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この建物へと侵入してから、実のところ、さして時間は経っていないようだった。裏口の傍らにはあの熊男がまだ伸びていて、埃っぽい夜陰の空気が、それでもあの、何か澱んでいるようで胡散臭かった室内よりは、遥かに爽やかで頬に涼しい。内ポケットから掴み出した煙草を咥わえ、長い前髪の陰で伏し目がちになってマッチで火を点ける。最初の一服の紫煙を溜息のように吐き出しながら、振り消したその軸をピンと弾きつつ、ついと確かめるように見やった先。連れの逞しい腕の中には、まるで赤ん坊みてぇに毛布でくるまれた大切な宝物。媚薬のせいで夢うつつなのだろう、起きてはいるが意識はないようなものだ。何も知らないまま、赤ん坊のように機嫌よく薄く笑って懐いてくるルフィに、この男がこうまで黙っていて反応がないというのは何か訝おかしい。たとえ一時的とはいえ、自分の知らないところでこんな扱いを彼が受けたことを、他の誰でもない、まずは自身に許さないほど怒っていい筈で。後々で何かの折にルフィ本人から訊いたのだが、実はこれより以前に、マニアな野郎の手によって、やはり"薬物による拉致"という危機に見舞われたことがあったというから、この時の奴の臓腑は、煮え繰り返るどころじゃないくらい、怒りに震えて引き吊った上で肌の上から触っても分かるくらいの激しさで、のたうち回っていた筈だ。
―――(しゃりんっっ)
聞いただけなら何とも涼しげな、質のいい金属音。だが、慣れてるこっちとしては、聞いた途端に、
"…う。"
背条がひんやりするよな嫌な予感もした。シビアに思い詰めてる時のこいつの迫力には、口惜しい話だが、こっちもよほど盛り上がってない限りは太刀打ち出来んぜ、まったく。ま、何だかんだ言ったところでもう遅いし、はっきり言って止める気とやらもさらさらなかった俺なんだが。
「どいてな、エロコック。」
「な…っ。」
その口利きには反射的にむかっと来もしたが、こちらを見もしない奴の横顔の、冷たいまでの頬の線の堅さが、不覚にも俺を黙らせた。無言のまま、少しばかり脇へと身を譲る。こいつが何をしたいかは、薄々気がついていたからな。抜いた刀は一本。ゆっくりと振り返り、それを頭上高く構えると、
「………っ。」
特に気合いの声を込めもせず、だが、凄まじいまでの殺気だけは籠もった一閃が、辺りの空気を大きく撓たわませた。そして、
「行くぞ。」
何事もなかったかのように、刀を腰の鞘に収めて、すたすたと歩き出す。勿論、何事も…なかった筈はなく、
―――(ぴしっっ)
古ぼけた建物の無表情な壁。そこに、内面の重力均衡が崩れて、表面の張力が対抗出来ず、バランスを崩した歪みが目にも見える形になって現れた。…早い話、すっぱりと壁ごと切り裂かれた建物が、無愛想な窓ひとつない壁一杯に、それはきれいな放射状のひびを刻まれたそのまま、
―――(かかっっ、どがずかっ、ずがん、どかっっ…!)
めりめりと崩れながら、ばきばきと粉砕しつつ、土砂埃を上げまくりの、瓦礫の滝が落ちまくりので、弾けるように一瞬にして崩壊したもんだから、
"…あ〜あ。"
いつ見ても見事なもんだ。特殊な刀や怪しげな魔法、悪魔の実さえ使わない、生身の体で岩も鋼さえもぶった斬れる剣豪。仲間であることがちょっとばかり誇らしいような、末恐ろしくて迷惑なような。だがまあ…気持ちは重々判るしな。
"怒らせた相手が悪かったよな。"
追ってくる埃を避けたがために、最初に回り込んだ時より大外回りに遠回りをする格好で表通りへ出た途端、そのカジノの正面へと野次馬たちが向かってる、にぎやかな人の波にかち合った。まあ、滅多に見られるもんじゃねぇわな、確かに。
「な、なんだ?」
「ガリスタさんトコのカジノじゃねぇか。」
「どした、何だ?」
前触れも爆音もなく、いきなり崩れ去ったカジノだということで、抗争事件か、はたまた事故か、それとも恨みの心霊現象かとおいおい、なんだなんだと見物人が集まってくる。そんな人波に逆らうように、無言のまま幾らか歩を進めて、
「おい。」
「あ"?」
仲間にまでまだ尖っている剣豪へ、ポケットからつまみ出した金貨を親指の先でピンと弾いて放って渡し、
「そこの路地の奥にあいまい宿がある。俺はこれから1時間ほどどっかで時間を潰してくるから、お前はその間にそいつを落ち着かせて来い。」
「…なっ。」
普段の会話の中でも"ぴきっ"と熱いきり立つネタ。憤慨を通り越して、先程、カジノを叩き斬ったお怒り再びとばかり、冷ややかな炎のような闘気が静かに燃え立ちかけたが、
「四の五のは言わせねぇぜ。」
こっちだって冗談で言ってるんじゃねぇんだ。ちょっとばかしキツク構えた仏頂面を向けて、火の点いたままな煙草の先をビシッと差し向けてやる。
「いくら時間が経てば薬の成分は代謝するったって、そうまで盛り上がっちまったもんがそうそう落ち着けはしねぇってことくらい、お互い"男"なんだから判るよな?」
「う…。」
あまり回りくどい言い方は避けたんで、こっちが何を言いたいのか、バカ剣士にもすんなりと通じたらしい。言葉を詰まらせる奴へ、俺は畳み掛けることにした。
「一応、他の皆は宿に居るが、ロビンちゃん辺りはまたぞろ姿が見えなかったからな。もしかして船の方に居るのかも知れん。だから…あいまい宿で我慢してもらう。それから改めて船へ戻れば良い。」
至って真面目、真剣そのもの。どんな絶世の美人をナンパするんでも、こうまで決めた顔を作ったこたあないぜ? 今までによ。おいおい
「何とかしてやらにゃあ可哀想だろが。これは言わば"応急処置"だ。俺もあとあと冷やかしたりしねぇって約束する。だから、な? 助けてやれって。」

――― さて、一夜が明けて。
「だからさ、崩れたその瞬間をたまたま宿の窓から見てた奴がいたらしくてな。剣士が刀一本で、一瞬で、その大きなカジノを粉々に切り裂いてぶっつぶしたんだって。そんなこと出来るのって、ゾロくらいのもんだろ?」
「俺も聞いたぞ。町中の人があちこちで話してた。」
こちらは純粋に宿での宿泊のために上陸していた組のウソップやチョッパーが、船へと戻って早々、町で朝から持ちきりだというその話を伝えてくれた。
「でも、ゾロは昨夜は船に居たんだろ? ルフィと一緒に。ってことは、ゾロみたいな剣士が別に一人、この町にもいるってことか?」
「う〜ん。そうそう居るとは思えねぇんだがよ。」
その辺りが曖昧で唸ってしまう二人へ、
「下んねぇ話を朝っぱらからけたたましく並べてんじゃねえよ。」
こちらも宿へは姿を現さなかったシェフ殿が、サービスよくカフェオレを二人に出してやる。
「だってよ、サンジ。」
「第一、被害を受けたっていう当のオーナーは、ただの老朽化の事故だって言い張ってんだろ?」
「う…ん。」
それも腑に落ちないんだよなと小首を傾げる二人から離れ、キッチン前のデッキで海を眺めていたナミへとマグカップを運ぶ。
「おっはようございます、ナミさんっvv」
「おはよう、サンジくん。」
「ロビンちゃんはどうしました?」
「さあ。一緒じゃなかったから、またどこかで何か調べものかもね。出港時刻は言ってあるから、じきに帰って来るわよ。」
あっさり応じて、だが、
「…で? どうなのよ。ホントにゾロの仕業じゃないの?」
口許へ運んだカップの陰からぼそっと訊く。
「はい?」
「惚けないでちょうだい。あんなことが出来る馬鹿剣豪がそうそうあちこちに居る筈がないわ。さっきサンジくんが言ったような流れになってるから、その件で此処の警察が動く気配は無さそうだけれど。」
実を言えば、動かれてもさして支障はない。何たって…そんな小さな事件の前に6000万ベリーの賞金首。警察どころか海軍本部が行方を追って動いているほどの身の上な彼らであり、まあ、足跡を徒に残す運びに成りかねないお馬鹿は控えた方が良いのだが、
「あんな、半分素人みたいな程度の雑魚相手に本気で刀を振るうなんて、よくせきのことなんでしょう? 一体何があったの?」
事情があるなら聴きましょうと、彼女にしてはなかなか寛大な構えでいるらしい。
「大したことじゃありませんて。」
「う・そ。サンジくん、アタシに嘘つく時は、殊更輝かんばかりに笑うからすぐ判るのよ?」
途端に口許を両手で"ババッ"と、覆うようにして隠したサンジが、
「うう"。…ホントっすか?」
たじろいだところへウィンクを1つ。
「う・そ・よvv」
………さりげにいちゃついてませんか、この二人も。
「ガリスタだっけ? そのカジノのオーナーが被害届けを出してないなんて事、なんで知ってるサンジくんなのかしら。どうしてわざわざ調べる必要があったの?」
「うう"…。ナミさん…。」
さすがは女だてらにこの海域での"海賊"を張ってるだけのことはある。頭の回転の早さは誰にも負けやしないわよというところか。それとも、それだけ判りやすいシェフ殿だということなのか。
「内緒にしときたいなら黙っててあげるわよ。どうせまたルフィがらみなんでしょう?」
「…何でそこまで判るんです?」
あまりに何から何まで"お見通し"なことへ、どこか恨めしそうな顔になるシェフ殿へ、美人航海士は悪戯っぽく笑って見せて…こう言ってのけたのだった。
「サンジくんがゾロを庇う筈ないもの。」
*
「おう。」
ノックの音に応じたのは剣豪殿の響きの良い声。一眠りしたお陰様でか、やっと元通りの彼に戻ったらしい。
「おっす、モーニングサービスだぜ。」
なめらかにドアを開き、肩辺りへと掲げ持って来た、コーヒーとカフェオレをそれぞれ満たしたカップの載ったトレイをサイドテーブルへ乗せてやる。船倉の部屋は朝っぱらからランプを点けねばならない暗さだが、通廊の蓋扉を開け放ってあるので、流れ込む空気は幾分か爽やかだ。
「…あれ? 奴はどうした?」
室内では、ゾロがベッドの上、肘をついて頭を支えつつも横になっているだけで、もう一人の住人の姿がない。
「何だか寝過ぎでかったるいんだと。見晴らし台までひとっ走りして来るって、さっき飛び出してったぜ。」
このシェフ殿を相手にくすくすと笑うところを見ると、いっそ不気味なほどに機嫌も良いらしい。そりゃあ良かったなと、やや複雑そうに笑い返して、
「"被害"の方は心配いらねぇぜ。」
サンジはぼそっと口にする。
「んん?」
カップを手に身を起こしたゾロが目顔で"何のことだ?"と訊くと、
「ルフィを捕まえてからは、一応はそれなりの…役人が来る訳だからってことで、商売で使われてたお姉さんたちやら坊やたちやら、きれいどこはみんな、臨時休業させられてたんだと。だから、あの建物の中には欲の皮が突っ張ってた野郎どもしか居残ってなかった。しかも、悪運強くってのか、ちょろっと擦りむいた程度の怪我人しか出てないらしいし、奥で“逃げ遅れてた”経営者や幹部連中も命だけは取り留めてるって話だ。」
その事実にへか、それともわざわざ伝えてくれたサンジへか、忌ま忌ましげに舌打ちをするゾロだが、それへこそ"くつくつ"と愉快そうに笑ったサンジである。
「突っ張るなって。案外そういうの気にする性分たちだろが、お前。」
「余計なお世話だ。」
昔は…人斬りであった頃はそうではなかったろうに、これも船長からの感化というものか。そんな彼らのいる船倉にまで聞こえるほどの、
「腹減った〜〜〜。サンジ、飯まだか?」
あっけらかんと元気元気な声がして、双璧たちはついのこととて目線を合わせると、くつくつ笑いが止まらないという顔になる。
「さってと。朝飯にするかな。お前もとっととキッチンまで来いよ。低血圧で飯が食えんだなんて、ベタな言い訳は聞かんからな。」
「判ってるよ。」
この二人がこんなに穏やかに仲が良い図というのは、もしかして物凄く珍しいのではなかろうか。明日にも嵐が来なきゃ良いけどねと、それこそベタな事を言いつつ、今回の騒動、これにて終幕。
〜Fine〜 02.4.21.〜4.25.
*カウンター23000HIT リクエスト
岸本礼二サマ『町ひとつぶっ飛ばすくらい怒ったゾロ』
*執筆前に岸本サマから頂いてしまった、らぶりぃ船長イラは こちらvv
*執筆後に岸本サマから頂いてしまった、迫力の剣豪イラは こちらvv
*町を吹っ飛ばすというのは、
町ぐるみの悪さというのを想定せねばなりませんので、
すいません、この程度の規模となりました。
その瞬間にルフィは意識がなかったも同然でしたので、
例の『鍵』で妖精さんに自慢したのはこの一件では無さそうです。(笑)
ゾロが"こ〜れは怒ってるなぁ"とありあり判るほど激怒するだろう、
いわゆる"逆鱗"というやつは、
きっと彼本人にまつわることではなく、
ルフィに何かされるとか言われるとかだと思います。
で、一番候補の
"何も知らない小者バカに、ルフィの野望ゆめを嘲笑される"は、
なんと原作者様が本誌で展開させて下さったそうなので、
二番候補、卑劣な手段で捕らえられてしまう…を使ってみました。
でもこれって、確か、やっぱり同じ岸本様からのリクだった
『赤ずきんちゃん、ご用心』で使ったことがあるような…。
進歩のないMorlin.をどうかお許し下さいませです。
(しかも、顰蹙の"裏もどきオマケ"まであったりする…。
→『不思議な"もどき"』へ)
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