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ルフィにとっては初めての高校の文化祭のその初日。選りにも選ってこんな晴れの日に、あの忌ま忌ましい魔咒の陣を目にしようとはと、呑気に歯噛みしている場合ではなく。
「…ルフィ。」
その小さな顎の先を覆うほど大きな、純白の仰々しい襟がついたサテン地の、中世欧州の近衛兵の衣装を着た愛らしい少年が。舞台脇の仮の楽屋、板張りの小部屋の中ほどにて、マネキン人形のように凍りついて立ち尽くしている。彼の小さな体を外界から隔てるように、筒状に取り囲む青白い光の柱が足元から真っ直ぐ、太い管になって突き上げて来ており、その中に取り込まれたようにも見える少年だが、今は何とか まだ無事だ。彼自身が持つ強い霊感と、毎日のように彼の大好きな守護が掛けてやっている防御のための封咒とが働いて、彼の心を…意志と気力とを堅く守っている状態。ただ、それらが封じられたため体を動かすことが適わなくなっており、
「いいな? どんな化けもんが飛び出すかは判らん。覚悟しとけよ?」
そんな囚われの少年と向かい合っているのは。陽界にはみ出した負の陰体を成敗するため、天聖界から降臨していた破邪と聖封の二人組。他でもない、この身に代えてでも守ると誓った少年の悲しい姿に、だが、怯むことなく真っ向から向かい合い。今すぐ助けてやるからなと、覚悟を決めた守護で破邪の青年が真摯な表情のままくっきりと頷き。それをしっかと見届けた金髪碧眼の青年が、線の細い顔容かんばせの前へと右手を挙げると、軽く眸を伏せ、緋色の口許をかすかに震わせて“合”の咒を紡ぎ始める。結界術の中でも最も堅牢にして特殊な次元隔離の障壁。時の迷路を一気に織り上げて築く、陰体でさえそうそう簡単には破れぬ茨の壁。聖封一族の中でも、限られた者にしか繰り出せぬ特殊結界であり、咒の複雑さもそれを保つために必要な体力もトップクラスのレベルが必要とされる代物だ。
《 〜〜〜〜っ。飛び込むぞっ。》
現世と隔てる壁を立ちあげて、それから。対象をくるむと同時に中へと飛び込めと合図を送る。合の外ではほんの一瞬。されど、内部ではどれほどの時間と戦いとで鳧がつくやら。どの程度の“一瞬”で彼らが戻ってくるのか、固唾を呑んだビビを後に残して。二人の天聖界のエースたちは、次空に刳り貫かれた“亜空間”へ揃って飛び込んでいったのである。
◇
闇でもなく、かと言って明るい光がたたえられているでもない空間。強いて言えば曇天のような濃いグレーの空間が漠と広がる、特殊な亜空間。固体か何かがある訳ではないのだが、たとえるなら…透き通って見える大気の中にも細かい塵があるような、そんなレベルで浮遊している雑多なものがあっての灰色であるらしく。
“煙や靄みたいなもんだな。”
それにしては感触も密度もないのが、助かるのだが厄介なのだか。そんな亜空間に到達した彼らだったが、
「…っ!」
それぞれの意識が空間での発動を開始したと同時、向かい合っていた少年の体が…現世界では衣装の背中にしか見えなかった“咒陣”によって、中空へと吊り上げられている。亜空間は陰体にとって、陽界よりも安易に“常体”でいられる空間でもあり、
《 何だ、なんだ。此処はまだ陽界ではないのかよ。》
乱暴な意志が、こちらにも通じる形になって伝わって来て、背丈ほどの高さまで浮き上がったルフィの体を丸ごと掴めるほどの、巨大な手が中空へと現れた。剛い毛並みをまとった骨太な手で、鋭く黒い爪を4本の指先に鈍く光らせており、
《 …っ! 痛てぇっっ!》
その手のひらが、だが、少年を取り囲む青白い光に弾かれて、怯んだように跳ね上がってから後戻りする。連結の楔などという特殊な咒陣は確かに発動しているが、それに反応してルフィの側が張っている防御の咒が同時に立ち上がっているがため、負の存在には手が出せないのだろう。
《 どういうこった。お前らが我を招いたのではないのか?
こんなにもがんじがらめな寄り代では、我は出現出来ぬぞ?》
手だけの相手が好き勝手にとぼけた言いようをしているのへ、サンジがニヤリと笑って見せた。
「成程な、相当に大きなものを呼び出そうとしてやがったらしい。」
少なくとも知能と自我がある存在。自分がどれほどの者であるのかを誇示する辺り、それなりの自尊心まで持ち合わせているらしいから、自分たちや人間に近い“人格”も持っているらしく。それほどの存在だから、この日という制限を守らねば召喚出来なかったのだなと、謎だったことが1つだけ謎ではなくなった。
“だが、自我はそのまま、次界障壁が反発する素養でもある。”
あまりに力が強い負の陰体は、だが、だからこそ陽世界からの反発も強く受ける。器がないままの身ではそうそう出現することは適わず、しかも陽の素養を侵食する“滅びの負力”のみしか持ち得ない存在には、狭間にある仕切りの障壁“次元の壁”を越えられるべくもなく。
“だからこそ、その“寄り代”にルフィをと目をつけたのだろうが…。”
あの大邪妖“黒の鳳凰”がかけた太古の呪いによって、巨大な負力を収容出来る“器”となるよう、永い歳月を経ることで練り上げられ、復活した黒鳳の途轍もない力を受け入れるべく育った“筺体”だったルフィ。そんな詳細までは知らない筈だが、器が必要な陰体の、その“器”たり得る身なのだということに気づいた奴がいる。
“今はまだ、こいつの咒と坊主の気力が勝っていて、手が出せないでいるが…。”
邪妖を殲滅することが主たる能力であるため、本来はそんなに得意な分野ではない筈なのだが、実は実は。太古の昔に“浄天仙聖”とかいう清めの能力をつかさどる神だった存在の成り代わり。そんな素養が身の裡うちへ目覚めている彼であり、しかもその覚醒の切っ掛けになったほどの強い衝動を授かった時の、激しい情熱を向けんとしていた対象だった坊やが再び危機にあるという状況下だったから。それでとこれまでの力が発動しているに違いなく、だとしてもいつまで保つかは不確定。
「とっととカタぁつけろよっ!」
坊やの前にて精霊刀を召喚した破邪の男へ、こちらも辺りを索敵するべく意識を静めながら声をかければ、
「おうっ!」
言われるまでもないと、腹の底からのものらしき野太い応じが返って来て、さあ、戦闘開始である。
「どこやらの鬼じゃあんめぇ。片手だけの存在じゃなかろうが。」
立ち込める靄のせいで全身像が見えないのだとすれば、手のついてる本体がそんなにもここから遠いほど、大きな大きなガタイをしている相手なのだろうか。
“それとも、この靄もまた相手の防御用の煙幕なのか。”
鞘から一気に抜き放った精霊刀の、白銀の刃がギラリと光る。特殊な素材の奥底、よくよく練った“念”を封じたものとされる“精霊刀”には、ただの刃物以上の意味と力が込められており。故に扱うこともまた なかなかに難しい武器だが、体の一部として使いこなせる者には、その意志の通りに作用する多大な力を発揮するという。綾糸をぎっちりと巻かれた柄を、大きな手でぎりぎりと絞り込み、手のひらへ吸いつかせるように馴染ませて、そこから切っ先まで冴えた“気”を込め、気合い一喝。
「哈っっ!」
こちらから飛び出して、わずかに頭上という中空に浮いたままの“手”へと切りつけたゾロだったが、
「………なっ!」
どういう訳だか。渾身の一撃であった筈の攻撃が、されど岩を叩いただけなような反射にあって、こちらもまた弾かれた。
「馬鹿な…。」
ただの例えに持ち出した代物だったが、例えでなくただの岩が相手だったなら…実のところ すっぱり切れている筈で。鋼でさえ両断出来るほどの、それほどの切れ味であり腕前なのに、
《 ははは…、何だ? 今のは。何かぶつかって来たのか?》
小馬鹿にするような声が沸き、チッと舌打ちを洩らしたゾロが今度は続けざま、右に左に切り刻むように振り下ろし続けたのだが、やはり…精霊刀“和道一文字”の剣撃を全て跳ねつけてしまう邪妖であり。
“刃が当たっただけでもダメージを食うはずだのに?”
陽世界をくるむ障壁に近い力を持つものを鍛えた刀だ。素養そのものに負の力を削ぐ能力があるため、弱い邪妖なら触れただけで蒸散してしまう存在だというのに。一体どれほどの能力を持ち合わせた輩なのだと、信じ難い現象へと少なからぬ驚きを覚えていたところへ、
「…私の傀儡を勝手に囲い込まれては困るな。」
不意に。予測のない誰かの気配が割り込んで来て、
“なっ!”
サンジが思わずながら息を呑む。彼らの周囲に濃い霧のように立ち込める、この空間を構成する物質の澱(おり)が邪魔をして、やはり相手は見通せないが、さして離れてもいない位置、同じ空間の中に誰かがいる。だが、
「………そんな馬鹿なっ。」
合の結界は唱えた者以外には解けない綾目で構成されており、そう簡単にほどけはしないし、なればこそ、通過だって不可能なほどに、それはそれは強固な結界の筈なのだ。なのに覚えのない誰かが乱入して来ているその上に、
“この感触は…。”
邪妖と同じところからやって来たのなら、まだ判る。だがだが、この感触は…自分たちのような陰体ではない存在のもの。
“………人間、だってのか?”
だとすれば、それは間違いなく…怪しい影としてその行方をサンジが追っていた、人間の“召喚師”に違いない。だが、そうだとなると。
“どうやって“合”を破れたんだ?”
何度もくどいようだが、三次元世界の存在には、その空間に時間軸が関与する四次元へと至る世界である、この“亜空間”にまでだってその身を運べる筈はないのだし、その前の段階、サンジが張り巡らせた“合”の結界だって越えられる筈がないというのに。これは一体どういうことなのかと、理解が追いつかない現状へ混乱しかかっていた聖封殿へ、
「どうしたね、結界師。私の後を追っていたのはお前だろう?」
サンジからの追跡にも気づいていたような言いようをしたが、結界師などという呼び方をしている辺り、自分と同様の“人間”だと思っているらしく、
“ここで“失敬な”なんて思うのは、ルフィへも失敬なんだろな。”
そんな反駁を思いつけるところはまだ余裕。相手がどこにいるのかを探ろうと、意識を集中させ始めたサンジだったが、
《 ええい、煩いハエどもが。》
効かないまでもせめて打撃を与え続けようと切り込み続けるゾロからの攻撃に、さすがに辟易したらしき邪妖が、その大きな手をぶんっと振り回した。
「チッ!」
手そのものは届かなかったものの、それが通過した後の空間に空間の歪みが生じたらしく。蒼白い放電の網光が、バチバチと自己主張の音色を弾ませながら、数個の塊となって飛んで来たから堪らない。咄嗟に防御の障壁を張ったサンジの傍ら、その塁へと飛び込んで来ればいいものを、何を思ったのか、破邪殿は逆の方向へと身をすべらせており、
「ゾロ…っっ?!」
何を血迷ったかと怒鳴りかかった聖封の声が途中で途切れる。というのが、彼が向かったのは中空にその身を浮かべていたルフィの真下だったから。いくら意識がない身でも、どんな反応を示すか判らぬ飛弾が当たっては堪らないだろうと。これも咄嗟のものだろう、守るべき者へと体が向かった反射に、どんな罵声を向けられようか。
「哈っ!」
ぎりぎりで間に合い、跳躍を見せての白刃一閃。坊やへ突進していた放電の跳弾の前へと立ちはだかる格好になって、向き直りがてらに剛腕を振るい、数個の凶弾を精霊刀にて何とか弾き飛ばして 事無きを得た彼であり。
「ふざけた真似をしてんじゃねぇよ。」
弾き飛ばした放電弾は、そのまま…それを虚空から掻き出した張本人へと叩きつけられていたが、
《 はっ。少しはやるようじゃねぇか、童わっぱ。》
自分もまた跳弾を払い飛ばしたデカブツ邪妖が、爪の先をがちがちと鳴らしつつ好戦的な構えを見せた。
《 痒いばかりな抵抗はもう終しまいか?》
「うるせぇな。」
精霊刀が効かない理由は分からない。だが、それがたとえ邪妖という人外の代物でも、弱点のない存在などあり得ない。
“急所を探すしかねぇか。”
和道一文字の純白の柄を、大きな手で再びぎゅうぎゅうと絞り込み、その意識を切っ先へと集中し始めたゾロであるらしく。
“…よし。”
それを確認したサンジもまた、その口から飛び出しかかっていた怒声を飲み込み、その代わりに…忌ま忌ましき邪妖とそれを召喚したらしき存在の方へと向き直る。
「一体どこのどいつなんだかは知らねぇが、物騒なことを続けてくれるじゃねぇか。」
楯代わりの塁として築いた障壁を、パチンと指を鳴らして手のひらに収まる球状に畳み込み、
“この空間に立ち込める雑多な物質は掻き出せないが…。”
ぎゅうと握り込んだ手を前方へ、勢いをつけて解き放てば、砕かれた障壁の残骸が細かい粒子となって周囲へ飛び散る。こちらは間違いなく“正”の念によって生じた代物だから、それを疎んじる性質の物質は弾かれて拡散してゆき、視界が少しはクリアになった。濃灰色に塗り潰されていた空間に、凛と澄んだ闇の漆黒が覗く。暗くなった訳ではなくて、存在するものの生気を際立たせる“無”が現れたことになり、
「………ほほお、そんな姿をしていたのだね。」
こちらの姿を見あらわしたことへと、依然として余裕の口調で応じる男。クリアになってゆく対流風に前髪をなぶられているところを見ると、信じ難かったが…やはり生身のままにこの亜空間へと潜り込んでいた輩であり、神経質そうな尖った印象の面差しをし、銀縁メガネを掛け、黒髪を撫でつけた成年男性の日本人。
「その子に張った咒陣を探し、それへ直に手を伸ばしたまでのこと。それだけでこんな空間へも足を延ばせるとはね。」
大発見に興奮しているのだろう。訊いてもないことを自分から口にする。妙に大きく見張られた目が、異様な精神状態をそのまま映していて怖いくらいだったが、
“…大したタマじゃねぇな。”
この亜空間はサンジがこじ開けて準備したもの。そして、ルフィが天聖界へでもその身を運べる存在だったからこそ、その身を媒体にすることでのみ“こちら”へ来れただけの話。こやつが描いたという咒陣が、次元障壁を通過出来るそれだった訳ではない。まま、そこまでの仔細や理屈は、自分たちの側に立たなければ理解することは不可能なことであるのだし、
“まぐれとはいえ“大当たり”だった部分もあった訳だしな。”
ルフィという存在が…陽世界とは違う空間へも行き来の出来る“媒体”なのだということだけは“事実”に違いなく。そこへと今後も付け込まれては堪らない。
「物見高い御仁のようだが、ここはお前の来るべき処ではない。そのまま、お帰り願おうか。」
腕ごと振るう勢いで、指先にて宙へと素早く切ったは、風の咒陣。中空へ刻んだ幾何学模様が青く浮かんだその陣円を、逆の腕を振るって弾き飛ばせば、そこから旋突風が生じて対峙していた相手へと突進する。だが、
《 おっと。》
その旋風を、横合いから伸びて来た大きな手が、キャッチボールでもするかのように遮ったものだから。
「な…っ!」
サンジがギョッとし、その手の持ち主へと視線を振り向ける。ゾロと対峙し合っている邪妖が、何とこの“人間”を庇ったのだ。
《 こいつは俺をその坊主に引き合わせた“マスター”だからな。畳まれたり追い返されたりしちゃあ困るんだよ。》
いかにも下卑た笑い方をして、その手が再び宙を引き裂く。今度は先程よりも大きく深くえぐられた亜空であり、
「チ…ッ!」
先程飛んで来た“放電弾”が先程よりも多数、一気に飛んで来る。防御のための障壁は、厚さや大きさを広げるにはそれなりの咒と念じが必要で、とっさに張れるものには限りがあって。
“しまったっ。”
邪妖が人間を、それも馴染みも関わりもない相手を庇うなどというあり得ないものを見て、少なくはない驚愕に襲われたがため、わずかながら間合いが遅れたか。ほぼ無防備なままに放電弾の餌食になりかかったサンジだったが、
――― カカッ!
辺り一面を白く叩いたのは、形あるものであるかのごとく、それほどまでの鮮烈な存在感でもって空間を薙いだ雷光一閃。厚い弾幕となって襲い掛かって来た放電弾さえ呑み込んだ目映さに、一同が息を詰めてその身を凍らせた 時の狭間あわいへと、
「ぼんやりしていると危ないですよ?」
場違いなくらいにおっとりとした声と言いようとが挟まって、閃光に叩かれた視野が正常へと戻ってゆく。今度ばかりは咄嗟のこと、腕をかざして自分の視界を庇うのが精一杯だったゾロが、背後に浮かぶルフィを見やり、無事を確認してから、さて。相棒の聖封さんを、そのすらりとした肢体の背後へと庇っている誰かさんの姿を見て、
「………今度は誰だ?」
一体何者が闖入して来たのだと、怪訝そうな顔をした破邪殿へ。攻撃へも庇われたことへも、瞬時のこととて対応出来なかったらしき聖封さんが…これも思わずのこと、コケかけつつ頼もしい援軍の背中へおでこをぶつけてしまう。
「お、お前っ! この人に見覚えも何もないってのか?」
「………え?」
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*お待たせしました。続きでございます。
正念場だってのに何だか妙な流れになっておりますが、
ちゃんとルフィを助けることが出来るのでしょうか、この人たちってば。
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