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   浦戸心中終篇

 


 突然襲って来た大震災の惨劇から既に五年近い月日を経て、未だ様々な問題を抱えているとはいうものの、神戸の街は表面的にはかなり復興していた。十二月二十四日の夜、電飾が美しく輝く通りを、由美子は野場と手を繋いで歩いていた。
 「ルミナリエって話には聞いとったけど、ほんまに綺麗やね。」
 「由美子のほうがもっと綺麗や。」
 「ははは、何言うとんの。」
 由美子はふと、昨年訪れた東京の青山通りの夜を思い浮かべた。クリスマスイヴのイルミネーションの中を由美子と並んで歩くのは隆二。由美子は急に物悲しくなった。
 「どうしたんや。」
 「ううん、何でもない。」
 その夜、野場はポートアイランドの近くのホテルを予約していた。
 ホテルのツインルームに入り、コートを脱ぐなり野場は由美子を抱き締め、唇を重ねた。
 「ちょっと待ってよ。ほんまにせからしいなあ。」
 「クリスマスイヴ位食前食後にええやんか。」
 「あほ。」
 「しゃあないなあ。ほな食事行こか。」
 野場はホテルの中のレストランを予約していた。
 「メリークリスマス。」
 「メリークリスマス。」
 二人はシャンパンで乾杯し、クリスマスディナーのコースにワインを一本空けた。
 「食後酒など如何でしょうか。」
 ソムリエがワゴンにブランデーやリキュールの瓶を載せて押してきた。
 「僕はコニャックでも貰おかな。これ、ヘネシー頂戴。」
 「私はコアントロー。」
 由美子は珍しく、少し酔ってしまった。
 食事が終わると、二人は暫くの間ホテルのロビーの窓から見える夜景を眺めてから、部屋へ戻った。
 二人はシャワーを浴び、浴衣に着替えた。野場は由美子を抱き締めると唇を重ね、舌を由美子の舌に絡ませた。そしてそのまま由美子をベッドへ押し倒した。由美子は目を閉じてじっとしていた。野場は由美子の浴衣を脱がし、胸に顔を埋めながら、右手で下腹部をまさぐった。由美子は殆ど反応を示さなかった。
 野場を迎え入れても、由美子は無表情のままであった。由美子はさっきから隆二のことを考えて、とても悲しい気分になっていたのである。由美子は野場の恍惚とした表情が寧ろ疎ましく感じられ、虚ろな表情をしていた。しかし野場はそんな由美子の様子を見て、由美子も感じているのだと錯覚して、独り嬉しく思っていた。
 やがて由美子は自分の中で野場が果てるのを感じると、自分が情けないような、惨めなような、兎に角たまらない気分になって、思わず嗚咽の声を上げてしまった。ところが野場は由美子が自分と同時に達したのだと思って満足していた。由美子は暫くの間、呆然と横たわっていた。
 「シャワーでも浴びたらどうや。」
 由美子は返事をしなかった。野場が浴室へ行き、シャワーを浴び始めた。由美子は独りで泣いていた。
 野場が戻って来て声を掛けた。やはり由美子はぼんやりとしていたが、二分程して急に立ち上がり、足早に浴室へ向かった。由美子はまるで穢れを清めるかのように体を洗った。
 由美子が戻って来ると、野場は既に眠ってしまっていた。由美子はとても眠る気にはなれず、ぼんやりとしていたが、野場の寝息が耳に付いて耐えられなくなり、バッグから睡眠薬を取り出した。コップに水を汲むのももどかしく、一気に薬を飲んだ由美子は、もう一つのベッドに潜り込むと野場に背を向け、シーツを頭迄被った。



 

   携帯電話
彼氏からも浮気相手からも携帯に電話が掛かって来る由美子さんへ
とうとう携帯を買わされてしまいました。番号は〇九〇―××××―××××です。電話下さい!
二十四時間囚われの身になってしまった伊藤より

   パソコン教室
仕事ですよ! 伊藤さん
伊藤さんの会社のパソコン教室、お願いすれば地方にも出張してくれるそうだけど、どんな具合ですか。うちも近くの人を集めてやってみようかなんて言い出したもんで。
グローソフトの実演会もやってみようかと考えている由美子より

   まいどあり!
仕事をくれそうな由美子さんへ
会社で主催しているパソコン教室は一人いくらで貰うけど、得意先の電器屋さんでやる時は、交通費と三万円で出来ますよ。必要ならノートパソコン十五台無料貸し出しも出来ます。
久し振りに高知へ行きたい伊藤より

 悠一と由美子はクリスマスについてはお互い多くを語らなかった。暮も押し詰まった三十日、由美子が深夜迄ぼんやりと考え事をしていると、携帯電話が一瞬鳴った。
 「誰やろ、こんな時間に携帯にメールくれるの。あ、伊藤さんや。」
 「ひともまた我と同じか冬の夜に衣片敷きいぬる淋しさ」
 「なんか、今日のは近世風の歌やな。」
 そう言いながら、由美子は暫く物思いに耽っていた。

 平成十二年の元旦は穏やかであった。吉田家は一同食堂に集まって雑煮を食べていた。吉田社長が言った。
 「由美子、今年はいよいよやな。」
 由美子は恥ずかしそうに下を向いた。伸子がからかうように言った。
 「由美子さん、ほんとにええお婿さん見付けて羨ましいわ。」
 「何よ、お姉ちゃんだって、折角伊藤さんがその気になっちょったのに。」
 「伊藤さんにはパソコン教室やって貰うき、ええろ。」
 「やっぱり伊藤さんが来てくれるがか。」
 夫人が由美子に訊いた。
 「さあ、まだわからんけど。」
 悠一にパソコン教室をやって貰おうと言い出したのは、意外なことに伸子であった。吉田社長も夫人も、そして勿論由美子も異存はなかった。やはりよく知っている人のほうが安心出来るということである。
 その夜、由美子はまた一人でぼんやりと考え事をしていた。まだ野場と正式に婚約した訳ではないが、両方の家族もすっかりその気になっており、春頃に結納、秋には挙式の予定で周囲が話を進めていたのである。本当にこのままで良いのだろうか。由美子がまた隆二の姿を思い浮かべようとした時、携帯電話がメールの着信を告げた。
 「また伊藤さんからや。年賀メールやろか。あれ、何これ。」
 「時時刻刻幾百千 年年歳歳如流川 徒過三百有余日 世人都祝新改年 何新何改於我身 嘆息独空仰晴天」
 「徒らに過ごす三百有余日・・・。」
 由美子はこの一年の出来事を思い浮かべるでもなく、ただぼんやりとしていた。



 

二月十五日の朝、新大阪へ向かう新幹線のグリーン車のシートを目一杯倒し、悠一はぐったりと横たわっていた。この日の午後大阪で仕事がある悠一は、新横浜から自由席に乗るつもりであったが、余りの疲労のため、自前でグリーン車を取ることにしたのであった。悠一は目を閉じて、前夜のことを思い浮かべてみた。

 十四日の夜、悠一は午後八時半過ぎ迄会社でパソコンゲームをやって時間を潰し、それからゆっくりと地下鉄の八丁堀駅へ向かった。渋谷に着いたのは九時過ぎであったが、それでもまだ時間があった。この日は美弥子の仕事の都合で九時半に渋谷で待ち合わせたのである。悠一はハチ公前をぶらぶらし、退屈凌ぎにハチ公の後ろの石碑の説明を読み始めた。そこにはハチ公の体高、体重等が尺貫法で記されていた。その時、悠一の携帯電話が鳴った。
 「もしもし。」
 「伊藤君、今どこ?」
 「ハチ公の尻尾の後ろ。」
 「あ、ほんとだ。」
 そう言いながら美弥子が現れ、二人は携帯電話を切って直接話し始めた。
 「早かったね。」
 「うん。仕事順調に終わって。」
 二人は横断歩道を渡り始めた。
 「例のワインバー、こっちだっけ。」
 「ねえ、今日は別の店にしましょうよ。」
 「え、どうして。」
 「だって、あそこの店行くと知った人に逢いそうだもん。」
 「そう、じゃあ、どこでもいいよ。」
 悠一はややぶっきらぼうに答えた。そして、どうせ僕は日蔭者だからという言葉を呑み込んだ。美弥子は相変わらず富山夫人時代の友人知人に悠一を紹介することを躊躇っていたのである。
 「でもバレンタインデーの夜にあんまりみすぼらしい店はやめようね。」
 そして悠一はまた、どうせ僕が払うんだしという言葉を呑み込んだ。
 美弥子が坂の途中の狭い路地に入って行くので、悠一は首を傾げながら付いて行った。
 「休憩三千円、宿泊七千円。」
 「そんなの読み上げないでよ。」
 美弥子は道を間違えていた。その路地は行き止まりで、突き当たりにはラブホテルがあった。
 「じゃあ、ここにしようか。」
 悠一が美弥子の肩を抱いて言うと、美弥子はくるりと向きを変えて、
 「そんな訳ないでしょ。」
 二人は結局、最初予定していた美弥子の馴染みのワインバーに入ることにした。美弥子は知り合いがいないことを確認すると、安心したように席に着いた。
 「この店、中が二階建てになってるの。ほら、そこの階段上がったとこにも少し席があるでしょ。主人とゆっくり話がしたい時なんか、よくあそこの席にして貰ったのよ。」
 また主人かと、悠一はうんざりした。
 「はい、プレゼント。」
 突然美弥子がリボンを掛けた小箱と細長い包みを取り出し、両手に持って悠一に差し出した。
 「これ、アラン・シャペルの生チョコと、ランセルのネクタイ。ネクタイ開けてみて。」
 悠一はネクタイの包みを開き、襟元に当てて見せた。
 「どう、似合う。」
 「うん、ぴったり。」
 「ありがとう。」
 食事が終わり、二人はエレベーターに乗った。扉が閉まり、二人きりになるや、悠一は美弥子を抱き寄せ、唇を重ねようとした。
 「いや、駄目。」
 美弥子が激しく抵抗する間にエレベーターは一階に着いた。

 悠一はリクライニングシートを起こし、鞄からチョコレートの包みを取り出して開け、一つ口に放り込んだ。一粒百円は下らないであろう極上のチョコレートは実にまろやかな味わいであったが、少しほろ苦い味がした。



 

 「お知らせ致します。本日米原方面積雪のため、徐行運転を行います。京都到着は若干遅れる見込みですので、予め御了承下さい。」
 名古屋駅を出てすぐ、車内にアナウンスが流れた。
 「まあ、どうせ一時間も遅れることはないやろ。早めに出て来て良かった。」
 悠一は車内販売の弁当を買って食べ始めた。やがて窓の外は雪景色に変わった。悠一は弁当を食べ終わると、携帯電話を取り出し、メールを打った。
 「由美子さんへ。関西は大雪ですよ!冷え込んでませんか?寒がりの悠一より」
 翌日、悠一が東京へ帰ってパソコンをチェックすると、由美子からのメールが届いていた。

   先斗町の雪?
冷え性(?)の伊藤さんへ
洛中は底冷えしましたが、雪は殆ど降りませんでした。でも、昼間ちょっと北の方へ出掛けたら、凄い雪でした。野場っちは慣れてるだろうけど、私は雪が珍しいので、一人ではしゃいでいましたよ。
喜んで庭を駈け回りたくなってしまった由美子より

 「なんや、あの時丁度京都で逢い引きしとったんか。」

   溶けて流れりゃ
デュエットしてみたい由美子さんへ
おやおや、京都で逢い引き中と知ってたら、大阪から邪魔しに行ったのに。
ところで先斗町の雪が出て来る歌、なかなか含蓄がある歌詞ですよね。どこに降る雪も溶けて流れれば皆同じというのは、人間の無常を言っているのかも知れません。どんなに良いことをした立派な人物でも、逆にどんな酷いことをした悪人でも、またどんな大金持ちでも、どんな貧乏人でも、死んでしまえば同じこと、全て無に帰すと言うことですね。歴史に名を残す程の人でも、その人のことが正しく後世に伝わっているとは限らないし、墓なんかすぐに分からなくなってしまうものです。昔から松柏は切られて薪になると言うでしょう。
溶けて流れてしまいたい伊藤より

 このメールを受け取ってから、由美子は何時間もただぼんやりと物思いに耽っていた。
 数日後、由美子が返事を出した。返事と言うよりも、全く別件の連絡であった。

   パソコン教室
さあ、仕事ですよ! 伊藤さん
懸案のパソコン教室ですが、三月二十四日あたりでやりたいと思いますが、出来ますか。午後に二回、基本的な内容でやろうと思います。内容の詳細は後ほど。
私もパソコン習っちゃおうかなと考えている由美子より

   返信 パソコン教室
今更パソコンを習う? そうか、パソコンの教え方を習おうとしている由美子さんへ
三月二十四日、大丈夫ですよ。早速予定表に入れておきました。申込書を添付しておきますから、必要事項を記入して(殆ど入れておいたけど)返信して下さい。
実習用のパソコン十五台は前日に届くように送りますが、当日、準備とか打ち合わせもあるので、前日の夕方には飛んで行っていいですか? 二人で前夜祭をやりましょう!
由美子さんと浮気するのが楽しみな伊藤より

   前夜祭
パソコン教室を口実に私と浮気しに来る(?)伊藤さんへ
じゃあ、前日の飛行機が決まったら連絡下さい。迎えに行きますね。前夜祭はみんなでやりましょう! のびごんからもパソコン教室についての厳し〜い注文が色々とあるようだし。
最近メールも電話もしてないのに睡眠不足の由美子より

 これが最後のメールであった。この後、二人の通信記録は残っていない。



 

 二月二十四日木曜日の夕方、由美子が店の事務室で伝票を整理していると、携帯電話が鳴り出した。店にいた伸子に気付かれないようにそっと確認すると、隆二の携帯からであった。由美子はそ知らぬ振りをして二階へ上がり、すぐに電話を掛け直した。
 「もしもし。」
 「あ、ユミちゃん。」
 「ごめん、仕事中で出られんかった。」
 「高知へ帰って来ちゅうき、暇な時にまた掛けて来て。」
 「うん、また夜にでも電話するわ。」
 その日の深夜、由美子は野場からの電話を疲れてるからと言って早めに切り上げ、再び掛かって来ないことを確認してから隆二に電話した。
 「もしもし、寝ちょった?」
 「あ、ユミちゃん。大丈夫。まだ起きちゅう。」
 「何か、ばたばたしちょって忙しいき、あんまり逢えんみたい。日曜日の夕方からやったら何とかなるけど・・・。」
 「ああ、じゃあ空けちょくわ。」
 由美子は運命を呪いたい気分であった。電話を切った後、由美子は呟いた。
 「どうして来るのがダブるのよ。」
 この週末、野場が吉田家を訪れることになっていたのであった。
 次の日、由美子は家の用事で買い物に出掛けたが、たまたま方向が隆二の家と同じだったので、家を出るなり隆二に電話を掛けてみた。隆二は家にいて、すぐに出て来ると言う。由美子はボルボのアクセルを踏み込んだ。
 「ユミちゃん。」
 「あ、リュウ君」
 久し振りに見る隆二の髪は、話に聞いていた通り、長く伸びていた。
 「元気にやっちょる?」
 「うん。」
 直接逢ったのは久し振りのせいか、二人はお互い何となく照れながら近況を語り合った。しかし南国とはいえ、冷たい風の吹きすさぶ二月のこと、外での立ち話は長く続かず、隆二を車に乗せる気にもなれない由美子は、独り車に乗りこんだ。
 「私、お使いの途中やき。」
 「じゃあ、また日曜日に。」
 「うん。じゃあ、また。」
 車を走らせる由美子の頬には一筋の涙が流れていた。
 翌日の土曜日の午後、由美子は高知空港で野場を出迎え、一旦家へ連れて帰った後、二人で繁華街へ出掛けた。電話やメールでは最近すっかりつれなくしていた由美子であったが、実際に野場と逢ってみると、ついいとおしくなって、二人は仲良く歩き始めた。
 由美子がふと向こうの方を見ると、人ごみの中から隆二が自分達の方へ向かって歩いて来た。由美子は内心はらはらしつつも、野場には気付かれないように、また隆二にも見られないようにと祈りながら通り過ぎた。暫く歩いて信号を待っている時、由美子が何気なく左の方に視線を向けると、何とまた隆二がいるのが見えた。何故? まさか? 由美子は思わず髪を掻き上げながら信号を渡ったが、生きた心地がしなかった。野場は全く気付いていないようであった。由美子は遠目に振り返りながらも、隆二の行方が気になっていた。
 その夜、野場が持ってきたワインを吉田家で開けることになった。野場がソムリエナイフをコルクにねじ込みながら言った。
 「由美子、二人で一緒に開けよ。」
 「二人でって?」
 「ここに手を載せて。」
 由美子は言われた通りに手を添えた。
 「二人の初めての共同作業です。このワインの名前も作品一、オーパスワンや。」
 吉田夫妻も伸子も浮かれて拍手した。
 由美子は精神的に疲れ切っていた。ワインの酔いも手伝って、宴半ばにしてソファに寝転んだ。伸子が気付いて言った。
 「あれ、由美子さん寝てしもた。」



 

 「由美子、由美子。」
 「あ、野場っち。」
 「もう十二時や。寝よ。」
 野場に揺り起こされ、由美子は目を擦りながら、ソファから起き上がった。
 「お風呂入って来るわ。」
 「ほな僕はもう寝るで。」
 「うん。おやすみ。」
 「おやすみ。」
 流石に由美子の部屋に泊まるのはまだ気が引けるので、野場は客間で寝ることになっていた。それに、二人は家へ帰る前にラブホテルへ寄って情事を済ましていたので、野場はあっさりと客間へ入ってしまった。由美子は熱いシャワーを浴びてから浴槽に浸かった。
 風呂から上がると、由美子は息を殺して辺りの様子をうかがった。既に皆寝てしまったようであった。由美子は素早く自分の部屋へ入り、ドアをロックすると、携帯電話を取り、隆二に電話した。
 「もしもし、リュウ君。」
 「あ、ユミちゃん、こんばんは。」
 「こんばんは。リュウ君、今日昼過ぎ、はりまや橋の方に来ちょったろ。」
 「え、何で知っちょるの。」
 「私もちょっと用事があって歩いちょったき。」
 「知らんだ。声掛けてくれたらええが。」
 「ちょっと急いどったき、ごめん。」
 隆二はすぐ近くを歩いていた由美子と野場に全く気付いていなかったようで、由美子はほっと胸を撫で下ろした。
 「なあ、ユミちゃん。まだ一時前や。今から出て来いや。」
 「え、こんな時間に無理やわ。」
 「じゃあ、こっちから行こか。」
 逢いたいのは山々であったが、この夜ばかりは逢う訳には行かなかった。
 「無理言わんと。明日の夕方電話するき、今日はもう寝よ。」
 「うん。じゃあ明日。」
 「おやすみ。」
 「おやすみ。」
 電話を切った後も、由美子は暫く携帯電話を握り締めたまま動かなかった。
 翌日、朝食を済ませてからも、野場と由美子は家でのんびりしていたが、十時過ぎに二人で出掛けることにした。ウインドウショッピングなどした後で、由美子が言った。
 「そうや。この近くに新しいビストロが出来たんやけど、フランス帰りの若いシェフで評判らしいよ。」
 「ビストロか、ええなあ。最近出来たんやて。」
 「うん。去年の暮からて言うとった。」
 「ほな行ってみよか。」
 二人はビストロに入り、シャンパンで乾杯してから、昼のコースでは一番高い、海の幸のコースと、シャブリを一本注文した。
 「これ、イトヨリか。」
 「これ、ヒメジ。高知でよう獲れる魚よ。」
 フランスの現代的な魚料理をよく勉強したシェフらしく、土佐の海の新鮮な魚介類を活かした、ボリュームはあるが、重くなくて食べ易い料理であった。
 「なあ、由美子。パソコンもええけどなあ、普通の家電製品も・・・。」
 野場は例によって由美子と二人で電器店を経営する夢を語り始めた。由美子は生返事をしながらワイングラスに手を伸ばした。
 食事が終わると、二人は酔い覚ましに川沿いを散歩した。
 「おととしの台風の時はえらいこっちゃったらしいな。」
 「うん、この川が溢れた位やから。まだよう見ると上の方に水が来た跡が見えるわ。」
 二人は車に乗り込み、町外れのホテルに入った。窓の外を見ると、雨が降って来た。情事が終わり、シャワーを浴びている内に、野場が乗る飛行機の時間が近付いて来た。
 由美子は野場を助手席に乗せ、鉛色の空の下、赤いボルボを東へ走らせた。空港のロビーに着くと、既に大阪行きの飛行機への搭乗が始まっていた。
 「由美子、お父さんお母さんにもよろしゅう言うといてや。」
 「うん。じゃあ、さよなら。」
 「またな。」
 野場を乗せた飛行機が飛び立った。由美子は飛行機が見えなくなると、はっと我に返ったように携帯電話を取り出した。



 

 「もしもし、リュウ君。」
 「ユミちゃん、これから出て来れる?」
 「今空港やけど、これからそっちに向かうき。」
 「じゃあ待っちょるき、近く迄来たらまた電話して。」
 「うん。じゃあね。」
 由美子は真っ直ぐ隆二の許へ向かうのには抵抗を感じていた。気が付くと、由美子のボルボは時々抜け道で通る南久保の卸団地の中を走っていた。一枚の看板が目に入った。
 「ワイン入荷しました。これか、お父さんがようワイン買うて来る三人姉妹の店は。」
 由美子は店の前に車を停め、中に入った。
 「いらっしゃいませ。」
 由美子と同年代の女性が出迎えた。この店の看板娘、美人で評判の三女である。
 「どんなワインがよろしいですか。」
 「う〜ん。」
 「これ美味しいですよ。シャトータイヤック言うて、有名やないけど、格付け物の上等なシャトー並に素晴らしいワインです。」
 「はあ・・・。あっ。」
 由美子は何気なく店の奥に目を遣った。そして、そこに仰々しく飾ってあるワインを見て思わず声を上げ、小走りに駆け寄った。
 「お客さん、お目が高い。これは日本に毎年何十本かしか入って来ない幻のワインです。」
 由美子は返事もせず、暫くの間そのワインをじっと見つめていたが、おもむろに財布を取り出すと、一万円札が三枚入っていることを確認した。
 「これ下さい。」
 「は、はい・・・。」
 由美子はワインをトランクに仕舞い込むと、隆二の家へ向かった。
 「もしもし、リュウ君。」
 「あ、ユミちゃん。そろそろ着くか。」
 「うん。あと五分位で着くき、待っちょって。」
 隆二は家の前に立っていた。由美子は車を停めると、助手席のシートを手で払ってからドアを開けた。隆二を乗せ、由美子は西へ向かった。野場を見送った空港、そして野場の帰る大阪とは反対の方向へ、逃げるようにボルボを走らせた。
 「もう晩御飯食べてしもたけど、ユミちゃんまだやったら、軽く付き合うき。」
 「私もさっき軽く食べた。」
 由美子は全然食欲がなかったので嘘を付いたのであった。
 中村方面へ車を走らせていた由美子は、ふと気が向いて、山側の道へ入って行った。二人は時折他愛ない内容の言葉を交わしはしたが、口数は多くはなかった。
 由美子と隆二は以前何度か愛し合ったことがあったが、隆二はそれ程積極的に求めて来ることはなかったので、夜中迄二人きりで居ても手も握らないことが珍しくはなかった。この時、由美子は身も心も隆二に任せてしまいたい衝動に駆られたが、つい数時間前に野場を迎え入れた体を隆二に捧げることは出来なかった。
 車は細い山道を登って行った。霧が掛かって来たと思ったら、段々濃くなり、視界がかなり悪くなって来た。山道の傍らに古ぼけたドライブインを見付け、入ることにした。既に人影はなく、車も停まっていなかったが、三台の自動販売機の明かりだけがこうこうと輝いていた。
 「ユミちゃん、コーヒーでええか。」
 「うん。」
 「買うて来るき、待っちょって。」
 由美子は本当は車から降りて体を伸ばしたかった。そして出来ることなら濃霧の中を幸いに、とは言っても周囲に見ている人などいる筈はないのであるが、隆二の胸に飛び込みたい気持ちであった。
 「はい、ユミちゃん。」
 「ありがと。」
 さっさと助手席に乗り込んで来た隆二に缶コーヒーを渡され、由美子は雑念を払うかのようにコーヒーを呷った。
 「この先行っても多分何もないき、もう戻ろか。」
 「うん、そうやね。」
 山道を引き返し、広い道に戻ってからも、二人は取り留めのない話をしながら、当てもなく車を走らせた。
 十一時を過ぎると、由美子は時計を気にし始めた。それに由美子が相当に疲れているのが隆二にも分かった。
 「ユミちゃん、そろそろ帰ろか。」
 「うん。」
 由美子は隆二を家迄送ると、真っ直ぐ帰宅した。既に十二時少し前で、由美子は自分で鍵を開けると静かに階段を上り、自分の部屋に入ると暫く泣いた。泣き疲れた由美子は思い出したように卸団地で買って来たワインを取り出して、いつ迄もぼんやりと眺めていた。
 午前一時を過ぎた頃、突然由美子の携帯電話が鳴った。
 「野場っちかな。リュウ君かなあ。あれ、伊藤さんや。」



 

 同じ日曜日の午後、悠一は美弥子と銀座で買い物をしていた。美弥子は悠一が考えたこともないような高級ブランドばかり見ていたが、意外と堅実で決して衝動買いなどはしなかった。
 「ねえ、このバッグいいでしょう。」
 美弥子はフランスの有名な競馬場の名前の付いたバッグを指差した。
 「この馬のマークもさりげなくていいのよね。でも白にするかベージュにするか迷ってるの。」
 美弥子は結局この日もバッグを買わなかった。悠一は内心、ホワイトデーのプレゼントは意外と安上がりになりそうだと考えていた。
 「あっ、綺麗。」
 ふと通り掛かった宝石店の前で美弥子の足が止まった。そこには所謂カマボコ形のダイヤの指輪が飾られていた。カマボコ形といっても中央には上質の大粒ダイヤがあり、リングは金とプラチナを組み合わせた斬新なデザインであった。三百万円の値札がついていた。
 「美弥子さん、指輪のサイズは?」
 「え、買ってくれるの。」
 「どうしようかな。」
 「ふふふっ。」
 流石の美弥子もこの時は悠一が本当に買うとは思っていなかった。
 二人はウインドウショッピングを続けた。
 「色々見るけど、意外と買わないんだね。」
 「うん。見てるのが楽しいのよね。それに今日、お財布忘れて来ちゃったの。」
 「ははは、道理で買わない筈だ。」
 二人は数寄屋橋の方迄歩いて来た。六時になっていた。
 「食事はどうしようか。」
 「ねえ、原宿にいい店があるんだけど。」
 「えっ、こっから原宿行くの?」
 「いいじゃない。電車一本だし。」
 「まあ、そうだけど・・・。」
 折角銀座へ来てるのにと思いつつも、悠一は美弥子に従って山手線に乗った。美弥子は空いている席を見付けると素早く座った。悠一は美弥子と並んで座りたかったが、席が空いたのは渋谷に着いた時であった。悠一が美弥子の隣に座るとすぐ、電車は原宿に着いた。竹下口で降りると、美弥子は真っ直ぐ竹下通りを歩いて行った。通りは中高生らの若者で賑わっていた。
 「こんなとこにお店あるの?」
 悠一が尋ねた時、美弥子は右側の狭い通りへ入りながら言った。
 「ほら、ここから先は別世界よ。」
 その先はブラームスの小径と呼ばれる閑静な通りで、目指すレストランは階段の上にあった。
 「あれっ、どうして閉まってるの。」
 「そこに結婚式で貸切って書いてあるよ。」
 「えっ。」
 二人は明治通りへ出て南の方へ歩き始めた。
 「この先にカジュアルだけど気に入ってるイタリアンがあるの。」
 十分程歩いて着いた店も満席であった。
 「どれ位待てば入れますか。」
 「申し訳ございません。一時間程お待ち戴くことになりますが。」
 二人は他の店を探すことにした。
 「やっぱり休日はどこも混むなあ。そうだ、この近くにちょっとしたワインバーがあるけど。」
 「え、今日はそんな気分じゃないな。」
 「そんな気分って、食事してワイン飲むんだから一緒じゃない。」
 「でも、何か嫌。」
 「どうせ僕の知ってる店なんか駄目だろ。」
 「そんなこと言ってないじゃない。何怒ってんのよ。」
 空腹のせいか、二人とも少し苛立っていた。表参道方面から原宿駅の方へ戻りながら、美弥子が言った。
 「ねえ、この店知ってる?コンドーム専門店で色んなのが揃ってるのよ。」
 「そんなの知る訳ないだろ。」
 悠一は怒鳴るような口調で言った。
 「別に私達の関係のことじゃなくって、話題として言っただけなのに。」
 悠一は美弥子を無視して無言で足早に坂道を登って行った。美弥子も無言で従っていたが、途中で悠一に声を掛けた。
 「私、ここ渡るけど。」
 二人は通りを渡り、原宿駅へ向かった。
 「そんなに怒らなくてもいいじゃない。」
 「何だよ、人を馬鹿にして。」
 「馬鹿になんかしてないじゃない。何よ。大体ねえ・・・」
 悠一は美弥子の声から逃れるように早足で駅へ向かった。駅前の歩行者用信号が点滅しているのを見て走り出した悠一は、途中で赤になった信号を無理に渡り、振り返りもせず改札を入り、ポケットから携帯電話を取り出してスイッチを切った。



 

 悠一は品川駅で山手線を降りると、駅の中の蕎麦屋で蕎麦を食べ、東海道線に乗り換えて寮へ帰った。十一時頃電話が鳴ったが、悠一は出なかった。その後、十五分置きに鳴る電話を悠一はぼんやりと眺めているだけであった。
 悠一はふと思い付いたように、携帯電話のスイッチを入れた。美弥子からメールが入っていた。原宿で別れた三十分程後の発信になっていた。
 「お腹すいた!バカ!財布忘れた日に先に帰らないで!」
 その後電話は鳴らなくなった。暫しの静寂が訪れた。数分後、携帯電話がメールの着信を告げた。
 「どこほっつき歩いてんのよ!」
 もう美弥子から電話が掛かって来ないことを確信すると、悠一は受話器を取り、由美子の携帯に電話した。二人の会話は未明迄続いた。
 翌日も翌々日も、夜になると美弥子から部屋の電話と携帯電話に交互に掛かって来たが、悠一は出ようとはしなかった。三日目の夜、由美子に電話しようと悠一が受話器を取ったほんの一瞬前に、美弥子から電話が掛かっていた。
 「もしもし、伊藤君。」
 「あ、はい・・・。」
 「ねえ、明日の夜逢えない?」
 全く何事もなかったかのような美弥子の言い方に、悠一は逢う約束をしてしまった。それから二人は以前と変わりなく付き合っていた。しかし悠一の満たされない気持ちはいつしか別の感情へと変わって行った。
 三月十四日、何時の間にか日本で発明され定着してしまったホワイトデーであるが、この日は美弥子の仕事の都合で逢うことは出来ず、十八日の土曜日に悠一と食事することになった。場所は京橋のレストラン、悠一と美弥子が再会した夜、初めてデートした店、そして二人が初めて喧嘩したのもこの店であった。
 シャンパンで乾杯し、料理を注文し終わった二人の席にソムリエがワインリストを持って来た。
 「ワインは如何なさいますか。」
 「どんなの飲みたい。」
 「うーん。グラーヴかな。」
 「じゃあ、これ。オーブリオンの五九年。」
 「かしこまりました。」
 「ちょっと、そんな高いの大丈夫。」
 「大丈夫。今日は特別な日だから。」
 「ありがとう。」
 ソムリエが恭しくデカントして差し出したワインは素晴らしい芳香を放っていた。
 「このワインって、私達が生まれる前から瓶の中で熟成して来たのね。」
 「そうだね。そして僕が死んだ後でもまだ熟成し続ける力を持ったワインだ。」
 この店自慢の仔羊とフォアグラの料理を食べ終え、デザートが運ばれて来た後、悠一が小さな包みを取り出した。
 「はい、プレゼント。」
 「ありがとう。何かしら。」
 「開けてごらん。」
 「あっ。」
 それは美弥子が銀座で見とれていた三百万円のダイヤの指輪であった。」
 「嬉しい、ありがとう。」
 美弥子が指輪を左手の薬指に嵌めてくれるのではないかという悠一の微かな期待は当然のように裏切られ、美弥子は右手に指輪を嵌めて、嬉しそうに悠一に見せた。悠一も微笑んだ。
 「少し歩こうか。」
 「うん。」
 食事を終え店を出た二人は東京駅迄歩くことにした。
 「まだまだ寒いわね。」
 「じゃあ、僕が温めてあげよう。」
 オフィス街の合間の狭い人気の無い通りで、悠一は美弥子を抱き寄せた。
 「いや、だめ。」
 美弥子は相変わらず激しく抵抗した。悠一はすぐに手を離し、そ知らぬ顔で歩き始めた。



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