天上の海・掌中の星

    “真昼の漆黒・暗夜の虹” 〜覚醒の果てに H
 






 不意を突かれた。しかも、ルフィの気配を楯にして。何をどうしたのか、突っ込んで来たその眼前へ…ほんの一瞬のことながら、その幼い姿ごとふわりと広がった少年の気配は、さすがに…破邪の鋭気にも絡みつき、このまま突っ込んではまともにルフィをも貫いてしまうと、剣の切っ先が一瞬怯む。だが、それは仕方がないことだ。彼は自分が守ると決めた唯一の存在であり、それをその手で害すことなぞ出来る筈はなく。今の今、最も欲していた愛しき気配であるからこそ、岩盤さえ砕けるほどもに高められていたその切っ先の鋭さにも、驚異的な反射にて、ブレーキがかかったのであって。

  《 …甘いのォ、童っぱ。》

 ぐふりと。いやらしい舌なめずりを思わせるような声が響いて…次の瞬間。


   ――― …っっ!!!


 剣の勢いの失速した先に、逃れようのない淵が待ち構えていたから堪らない。突き立ててはいけないと、自分の側へ咄嗟に刀を引いた反動により、体のバランスが大きく泳いで。それを立て直そうとしてか、宙に大きく躍って羽ばたいた純白の翼を…汚らわしい手が鷲掴みにした。

  「な…っ!」

 ゾロ本人よりも、サンジが、そしてコウシロウ氏が仰天する。聖護翅翼と言えば、これ以上はない聖なる存在。陽白の光を紡いだ清らに無垢なるその翼は、どんな邪気でもこれを払い、どんな穢れをも淨める聖力を帯びている。そんな翼へ一体どうして、陰体が平気で触ることが出来るのか。
“………まさか、ルフィの。”
 ゾロ自身がかけてやった咒が、まだ効力を保っているということか。それとも、そんな真逆な素養までもを自分のものとして取り込み吸収した邪鬼だということなのか。
「そんな…っ。」
 ただただ君を守りたいと、そんな切なる想いから祈った真摯な念じまで、まんまと呑んで悪用したということか。がっしとばかり乱暴に、神々しい存在へ不敬なほどの荒っぽさにて。片方の翼を掴みしめ、もう一方の手は無造作にも青年の肩へ。そんな構図に、するすると這い上ってくる強烈なまでに嫌な予感があって、
「まさか…っ。」
「やめろっ、よせっっ!」
 コウシロウ氏とサンジが同時に叫んだが、それさえ嘲笑って美味しと堪能するかのように、邪悪な手は一瞬も止まらず。

  「………っ、がっ!!」

 大きく背条をのけ反らせ、声にならない悲鳴を吐き出し、翡翠眸の破邪の背から毟り取られたは、純白の片翼。直接そこから根付いて伸びていたものではなかった筈が、なのに…凄まじい激痛を伴ったのだろう。残った翼がばたばたと激しくもがいて宙を掻き、その先が顔か顎にでも当たったか、
「…ちっ。」
 煩げに顔を背けて、パッと無造作に手を放す邪鬼であり。そのまま足元近くへと力なく落下した破邪へ、
「ゾロっ!」
 相棒の聖封が駆け寄って、片膝突きつつ腕の中へと抱え上げる。その手が触れた瞬間、残りの片翼がほろほろと…風に綿毛がほどけるように、なめらかな流れに乗って消えてしまったのは、彼の身が“浄天仙聖”ではなくなったからだろうが。無理から奪われたのは、それとは違う“喪失”なのか。もがれた側の背中、かいがら骨の辺りから、じっとりと滲み出すものの生々しい感触さえあって。
“ここは意志の世界だから…。”
 実体があるか無いかに重きはないのを、今更ながらに思い出す。此処に居る以上、自分たちは“陰体”なのだから、それが翼でも腕でも実体はあるようでないようなもの。その身からもぎ取られれば それなりの衝撃だって受けようし、大怪我を負ったなら流血だってともなうというもので。
「…っ!」
 衝撃が過ぎての混乱に気を抜いてしまっていたか。頭上に何かが陰を落として かざされたのへ、その陰の真下になってからという間の悪さにて察して、そのまま どきりと背条が凍ったサンジの前へ、
「吽っ。」
 咒の印を切りつつ立ち塞がったのが、コウシロウ氏。邪鬼からの追撃、大きな手を伸ばして来ての構いだてが降って来たのへ、頭上の中空へ腕を振り上げて半円を描き、ドームのような障壁を築き上げてくれたらしい。
《 チッ。》
 落下したゾロとそれからサンジと。一気に二人ともを滅しようとしたらしき姑息な攻撃を払い飛ばしはしたが、
「離れた方が良さそうです。」
 此処ではあまりに間近すぎて危険。そうと断じた声をかけたのが、了解を得るためではなかったらしく、
「…あ。」
 瞬き一つの刹那を挟んで、3人共が…少し離れた位置まで移動している。瞬間移動をこなして下さったらしく、
「しっかりしなさいっ! ゾロっ!」
 結構な高さから無造作に、肩から落ちたことも心配ではあったが、それよりも。翼をもがれたことが それほどの衝撃だったか、破邪の男は瞼が降りたままでひくりとも動かない。かすかながらに呼吸はしているが、傷口からの生気の出血が止まらないのも危険なことであり、

  《 勢い込んでもその程度か。》

 止血の咒をと白い手のひらをその胸元へとかざしたサンジの耳に、忌ま忌ましい一言が飛んで来て、彼の中にふつふつと煮えていた癇気を煽る。こんな時に無駄な怒りで消耗してどうするかと、何とか堪えたものの、

  《 しかし、滑稽なことよの。こんなチャラチャラしたものが恐ろしかったとは。》

 いやに感慨深げな声を出した邪鬼であり、何をぶつぶつ大声で独り言を繰り出しとるかと、腹立たしげに視線を上げた先、憤懣に煮えかけていたサンジがハッとして息を呑む。片方の手でぶち空けられた脾腹の風穴を撫で、それだけのことで傷を塞いだ憎たらしい“でくのぼう”は、もう片方の手に…先程むしり取った純白の翼を摘まんでいるのだ。自分たちが汚らわしきものを嫌々ながら手にする時のように。極力触れぬよう、指の先にて摘まみあげている仕草にも向かっ腹が立ったが、
《 今は眩しくもなければ脅威でもない。ただの羽根っきれなのだからの。》
 アホウのように大口を開いて“がはは”と下卑た笑い方をしてから、何を思ってのことなのか、何と………その翼をあんぐと食べたものだから。

  「な…っ!」

 常識だとか物の理解だとかを越えた出来事。あまりの信じ難い光景に、そのまま目眩いがしそうになった聖封である。自分たちにとっても、それ以上はない“聖なる清め”と破魔邪の象徴。神聖な陽白の翼を、あんな下賎の輩が………食っただと? しかもしかも、

  《 薄っぺらいばかりで何の有り難みもないのだの。》

 口の中に張りつきでもしたか、やたらぺっぺっと唾を吐く様子まで見せた相手へ、血の気が引くほどの怒りを覚えたサンジだったが、
「…っ。」
 そのまま立ち上がって飛び出そうとしかかった彼の肩を、ぐっと引き留めた大きな手があった。
「いけません。奴の挑発に乗ってどうしますか。」
「ですがっ!」
 あくまでも冷静なことを言うコウシロウ氏に、まだまだ若輩、金髪の聖封が反駁しかけたものの、
「………。」
 先程までの余裕の微笑がさすがに消えている彼だと、改めて気づいて…跳ね上がりかかっていた憤怒のボルテージが少しは宥められたサンジでもあって。自分が愛弟子として、むしろ家族のようにと育てた青年が、すぐ目の前にてこうまでのダメージを受けて。それが少なからず堪えておいでの筈だのに、それでも尚、冷静な態度を保っていらっしゃる。そんな彼の態度に、なのに…転生した身を自覚したての彼よりも場慣れしている筈の自分が我を忘れてどうするかと、何とか激情を均すことは出来たものの、

  「…様子が妙ですね。」

 そんなことを言い出したコウシロウさんが見やった先へ、自分も肩越しに目をやって、
「???」
 おややと小首を傾げたサンジだったのは。憎々しいまでの増長ぶりで、聖なる翼を食いまでした鬼が…我が身の有利を自覚し、図に乗って暴れるかと思いきや、
《 うむむ…。》
 どうしたことやら、自分の胸元、いやその下あたりか。デカいばかりの武骨な手でしきりと撫で回し始めているのだ。ついさっき彼が食して見せたる聖護翅翼。触れることは出来ても食ったのはさすがに調子に乗り過ぎたのか。それでの胸焼けに気分が優れないのか。いや、そんなこともない筈で、
“邪なるものでも聖なるものでも関係なく、吸収したものの力をまんま身につけてしまうのではなかったか。”
 それはその身に注ぐ攻勢をという意味でばかりでもあるまい。鬼が邪魔物や貢ぎ物など、何でも食らってその臓腑に収めるのは当たり前のことであり、
「…体が膨れて来てはいませんか?」
「ええ。」
 ルフィを呑んだ直後のように、またぞろ何かしらの変化が起きるというのだろうか。今度は最強の清めの力を象徴していた翼を呑んだのだから、相当に手ごわい存在へと変化
へんげするのではなかろうか。そうと覚悟し、息を呑んで見守っていたサンジらであったのだが。

  《 ぐぅ、…うが…、何だ? 何が…?》

 どうも何だか。様子が訝
おかしくはないか? それが彼にとっての喜ばしい変化なら、先程のように嬉しそうな声を上げもしように。今度は打って変わって、急激な変化に鬼自身が翻弄されているらしく、むくりむくりと膨れ上がる体へ不安そうに唸りながらあちこちに触れていて。そんな体の端々が…確かに妙な案配での変化を見せ始める。
「…あれは?」
 随分と靄
もやも晴れた漆黒の空間。その闇の中に浮かぶ邪鬼の禍々しい巨体の輪郭が、ぼんやりとした光に覆われてゆく。フォログラムのそれのような、様々な色の入り混じった光の線で縁取られた大邪は、
《 何だ。何が…っっ!》
 大いにうろたえ始め、苦しげに自分で自分の喉元を掻き毟り始め、そして………。
《 そ、そんなことが………っっ!》
 意味の分からぬ一言を最後に、牙が飛び出した口角から泡を吹き、地響きを立てて膝をつく。余程のことに苦しいらしく、腹や喉やを自らの爪にて容赦なく掻き毟り続け、黄色みに濁った体液を傷口から溢れさせてもそれをやめない。そんな痛みさえ届かないほどの苦痛に襲われているということで、
「な、何だなんだ。」
 為す術なく ただ見ていたこちらさえもが少々狼狽
うろたえかかったほどの急展開。最後の切り札だった破邪殿の“聖護翅翼”さえ、乱暴に引き毟って食らってしまったほどの輩が、こうまでの窮状を見せている原因がさっぱり判らないこちらに、当然のことっちゃことながら、一切構わぬままに事態は容赦なく突き進んで、そして。


  ――― ぴきぴきぴき…と。


 急激な温度変化に膨張が追いつけず、稲妻のような亀裂が一気に走った玻璃の置物。例えるならそんな状態になってしまった大邪鬼であり。腹を押さえ込んだ格好のまま、そこから外へ幾条もの閃光が周囲へと溢れ出したのへと、禍々しき姿がすっぽり呑まれてしまい、


   はがぁっっ!!!!


 いかにも苦しげな断末魔の雄叫びを最後に。痛いほどの真っ白な光に内側から侵食されて…そのままほろほろと。脆い花びらが風に負けて舞い散るように、闇の中へほどけてゆくではないか。


  「……………。」
  「……………。」


 次々に空間の彼方へと飛び去ってゆく、光をまとった破片たちは、元を思えば恐ろしいが、見栄えはなかなか幻想的で美しくさえあり。しばしの間、声もないままに見とれてしまったものの、
「一体、何が………。」
 ここまでの一連の展開に、だが、理解が追いつかないままなサンジらが、何が何やらと呆然と佇むその前へ。少しずつ嵩を減らす光の塊の陰から、足音もかすかにこちらへと歩み出してくる存在があって。それはさながら、真っ白な卵の殻の中から生まれたばかりの何かという風情さえあった出現だったのだが、


  「……………ルフィ?」


 ここへと引き込まれた時のそのまま。寸劇用の…中世欧州は貴族の世界における、近衛兵の装束をまとったままの小さな少年。これほどのすったもんだを全く知らないままにいたからだろうか、表情も今起き出したばかりですと言わんばかりの、焦点がぼんやりした、いかにも稚
いとけないものであり。その両腕の中へと大切なものとして抱えた純白の翼が、何事かを象徴しているかのよう。それへと柔らかな頬をつけ、すりすりと愛惜しんでいる仕草の、何とも愛らしきことか。そんな彼が、こちらに気づいて。
「…さんじ? どしたの?」
 とろんとした声を出したが、

  「………ゾロっ?!」

 そこにあった情景には…さすがに一気に目が覚めたのか。はっとして表情を硬くすると、速足で駆けて来て間近に膝をついて座り込む。
「何でっ? ねえ、どうして? ゾロ、どうしたんだっ?!」
 大好きな精霊。大切な存在。なのに、生気のないお顔で瞼を降ろして倒れ込んでいる姿は、これ以上はないほどに少年へ衝撃を与えたらしい。自分が何を抱えているのかにも気づかぬまま、その小さな手を大好きな破邪の胸板へと置いて、だが、揺すってもいいものかと困ったようにサンジのお顔を見上げてくる。この頼もしい彼がこうまで打ちのめされているだなんて、余程のダメージを受けているからのことであろうと分かるから。心配だけれど、迂闊なことは出来ないと、2つの想いの鬩
せめぎ合いにあって、どうしよどうしよと慌てて見せる。困ったようというお顔へ、こちらも ついついつられてしまったか、何とも応じられずにいたサンジの傍らから、
「心配は要りませんよ?」
 声を掛けて下さったのが、
「…? 黒須センセー?」
 あれ? なんで?と小首を傾げるルフィであるのへ、いつもの穏やかな笑顔を向けてやり、
「彼はね、ルフィくんのことが心配だったから、それはそれは奮闘して、力を出し尽くして倒れたまでのことです。」
「あ…。」
 自分の身に何が起こったのか。やはり判ってはいなかった彼であったらしく、
「じゃあ、俺んコト狙ってた奴は…。」
 少し向こうで引っ繰り返ってる“召喚師”張本人のことをそういえば忘れておりましたが、ままそれは置いといて。
「もう退治してしまいましたよ。だから、後は彼の回復を待つばかりなのですが。」
 心細いからか、尚のこと きゅうとその腕に抱き締めている純白の翼。それが…ふわりと柔らかな光で点滅を始めて、
「えっ? えっ? 何なに?」
 抱いていた本人こそがギョッとした現象だったが、そんなお顔が…何かを聞き取ったような表情になり、自分の手を見つめ、それをそぉっと。苦しげな表情のままにて眠り続ける大好きな破邪さんのお顔、賢そうな額へと伏せるように乗せて見せる。
“???”
 今度はこちらがキョトンとしてしまったサンジや、どこまで理解が追いついているものやら、ニコニコしたままのコウシロウ先生が見守る中。小さな手が伏せられたお顔が…心なしかじわじわと、苦しげに頬や目許へ浮かべていた険を収めてゆき、
「ん……。」
 小さな唸り声を上げて目許を動かし始めるから、
“…現金な奴。”
 こらこら、サンジさん。何も相手を選んで…最愛の坊やが相手だったからって、速やかに回復した破邪さんだって訳ではなかろうに。
(苦笑) 彫が深くてそれは男臭い目許をかすかに震わせて、ゆっくりと瞼を持ち上げた破邪殿が。絶望の淵からの帰還のその一番最初に見たものは、

  「………ぞろ。」

 琥珀色の大きな眸をまじっと開いてこちらを見やる、心配そうなお顔をした最愛の坊やだったのへ、
「………。」
 大きくて武骨な手のひらが上がり、ふかふかな頬を包み込むようにして撫でて確かめてみる。

  ――― ルフィか?
       そだぞ。俺だ。
       無事なのか?
       おうっ♪ どっこも何ともないぞvv
       そっか。

 薄く、だが、満足そうに笑った破邪の男へ、けれど坊やはちょっぴりとうなだれて見せて、
「あのな、ごめんな。」
 ? 何がだ?と問えば、
「俺ってサ、何にも覚えてないんだもん。ゾロ、凄く頑張ってくれたみたいなのに。俺、ずっと寝てたからさ。」
 ふみみと、困ったようというお顔になる愛しい子供。あれほどの、もはやこれまでかと思ったほどの窮地を彼は知らないということであり、だが、それはそれで構わないと、此処に居合わせた大人たちは、揃って“くすす”と苦笑をして見せただけ。


   「さあ。それでは、学校に戻りましょうか。」


 そうと言い出す黒須先生が何で此処にいるのかとか、ルフィの方にだって訊きたいことはあったらしいが、

  “ま・いっかvv”

 大好きな人たちばかりに囲まれて、中でも一番好きなゾロも、元気になったか“よっこらせ”とばかりに立ち上がってくれたから。もう怖いのが無いんならいいやと、それ以上は聞かないまま、帰ろう帰ろうvvと連呼して、それは明るく笑ったのだった。











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  *後は終章です。もちょっとお付き合いくださいませね?