8
当事者たちには大変な代物ながらも、何とか方がつきそうな“すっとんぱったん”が展開されていた、その丁度同じ頃。
“………今日は何だか、風が弾んでいるみたいね。”
春という季節の間は自分がその管理を任されている“風”なれど、そろそろ次の季節を司る宮へのバトンタッチの頃合い。そんな時期には、春の陽気を易々と凌ぐほどの、気の早い南風が押しかけて来たり、はたまた思わぬ威力の突風が吹いたりする。不安定になるというよりも、これもまた自然の自然ならではな流れ。一線を引いて“じゃあ明日からは…”という引き渡しの元に、きっちりと変化し、書き換えられるようなものでなし、少しずつの行ったり来たりによって、春が薄まり夏が濃くなる。そんな時期ならではの落ち着きのなさは、新しい季節に身が馴染むようにと風が身体を叩いてくれる施しなのかも。
「………?」
荘厳な聖宮の奥向き。執務用として昼間のほとんどを過ごす、広々とした明るい室内にて。引き継ぎの儀式に向けての、準備の手配や何や。日頃の管理手続きと並行して、着々と手配が進む、そちらの特別な仕儀への進行状況報告が入るのへ目を通していた天使長様。窓からそよぎいる風とは別に、何かの気配をふと感じ、なめらかな所作にてデスク前から立ち上がると、室内をスルリと視線で撫でる。腕力も咒力や感応力も、ゾロやサンジといった“それが専門”という者どもに比べれば、か弱い女性に相応な能力しか持たない身だが。とはいえ、伊達に聖宮を治めている存在ではなく。
「あ………。」
明るい陽光を透かしては遊ぶ、オーロラのようなオーガンジーのカーテン。その中ほどを房飾りのついた帯で留めてある窓辺に…ぼんやりと。何かの…誰かの人影が浮かんでいるのが判った。単なる幻像にしては、存在感…とでもいうのだろうか、意識がこちらを向いているのが察せられ。それをして、幻や残像なんかではない“誰か”であるらしく。ナミさんもそれを拾ったからこそ気がついたようなもの。とはいえ、
“本来ならば、こうまで薄い“実体化”しか出来ない身では此処には入れない筈ですのにね。”
日輪の恵みを受けし“陽界”に在るなら、どうしても必要となるのが、大地からの賜物、何らかの“殻”という肉体であり、此処はそういった、自我や意志を収める器が要らない聖世界だが、なればこそ、中途半端な意志や自我しか持たぬ者は、聖宮のこんな奥向きにまでは入って来られはしない。ただ…物事には、例外というものがある。意志意欲が存在を固定する…などという、ある意味、フレキシブルな世界であるせいで、時に理屈やセオリーを軽々と踏み越えるような奇跡も起こりやすい。
「もしかして…コウシロウさんですか?」
ナミがかけた声へ、その朧げな人影は…カーテンの動きに合わせてゆらゆらと揺らぎつつもにっこりと微笑って見せ、
《 ああ、やはりそうですか。
確か…ベルメールのところにいた、ナミさんですね?
大きくなったもんだねぇ。もはや立派なご婦人だ。》
応じの声もまた、不思議な響き方で届くから。恐らくは、
「もしかして。地上世界から?」
此処に実体を伴って運んでいる訳ではないのかと問えば、穏やかそうなお顔が微笑みながら…ゆっくり“是”と頷いた。
《 実体のままにっていうのはさすがに無理なようだけど、
微妙に意識が曖昧になっているような、
そう、居眠りをしている時なんかに、意識だけは来られるみたいだよ?》
期末テストの採点をネ、手掛けていたはずなんだけど。何かが聞こえて来た方へ、素直にやって来たらば此処に着いた。そうと言って再び笑って見せる。40代に入ったばかりくらいだろう、穏やかそうな笑みの馴染んだお顔の、それは温厚そうな男性。上背はあって、だが、あのゾロほどには屈強な印象もなく。陽界では理数系の教師だと聞いたその職業が不思議と馴染んでいるような、大人しそうな物腰の人に見えるが、その実、此処、天聖世界にいた時は、ゾロを幼少から鍛えたという“嵐と戦の天使長”だった人。
「私のこと、覚えておいでだったのですね。」
失礼ながら、こちらからはあまり面識もなかった。だって、ナミにしてみれば、その自我が萌え出したかどうかというよな頃合いに、あの忌まわしき騒乱が始まってしまったから。多少の騒動では現場に呼ばれぬ立場の母も、さして時をおかず、多くの剣士や武器使いといった戦士たちを率い、毎日のように戦場へと出ることが多くなり、そして…非業の最期を遂げてしまった。
《 まぁね。ベルメールが事あるごと、
あたしの自慢の娘たちだよと、姿絵を見せびらかしていたからね。》
彼もまた、先の聖魔戦争にてその尊い命を亡くしており、もはや勇名だけが語り継がれていただけの人だったのだが。何という奇縁か、あのルフィ坊やの間近に接することとなる人への“転生”を果たしていらっしゃり、昨年の秋に人世界にて起こった騒動では、亜空にまで運んで下さり、頼もしい助力をしていただいたというから、
“サンジくんやビビさんから話を聞いていなければ、幽霊かと思うところだったかも。”
そんなお茶目なことを思い、ついつい“くすす…”と吹き出してしまった春の天使長様。実体がない方には椅子やお茶を勧めるのも何だからと、せめて一番見える位置まで立ってゆき、スツールを引き寄せるとちょこりと座って。一見、何にもない、誰もいない窓へと向かい合う。
「昨年の一件では、お力添えをいただき、本当にありがとうございました。」
本来ならば、あってはならないことだった。負世界の陰体の中にあっても、自我を持ち、様々にクセのある“闇の使い”といった輩たちからも、その身を狙われかねないほどの。特殊な能力を…素養を持つルフィには、これ以上の難儀や怖い想いなぞさせてはならないと。それこそ、天聖界の重鎮たちの全てが望み、願っていたというのに。そのための尽力は惜しまぬぞと構えてもいたというのに。選りにも選って、人間界の“似非”結界師にしてやられ、しかも、すっぱりと片付けられずに1カ月ほどもの不安な時期を与えてしまった。そんな体たらくには、ゾロやサンジのみならず、こちらからは何の手出しも出来ぬ身の、ナミやゼフらもどれほどジリジリさせられたことか。そんな状況に少なからぬ力を貸して下さったという彼の側でも、
《 あの黒鳳まで復活していたんだってね。》
現世のこの時代にあって、何がどう動いているのかまでは知る由もなくて。自分たちが相対したあの悪夢が、再び胎動しかかっていたと。多くの悲劇の上に封じ直した筈の忌々しき黒鳳が、あの小さな坊やの身を喰らって乗っ取り、復活するつもりでいたらしいのだという顛末からをサンジやたしぎから聞かされて、それへはさすがに暗澹たる想いを抱かれたそうで、
《 ノーザさんが生贄にされ、ベルメールも亡くなっていたのだってね。》
神々の末裔が実在するような神話の時代から“世界”を受け継いだ世代。同じ時代に若さを謳歌し、その活力でもって世界の安定を任されていた。活気に満ちながらも、安寧に満ちた穏やかな時代。様々な実りも、人心も、限りなく潤沢で。ささやかな試練はあっても、それは必ず明日への糧となるものと誰もが知っており。苦しいとか辛いとか哀しいとか、怖いとか憎いとか恨めしいとか…絶望という名の“負の感情”なぞ、この世からは消えたのではなかろうかと思われたほどに、安らかに恵まれた時代だったのに。
――― 幸せの絶頂から叩き落とされた悲哀の、何とも惨たらしかったことか。
これまで味わったことのない苦痛に、抵抗も知らぬままばたばた倒れる弱き者たち。不安が一気に人心を支配し、それがこの“意志の世界”への瘴気の蔓延へますますの拍車をかけた。瑞々しくも綺羅らかだった山野は荒れ果て、聖獣たちはその身を生きながらに腐らせては次々に頽れ落ち。すぐにも天使長クラスの者たちが…自身の周囲を聖域として救済しつつという形にて、現場に立たねばならぬほどの事態を招いたほど。そして、そんな戦いの場にて、先頭切って獅子奮迅の働きを務めていたサンジの父上の聖封殿が…聖宮への防御結界を張ることで自分の力を使い果たして亡くなってしまわれ。それに続くように、コウシロウさんもまた、敵方の巨大な邪妖を仕留めるのへ…自刃も同様の“禁じ手”とされていた咒を使ったがため、その命を潰えさせてしまい。最後の手段とされていた『預言書』を紐解いたところが、封印の咒を未来永劫念じ続けられる能力者が、その懐ろに抱きとめて封じる他はないと判ったのは、その後の話。
《 私たちが不甲斐なかったばっかりにね。》
ぽつりと呟いた彼の一言が、ナミには…朧げながら覚えて要る母の言葉と重なった。
『あたしたちが不甲斐ないばっかりに…。』
後方支援の陣頭指揮を任されていらしたノーザさんを、まだ自分と同じくらいという小さな子供だったサンジを遺して、そんな…死ぬのも同然という人柱に捧げねばならなくなって。この世には、どんなに頑張っても、望みを捨てなくても、諦めなくても。それでも…力が足りねば どうしようもない悲劇ってものがあるのだと、涙が涸れるほど泣きながら思い知った。きっと、サンジも、そしてゾロも。泣きまではしないまでも、それは深く傷を負い、そして。こんなことが二度とあってはならないと、同じように…絶望を前にして泣く子を作ってはならないと、そうと決意したに違いなく。そして、
――― そんな自分たちが“ルフィ”と出会い、運命の轍は再び動き始めた。
今度こそはと構えられた“報復合戦”だったのは、黒鳳の側にしたって同じことだったろう。彼らそれぞれの先代たちが、正に…命を賭して、誇りを懸けて挑んだ巨妖は、彼らの決死の働きと力により一旦は封じ直されたのだから。今度こそはのリベンジだったのはお互い様で、
“肝心なルフィが意のままにならず、その上、ゾロを慕ってただなんて。”
自分が周到に仕掛けた策謀なのだから。何でも意のままになるとばかり構えていた黒鳳には、とんだ大誤算だったでしょうよねと。今でこそ笑って思い出せるようにもなったけれど。ゾロが倒され、ルフィが攫われ、自分を庇ったサンジも深手を負うという、絶対絶命の渦中にあったその時は、いくら気丈夫のナミさんだとて、生きた心地はしなかった。ああでも、今だから言えることはもう一つあって。最愛の人を失った悲しみは、きっと一生消えないけれど、ベルメールさんのことを思い出すのが、辛くはなくなっているのに ふと気づく。今になって知った、勇ましかった女性戦士と嫋やかだった封印の女王の不幸に、ただただ面目ないとしょげているセンセイへ。ナミは“くすすvv”と小さく笑い、
「…ねえ、コウシロウさん。
ベルメールさんも、どこかで転生しているかしらね?」
他意はない。それが証拠に、
「怠けていたらば“こら〜っ”て、昔みたいに叱られちゃうのかな?」
あっけらかんと笑って言う。目映いほどに健やかで、それはそれは幸せそうだった、女性ばかりの戦士の一家。二人の養女たちもそれはお転婆で才気煥発であり、女系家族の華やかさよりも“こりゃあ頼もしい跡取りだねぇ”とかいう、勇ましい評しか語られなかった当時のそのまんまの気風を見せるナミであり、
《 そうだね。そうかも知れないね。》
君らがあんまりよく出来た働きをしているから。これなら口を出すこともなかろうってことで、どこか他所で、別な誰かのお尻を叩いているのかもしれない。コウシロウさんは、おっとりと笑ってそんな風に言って下さり。
《 ああ、いけない。起こされそうだ。》
うたた寝状態だからこそのご訪問。意識がはっきり目覚めれば、こちらの世界には居られないのだろう。それじゃあまた、何か機会があったら遊びに伺いますねと、優しく笑って下さって。
《 あ、そうそう。》
コウシロウさん、最後になって何か思い出したというお顔をし、殊更に“にっこり”と微笑んだりするものだから。んん?と、怪訝に感じはしながらも、それは和やかなお顔のまんまで小首を傾げたナミさんだったが、
《 あの子たちが捜し物をしているらしいんですが、
南の方へ行けばいいと助言してやってはくれませんか?》
「捜し物?」
訊き返すと、こっくりことのんびりとしたご様子で頷き、
《 大切なもの、うっかりと見失ったらしくって。
でもね、大事はなかったようで、私も安心しております。》
「………はい?」
おんやぁ〜〜〜? コウシロウ先生、思わぬことで意識を飛ばせたなんて言い方をしてらしたのに、そっちの騒ぎにも気づいてらした…ということは?
←BACK/TOP/NEXT→***
*おいおい、まだ続くか。(笑) |