契約の章
やっとのことで解放されたルフィは、小さな体を横に向け、ひどく咳き込み、苦しそうに喉を押さえている。相手は生身ではなかったにもかかわらず、首条には真っ赤な手の跡がついていて痛々しい。だというのに、
「…殺しちゃったの?」
真っ先にそんなことを訊く。訊かれたゾロは、
「もう死んだ奴だ。殺せねぇだろが。」
憮然とした声でまぜっ返すような返事をした。それよりも…と喉元を見てやろうとすると、
「………。」
こちらの手を寄せつけず、身を引いてじっと見つめ返して来る。答えてくれなきゃ承知しないという顔をするものだから、
「…消滅させた訳じゃあないから心配すんな。成仏ってのか昇天ってのか、行くべき場所へ吹っ飛ばしてやっただけだよ。」
そもそもの得意技だ。特殊な悪霊だの式神だのが相手ではなかった分、ちょいっと指先で弾き飛ばしたようなもの。簡単だった。そんな説明を聞いて、
「そっか…。」
やっと安堵の息をつくルフィであり、今度は逃げないその首条へ手を伸ばし、
「他人のことはどうでも良いだろが。ほら、見せてみな。」
この世の者ではない存在につけられた痕跡とは思えないほど、くっきりしたその跡に舌打ちをし、手のひらをあてがって生気をそそいでやる。陰の"気"につけられた傷のようなもの。このくらいの治療なら、多大なエナジーを持つ身だから、何とかこなせるゾロである。腹が立つ。あの得体の知れない輩にもだが、抵抗もしない、助けも呼ばないでいた少年にも腹が立つし、宥めるような、何か気の利いた言葉をかけてやれない自分にも苛々と腹が立つ。何となく毛羽だった沈黙の中、
「………。」
温かくて気持ちが良いのか、ルフィは軽く眸を閉じていて、
「…悪気はないんだよ。」
ぽつりと呟く。ゾロが眉を顰めたままで"んん?"と首を傾げた気配が伝わったか、それとも独り言なのか、ルフィは続けた。
「自分が此処にいるんだってことを、誰かに伝えたくて、気づいてほしくて。だのに、滅多に気がつく人はいないから。それに、陽の気配…だっけ。沢山の意識が勢いよく飛び交ってる昼間には居場所もなくて。そういうのが積もりに積もってさ、やっと自分に気づいてくれる俺に逢った途端、寂しかったこととか辛かったこととかが一気に溢れちゃうんだよ。」
殺すつもりはないし、そこまでの力も彼らにはない。ルフィの側でもそれが判っていたらしく、
「だから同情してやれってか?」
ゾロは吐き捨てるように言い放つ。
「何でお前なんだ。何でお前、黙って受け入れてる。あるべき場所へ、尻叩いて飛ばしてやれよ。どんな札や神様が効果あるのかとか、霊験とやらの知識はなくとも、お前ほどの感応力がありゃあ肌合いでちゃんと判ってる筈だ。それを使って追い払えば良いだろうが。」
何だか無性に腹が立ってしようがない。何でこの子はあんな奴を庇うのだ。こんな苦しい目に遭ったのに。さらりと弁護出来たところをみると、今夜が初めてではないのだろうに、何で。何で手を打たない。何で容いれてやる。理不尽さに歯噛みするゾロへ、
「………だってさ。」
少年はやはりぽつりと呟いた。そして、
「俺、エースに守ってもらえてたけど、苛められてはなかったけど、やっぱり友達はいなかったんだ。そんな頃、ウソップに声かけてもらえて泣いちゃったもの。そのくらい辛かったんだあって思って、そのくらい嬉しかったもの。」
"ルフィ?"
あんなにも明るい子が、あんなにもたくさんの友達がいる子が。文字通り"お日様"みたいに、人々の中心にいつも居るような人懐っこい子が、そんな辛い想いを知っているという。
「だからさ。寂しい寂しいって来ちゃったの、追い返せないんだもん。」
首にと添えたゾロの大きな手の甲へ、ぽたぽたと暖かい涙が落ちて来る。独りぼっちの寂しさ辛さを知っているから。もう二度と好きだった人に名前を呼んでもらえない"彼ら"を強く拒めないルフィなのだ。
「………馬鹿が。」
ゾロは低く呟いて。長い親指の腹、濡れた眸の縁を拭ってやって、それから、
「え?」
そのまま…小さな体をぎゅうっと抱きすくめる。
「ゾロ?」
懐ろの中から見上げても、彼の表情は覗けない。だが、
「馬鹿だっての。そんなもん、何の足しにもなんねぇんだぞ? お前に手ぇかけて、それで満足させてやってるってか? やっぱ馬鹿だ、お前。」
「………。」
「お前がやってやらんでも良い。そんなのは本人の関係者や俺たちみたいな"専門家"が請け負うことだ。何の義理もないお前がボランティアしてんじゃねぇよ。」
何故、お元気そうな様子の端々で、何とも言い難い…むずがりたいような顔を見せる彼なのか。そしてどうして、そんな彼の素振りが気になった自分なのか。いくら強い力を持つ子だとはいえ、自分だって様々な邪霊を独力で払って来た強大な力を持つ身。そんな自分が天聖世界に帰れなくなったのが、年端も行かぬ子供の保持する力に圧倒されたからだとは到底思えなかった。…何かが。彼の裡うちへと囁きかける何かがあってのことだろうと。この数日のささやかな葛藤の中でやっと、何となく気がつき始めて。そして、今ようやく判った。
「ホントは怖かったろうに。」
――― っ!?
なのに我慢をし、来る者全てを受け入れ続けていたルフィ。自分は強いから大丈夫だと、精一杯の気丈さで。能力ちからはあっても、こんなにも幼い小さな身で。見えるよ、聞こえるよと受け入れてやっている実は計り知れないほどの大きな負担を、誰にも言えず言わずにいた小さな子供。
"…そうか。"
もしかすると切っ掛けは、そんな彼が自分でも気づかずに発していた"守護精霊へのSOS"であったのかも。とはいえ、双方共にそんなことには気づかないまま、親しくなって、相手を知って。そして。明るい顔の陰でそんな健気な彼であったというのが、何とも愛惜しくてならなくなった。自分のこの手で補えるのであるなら、言ってくれれば何とでもしてやるのに。思えば…彼が時折見せる寂しげな風情へそうと気づき始めていたからこそ、何とも言えない歯痒いものを胸に感じていた自分だったのだと、それこそ今頃はっきりと気づいたゾロである。
「もう良いからな。俺がいる。お前に出来ないなら、これは俺の役目だからさ。来る奴来る奴、行くべき所へ片っ端から送り届けてやるさ。」
ゆっくりと、背中を撫でてくれる大きな手が、やさしい手が、何だかとっても嬉しくて。まるでそれがスイッチだったみたいに、眸の奥が熱くなって来て、鼻の奥がつんと痛くなって。
"…あ、あれ?"
視界が歪んだ。さっき溢れた涙は拭ってもらったのにな。もう悲しくはないのにな。
「今度のは"自分のための涙"だよ。」
え?と。物問いたげに顔を上げたルフィから、少しばかり…照れ臭そうに顔を背けて、
「一人で泣くのは泣いた内に入らんのだ。」
翡翠の眸を明後日の方へと向けて、破邪の精霊はそんなことを言う。
「誰かと居る方が何でも嬉しい。お前、そう言ってただろう? 楽しい時だけじゃあない。辛いとか悲しいとかいうのだって、誰かに受け止めてもらわねぇと形にならない。昇華されねぇんだよ。」
少年自身も言っていたではないか。自分がここに居るのだと、知ってほしいから把握してほしいから迷い出るのだと。ゾロとしても、別に気障なことを言うつもりはない。こういう種の精霊として、さまざまな苦悩懊悩を抱えた存在とも触れて来た。人はいつだって"誰か"を求めている。誰かと笑い合いたい、誰かに涙を受け止めてほしい。慰めてほしいのではなく、泣くことだってある自分なのだと知っておいてほしい。形にならず、虚空に吸い込まれるばかりな慟哭は、決して心を軽くはしない。
「…うん。うんっ。」
えくえくとせぐりあげながら、それでも、彼の言うことがよく判ったと何度も何度も頷くルフィであり、止まらない涙を幾らでも受け止めてやるからと、こちらもいつまでも小さな肩を抱いてやる、ちょっといかつい恐持ての、だがだが根はやさしい精霊殿であった。
*辛い目に遭わせてしまいましたね、ルフィくんを。
でもって、こうまで健気な彼で、皆様許してくださるのでしょうか。
『蒼夏の螺旋』といい、どうして私の書くパラレルのルフィは
こういう子になりがちなのか…。う〜ん。
←BACK/ TOP /NEXT→**
|