天上の海・掌中の星 “序章” C
 



          



 風通しのいい空間には仄かにフルーツの香り。此処は、手入れよく磨かれ、清潔に保たれた明るい台所。そのキッチンのぴっかぴかに磨かれた流し台の前に背条を伸ばしてすっくと立ち、程よく太った大根の下ごしらえを手掛けていた人物の大きな手が“はた”と止まる。
「? どうした?」
 訊かれても、聞こえなかったかのように反応はないまま。まな板の上へ全てを…包丁から大根から、剥きかけていた皮から、こと・どか・ばたと取り置いて。
「………。」
 長い脚を包むワークパンツのお膝。そこへ絡まりそうになっているエプロンの裾を振り切りつつ、足早の大股で玄関まで向かった上背のあるお兄さん。外からドアが開いたとほぼ同時に、
「たっだいま…って、うわったっとっ?」
「手、見せてみな。」
 帰還のご挨拶も半ばなままの目の前の小さな体を、ぐいと肩を掴んで引き寄せており、
「…どうしたよ、これ。」
「どうしたと訊きたいのは こっちだぞ、ゾロ。」
 何か言う前どころの話じゃあない。ただいまの挨拶も中途の、顔を見る前にという勢いでのこの反応。しかも、ゾロが掴み取っていたのは坊やの右手手首であり、怪我を負って帰って来たという事実のみならず、その場所までが見る前から分かっていたとは、

  “なんか どんどん人間離れしてってないか、こいつ。”

 ああ、そっか。もともと人間じゃあなかったか…と。あなたが言いますか、サンジさん。
(苦笑) わしわしと出て来たゾロに続いて、こちらさんはゆっくりとした足取りでお出迎えに出て来てくれた金髪痩躯の美丈夫へ、
「あ。サンジ、来てたんだ。」
「よお、邪魔してんぜ。」
 暢気な声をかけてのご挨拶を交わして見せれば、
「こら、はぐらかすな。」
 彼らの間に挟まれた格好になった偉丈夫さんが、その厳つい表情の中、眉をぐぐいと寄せつつ見下ろして来たもんだから。
「あやや…。」
 簡単には はぐらかせないほどに真剣真面目なゾロみたいだと、さすがに鼻白むルフィである。そんな彼の小さな手の指先、指の半分くらいを埋めるほどに巻かれた大きめの絆創膏。ガーゼの部分に乾きかかった血が滲んでいるのが透かし見え、ちょっとした引っ掻き傷程度ではないというのがしっかり確認出来る。何にも代え難い一大事と言いたげな、緊張したお顔になった破邪さんのあまりの気迫にあって、坊やが却って萎縮せんかなと思ってくれたか、
「あんまキツく掴むと痛いんじゃねぇのか。」
 サンジが掛けたお言葉に、
「…っ。」
 はっとしてやっと手を緩めてくれたけれど。お顔の引き締まりようから察するに、心配の嵩は減っていない模様だったので、
「大したことはないんだって、ホント。」
 やたら大仰なほど、にっぱり笑ったルフィだったりするのである。





            ◇



 玄関先でいつまでも向かい合っていても始まらないのでと、とりあえずリビングまで上がって来て。お客様というよりはもう一人のお兄さんみたいな聖封さんが、前以て作っておいてくれていた、カボチャと栗のムースケーキをおやつに出され、わぁいとはしゃいでフォークをつける坊やであり、
「机の中にハサミがねえ…。」
 つい小1時間前のお昼休みに起こったことを話して聞かせたところが、ゾロもサンジも、少々由々しきことと言いたげに表情を曇らせる。そこはさすがに“大人”というか、災禍というものへの用心や警戒にはある意味で縁が深い身だからで。
「確かにな。その保健医のセンセーの言うように、単なる“事故”じゃあないかもな。」
「そうなのか?」
 依然として事態の重さを飲み込み切れていないらしい当事者の坊やが、キョトンとしているのへと、
「ああ。」
 お向かいのソファーから、サンジが苦笑混じりに頷いて見せた。
「恐らくはお前を標的にと設定して、きっちり狙って仕掛けてあったもんだってことだからな。そこらに無造作においてあったもんへ勝手に躓いたりしたっていう怪我じゃないってのは、穏やかな話じゃなかろうよ。」
 柔らかな言い回しで説明されて、
「…そっか。」
 銀色のフォークの先を咥えて、今やっと事情を理解出来たというよなお声になったルフィである。とはいえ、
「でも…なんでだろ。」
 そう来たかとコケないで下さいませ、お客さん。
(うう…) そんなものを故意に向けられていた、わざとなんだと言われても…思い当たる節がないルフィであるらしい。そんな姑息な“罠”のようなものを仕掛ける人間にも、そういうよなことをされるような言動を取った覚えにも、そもそもの“心当たり”というものが全くない坊やだからこそ、アルビダ先生に説明された時にもピンと来なかったのであり、
「妬まれてるってことはないのか? お前、この夏は大活躍だったっていうし。」
 色々と聞いてるぞと、サンジがにんまり笑って聞いたが、
「…う〜ん、どうなんだろ。」
 眉間にお肉を寄せたルフィは首を傾げてしまうばかり。天真爛漫、無邪気で屈託がないのが一番の魅力であるお元気坊や。もしかしてそういう根の暗い人間が間近にいたとしても、このご本人さんには判らないのではなかろうか。それに、
「同じクラスの子がってのは、ないと思うぜ。」
 坊やが腰掛けているソファーの後ろ、背もたれの上へ手をついて立っていた破邪さんが、本人に代わり、落ち着いた声で返す。
「空気の色にもそんな険悪なもんは感じられなかったからな。」
 同じクラスの面々のほとんどの顔触れが応援に来ていたインターハイの時に、何とはなく様子を撫でてみたゾロだったらしく、それのみならず、
「日頃からも、こいつがまとって帰ってくる気配ってので大抵は判るからな。」
 ご本人は天下泰平な性格をしているので気がつかなくても、険悪な意識を向けられたなら多少は匂いのようなものが残るもの。そういうものを警戒し探査するのがお役目な彼らなのだから、怪しい気配があれば即座に気がつくと言いたいゾロであるらしく………。でも、あなたはそういう方面へは専門外だったのでは?

  “…まあ、この坊主に関しては俺以上の感度でもあろうしな。”

 ははあ、そうなんですか。そもそもは、破邪封滅の力にのみ能力が偏ってたから、封印や探査のエキスパートであるサンジさんが、その点を補うべく組まされたという順番だったのだのにね。
「…ってことは。間近な人間じゃないのか、それとも、坊主をと狙ったんじゃない、無差別攻撃系統の嫌がらせってとこかね。」
 いきなり容疑者の範疇が広がってしまったなと、しょっぱそうな顔をするサンジへ、
「そういうことになるな。」
 ゾロが うんうんと鹿爪らしく頷いて、
「そんなことをして何が楽しいんだかって思うような、よく解らんことをする奴ってのは案外といるもんだ。」
 そうですね。学校給食へ針だの鉛筆の芯だのを混入させる、根の暗い嫌がらせが続いた学校の話もありましたしね。
「魔物が相手なら俺が張ってやってる結界で防げるが、人間が意図したものへはあいにくと効力がないも同然だからな。」
 だから、ちょっと間は用心しなよと、あらためて坊やへと言い置いたゾロであり、ルフィも“判った”とそこは素直に頷いて見せ、

  「けど、凄げぇな。顔見る前に怪我したってこと、嗅ぎつけちまうんだもんな。」

 にっぱと笑った坊やには。言葉への裏書や何かというよな含みはなかったらしいが、
「………まあな。」
 ストレートに“凄い”と讃えられたことへ少しは面映いと感じたか。そんなの当然だとか何とかいう照れ隠し半分の反駁もないまま。その代わりに…大きな手が伸びて来て、丸ぁるい頭をそのまま包み込み、長い指が髪をもしゃりとまさぐってくれる。いつだって傍らにいて、ルフィのことをだけ思い、見守ってくれている存在。破格の力を持つ“破邪”であると同時に、ルフィにとっての“守護”でもあるゾロだから。そのくらいは容易いことなんだなって、そうと思えばもっと嬉しいルフィであるらしくて。

  「えへへ…。///////

 甘やかされるのが実は大好きな坊や。寂しかった頃の分を埋めて余りあるほどに、ゴロゴロvvと甘えかかるのを余裕で受け止めてくれる この大きな手で触れてもらうのが、本当に本当に幸せでたまらないらしい。怪我をして案じてもらうというのは、彼としても不本意な流れだけれど、薄い肩の向こうを見上げ、そこにいた破邪殿の厳ついお顔が…やわらかく和んで見つめ返してくれたのへ“ま・いっか”とご満悦のお顔。うふふんvvと笑いつつ、
「怪我しちゃうと、誰でも優しいのかな。」
「何だよ、そりゃ。」
 それこそ不本意な言われようだと、ゾロがむっつりと眉を寄せたのへ、
「ゾロは違うって判ってるサ。」
 にっぱり笑った坊やが思い出したのは、
「帰りの電車でもサ、急ブレーキに振り回されそになったトコを、助けてくれた人がいたんだ。」
 咄嗟のこととて、もう少しで怪我をしたばかりの手で体を支えるとこだった。それを支えてくれた大人がいたんだよと、手短に語って聞かせ、

  『またお会いする機会もあることと思いますよ? ルフィくん。』

 そんな謎めいた一言を言い置いたお兄さんだったことへ、キョトンとしちゃった下りまでを話してから、
「その人に話しかけてたのが、ウチのガッコの生物のセンセーでさ。」
 それで思い出したんだよなと、うんうんと頷いたルフィが言うには、
「物理の黒須先生だった。」
「…お前は自分の通うガッコの先生の顔も覚え切っとらんのか。」
「だって、物理は二年で習うんだもん。」
 それにサ、理数系の先生たちの準備室は図書室の横だから、俺、滅多に行かないし。そんな“威張ってどうする”な言いようを堂々と言い放ち、
「凄い優しそうなセンセでサvv あんなセンセだったら、苦手な理数系も好きになれそかなって思ったぞvv
 それが嫌いな教科担当の先生であれ、あんまり人の好き嫌いはしないルフィが、ほんの初見でこうまで言うのだから、相当なもの。余程のこと、ツボに入って気に入ったらしいなとサンジが目を細めているその前で、

  「わーったから、とっとと着替えてきな。
   台本とやらも渡されたんだろうが。目ぇ通しておけや。」
  「むう。」
  「晩飯、早いめにしてやるからよ。」
  「おっし。」

 丸め込むコツは重々心得ているゾロさんに言い含められ、きれいに平らげたムースのお皿にフォークを置いて、デイバッグを小さな肩に引っかけるとリビングから出て行く小さな背中。口許だけで小さく笑ったまま、そんな彼を見送ったサンジは、
「どした。どっかのオッサンに坊主が触られたのが許せないのか?」
 目許を一気に眇めて“ふふん”と突っつくような笑みで相棒さんへと切り込んだが、
「バ〜カ野郎。そんなじゃねぇよ。」
 聖封さんからの冷やかしにも直接ムッとしはせず、だが…どこか感慨深そうなお顔はそのままであり。破邪さんにおかれましては、もっと別な何かへ機嫌を傾
かしがせておいでであるらしい。やはりルフィを見送っていた顔をこちらへと戻した彼は、声を低めて…こうと応じた。


  「…お前は気がつかなかったのか?」
  「? 何が?」
  「あの傷から、微妙に呪
まじないの匂いがしていたぞ?」
  「………え?」









   *話運びが随分とゆっくりで申し訳ありません。
    なかなかじれったい謎があちこちに…。


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