月夜見 虹のあとさき”A


         3

 きちんと整備されてはいないが、それでも一本道だ。船まではせいぜい30分もかからずに戻れる筈だった。だが、
"…あ、こりゃやばいかもな。"
 鈍色の空はどんどん暗さを増し、辺りの空気も心なしか生暖かい温気を帯びていて、途中でとうとう強い雨がざっと落ちて来たから、
「参ったなぁ。道どころか前が見えんぞ。」
 それでなくても方向音痴だし。
“うるせぇよ。”
あっはっはっ
 足元の地面や周辺の景色を全て銀色に弾いて塗り潰す雨脚の強さは、正に“篠突く雨”というやつだ。行く手を遮られ、已なくの雨宿りをすることにした。幸い、
「…こりゃあ丁度いい。」
 少し先に、蔦のような草の蔓が何本も垂れ下がってカーテンのように入り口を半分ほど覆った洞窟が見える。依然として何かを怖がって足の重いルフィを半ば抱えるように、その洞窟まで急ぐ。雨に重く湿けった砂利を蹴立てて辿り着いた洞穴は、中はまだ乾いていて過ごしやすい空間になっていた。来る時は気がつかなかったが、あの祠からの道なりにあったことからして、ここも島を訪れた人々が休憩する場にと使っていたのかもしれない。
「ほら、もう大丈夫だ。中、入るぞ。」
 しがみついたままのルフィに声をかける。すっかり口数も少なくなって、彼自体に何か憑いたのではなかろうかと思えるほどの強ばりようだ。薄暗がりの中、灯火がないためあまり奥へは入らずに、入り口から湿気の来ないぎりぎり手前辺りに腰を落ち着ける。装備していた刀を抜いて傍らに置き、しっかとしがみついたままなルフィを膝の間へ抱え込むような格好になり、最初のうちこそ、腕に巻いていたバンダナを解いて雨に濡れた帽子や髪をぬぐってやったりもしていたのだが、周囲の静寂に気づくと不意に自分の鼓動が気になった。息を飲む音さえ容赦なく響きそうで、勢いのある雨音が間断なく聞こえてくるのがゾロにはむしろ幸いだった。
「………。」
 怯えからすっかり強ばっているが、それでも撓やかな肢体をしている。まだまだ少年、悪魔の実の特性がなくたって充分伸びやかな体格の年頃であり、そんな彼が時折身じろぎをするたびに、シャツを通してこちらの胸板へ柔らかい肌や温みが擦れるのがどうにも心臓に悪いと感じるゾロである。そんなルフィとは正反対に、ゾロの方は身体中が無駄なく鍛え上げられたそれは逞しい体格をしていて、それでも暑苦しいものでないのは、実用に即した強壮な筋肉の撓やかさが全体の印象をシャープに引き締めているからだろう。全身に傷が絶えず、殊に胸板には大きな刀傷。かつて世界一の大剣豪と立ち会った時につけられたもので、全治2年だった代物だのに2週間ほどで治してしまった恐るべき人物でもある。…いや、そんなことは今は関係ない。
「…っ!」
 かかっという音が聞こえて来そうなほどの鮮明な稲光が閃いて、すかさずパリパリパリ…と穹
そらを引っ掻くような、何とも言えない雷の摩擦音が辺りに轟く。空はどんどん暗くなり、雨の勢いもひどくなりで、
「イヤだっ、船へ帰るっ!」
 それまではただただ頼ってしがみついていたゾロの胸元からさえ、立ち上がって逃げ出そうとするルフィに気づいて、
「落ち着け、ただの雷だ。」
 咄嗟に肩を掴んで座り直させる。これまではゾロさえ傍らにいれば、どんなに怖がってもやがてはそのまま眠れるほど落ち着いてくれたものが、
「違うっ、何か居るんだってっ!」
 今日はどうにも様子がおかしい。これはやっぱり本物の、何かしらの祟りがあったということか? 純和風…という言い方がこの世界で正しいのかどうか、物質優先な西の世界に比べれば、今だ神秘と伝説が息づき、修養を尊ぶ東の世界の生まれにして、精神的な修養も積んでいる筈のゾロは、だが、極端なほど現実主義者でもあって、そういう不確かなものには関心が薄い。何に怯えているのかは知らないが、怖い怖いという思いつめが嵩じて半ばパニック状態になっていてのこと、目の前にいるそれが誰だという見分けも恐らくはついていないルフィなのだろうというのは判っている。だが、ゾロとしては自分の守りからさえ逃げ出そうとしている彼であるのが、何だか無性に居たたまれない。
「帰るっ!」
 幼い子供が駄々をこねるように、そればかりを言って聞かない、そんなルフィに手を焼いたゾロは、
“…チッ!”
 二の腕を掴んで、一旦、その小さな上体を真っ直ぐ引きはがし、大きな手で前髪を掻き上げてやりながら顔を上向かせた。その拍子に彼の麦ワラ帽子が軽い音を立てて背後へ落ちたが、今は構ってはいられない。ややもすると少々荒っぽく扱われて、息を呑んだ小さな顔を視野の中に認めると、

 「………っ。」

 触れるだけのものでは済まなかった。思っていた以上にやわらかで脆そうな感触が、一瞬、男としての嗜虐的な感情を煽ったからだ。位置をずらして咬みつくように二度三度と貪った後、その狭間へ割って入るところまで衝き動かされかけたが…そこは何とか思い留まれた。いくらストイックそうな、加えて言えば心の奥底に面影が住んでる女性が一応はいるよな剣士殿でも、この時代の十九歳と来れば女性経験の一度や二度くらいはあるだろう。まさかに“慣れて”こそはいなかったが、それでも無難にこなせたようで、口唇を離してしばしの間…自分の身の裡の興奮も抑えようと間合いを取りたくてぎゅっと抱き締める。それから、こちらからこそ逃がさぬようにと肩から背中から掻い込んでいた腕をゆるめ、そっと覗き込むと、
「…。」
 何だか焦点の合っていない顔でいるルフィで。荒療治過ぎたかなという懸念を意識しかかったが、
「…今のキスって言うんだろ?」
 ぽつりと呟いた。
「ん。知ってたか。」
「うん。」
 驚いてだか何でだか、ルフィのパニックの方も一旦は引っ込んだようだった。
「けど、これって女とするもんじゃないのか? サンジが言ってたぞ。」
 あの野郎、余計なことばっか吹き込みやがって…と胸の裡でちらりと思ったが、ゾロは出来るだけ平静を装った。そして…殊更に静かな声で、
「違うな。好きな奴とするもんなんだ。」
「…好きな奴?」
「ああ。」
 かすかに潤んで見開かれていた黒耀石のような眸が、ふと、
「………。」
 こちらからの眼差しを避けるようにうつむいた。理解できなかったか、それとも理解できて避けたのか。後者の方かも知れないなと少しばかり落胆気味に感じたゾロだったが、それで当たり前なんだから仕方がない。自分だって、この彼と出会って一緒に過ごさねば思いもつかなかった代物で、何でこの彼にこうまで執心な自分なのか、今もって判らない。過ぎるほど大胆な行動力と、いつか折れやしないかと心配になるほど真っ直ぐなココロ。強かな海賊というより、鮮やかなまでに透き通った魂をした、奇跡の塊りのような少年。突拍子もない駆け引きをこなし、一気呵成に敵をたたんでしまう爽快さと、ややもすれば面映くなるような正道を、だが、胸を張って言ってのけ、通してしまう底力の逞しさ。そんな彼と数々の試練や修羅場を乗り越えるうち、理解が深まり、息の合う一体感を嬉しく思うようになった。それらが積もり積もって…いつの間にやら惹きつけられてしまったらしく、もはや引き返せない自分に気がついた。片時も離れられないほどに冒されかけている。目が耳が彼の姿や声や挙動を追い、それでいて視線が交わることを恐れてもいる。自分が何を言い出すか、何をしでかすか判らない。一日が何とか無事に幕を下ろし、すやすやと眠る彼の傍らに身を横たえることへの甘い苦痛にも、そろそろ限界を感じつつある。こればかりは、もうどうしようもない。判っているのは、このままでは取り返しがつかなくなるということだけ。膨らみきったこの感情が堰を切ればどうなるか。単なる同性同士の懸想では済まず、人斬りの汚れた手で一際無垢な彼を無残に穢
(けが)して壊してしまうかも知れない。大切なものとしてのいたわりよりも、獣の欲望でずたずたに蹂躙し、人としての欲望から何処へも行かぬようにと縛りつけ閉じ込めてしまいそうで。しかも、それによる彼の痛みより、己の醜さの暴露の方を恐れている自分の浅ましさに気づいてしまい、何とも苦々しくてしようがない。かと言って、ただ避けて回るだけというのにも、今のままの船上生活では限界がある。船から降りるか、さもなくば、そうなる前にいっそ手酷く拒まれてしまえば楽かもしれないと、この頃ではそうまで思うようになってもいるゾロだった。だから、今のは…告白というよりは捨て鉢な自暴自棄。これで忌み嫌われても構わないと、そんな気分で口にしたこと。だのに、やっぱりひりひりと胸が痛んだ。そんな自分がちょっと情けなかった。だが、
"………?"
 だが、ルフィの手はしっかりとこちらの胸元、シャツの真ん中辺りを掴んだままなのに気がついた。
「あの、さ。」
 うつむいたままのルフィが呟く。
「ん?」
「なんで分かったんだ?」
「…何がだ?」
「だから…。」
 その語尾を掻き消すように、再び走った稲妻の光が辺りを真っ白に叩いた。
「ひっ!」
 肩を跳ね上げ、胸元へ飛び込んで来てしがみつく小さな温み。途端にこっちの心臓まで跳ね上がったが、今はそれどころではない。
「ほら、怖いもんか。…判るか? 俺が一緒にいて何か出たことがあったか?」
「…ん〜ん、一偏もない。」
 顔を上げて、腕の中からすがりつくように見上げて来た眸。じっと見ていると吸い込まれそうになり、
"…っ。"
 今度はこちらから振り切った。だが、

〈少なくとも船幽霊の方が、怒ってるお前よか怖いんだ、ルフィは。〉

"そうだった。今は怖がらせちゃいけねぇんだ。"
 だとすれば…却って混乱を招くような、本末転倒しかかってた先程の言動を少々反省。そんな彼へ、
「…なあ、ゾロ。」
 ルフィの方からの声がかかった。
「俺が男だと…やっぱイヤなのか?」
「え?」
「さっき、キスはしてくれたけど、やっぱり男は…イヤ、だよな。」


「………………え?」


「ゾロは凛々しくてカッコいいから、黙ってたって女の人が一杯寄って来るんだろうにな。」
“…ルフィ?”
 唐突に何を言い出す彼なのかが、ゾロには判らずにいる。いつもなら十の内の五までも聞かずとも、何が言いたい彼なのか何がしたい彼なのか、その全体像が何とか把握出来るようにまでなった筈だのに。
「ここんトコずっと、俺んこと避けてるし。男に懐かれても鬱陶しいとか気持ち悪いとか迷惑だなとかって思ってて、けど、俺との約束破れなくって、それで………。」
 何だ? 何を言ってるんだ? ゾロ自身が自分の思考回路の鈍さにもどかしさを感じている。自分に都合の良いように考えちゃダメだという、柄になく臆病なストッパーが邪魔をしているのだ。そういえばさっき、
〈なんで分かったんだ?〉
 そんな風に呟いた彼ではなかったか。
「…ルフィ?」
 何度も何度も呼んで来た名前。必ず振り向いて、お日様のように笑ってくれた。それは嬉しそうに、目映いほど笑ってくれたのは、そうしなくてはおれないほど本当に心から嬉しかったからなのか? つい嫉妬から彼の大切な人の名を口にするのを怒った時も、胸が潰れるほど辛かったろうに、全部飲み込んでずっと我慢を続けた彼だった。それらは全て…この自分のためなのか? そして今また、胸が裂かれるような想いを抱えて、
「もう…約束なんか気にしなくていい。元々ゾロは海賊になりたくはなかったんだし…。逆に賞金が懸かって迷惑だろけど、俺と一緒にいなきゃ、また活躍始められるだろし…。」
 そんなことを…想いと裏腹なことを言い出す彼だ。薄闇の中、ややうつむいた顔は見通せない。だが、見開かれた瞳はきっと乾いている筈だ。全てはゾロのためであり、泣くことさえ自分に許さずにいる彼だろうから。シャツから離れかけた手。それをこちらから掴みとめる。
「…強いよな、お前。」
「え…?」
 自己ではない誰かのために、こんなことへも歯を食いしばって強靭であろうとする強くてやさしい彼が、もっともっと愛おしくなる。それに引き換え、自分はどうだった?
「俺が避けてたのは、気づかれるのが怖かったからだ。お前ばかり見てること、お前のことばかり考えてること。そんなこんな気づかれるのが怖くてな。意気地のない俺は、ずっとずっと逃げ回ってたんだよ。」
 今、本人の口から吐露された彼の想いを、だが、ゾロの側ではまるきり気づかずにいたのだ。自分のことで手一杯だったせいもあろうが、それ以上にルフィ自身が人知れず耐えたせいもあろう。迷惑をかければ嫌われる。不愉快な想いをさせたくはない。ただそれだけの理由でだ。シャンクスの事で怒鳴られた時も、他の人間だったら譲らなかった筈。彼のことばかりを意識していたにもかかわらず、こんなにも想われていたと、どうして今まで気がつかなかった? そればかりか彼を酷く傷つけ続けて来たんだと、それを思うと深い後悔の念が痛いほど胸を締めつける。
「…ゾロ?」
 今度はルフィの方がややもするとキョトンとしている。そんな顔を、黒々と瞬く宝珠のような眸を、今度こそ真っ直ぐに見つめて、
「ごめんな。ホントなら一等大切にしてどんなことからも守らなきゃいけないのに、選りに選って俺が一番傷つけたり不安にさせたりしてたんだよな。ずっと、ずぼらしてて悪かった。」
 片腕でもすっぽり抱えられる小さな身体。それを殊更大切そうに、両腕で作った輪の中へ包み込む。そして、まるでそこから自分の身の内へ相手の全てを取り込もうとでもしているかのように、筋肉の隆起した頼もしい胸元へと強く抱き締めた。それから…殊更にくっきりとした声で、


「好きだ、ルフィ。」


 言ってのけた。はっきりとだ。
「…あ……。」
 驚いたように見上げて来る眸。すがりつくような、それでいてかすかに怯えて潤みかけた黒曜石の眸。それをうっとりと見下ろして、ゾロはそのまま胸の内の全てを正直に告げたのだった。
「ずっと…お前のことだけ考えてた。ずっとこうしていたかった。もう離れないし離さない。お前に出てけって言われてもな。」


 それから………洞内に静かで深い声のやさしい囁きとそれへ応じる小さな声がして。しばしの沈黙の後、次いで…糸のようにか細くて切ない声が途切れ途切れに密やかに流れ出し、雨の音にからんで薄暗がりの中へと吸い込まれていったのだった。




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