二の章 水紋
4
整然と広がる鮮やかな緑にいや映える、目映いまでの純白の翼を翻しつつ、天馬が辿り着いた天巌宮の中庭にて、
「誰か居ないかっ!」
とりあえず、一番の深手を負ったサンジを、館から飛び出して来た長身の執事の広げた腕へと預けた。受け取り方はそっとではあったが、こちらへの態度は丸きりの無視も同然に、いきなり背を向けるというぞんざいなそれ。だがだがゾロの側とてそんな瑣事には構っていられぬ。手を貸してやって天馬の背からナミを降ろすと、やはり慌てて出て来た女官へと任せ、それへとこちらも慌ただしく背を向け、再び翼馬を駆って恐らくは天水宮へと戻ろうと構えたものだから、
「待てっっ!」
鋭い声が飛び、その途端、
「………っ?!」
天馬が前足を大きく振り上げる"竿立ち"になってから、その場に釘付けとなってしまい、手綱をどんなに引いても叩いてもびくとも動かない。声の主をと見やれば、
「サンジくん?」
咒を唱えるためにと意識を集中させる眉間への"散光"攻撃を受けたがため、一瞬とはいえ、気が萎えて倒れかかったナミが、今はもう良いのかすっかり冴えたその視線を向けた先。執事であるギンの腕に抱えられたままながら、何かしらの封咒を天馬へと飛ばした彼であったらしい。
「若っ。」
当然、そんな無茶が出来る容体ではない彼で、まるで壊れもののように抱えたギンが咎めるような声を出したが、
「あいつを行かせるな。俺なんざどうでも良いから、そっちを優先だ。」
こちらも負けてはいない。激痛をこらえながら、歯を食いしばっての厳命を下す。普段ならともかくまだ完全ではない身で何をしでかすつもりかと、ゾロの身をそうと案じてのことだろう。こういう時の彼を、やはり良く良く知り尽くした従者としては、
「…承知しました。」
問答するのも時間の無駄というこれまでの蓄積があるからか、是と応じるしかないらしい。主人を抱えた長い腕を少しばかりきゅうと縮めて、口元へとその手を引き付け、ぴぃー…っと吹いた長い指笛。その途端に、
「わっ!」
ばさーっと空から降って来たのは、縁周りに鏃型の重りのついた、大ぶりの鋼鉄製の魚網の山だ。天馬ごとゾロの身を覆い尽くしたその様を見やり、
「………お前もたいがい容赦しないんだな。」
サンジは口許へかすかに苦笑を浮かべつつ、やっと安心したかのように執事殿の胸元へと頬を伏せたのであった。
◇
そんな扱いを受けたゾロもまた、サンジが案じたその通り、まだ体が完全ではない身の上であるには違いなく。飛び込んで来た一行全員を導きいれた、ここ天巌宮の精霊たちは、宮の奥深いところへ閨ねやを設け、それぞれへと手厚い治療の咒を施してくれた。何と言っても一番の重傷者は、この聖宮の御曹司様。
「…大丈夫?」
落ち着いた調度が品良く居並ぶ寝室の奥、安静にと横たえられた寝台の中で、深々とした溜息をついたサンジに気づいて、ナミが気遣うような声をかける。それへと小さく頷いては見せたサンジだったが、唐突に展開したこの事態という混乱にもみくちゃにされて、怪我のみならずそちらからも…気持ちの上でも相当に疲れている彼に違いない。一気にあれやこれやが襲い掛かって来たその混乱や動揺が引かぬ間に、決して軽くはない怪我も負った。傷の方は手厚く丹念な手当てを受けていて、もうさほどの心配はないのだが、やわらかな金の髪の陰、依然として浮かない顔でいる彼なのがナミには気掛かりであるらしい。
「…ゾロはどうしてます?」
「用意していただいたお部屋に下がらせているわ。勿論、きっちりと見張りをつけて。」
此処についたそのまま取って帰るぞという気配を見せたほどに、彼がルフィを追いたがっていたのはナミにも良く良く判っていたから、彼女自身も重々と念を押してある。せめて状況の波立ちが収まるまでは此処に居てくれと。こんな言い方は好ましくないと判っていたが、
『サンジくんもあの怪我よ? ゼフさんがまだ帰らない今、あなたの存在や力で此処を守らなくてどうするの?』
誰かを楯にする"おためごかし"は、彼女が最も嫌う手段だが、この際はそんな贅沢を言ってもいられず、
『サンジくんは自分が傷ついたり怪我を負うことにはまるきり頓着しないわ。痛みや辛さを表に出さない、それは強い人よ。でもね、他人の痛みにはひどく敏感だわ。だから…こんな混乱の中、あなたが勝手をすることでまた彼が負うだろう"心配"という負担をこれ以上かけないであげて。』
そんなことを言うナミもまた、日頃は我儘三昧を並べてそのサンジを振り回しもするくせに。今はそんな聖封同様に他者のことばかりを気遣っている。それと気づいたゾロは、気の逸りを何とか静めたらしく、こちらをこそ宥めるように小さく微笑うと、
『判ったよ。』
一応は納得してくれたらしい様子ではあったが。
「ゾロもだけれど、あなたも休まなくてはね。…判るわよね?」
勿論、傷を癒すためでもあるが、それ以上に彼がずっと気を張り詰めさせていただろうと案じての言葉だ。ゾロへと言い放ったそのように、繊細で心配症な彼だと知っている。よく気が回るからこそ何でもかんでも抱え込み、悪いことが起これば自分の力不足のせいだと気に病むお人よし。例の封石にまつわる…サンジにとっては例えるもののないほど哀しい事態もまた、この騒ぎの当初からのずっと、彼をさんざんに打ちのめしたことだろうに、そこへ加えてのこの展開だ。さぞや疲れてひりひりと辛いに違いない。日頃たっぷりと甘やかしてもらっているお返しという訳でもなかったが、自分が傍にいる今くらいは、その緊張を解いて手放しで休息を取って欲しいと感じたナミなのだ。麗しい女神様からのお申し出へ、
「………。」
しばしそのアイスブルーの眸を見開いて、だが、
「ありがとうございます。」
心からのお礼を述べるサンジである。日頃のように冗談めかして緩ゆるんでいる場合ではないのだが、こんな時だからこその彼女の真摯さが、疲れた心にはすんなりと染み通って甘く温かい。あまりの急展開、それも悪い方へ悪い方へと立て続いた事態に翻弄された心が潤いを帯びて、何だかやっと…全身からいやな緊張が去ってくれたような気がする。とはいえ、
「だが…一体どうして。」
休めと言われても、やはり気になるものは仕方がなくて。この天巌宮に着いてほどなく、ルフィの家に詰めていた筈の"聖衛"たちが戻って来て、その堅い守りのどこを突いたか、敵の侵入を許した旨の無念を連ねた彼らからの報告がやっと届いた。それに続いて、ルフィに一番近いところへと詰めていた たしぎ嬢ビビ嬢がひどく憔悴した様子のままに戻って来て。彼女らの話によれば、あの魔道の少年は"混沌の淵"という亜空間にて、彼女ら二人をさんざんに翻弄してから天水宮へやって来たらしいのだが。
「どうしてそんな念の入ったことを、わざわざしているんでしょうね。」
ルフィを攫ったのはやはり…間違いなく"黒の鳳凰"であろうと思われる。ナミがゼフ経由で くれはが得たと聞いた話。坊やの兄にまずはと当たったらしき、謎の気配が語った不吉なフレーズ。
『十万億土のその向こう、那由多の果てから迎えに来たのだ。
我が器、Dの筺体をな。』
『遥かに昔、愚かな者共の企みに抗して、予が唱えたDの呪咒。
それがとうとう解き放たれる。
予の筺体に匹敵する器"玄鳳"の誕生をもって、な。』
これをもってして、今回の敵はやはり…此処、天巌宮から消えていた封石から封を解いて抜け出した大邪妖"黒の鳳凰"だろうと断定した彼らであるのだが。そして…どういう呪咒であったのかは知らないし、それが悔やまれもするのだが、その"黒鳳"が封じられし折に起死回生を狙って唱えたという、Dの筺体"玄鳳"を後の世に生み出す咒。それが発動したことにより生まれ、そしてこの度、まんまとその手に落ちたルフィという存在を、どうしてまたこうもあちこちへと連れ回し、自分たちへとちょっかいをかけて見せる彼なのか。
「ナミさんを狙っての侵入に間違いはないと思うのですが。」
彼の…ルフィの姿には、成程、誰も警戒はしない。上つ方のいない場での出現であったなら、何故に人世界の住人が?という不審は出るやも知れないが、こそりと進行中の急な事態への対応にあたっている当事者の方々の元への出現だったから。事情も十分に通じているし、現に…心配こそすれ、危険な存在だという警戒は、サンジがちらと構えたのみではなかったか。なればこそ、その点を利用してナミに近づくのが目的の侵入だったと思われるのではあるが。何故にまた、こんなにも人の心を揺さぶるような悪ふざけをわざわざ仕掛けるのか。それも、一歩間違えれば自分の首を絞めかねないような、危なっかしいやりようで。筺体だの器だのと触れ回るほどに嬉しい存在を手に入れたのなら、いっそ とっとと融合すれば良いのに。そうすれば、あんな無様な分離なぞ引き起こしはしなかっただろうに。
"まあ、だからこその取り付く島が、こちらにもまだ何%かは残されている訳ではあるのだけれど。"
あの虜囚となった坊やを助け出したいのは、彼らとてゾロと同じ。だからこそ気になる、どうにも解せないその点をどちらからともなく考えあぐねている二人へと、
「彼奴あやつも必死だからだ。」
「…え?」
そんな声が唐突に掛けられた。猫脚も優美な華奢な肘掛け椅子に腰を下ろしていたナミのその背後。黎明がすっかりと明るんだ朝の陽光をゆるめるようにと立てられた几帳の向こうから、風のようにするりと入って来た人影こそは、
「…ゼフさん。」
鷹揚とした態度が何とも言えぬ自信や威厳に満ちていて、つい先程見事な牽制を放って皆を退避させた聖封総帥、ゼフ翁その人である。
「傷はどうだ?」
孫にあたるサンジやナミへいたわるような表情を向けながら、口唇の端に微かな自嘲の笑みを滲ませている彼であり、
「破邪の手の者らが"混沌の淵"に彼奴の足場を突き止めたらしいの。」
「あ、はい。」
ルフィを攫われ、それでも何とか追い詰めたのだが、どうにも半端な結末になったらしいという報告を受けた旨を説明すると、
「成程、そんなせいだったからかの。」
ゼフは小さく唸って見せ、
「風が騒いだのでよもやと向かってみたまでなのだが。」
「…風が?」
「ああ。突風のせいで転輪王様から預かりし護鏡が聖杜の祠から飛び出しての。」
この天巌宮に祀られている護鏡もまた、日頃は聖宮にほど近い聖杜の祠に"神器"として納められている。ところが…ビビらの霊信による報告がゼフの元へも届いたとほぼ同時、一陣の風が吹き去って、祠の奥から護鏡が独りでに転がり出して来たというのだ。飾りに下がった朱房を躍らせて飛び出して来た護鏡は、まるで制御の利かなくなった投光器のように、目映い光を四方八方周囲へ目まぐるしく乱射させ、最後に真っ直ぐ天水宮を指して一条の光が走ったのを天巌宮の聖宮に居た者全てが目撃している。
「それで…。」
あの窮地に、すんでのところで駆けつけてくれた彼だということか。とはいえ、ぎりぎり間に合いはしたものの、相手の行動への後手後手に回ってばかりなことが腹立たしいのだろう。何とも苦々しい顔つきの彼であり、それでも何とか気を取り直したか、小さく息をついたゼフは顔を上げると、
「先程、彼奴のやりようが判らぬと申しておったが。」
二人がどうしても答えが出せずにいた"黒鳳"の不可解な行動とその意図。そんなやり取りが、此処へと辿り着いたばかりな翁の耳にも届いていたらしく、
「それはもしかしてあの坊主に掛けられた"封咒"のせいやもしれん。」
そんなことを言い放ったゼフだったものだから。
「封咒?」
ナミとサンジが、つい…顔を見合わせる。
「おうよ。聖封、破邪双方の新米の嬢ちゃんたちをからかったのも、こちらのナミ様にちょっかいをかけたのも、あの坊主にかけられてあった"封咒"を解くため。誰がそんな厄介なもんをかけたのかをわざわざ探りに来たのだよ。」
さすがは"封印"の専門家だ。手緩てぬるく不審な敵の行動から、そんな事情をあっさりと見抜いたらしい。そういえば、
『…こんな時に障壁が反応しようとはの。』
そんな一言を忌ま忌ましげに吐き捨てた。あの坊やの体から離脱した、もう一人の…彼こそが"黒鳳"だろう魔道の少年。あれは、満を持して現れたというよりも、押し出されて已やむなく姿を現したという感があった。
「…でも。」
成程、それでこんな騒動になったらしいというその理屈の順番は分かったが、そんなものをかけよという指示は誰にも出していないナミである。最初のあの、緊急に設けた会見の場、サンジがいっそルフィを封じておいてはどうかと進言した時、無闇矢鱈と咒をかけるものではない、彼の中の何かを目覚めさせてしまうからという注意を出したほどであり、それにそう格好でたしぎは勿論のこと、ビビも何の咒も唱えてはいない筈。だが、
「もう一人、おるだろうが。あの坊主の間近にいた精霊が。」
ゼフはそうと言い、
「…あ。」
やっとピンと来た二人ではあるものの、
「………ゾロが?」
確かに…彼は毎日のように、いざという時に最低限、坊やの身だけは守れるようにという簡単な護咒をかけていたらしく、彼らが離れ離れになる寸前のあの最初の襲撃の時も、それがきっちり働いていた模様。
「でも…。」
ルフィの傍らに居ることが、あの坊やを守りたいと思う彼の意欲が、破邪としての破壊力だけがダントツだった彼に少しずつ"護壁能力"を育んでもいたけれど。それにしたって微々たるもの。初心者レベルもいいところのそれだった筈。黒の鳳凰ともあろう大邪妖を手古摺らせるほどの威力があったとは思えない。現に、ルフィは相手の手の内にあっさり落ちているのだし…と、納得し難い不審を表情に浮かべる二人へと、ゼフはふんと息をつくようにして短く笑った。そして、
「まま、今はの、その能力がさして目覚めておられんから仕方がない。」
力不足は否めないと、その点は認めた翁だが、その口調、語り口に"おや"とサンジが眉を寄せる。
"…おられん?"
簡単なものながら"敬語"ではなかろうか。サンジに勝るとも劣らない口の悪さでも有名なこのゼフ翁だが、そんな彼がそっちの方向で言葉の使い間違いをそうそうするとは思えない。
「………。」
ナミもそこへは気づいたらしく、二人して"まじっ"と見やった先、貫禄ある聖封総帥殿は彼らからの視線を真っ向から見返して、それは力強くこうと言い放ったのだった。
「彼奴は…あの御仁はの、単なる破邪精霊であってそれにあらず。それは貴い御方なのじゃよ。」
その割には…大きい力がうろうろされては迷惑だと、先にこの天巌宮から追い立てるような口利きをなさったのではなかったか。(笑) 自覚があらっしゃらない場合の本人へは、特別扱いはなさらないゼフさんなのね、きっと。それはともかく、翁のそんな言いように、
「???」×2
自分たちこそが一番間近で接して来た仲間であるのにと、ナミやサンジにはやはり事情がまるで判らない。若いもの二人が依然として呑み込めぬ様子なのを見て、
「ゾロというあの精霊。他に縁ゆかりもなく、微妙に同じ桁の力を持つ者もない孤高の存在であろうが。」
それは…確かに。先の聖魔戦争が起こるよりずっと前、突然、ヴァルハラ神殿の奥向きへと姿を現した不思議な子供だと、同じ世代の彼らは先代たちから聞いている。精霊刀"和道一文字"と共に、厳重に張られた結界をものともせず、その奥向きの御神木の根元に現れた赤子。親も分からず、どこからの転生者なのかも不明なままに、戦いと嵐の天使長が引き取った、謎の多い子供。本人でさえ"知らねぇ"と放り出しているその素性をさして、貴い御方だというゼフ翁であり、
「実を明かせば"淨天仙聖"様、
月夜見様の御子息の聖霊、その眷属、末裔にあらせられるのだ。」
「"淨天仙聖"?」
そうまで明らさまなお名前を聞いても、あれあれ、どこかで聞いたことがあるぞという感触はあるがくっきりとは思い出せない。恐らくは…実生活にはあまり登場しないクチの名前だからだろう。まだ今一つ、完全な把握にまでは及ばない彼らへ、ゼフ翁は頷くと、さらに細かく噛み砕いての説明をしてくれた。
「ああ。本来なら転輪王様と同格でさえいらっしゃる"神族"の眷属に連なる御方だが、転輪王様のご助力にと降臨なさったのが縁でな、我らがお仲間、守護天使へ転生なされたそうだ。じゃが、混沌から分かれたばかりの"世界"の浄化というお役目はそうそう簡単な仕事ではない。全てが完了し、転輪王様が永き眠りにつかれた時に、やはりそのお姿をお隠しになられたと聞く。」
そして…その聖霊様の眷属として、突然ヴァルハラ神殿の奥向き、雲の回廊のとねりこのご神木の根元に現れた彼だということか。
「そんな…。」
今までそんな話は誰からも聞いたことがない。だが、あの桁外れな力を有す"翠眼の破邪"の正体、素性が謎のままなのもまた事実だ。自分たちと同じほどに強い"正"の生気を持つ者だから、先代の嵐と戦いの天使長が手づから育てた青年なのだからと、紛れもない事実の明るさをのみ信頼し、詮索が苦手な彼らとしてはそれ以上はほじくり返さずにいたのだから、違うと断言出来る証しを示せる訳でもない。
「………。」
微妙な心境で黙りこくった彼らだったが。そう。"だが"である。いくら何でも…突然言われて"ほほぉそうですか"と納得出来ることでもない。何しろ大事。神とつく身の眷属だなぞと、そうそう軽々しく口にすべきではないことでもあって。
「"神族"というのは?」
聖世界だの天世界だのという描写になるのはあくまでも"地上"との区別であって、住人である彼ら自身には"超越者"という自覚はあまりない。さすがに各聖宮のお館様たる"守護天使"の御方々だけは、他の次界にまで影響が出そうなほどの、不合理、不自然、不可思議を正すことはあるやも知れないが、それにしたって事態が起こってから手をつけるという順番であり、そうならないようにという先回りの小細工などは全く手掛けてはいない。世の理ことわりを支配している訳でなし、ちょっと寿命が長くて、地上人たちの頭上で寝起きをしている異次元人なだけ…というくらいの感覚でいる者が大半だ。ゼフ自身からして日頃からもさして傲岸な素振りはなさらぬ翁であるだけに、そんな彼が唐突に口にしたそんな語句には、こちらの子らにも馴染みが薄い。意味合いが掴みかねると尋ねる彼らに、
「今更それを語るのも何だがの。その昔、混沌の中よりお生まれになった"転輪王"様が、この世界を明暗善邪に分断なさったその折に、最も清い部分であるが故、天の高みへ一等最初に駆け登った存在にあらせられる方々だ。」
ゼフは事もなげに答え、
「淨天仙聖様は月夜見様御配下の聖霊長でいらした。聖霊というのは精霊とは格が違って、一つ事にのみ絶対の力を持っておられる、所謂"象徴"様だ。例えば淨天仙聖様なら"浄化"の力は絶対で、どんな魔邪でも真っ新さらに昇華お出来になった。」
そうと続けた。ということは。今回の騒動に実は随分と早い時期から通じていた彼であったらしくて。そして、そんな彼のような…齢を経てなお永らえ、あの"聖魔戦争"より古き歴史を知る者でなければ知り得ないことが根源にあったとは。
「月夜見様の…。」
名前だけなら伝説の中で聞いた覚えはあるのだろう。サンジもナミも、新たな事実への感触に戸惑うように顔を見合わせながらも、どこかしら納得の気配が滲んだ表情を見せている。語り手への信望と、それより何より…誰とも縁えにしを持たない唯一無二のその正体、本人にさえも判らぬままだった豪腕の破邪なだけに、こんな突拍子もないほどの肩書きで語られても違和感なく納得がいくのだ。しかも、
「だから…そんな彼のかけた封咒がいつまでも効いているのね。」
聖宮周辺の結界にさえ引っ掛からぬほどに。あれほど完全に溶け込み、違和感なく振る舞っていられたルフィからあの妖しの少年が吐き出されたのも、思えば…ゾロが近寄ろうとしたのを弾き飛ばしたその瞬間だ。
"あれは、波長が同じ相手に触れたから共鳴を起こしたのに違いない。"
くどいようだが…護壁の封咒をかけられるようになったといっても、まだまだ初心者もいいところ。破邪の世界でいうところの、せいぜい"おまじない"の延長程度のそれであった筈。だというのに、これだけのことをやってのけられる大邪妖の力をもってしても、それが破れないとは尋常ではない。
「それだけに、最も邪悪な魔の者からすれば、最も警戒せねばならぬ対象でもあるのじゃよ。それに…元は一つだったところを一番遠い果てへ引きはがされた恋しい半身でもあるからの。神族の方々に再び混じり合おうとにじり寄るのも無理はないのかも知れん。」
ここで小さくため息をついたゼフ翁であり、
「転輪王様はそうなることを案じて…ご自分が眠りにつかれるにあたり、仙聖様が邪妖たちから狙われぬようにと、赤子の姿に転生させなさり、全ての能力をお封じになられたのやも知れぬ。」
そういった相談なり知らせなり、どの天使長も話を受けてはいなかった仕儀だったのだろう。なればこそ、突然現れた正体不明の和子…という扱いを受けたゾロであり、そしてそういう当初の扱いが、彼の本性を今の今まで覆い隠す、格好の隠れ蓑にもなった。
「じゃが。そんな和子が持つ強烈な"浄魔封滅"の能力は隠しようがなくてな。一方で、手出しを控えて放置したがため、結果として聖魔戦争まで引き起こす結果となった"陽世界"での負の魔力を抑える必要も出て来ての。」
唯一、わざわざ"陽世界"まで次元の境を越えて赴くことを可能とする存在。そんな"破邪"たちを抱えた部署が設けられた歴史は浅い。ナミのような若い天使長がその総帥にと抜擢されたほどであり、
「あ、それじゃあ"破邪"というのは…。」
「ああ。そもそもは、あの翠眼の破邪が正体を知られぬまま立ち働くがために設けたような格じゃ。」
思えばそれも、彼の生まれが齎もたらしたものなのかも。生まれたての"世界"を清めた"聖霊"たるその力、今世でも発揮されたしと、やはり"世界"が求めたということなのかも。
「………。」
相手のあまりの強さと、強引ながらも次々に手を打ってくる強かさに呆れたか。それとも…判っているものがありながら黙して語らず、それがために招いた今回の様々な自らの失態へなのか。白髪のゼフ翁は一際深いため息をつく。そして、
「良いな? よってあの破邪は我らにとっても最後の切り札だ。あの坊主を、黒鳳の筺体を解放させぬためには、その存在が失われてはならぬ。このような扱いに大人しゅう従わぬかも知れんが、もしも他者が鍵になっていたとしたら、お前たちとてやはり同じ策てを取った筈。判るな? 大人しく護られていてくれるよう、彼奴を説得しな。」
重々しい声で、次世代の総帥たちへとそう告げた彼であった。
◇
冷静な様子で、淡々とした語調にて。それらを言い置いて、子らの前から一旦は下がったゼフはだが、不意に、
「………くっ!」
途中の回廊でその拳を壁へと横薙ぎに打ちつけた。壁が左側だったのが災いし、振るわれたのは左腕。先程の乱入時に彼もまた怪我を負った筈であり、傷に相当響いた筈だろうに、そのようなものは意にも留めずに、
「器が現れたからだと…? ふざけおって…。」
低く呻いて唇をきりきりと噛み締める。憤然たる声を絞り出したそんな彼の様子に、
「…ゼフ様?」
たまたま来合わせていたギンが不審げな声をかけ、それに気づいて我に返ったらしく、ほうっと息をついた翁である。
「あの子にな…娘に任されたのだ。自分が留守をする間、サンジや皆を頼むと。それがこの爲軆ていたらくなのではな。」
冷静冷然と振る舞って見えても、ゼフ翁としても居たたまれないほど口惜しいのだ。愛しい娘。誇りに思えたその優れた能力が、選りにも選って…生きたままに永遠の封咒を唱えるなぞという苛酷で残酷な役目を彼女に招いた。そしてそんな愛娘と、目許口許、日に日にどこか面影が重なってくる孫が、やはり同じ輩からの攻撃を受けて傷ついたとあっては、悔しさや憤怒も耐えがたい次元の代物な筈である。
「はっきり言って出遅れた。」
結果論になるが、相手を随分と見くびっていたのかも知れない。このようにいちいちその行動の痕跡を残す無様さに、自分たちでも対応が利くものと、そんな風に構えていたのは思い上がりであったのかも。
"………Dの筺体か。"
ここは地上の人世界と違い、物質優位ではない。住人たちの存在は意識自我によって成り、念気で自らを防御し保持している。極論を言えば、思念さえ死滅しなければ肉体なぞただの容器いれもの…ではあるが、それでも生来の体を失うのは色々な意味合いで痛手である。この世界の存在が保持する"体"は念気が練られて形成されるものなだけに、新しい塒ねぐらは…無からの場合も他者から奪った場合でも、一からの始まりになる。
"転職するとレベルが1からやり直しになるのと同じだよ。"
これこれ、なんでここに『ドラ・クエ』の喩えを出しますか。(余裕あるじゃん、ゼフ様)と、とにかく…それがために、地上とは比べものにならぬほどゆるやかなものであれ、やはり"時"が存在する世界である以上、その蓄積差による違いは何かと大きい。巨大に過ぎる思念は、さほど強靭でない器には収まり切らないものだし、逆の場合は下手をすれば呑まれてしまいもする。
"永い歳月を練ることで、あんな小さな坊主の中に途轍もない殻器を用意しておったとはな。"
此度の相手は、例の封石に封じ込めた"黒の鳳凰"の魂とその膨大たる生気だけだと思っていた。淨天仙聖による清めを受けての転生を成した方の"和子"の身は、そうそう簡単に邪妖の思い通りにはなるまいと、自分たちへの人質という"盾"にこそすれ、本人自体には価値も用向きもない存在となる筈だったのだが。
"何と巧妙な呪咒であったことよ。"
今になってこうまで歯咬みさせられようとは…さすがは転輪王様を苦しめた大邪妖ということか。
「ですが、まだそのゾロ様がこちらにて御無事でいらっしゃるのですから、相手の企むところが成就するとは…。」
「今のところはな。だが、あの攫われた坊主、破邪の小僧にとっては相当に大切な存在であるらしいからの。」
何が引き合ったか、これもまたその始まり同士の段階で結ばれた縁えにしの影響だろうか。そんなこと本人たちの知る由もないほど、それぞれが自発的に差し伸べた手を取り合って結ばれた、それは優しくそれは温かな確固たる絆。そしてその絆、これまでは力強くて微笑ましい限りなものだったが、この期に及んでは微妙に危険な繋がりとなりかねないのがまた、なんとも皮肉な話であることよ。
「そっちはチビナスやナミ様に懇々と言い諭してもらう他はないな。」
大上段から杓子定規に言ったとて、そうそう素直柔順に"言う通り従います"と聞けることでもなかろうと、そこは…相変わらずの鷹揚さがついつい出てしまう総帥様であったのだが、
「儂わしらの力、こうまで微力とはの。」
何とも残念しきりという、溜息まじりの声音になられる。彼ら"四聖宮守護天使"たちは居ながらにそれぞれの役目を果たしてもいる。世界に躍動の生気を満たしつつ、安定や調和のバランスを取り、時には"弾み"を生み出しつつも、明暗清濁の域を混沌曖昧に紛れさせぬよう、清浄を保って回復に務める。それほどまでの力を持つ存在たちだというのにもかかわらず、今の時点でも…聖宮の中枢部を護っていた結界を易々とくぐり抜けられたのだ。
"力の桁がそれほどまでに違う相手だということか。"
果たして抗うことが出来るのだろうか。こんなにも追い詰められた状況で。あんな小さい子供一人、様子見のためにと救えないでいるような陣営で…。
*はあはあ、これで隠し玉は全部書き出したと思います。
ゾロの生まれもルフィの秘密も。
後は彼らがどう動くか。いよいよのクライマックスですが、
大立ち回りが待っております。最終決戦も待っております。
あああ、頑張れ自分っ!
←BACK/TOP/NEXT→**
|