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 十二日の朝、悠一は午前九時十分程前に羽田空港の到着ロビーに着いた。間もなく高知発の全日空便の到着を告げる表示が出たが、この時間は他にも各地からの到着便が多く、大勢の人が降りて来たので、悠一はなかなか由美子を見つけることが出来なかった。十分程経って悠一は公衆電話から由美子の携帯電話を呼び出そうとしたが、圏外で繋がらず、再び人混みの中を由美子を探し始めると、突然斜め後ろから声を掛けられた。
 「伊藤さん、お早うございます。」
 「あ・・・。由美子さん。」
 悠一はほんの一瞬ではあるが、彼に声を掛けた女性が由美子であることを確認出来なかった。悠一の知っている由美子は、いつも髪を束ね、薄化粧で、ジーンズか、せいぜいパンツルックであったのだが、この日の由美子は綺麗に化粧をして、軽くウエーヴを掛けた髪を靡かせていた。そして膝上十センチ位のスカートに、薄手のコートを羽織っていたのである。
 二人はモノレールで都心に向かった。
 (由美子さんて、こんなに綺麗な人やったかなあ。)
 悠一は並んで座っている由美子の横顔を見ながら、何か不思議な感じがした。由美子のコートの裾から覗く膝頭が眩しかった。
 悠一と由美子がバスで晴海に着いたのは、午前十一時前のことであった。こういう展示会では、業界の人間は大抵無料招待券を持っているものである。出展しているメーカーが社員にも得意先にも招待券を配るのである。二人が受付で招待券と名刺二枚ずつを差し出すと、受付係は招待券に名刺をホチキスで留めて保管し、もう一枚の名刺を入場券を兼ねた名札に付けて、二人に渡した。
 二人は名札を付けて会場に入ると、見取り図で位置を確認し、先ずは入口近くの外国メーカーのスタンドを一通り回ることにした。由美子もある程度英語が出来るのであるが、やはり香港駐在の経験がある悠一には及ばず、悠一が通訳する場面も多々あった。また、日本人スタッフがいるスタンドでは悠一は標準語で話し、香港企業のスタンドでは片言の広東語も使って、そして由美子にはいつもの関西弁で話していた。悠一はそんな彼を由美子が少しは頼もしく思っていてくれるかなと、少し自惚れていたようである。
 気が付くと、時計はいつの間にか十二時半を回っていた。
 「あ、もうこんな時間や。由美子さん、お腹空いたでしょう。」
 「はい、少し。」
 二人は展示会場の敷地内にある食堂に入ることにした。
 「夜は豪勢にやるから、何か軽いもんにしときましょ。」
 「そうですね。ここは和食も洋食もあるんですね。」
 「外人さんと話したことやし、洋食にしよかなあ。」
 「じゃあ、私、カレーライス。それともカツカレーにしよかな。」
 「僕はハヤシライスにしよ。」
 「あ、それなら私も。」
 セルフサービスのカフェテリアなので、悠一がハヤシライスを二つ載せたトレーを受け取り、その間に由美子はコップを二つ取って水を入れて持って来た。二人はハヤシライスを食べながら、高知の話を始めた。



 

 食事を終えると、二人は会場に戻った。午後は国内メーカーの展示を中心に見ることにした。大手パソコンメーカーはそれぞれかなり大きなスタンドを構えているが、中小のメーカーでも、小さいなりに工夫を凝らしたスタンドが少なくなかった。パソコンメーカーだけでなく、携帯電話やファクシミリの展示もあり、そして何と言ってもソフトウェアメーカーの展示が一番賑わっていたのである。
 「あ、吉田さんとこの由美子さんに、東京電算機の伊藤さんやないか。何や、懐かしい組み合わせやなあ。」
 「あ、三島社長、こんにちは。スタンドはこちらでしたか。」
 悠一と由美子は、歩いている内に偶然グローソフトのスタンドに行き当たったのであった。
 由美子が三島社長にお辞儀しながら話しかけた。
 「三島さん、こないだは御馳走になってありがとうございました。」
 「今日はきっと伊藤さんに御馳走して貰うんやな。」
 「はい。」
 「どこへ行くん。」
 「銀座です。」
 悠一が答えた。
 「銀座でパアーッとか。ええなあ。ところで今日はお姉ちゃんは来とらんの。」
 「お姉ちゃん、なかなか県外には出て来よらんき。」
 「重いから。」
 「伊藤さん、そんなこと言うたら怒られるで。殺されるで。」
 スラリとした体型の由美子と違って、伸子はかなりふくよかであったが、悠一はそんな伸子が可愛かったのである。悠一はまだ、伸子になら、いっそ殺されてしまいたいなんて考えたものである。
 「ところで、このゲーム面白いで。ちょっとやってみ。」
 三島社長に言われ、由美子はパソコンの前に座った。新しい恋愛ロールプレイングゲームであるが、流石に大阪人の作ったソフトらしく、ぼけるところはしっかり面白く作ってあるので、後ろで見ていた悠一だけでなく、三島社長迄笑い転げていた。ゲームソフトだけでなく、様々な実務ソフト等も上手く展示されていて、なかなか飽きさせないスタンドに、悠一はひたすら感心していた。
 由美子と悠一がグローソフトの展示を一通り見終わると、三島社長が悠一に声を掛けた。
 「伊藤さん、またその内高知で一杯やりたいなあ。」
 「よろしいなあ。そうや、また桂浜で合宿やりましょ。」
 こう言って、悠一は由美子を見た。桂浜というのは、浦戸にある吉田家の別荘のことを言っているのである。由美子が答えた。
 「じゃあ、私が合宿部長やりましょ。五月の連休辺りがええでしょうかねえ。」
 「吉田電器株式会社取締役合宿部長の吉田由美子さん、連休は飛行機も汽車もなかなか取れんのとちゃいますか。」
 「まあ、またメールでどうするか相談したらええがな。」
 「どうせやったら、村上さんも呼びましょか。」
 「そりゃ、お父さんも喜ぶわ。呼びましょ呼びましょ。」
 そうこうする内に、時計は五時半を回り、会場には展示終了を告げるアナウンスが流れた。



 

 悠一と由美子は情報機器展の会場を後にして、バスに乗って銀座へ向かった。既に日は暮れ掛かっていた。バスを降りると、悠一が説明した。
 「ここが銀座四丁目の交差点で、この時計台のある建物の向かいがいつも日本一地価が高いとニュースで言う所。あれが田崎真珠で、向こうのほうのホテルにおる、おもろいおっさんが田崎真也。」
 「ははは。」
 二人は暫く歩くと、悠一がガイドブックを見て予約しておいたレストラン、ラ・グランド・トゥールへ入って行った。由美子が叫んだ。
 「あ、この犬可愛い。よう出来てますね。」
 レストランの入口を入ったところに、実物大のラブラドル・レトリバーの置物があったのである。
 「いらっしゃいませ。ご予約ですか。」
 「はい、六時半に予約しておいた伊藤悠一です。」
 「伊藤様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」
 二人が席に着くと、ソムリエが恭しく現れた。
 「いらっしゃいませ。食前酒はいかがなさいますか。」
 「由美子さん、折角やからシャンパンでも飲みましょか。」
 「いいですね。」
 「じゃあ、シャンパンを二杯、お願いします。」
 「かしこまりました。」
 ボーイがテーブルにシェフ自慢の自家製ポテトチップスとサラミの盛り合わせを置き、二人にメニューを渡した。やがてソムリエがシャンパンの注がれた細長いグラスを二個運んできた。グラスにはぶどうの柄のカットが入っていた。
 「先ずは乾杯。」
 「乾杯。」
 二人はグラスを軽く鳴らして乾杯した。
 「遙々東京迄ようこそ。」
 「今日はお疲れさまでした。」
 「さて、何食べましょか。あれ、この店、アラカルトだけやなあ。」
 「私、今日は魚が食べたいな。」
 「魚料理か。チュルボーのポシェ、ブジーソース。何のこっちゃ。舌平目のスフレ。スフレて何やったかなあ。オマール海老と伊勢海老のグラタン。美味しそうやなあ。」
 「どんなんか訊いてみましょ。」
 丁度その時、ボーイが注文を取りに来た。
 「ご注文はお決まりでしょうか。」
 由美子が尋ねた。
 「この舌平目のスフレって、どういう風になってるんですか。」
 「はい、これは皮を剥いだ舌平目を真ん中から開いて中骨を取り、白身魚とホタテ貝のムースを詰めてオーブンで焼いたものに、バターソースとアメリケーヌソースを添えたものでございます。」
 「美味しそう。じゃあ私はそれをお願いします。」
 「このオマールと伊勢海老のグラタンはどんなのですか。」
 「二種類の海老をソースアメリケーヌで茹でて、セロリとブールマニエを加えてグラタンにしたものでございます。」
 「じゃあ、僕はそれにします。」
 悠一はオマール・アメリケーヌなるものを活字では知っていたが、どういうものなのか想像も出来なかった。
 「前菜はいかが致しましょうか。」
 「じゃあ、僕は景気よく温製フォアグラのミルティユ添え。ところでミルティユって何ですか。」
 「ブルーベリーのことでございます。よろしいでしょうか。」
 「はい、お願いします。」
 「じゃあ、私も景気よく、トリュフのパイ包み焼き。」
 「かしこまりました。」
 やっとのことで料理を注文し終えると、例によってソムリエが革張りの分厚いワインリストを持ってやって来た。
 「ワインはいかがなさいますか。」



 

 この日の悠一は分厚いワインリストを渡されても少しも困惑せず、白ワインのページを開きながら、ソムリエに尋ねた。
 「ムルソーか、ピュリニー・モンラッシェでお薦めはありますか。」
 ワイン講座でソース・アメリケーヌに合うワインを覚えていただけなのであった。
 「ドメーヌ・エチエンヌ・ソゼのクリオ・バタール・モンラッシェ九〇年などいかがでしょうか。ムルソーでしたら、何と言ってもドメーヌ・コッシュ・デュリーのムルソー・シャルム九一年がお薦めでございます。」
 悠一はよくわからなかったが、ソムリエの言うワイン二つをリストで探し当てた。どちらもやや予算オーバーであったが、悠一はワインの綴りを眺め、一瞬由美子の顔をちらりと見てから注文した。
 「では、ムルソー・シャルム九一年をお願いします。」
 「かしこまりました。」
 ソムリエはテーブルの上にあったワイングラスを下げてしまった。再びソムリエが現れると、テーブルに一回り大きい丸っこいグラスを二個並べ、サイドテーブルに銀製のワインクーラーを置いて、悠一にワインのボトルを見せた。
 「ドメーヌ・コッシュ・デュリーのムルソー・シャルム・一九九一年でございます。」
 悠一が頷くと、ソムリエはコルクを抜き、小皿に載せて悠一の前に置き、グラスにワインを少量注いだ。悠一はそのワインのあまりの芳醇さに、ワイン講座で学んだテイスティングの方法などすっかり忘れてしまい、一口飲んで頷くだけであった。
 ソムリエは由美子と悠一のグラスにワインを注ぐと去って行った。
 「ミュルソウルト・チャームズ?」
 「ムルソー・シャルムって読みます。でも英語で言うたらチャームのことでしょうね。チャーミングな由美子さんにピッタリのワインや。」
 悠一がこのワインを選んだのは、単にこれが言いたかったからであった。由美子は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
 ボーイが皿を運んで来た。
 「トリュフのパイ包み焼きと、温製フォアグラのミルティユ添えでございます。」
 「このフォアグラ、凄いボリュームやな。由美子さん、ちょっと味見してみます。」
 「はい。あ、トリュフが一個丸ごと入ってますよ。はい、これ伊藤さんに。」
 こうして二人は、仲良く料理を分け合って食べ始めた。
 「ところで伊藤さん、文子ちゃん知ってましたよね。」
 「はい。由美子さんと仲良しの従妹でしょう。一回だけ会ったことがあります。確か由美子さんと同い年でしたね。」
 「そうです。前に言うたと思うけど、伊藤さんのメール面白い言うてファンになったの実は文子ちゃんなんですよ。」
 「ああ、掛け合い漫才て。文子さんでしたか、それは光栄。」
 「でも伊藤さん、残念でしたね。文子ちゃん、夏に結婚するんですよ。」
 「それは残念、やなくて、おめでたい。相手はどんな人ですか。」
 「職場の先輩です。年は伊藤さんと同じくらいやけど、実はバツイチなんです。ええ人やけど。」
 「僕はまだ一回も出来んのに、二回目とは怪しからんやっちゃなあ。」
 「はははは。」
 そうこうする内に一皿目の料理が終わり、ボーイが次の料理を運んで来た。ボーイは二人の前にそれぞれ銀の蓋を被せた皿を置き、両手で二人の皿の覆いを同時に取った。



 
十一

 「こちらが舌平目のスフレ、そしてこちらがオマール海老と伊勢海老のグラタンでございます。」
 「わっ、可愛い。」
 「鏡でもありましたか。」
 「え、ああ。はははは。もう、伊藤さん、何言うんですか。」
 由美子は舌平目のスフレの盛り付けに声を上げたのであった。皿の真ん中に縦に舌平目を置き、左側に茶色いソース、右側にクリーム色のソースが入れてあって、右側のソースの上には茶色いソースで音楽のト音記号が描かれていたのであった。
 悠一はわざとらしくワインを味わってから、話を続けた。
 「文子さんもいよいよですか。で、チャーミングな由美子さんのほうは一体どうなってるんですか。」
 「え、私ですか。私は晩婚の相が出てますから。それに家で仕事してますから、出逢いとかも全然ないんですよね。」
 「こんなチャーミングな人が勿体ないなあ。」
 悠一はまた、ムルソー・シャルムを格好を付けて味わった。
 「何なら、私もテイスティングしてみます?」
 「えっ。」
 「うそうそ、冗談冗談。」
 「ああ、びっくりした。ところで由美子さん、今日はあんまり飲んでませんねえ。いつも僕より強いのに、どうしたんですか。」
 「え、私伊藤さんより強いかなあ。何か今日は疲れたみたいであんまり飲みたくないんです。」
 メインディッシュも二人は少しずつ交換したが、由美子は食欲もあまりないようで、悠一が食べる量が多かった。皿が下げられ、ボーイがワゴンを押してチーズを持って来たが、由美子が食べられないので断った。デザートのメニューが渡され、由美子がボーイに尋ねた。
 「何か軽いものはありますか。」
 「クープ・ヴォジエンヌはいかがでしょうか。ミルティユ、すなわちブルーベリーのアイスクリームの周りにホイップクリームを入れ、ブルーベリーを散らしたものでございます。」
 「じゃあ、それお願いします。」
 「僕はクレープのケーキ。」
 「かしこまりました。」
 悠一がクレープを何重にも重ねて甘いソースを掛けたケーキを由美子に勧めたが、由美子は断った。クープ・ヴォジエンヌも少し残していた。
 二人はコーヒーを飲むと、店を出ることにした。悠一が勘定を払っていると、由美子の携帯電話が鳴った。由美子は階段のところへ出て、小声で話し始めた。悠一が勘定を済ませても由美子はまだ喋っているので、悠一は丁度入口の所へ出て来たソムリエと話し始めた。
 「あのムルソー、ソムリエさんのお薦めだけあって、ほんと、美味しかったです。」
 「ありがとうございます。何せ、ムルソーでも最高のつくり手ですからね。お客様は相当ワインにお詳しいようでいらっしゃいますね。」
 「いえいえ、勉強を始めたばかりです。」
 これ以上話すとぼろが出そうだと、悠一は気が気でなかった。
 十分程して、やっと由美子の電話が終わった。悠一は、どうせ友達からだろう、若い女の子の電話は長いから困る位に考えて、気にも留めていなかった。二人は地下鉄銀座駅の階段を降りて行った。
 「ここから渋谷へはどう行ったらいいんですか。」
 「銀座線で終点迄乗っとれば着きます。僕も新橋迄行って乗り換えるから、一緒に行きましょ。」
 二人は切符を買って改札を入った。悠一がふざけて由美子の肩を抱き寄せた。
 「これから由美子さんをさらって行って、テイスティングしてみよかな。」
 「いけません。」
 さっき迄やや元気のなさそうに見えた由美子が、意外にもかなり強い調子できっぱりと言ったので、悠一は少し驚いた。



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