4
爽やかな秋晴れの下、市立V高校で派手やかに催されていた体育祭もいよいよの佳境を迎え、プログラムはアトラクション色の濃い“借り物競走”へと進んでいたのだが、
「………何だ、こりゃ?」
コース上に置かれてあった封筒の中身。これを借り出してゴールへ迎えという指示が記されている筈のカードには。日本語ではないものが書かれてあった。焦げ茶色っぽい黒で、丸の中に三角や六角が組み合わされたもの。何かの紋のような円陣が1つだけ。こんな…クイズみたいな形での指定になってるとは聞いてないけどなと小首を傾げ、カードの縁を挟むようにして持っていたルフィの右手の親指の先が、何ということもなく…その円陣の縁に触れた瞬間に………。
――― え?
描いてあった模様のそのまま、明るい真昼の陽光を制圧するほど目映い、濃さのある光が力強く吹き出して来たものだから、
「わわっ!」
驚いて放り出そうとしたが間に合わず、カードからその紋様が宙へと飛び出し、何もない中空へ拡大された陣形を描いて………ルフィと向かい合うように進行方向へ立ちはだかった。
「…何なんだよ、これ。」
特撮映画のような不可思議な現象が、すぐ目の前にて起こって。一連の展開を体験したルフィのみならず、周囲に駆けつけていた他の生徒たちまでが、ギョッとするとその場に立ち尽くしてしまう。
「…幻とか?」
「蜃気楼?」
「ルフィ、何だそりゃ。」
「俺も知らないってばっ。」
CGを駆使した“特撮ドラマ”なんぞではお馴染みな現象だが、それはあくまでもフィクションだから。水銀で描いた図形が、何の支えもないまま宙にゆらゆら浮かんでいる…だなんて現象に立ち塞がられ、異常事態が起こったらしいと、担当の執行部の生徒や先生方が駆け寄って来かけていたが、
「ひゃっ!」
陣形が。その動きを目で追うのも難しいほどの素早さで、一瞬でしゅっと窄すぼまったそのまま、ルフィの胸元へと弾丸のような勢いで飛び込んで来た。質量があるとは思えないような“それ”は、坊やの着ていた体操着の懐ろへと飛び込むと、そのまますうっと解けて消えて………。
◇
この異変を一番最初に察知し、そのまま迅速に動いていたのは、言うまでもなく…例の二人で。封筒からカードが抜き出されたと同時に、それへと呼応するかのように不吉な気配がどこやらにか沸き起こったことを嗅ぎ分けた彼らであり、
「おいっ、結界だっ!」
「判ってるっ!」
他でもないルフィへ向いた脅威の気配があると察知した上での、一応の警戒はしていたものの、こんな真っ昼間の、しかも衆人環視という場で動きを見せようとは、正直 思いもしなかったものだから。依然として見ず知らずの対手の、あまりの大胆さへ舌打ち混じりに立ち上がったそのままに、まずはサンジが素早く“印”を切っている。額から頬へ ぱさりと流れる金の前髪の下、宝石のような透明感のある青い虹彩を浮かべた目許をきつく眇めて。ジャケットは脱いだ軽装のまま、立ち上がりながら胸の前、その白い指を様々に、伸ばしたり拳にしたりしながら何度も組み合わせ、且つ振り回し、風を切るほどの鋭い動作でもって宙空を裂いてゆく。すると、
――― ぱ・んっ!
すらりとした立ち姿の彼を中心にした随分と広範囲一帯の大気が全て。一瞬 収縮の気配に震えてから、弾かれるように外へと一気に膨張し はち切れる。常人の目には見えない、だが、強力な“結界”が、瞬時に力強く広がって。自分たちと対象だけを囲い込み、外界との“次元境界”を区切って隔離している。
「時空への“合”を張った。心置きなく暴れていいぞっ!」
「おうっ!」
数ある結界の中、単なる頑丈な壁や仕切りではなく、複雑な咒が絡み合って形成される特殊な空間障壁。これを…仰々しい儀式も構えず、やたら長い筈の咒も唱えず、方術用の陣を描きもせず、たった一人の手腕にて瞬時に立ち上げられるだけの技量を持つ者は限られており。その点では、さすが“聖封”という仕儀ではあったものの。
“楔クサビを持って来るのを忘れたな。”
結界を固定するための楔がないので、仕方がない、自分が“標”になるかと。サンジは…自分の胸の前に両の手のひらを上下に重ねかけつつ、見えない何か球体をそっと抱えているような形に保ったままで、じっと動かなくなった。今まで彼らがいた、普通に時間が流れていた空間から、微妙な間隔でズレた別の次界。そこへと隔離された自分たちと、そしてルフィと。トラックのコース上だった辺りに とさんと倒れ伏した小さな少年から視線を外さぬまま、翡翠の眸をした破邪の男が俊敏な動きで駆け出している。精悍な顔容のよく映える、頑強で雄々しい肢体が野生の豹のような俊敏さで躍動しており、シャツの袖をまくり上げた頼もしい腕を頭上へ振り上げ、
「来やっ!」
その大きな手へと呼び出したるは、彼の分身でもある白鞘の和刀。ゾロの強靭な気魄や集中力をそのまま帯びたる“和道一文字”という銘の精霊刀で、負の毒気に染まって迷い出た陰体への“浄封滅殺”という彼の役目に、最大の効力を発揮する武装であるのだが、
「………っ。」
凍るような光を帯びた刃を鞘から抜き放った彼が、すぐ間近にまで辿り着いたその相手。カードから浮き上がった怪しい咒陣に、懐ろへと飛び込まれてしまったルフィはといえば。不意な攻勢、得体の知れないものに飛び掛かられた勢いに とんっと押されるようにして、向背へとたたらを踏んで尻餅をついたまま、その場へことりと倒れたところまでは見やっていたが、
「ルフィ?」
意識があるのかどうかも判然としないままに、ぱたりと体を横へと倒して倒れ込み、そのまま…まるで胎児が母親の胎内で眠っているかのように、体を小さく丸めてしまうルフィであり。そして、
「………っ!」
彼の丸まった体の周辺から、しゅんっと勢いよく渦を巻くようにして、砂混じりのつむじ風が沸き立ったかと思うや否や、その旋風が坊やの小さな体を包み込み、あっと言う間に…その場から彼の気配を呑み込んで掻き消してしまったから。
「な…っ。」
ゾロがぎょっとしたのは言うまでもない。間違いなく見つめていた坊やの姿が、その視野から掻き消えたのだ。サンジの念じにより形成されたこの強固な結界の中から外へは、そう簡単に出ては行けない。術者を倒すか“印”を解くか、どっちにせよ 大きな力と巧みな咒とをねじ伏せねばならず、
“何処へ…。”
同じ空間の中に依然として居るには違いないながら、誰が何が彼を攫って行ったのか。正体が見えないだけに、そして坊やをまんま連れていることとなっているだけに慎重に、息を飲んで辺りへと注意を配るゾロの感応器へ大きな衝撃が飛び込んで来た。そちらへと向き直ったゾロが、そしてサンジが見たものは、
「あれは…。」
「獣魔?」
一番恰好が近いものをと言うなら、ギリシャ神話に出てくる“ミノタウロス”という怪物であろうか。先が鋭く研ぎ澄まされた太い角を生やした雄牛の頭に、びっしりと全身に体毛をまとっていながら…人間のような直立を可能にしている、がっつりと雄々しい肢体。そんなアンバランスな姿をした化け物が、目には見えない壁に立ち塞がられ、どうしたことかと唸りもって怒り猛たけっている。結構上背があるゾロの倍はありそうな体躯をしており、頑丈そうな角を“合”の障壁へとぶつけている。何とかならんかと正に力押しでかかっていたそれが、血走った眸を肩越しにこちらへと向けて来た迫力は大したものだったが、
「…ルフィはどうしたんだ?」
素朴な疑問。その怪物しかいない、そやつだけが現れたことへ、ゾロがやや戸惑って見せる。妖魔に限って言うと、基本的に…姿が獣に近い者はそれだけ知恵が薄い。体力や牙・爪を行使することで永らえて来れた身に、複雑繊細な知恵は必要ないから発達しないという理屈であり、そんな手合いが坊やに襲い掛かったとして…食ってもないままに手放すというのは、どこかに理屈を置き去りにしているような不整合感がある。
“坊主の気配はあるのにな。”
大切な対象へ“食ってもない”とは何とも物騒な表現だが、こういう低能な魔獣が相手だとまずはそれを案じなければならないのがコトの順番であり、生命の気配を摘み取られた喪失感がない以上、この空間内の何処かにいる筈なのだがと、サンジもまた、怪物よりもそちらをまさぐる方へと意識を振り向けていたのだが。
“………っ!”
さすがは坊や専任の守護だけに、気づいたのはゾロの方が早かった。確かに…細い細いそれながら存在を示すルフィの気配はまだあって。それは選りにも選って、
“こいつの中だとっ?!”
くどいようだが食われた訳ではない。頭から齧るのみならず、生気を奪ったり霊体を吸いとったりといった、自身の内へ…新たな力の増強を目論んで、取り込んで消化してしまうための“吸収”ではなく、
「坊主を“寄り代”にしてやがる。」
先程ルフィの懐ろへと飛び込んだ円陣が“連結の楔”になっているのが、サンジには分かる。咒の力でルフィ本人の意思を封じ込めた上で、その身へこの魔獣を定着させようとしている術を仕組んだ者がいる。こっちの世界での手の込んだ段取りが必要なこと故に、たった今 召喚されたばかりな低能獣のこやつが自分で仕組んだ仕儀である筈はなく、
“そうか。先日の罠は…。”
机の中に刃を開いたハサミが仕込まれてあったという物騒な罠。楔の結合を強化するため、その円陣を描くための素材に、ルフィ本人の血を必要としたということか。しかも、
“俺が追ってた召喚師だってことかよ。”
人間の手による…しかも極限まで感情を殺した仕儀へは、サンジのずば抜けた感応能力や探知能力でさえ当てにならなくなる。修養を積むからこそ操ることが出来るようになる力なだけに、腕が立つ手合いであればあるほど意識を集中出来るようになり“消気”のテクも上がるため、結果、察知出来ない手合いと化してしまう始末の悪さであり、
「ゾロっ!!」
こうなっては…という訳でもなかったが、相手の正体を突き止めるという自分の側の都合は後回し。破邪殿の力技に任せ、坊やを救うことに専念させようと叱咤の声を飛ばしたものの、
「………。」
どういう訳だか ぴくりとも動かない…相棒の大きな背中に、サンジはますます怪訝そうな顔をする。濃色のシャツに黒地のワークパンツという、いかにもざっかけない普段着に包まれた強靭な肢体が、何かしら恐ろしいものに射竦められたかのように、堅く凍りついてしまっているものだから、
「…ゾロ?」
どうしたよと訊いたとほぼ同時、その前方へ正眼の構えにと据えられていた精霊刀の切っ先が…ここからでもそれと判るほど気を萎えさせてだらりと下がってしまったのには、
「おいっ、何してやがるっ!」
初めてだろう種の驚愕を覚えさえしたサンジでもある。間違いなく“敵”を前にして、こうまで戦意のない彼というのも初めて見るし、
「しっかりしなっ! ルフィを助けたくはないのかよっ!!」
他でもない、あの坊やの危機だというのに。かつて、あの暗黒の大妖魔“黒鳳凰”に攻め立てられたギリギリの死闘を揃って掻いくぐり、その絆の強さ深さをますます高めた彼らであろうに。自分がわざわざ言うまでもなく、何をおいてもという順番で大切な存在になっている彼らであろうに。なのに、一体何を挫けているかなと、信じられない相棒の腑抜けぶりへ吠えるような怒号を放ったサンジだったが、
“…まさか。”
戦意を喪失しているその背中へ、いやな予感が沸き起こる。もしかして…初めての戸惑いに襲われての行動ではなかろうか。
“日頃からあんまり考え込まねぇ奴だったからな。”
冗談抜きに。本能や勘をだけ優先しているのではなかろうかという素早い判断の下、精霊刀を迷いなく一閃して邪妖を片っ端から封滅して来たゾロ。自分の力…馬力のみならず能力をも含めた凄まじい攻撃力を…他でもないルフィへと向けることに対して、恐らくは初めて躊躇している彼ではないのだろうか。
「しっかりしないかっ!」
結界の保持のため、身動きがままならない自分の身が恨めしい。こんのクソマリモがと蹴り飛ばしてやりたい気持ちが暴発しないよう、くうと息を飲んで感情を抑えつつ、
「精霊刀は人間を斬れはしないと、誰よりお前が知ってることだろうがよ。」
正確には、持ち主の意志以上にも以下にも働かないのが、彼ほどの者が操る“精霊刀”の性能であり、負の陰体をのみ爆発的なパワーでもって浄化封滅するのがこの刀の役目。寄り代として取り込まれたルフィの身を案じているゾロであるらしいが、むしろ生身のままに盾にと かざされている方が効果はあったかもしれないほどに、持ち主が対手をどう思っているのか、そんな意志に添って思い通りに働く筈の武器ではなかったか? この期に及んで一体また何を戸惑っているのだと、ゾロの信じられない反応へそれを揺り動かさんという勢いの鋭い声をかけたサンジであったが、
「…お前こそ忘れたのか?
ルフィは、天聖界への行き来が出来る身になってたんだぞ?」
振り向きもせぬままに。相棒からのそんな声が返って来て、
「な…っ。」
サンジが思わずのこと、息を呑んだ。つい先の夏休み、ルフィは初めて彼らの故郷である“天聖界”へとその身を運んだ。厳密に言うと“二度目”であったが、一番最初の来訪は大邪妖に取り込まれての移動であったがため、それが可能な坊やなのだとはそれまで誰も気づかずにいたのであって。そんな事実を体感したばかりなゾロが、今の今、不安に感じたのは…恐らく。障壁を通過出来る身となったルフィには、人に働かぬ筈のこの精霊刀が食い込みはしないかという気弱な恐れ。何とも判りやすい奴だよなと、内心にて舌打ちしつつ、
「こんの馬鹿野郎がっっ!!」
本気で蹴倒してやりたくなっている衝動を身の裡うちへ必死で押さえ込みながら、サンジが腹の底から絞り出した思い切りの大声にて一喝する。
「何ぞに目覚めたからといって、
根本的な素養の種類まで組み変わりはしねぇんだよっ。」
例えば、絶大な守護能力を持つ“聖護翅翼”を広げられるほどの、神格的存在である“浄天仙聖”に目覚めたゾロ自身にしてもそう。単なる天聖界人以上の能力が覚醒しはしたが、だからと言って別物の“超越者”になった訳ではない。そんな理屈も判らんのかと、ぎりぎりとしたままにどやしつけ、
「ルフィが天聖界に居られるのは、黒鳳凰の“筺体”だったからだってか?
だとしても元からの性質だろうが、その刀による影響は受けまいよ。」
「だが…。」
刀の柄を堅く握り締めたゾロの拳が、少なくはない躊躇によって震えてさえいるのが判る。サンジから言われるまでもなく大切な存在であるからこそ、滅多なことをしたくはない。ルフィの髪の一条だって傷つけたくはないからと、この男が…恐らくは生まれて初めてだろう、事を成す前から怯んでいる。
「自覚のないままに何かに目覚めていたとしても、だ。
これまでお前が毎日のようにかけて来た護衛咒に
ちゃんと守られてる坊主だから大丈夫なんだよ。」
ああもう、これだから日頃から理屈を使いつけてない奴は始末に負えんと、地団駄を踏みたくなりつつ、それでも辛抱強く説得を続ける。
「いいか? ルフィの意志は封じ込められてる。
坊主の意志も霊的能力も無事なままだ。
それは、その牛野郎の能力では凌駕も制覇も出来なかったって事だ。
他者からの干渉を受けないよう傷つかないようにと、
とっさの自己防衛が立ち上がった結果なんだよ。
ルフィにかかってたお前の咒が働いて、自身への封じをかけてるって事だ。」
それこそ自分の専門分野なだけに、喉をも裂けよと大声で言ってのけてやり、
「これでも動けん腰抜けとはな。ルフィも とんだ奴に命を委ねてたもんだぜ。」
こんな時ではあるものの、こんな時だからこそ。お得意の毒舌にて煽りつけるような言いようをしてまで、ゾロの奮起を促したサンジであり、
――― …っ!
大きな背中のその持ち主が、その大きな手に ぐっと刀の柄を握り込み、意を決して全身へ力を漲みなぎらせたことへ、やっとのこと息をつく。叱咤激励にも手間暇のかかる不器用者。いやいや、単純明快な奴だった筈がこうまで慎重になるとはと、その変わりようへこそ吐息をついてしまったサンジであり、
“中途半端な野郎に成り下がってんじゃねぇよ。”
狂ったように血走った双眸と、唸りもって口角へと泡を吹き上げている興奮ぶり。ただならぬ殺気をこちらへと据えている大きな魔獣を前にして、そいつ自体へは毛ほどの脅威も感じぬまま、サンジは…結界を保持しつつ、雄々しき相棒の勇姿を見守ることへとその意識を切り替えたのだった。
←BACK/TOP/NEXT→***
|