ。」
 由美子はやっと到着した援軍に安堵の表情を浮かべ、文子にグラスを渡すのを口実に席を立った。
 「文子さん、この南フランスのワイン、美味しいですよ。」
 「あ、伊藤さん、ありがとう。」
 悠一は暫く、由美子と文子の仲良し従姉妹と話し込むことになった。
 「文子ちゃん、伊藤さんの彼女もバツイチなんよ。」
 「バツイチて、まあ未亡人やけど。文子さん、バツイチてどうですか。」
 「バツイチ、いいですよ。」
 「前の奥さんの話とか聞かされませんか。」
 「そんな失礼なことしたら許しません。」
 「失礼なことですか。」
 「そうですよ。でも伊藤さん、彼女の前の旦那さんの話、聞かされるんですか。」
 「はい。もう何かあると主人は主人はて、まるで人妻と不倫しとるような気分ですわ。」
 「伊藤さん、それで彼女とシャトーマルゴー飲んだんや。」
 「由美子さん、僕らが飲んだのはシャトーラトゥール。」
 「あ、そうやった。」
 宴たけなわになった頃、由美子がカメラを取り出して写真を撮り始めた。
 「由美子ちゃん、二人で写ろ。」
 三島社長に言われ、由美子は文子にカメラを渡した。三島社長は由美子を抱き寄せてぴったりくっついた。」
 「これ会社に飾っといて、野場が来たら、これちょっと、訳ありの女や言うたろ。」
 「三島さん、やめて下さいよ。」
 由美子は赤くなった。文子が由美子にカメラを渡した。
 「伊藤さん、一緒に写りましょ。」
 文子はそう言うなり、悠一の腕にしがみ付いて、ぴったりと寄り添った。文子は由美子程美人ではないが、悠一は先程から文子が全身から放つ色気にくらくらしていた。結婚が決まるとこんなにも色っぽくなるものかと感心していたのであるが、不意に寄り添われ、悠一は思わず空いているほうの手で文子の手を握ってしまった。
 「次は由美子ちゃん。」
 文子に言われ、悠一は由美子の肩をそっと抱き寄せた。



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