月下星群 
〜孤高の昴・異聞

   天上の海・掌中の星

    〜 黒の鳳凰 LAST DESTINY H
 

 
   二の章  水紋



          



「…ゾロ?」
 彼の参内はナミにも意外なことであったようだ。案内されて来た彼を見て、弾かれるように顔を上げ、それとはっきり判るほどはっとした顔になる。そんなナミの膝下へ恭しく跪き、
「永の御無沙汰、不義理を重ねておりました。ナミ様におかれましては、御尊顔も麗しく…。」
 きっちりと形式に則
のっとって、流麗に口上を述べあげる彼であるが、ナミはくすりと微笑ってそれを遮った。
「どういう風の吹き回しなの? あなたからそう構えられると鳥肌が立っちゃうから、そういうのはやめてちょうだいな。」
 日頃からは対等な口を利き、そういう堅苦しい言上・口上が必要な場はサボりまくりという彼だのに。何をまた悪ふざけを始めたの?と苦笑されるほどなのだから、常がいかにズボラな彼であるのかが自然と思い知らされる。ここはナミが息抜きにと過ごす居所の一つで、贅沢な拵
こしらえながらも、単なる四阿あずまやのような造作になっていて、前面は陽当たりの良い緑あふれる庭園に向いているが、奥の側は打って変わって、瀟洒な柱に支えられた飾り屋根のついた渡り回廊やテラスが、水中から伸びる太柱に抱え上げられるように傍らの広い泉水のすぐ上へと張り出した恰好の、一種の水上離宮となっている。
「こんなところへ来ているとはね。もう容体は随分良いのね。」
 自分は長椅子にゆったりと腰をかけており、手近な椅子を手振りでゾロとサンジに勧めながら、やわらかな笑みを向けるナミである。状況としては緊迫感に包まれた事態の最中ではあるのだが、表面的には普段と変わりない日常が営まれている。事情を知るところの数少ない者たちも何事もないかのように執務に精励しているし、ナミ自身も暇を持て余しているような素振りを見せて長閑に時を過ごしていたほどに。
「ああ。こんな言いようは僭越かも知れんが、警備の加勢に加わったっていいくらいだ。」
 壮健な貫禄とでもいうのだろうか。まだまだ若々しい彼だというのに、そういった言い回しが決して口先だけのそれではない、実に頼もしいものとしてこちらへ届く。ただ大雑把なだけではなく、人知れず様々な想いを重ねて、じっくり練り上げられて出来た人格の成せるもの。豪快で判りやすい気性をしていたその上へ、この数カ月の間に緻密にやさしく育まれたそれであるのだろう、そんな青年の様子に好
このもしげに目を細め、ナミは言葉を返した。
「あらあら、僭越だなんて、あなたのどこにあった言葉なのかしら。」
 大方、一刻も早くあの坊やの元に戻りたくての言葉じゃないのと、くすくす笑う。だが、それはダメだと、サンジを通じてクギを刺してある。いくら日頃"タメグチ"を利くほどにナミを相手でも怖いものなしな彼であれ、天使長からのそれが厳命であるのなら、従わなければならないのもまた、天聖界での大原則。破天荒にして傍若無人という風情で振る舞ってはいても、ぎりぎり"聖なる存在"としての基本は守る彼だというところかと。とはいえ、
「こいつから聞いた。あの"黒鳳"が行方不明なんだと?」
 一応は人払いしている場だが、あまり実際の言葉として口へと上らせぬ方が良いと構えていたことを頓着なく口にし、
「ゼフ翁が天聖界以外にまで探索の網を広げていると聞いたが。」
 敬称抜きの言いようへ、相変わらず誰へも対等な口利きをする男だわねと、ナミが困ったような顔になる。だがまあ、あの坊やへの思い入れがただならないレベルであるゾロだというのは、誰よりも承知している身。それがための、彼には稀なる"憂慮"につながることなれば、そうそう白々しくも…彼へまで箝口令を敷くのもどうかというのも判る。
"それにしても…ゼフさんさえ怖くないってのはどうよ。"
 頼もしいを通り越して、ちょっと呆れたナミである。聖封一族の総帥ゼフ翁は、サンジの祖父だというだけでなく、今のこの天聖世界に於いては最も探知能力が高い神将だ。あの聖魔戦争の唯一の生き残りにして、日頃からも精力、行動力、包容力、そして大局的な洞察力、そのどれをとっても他の天使長や神将たちより群を抜いて秀でていて。そんなところを頼り甲斐のある男だと把握されている彼のこと。今回の手配にも不備不足はなかろうが、なればこそ、着実に集まる情報にはこちらの身に迫って恐ろしいものも少なくはない。
「ええ。さっきも興味深い情報を霊信で持って来てくれたわ。」
 ナミは小さな溜息をつき、
「南の天炎宮、くれはさんからの伝言なんだけれど。問題の邪妖、ルフィのお兄さんへもコンタクトを取ってたらしいの。」
「…っ!?」
 ゼフと同じほどの齢を重ねた女性の精霊。あのチョッパーをサンジへと下さった、聖獣たちを監督し統率する天使長なのだが、その延長というのだか、地上の情報にも耳が早くていらっしゃる。
「恐らくは"血統"を辿ったんでしょうね。で、先にお兄さんの方に接触した。」
 ナミも先の夏の騒動は当然知っている。(『晩夏黄昏』参照)霊感の強いルフィの事をよくよく理解し、弟を…悪しき者の魔手からも、人々による冷遇からもしっかりと守り続けた、やさしくも頼もしい青年だ。
「ルフィくんはあなたの防御障壁にくるまれていたから、それで直には探しにくかったのかもしれないわね。」
 そうと付け足してから、ナミはふと…真顔になった。
「その時に不穏なことを言い残したらしいの。」


    『十万億土のその向こう、那由多の果てから迎えに来たのだ。
     我が器、Dの筺体をな。』
    『遥かに昔、愚かな者共の企みに抗して、予が唱えたDの呪咒。
     それがとうとう解き放たれる。
     予の筺体に匹敵する器"玄鳳"の誕生をもって、な。』

「…それは。」
 今回の敵が昂然と言い残したヒント。いや、戯れに洩らした余裕の宣言というものなのかも。
「転輪王様から封印された時に、最後の力を振り絞り、遥かなる未来、再び復活出来るようにと咒をかけておいた。………そういうことなのでしょうね。」
 サンジの母上の例でもお判りのように、ここに顔を揃えている面子には"黒の鳳凰"という大邪妖、ビビやたしぎなどがその初見で怪訝に感じていたような…単なる『神話』や御伽話という次元の存在ではない。今回の事態に真っ先に遭遇したからではなくて、その『神話』が綴る"転輪王様"の偉業に実際に関わった代をすぐ直前の先代とし、師として仰ぎ、親代わりとして慕った顔触れだから。よって転輪王様の様々な活躍というものも、単なる遠い時代や遠い場での"他所事
よそごと"なぞではない、身近な実体験としてそれは細かに語り聞かされた。
そんな先代たちが殆ど滅したほどの激しさを見せた、先の聖魔戦争の終焉は、参加こそまだ若い身だからと見送られたが、それでもその苛烈さをその身をもって見聞きした。サンジに至っては実母が悲しい犠牲にさえなった。そんな彼らは、その戦いよりも遥か昔の『神話』の中に埋もれかけている"始まりの戦い"もまた、それを語って下さった先代たちの存在の記憶と同様、風化させぬようにと、忘れずに大事にして来た訳だが。
「あと数年。伝説の封印が完遂されて、本当に"伝説"になろうとしていたというのに。そんな時分に発動するように仕掛けられた代物があったとはね。向こうが狡猾だったのか、それともこちらが迂闊だったのかしら。」
 ただの伝説ではないと意識していた身が、こうなると却って間抜けだわねと、ナミは情けない事態だと言いたげに細い眉を寄せる。そんな彼女へ、
「そうも くさるもんじゃありませんよ。確かに思わぬところから出來
しゅったいした突発事ではありますが、早急に手は打ったのですし、するすると収拾出来れば何の問題もない。結果善ければ…のその"結果"を目指せばいいだけのことです。」
「ふふ…。頼もしいのね。」
 サンジからの言葉にゆったりとした笑みを見せるナミとて、実のところは歯痒いに違いない。ルフィが急襲された今回の突端、あの極秘の緊急会見の場にても発露されていたように、その性は豪胆にして太っ腹。皆から守られる立場に甘んじていられるような気性ではない。鷹揚冷静に見えても内面は果敢で激しい彼女のこと、他の者の足枷となるくらいなら…と直情的なことを実行しかねない。ゼフもサンジもよくよく心得ていることで、
"恐らくはゾロも…だろうな。"
 いくら手持ち無沙汰であっても、そして、日頃好き勝手をしているように見えても、待機が使命と心得たならそれをしっかり貫徹するのが本来の彼だ。だというのに、こんな風にわざわざ天水宮までやって来たのは、ルフィの身を案じて落ち着けないのは当然として、そこへ加えて、ナミのそんな性分を彼もまたどこかで案じてのことだろう。新しい世代、新しい天使長たちが初めて遭遇した、これは"聖魔戦争クラス"の最大の試練となるやも知れない。だれもが、そんな感触についつい表情を引き締めて見せたそんな折。

   「………ん?」

 ふと。その場に居合わせた全員が顔を上げた。何かしら…そよいだものがある。風というのではない、何かしら、誰かしらの気配のようなもの。
「風向きでも変わったのかな?」
「いいえ、風の香ではないわ。」
 視線は前庭の方へと向けたままで腰を上げ、そちらへと歩みを運ぶナミであり、
「ナミ様。」
 そんな彼女に従うのではなく、守るためにと傍へ寄ったサンジにゾロも続いた。離宮のこととて、外部と内をしっかり隔てる壁も頑健屈強な柱もない。周囲のどこからでも素通し同然で、何かしら不穏なものの襲来であるのなら、砦とするには最も不向きな、心許ない場所であろう。だが、逆に言えば、そういう解放感を味わって構わないほどの、厳重な守りの幾重にも重なった一番奥のそのまた奥にある場所だということ。
"こんな奥向きへいきなり潜り込むことが出来るというのか?"
 聖宮の主が居ながらに放っている力や、常の護衛・防御のものとして幾重にも張られた結界を物ともせず、しかもその上、ここに居合わせた相応の能力者の誰にも感知させず、易々と宮の中枢部への侵入を果たせる者。彼らが今何よりも警戒し懸念しているものはそれほどの力を持つ存在なのだろうか。サンジは冷ややかな恐れをその胸の裡
うちに直に感じていた。そっと窺うと、だが、ナミの横顔は凛と冴えて静かなままだ。
「…あれは?」
 そんな彼女が視線で示したその先には、眸に眩しいまでに鮮やかな翠の溢れる中庭
パティオがあり、柔らかな枝先の梢をさやさやと揺らす木々の囁きや、緑の潤いにひんやりと爽やかな深みを含んだ風が遊んでいるばかりの空間だったが、

   ――― …っ?!

 地上の人世界から攫われ、あの"混沌の淵"にては、たしぎやビビを翻弄した道具にされたそのルフィが、何の前触れもなく東方天水宮に現れたのである。
「…なっ!」
「どうして彼がっ。」
 人世界での混乱は、残念ながらまだこの聖宮には伝わってはいない。だから、此処に居合わせた顔触れには、文字通り、何がどうしてという…こうなるに至った経緯がまるきり判らない。そんな彼らの目前にて、
「………ルフィ。」
 空気中からゆっくりと滲み出しながら本来の質量を取り戻した幻のように、その足が地についたと思う間もなく、膝が折れ、支えを失った肢体が芝の翠の上へ力なく倒れ伏す。虜囚同然の扱いを受けていたらしいことを示すように、首や腕に嵌められているのは鈍く光る無骨な鉄の環。地に崩れ落ちた彼の伸びやかな腕を重く下げさせてもいたそれらだが、そんな枷とそれぞれを繋いでいた鎖が砕けて弾け飛んだ途端、
「…あ? 此処って?」
 微睡
まどろみの夢から覚めたような声を出す。彼にかけられてあった何がしかの呪縛が、枷がほどけた途端にすっかり解けたのだろうか。身を乗り出しかけたナミを、だが、
「…いけない、ナミさん。」
 サンジが押し止めた。こちらもやはり反射的に駆け寄ろうとしたゾロへは、胸板の傷口の上へ故意(わざと)に軽い回し蹴りを1つ。
おいおい
「…っつっ!」
 歩き回れてもそこは重傷を抱えている身、ぴりぴり痛んだらしい胸元を抱え込むようにして蹲
うずくまりかけた破邪が、
「てめぇっ。」
 睨みつけるのを"柳に風"と受け流しつつ、
「ルフィ。」
 まずはサンジ一人が様子を見るべく近づいてゆく。その気配に気づいてか、視線を上げたルフィは、
「…サンジ?」
 すぐには起き上がれないほど随分と消耗し切っている様子。サンジにも見覚えのある可愛らしいパジャマは血や泥に汚れ、頬には痛々しい傷。すぐ傍らに屈み込み、腕を伸べて支えてやると、素直にすがって何とか座り直す。こんなにも小さな身体に一体どれほどの加虐を受けていたのだろうか。
「ここは…どこ?」
「天聖界だよ。」
 それを聞いてしきりと"?"と小首を傾げる。こちらの世界のことはあまり詳しく話していないから、実感が沸かないのだろう。取り留めなくぼやんとしていた彼だったが、はっと我に返ると、
「あ…っ、ゾロは? 無事でいる?」
 真っ先に聞いてくる。
「ああ。無事だ。傷も塞がったぞ?」
「良かった…。」
 ようやっとという風情で全身から力を抜くルフィであり、萎えたものながら微笑みさえ見せる様子は、彼が心からの安堵を覚えていることを思わせた。その顔にサンジはふと…思い出すものがある。

   〈霊信珠を、貸してくれないか。〉

 確かゾロがそんなことを言っていなかったか? 人世界に残して来たこの坊やへ、心配は要らないぞと語りかけるために使いたいからだろうなと、そう思って1対二つを渡したはずなのだが。
"まだ使ってはなかったのか?"
 そうそう何でも覗いてはいないから、そこまでは確認していない。だが、それはいつでも聞けることだと今は忘れて、
「怪我の手当てを…。」
 小さな坊やの身を支えてやる。頼りない重み。だが、やわらかで愛しい温み。
「うん。」
 弱々しい笑みは安堵をじっくり味わっているかのようで、
「あまりはっきりとは覚えていないんだけれど、俺んチで…たしぎさんて人ともう一人が、守っててくれたろ? あの人たちが助けてくれたみたいなんだ。」
「ビビちゃんか…。」
 封じの術でもかけられたのか、その間は意識がなかったようなものでいたのだろう。何者かに狙われ、攫われて、それを彼女らが追ったその結果がこの唐突な出現なのだろうか。だとすれば、捕らわれてからのことを何も知らぬままなのも仕方がない。その術が解けた拍子にここへと飛ばされたのは、彼が一番気掛かりにしていたゾロの安否を真っ先に確かめたかったからなのかも知れなくて。
「ごめんね? 皆で守ってくれてて、なんか心配もかけて。皆に一杯迷惑かけちゃって…。」
 小さく微笑って見せる少年に、サンジもどこか感に堪えたような染み入るような想いで優しいいたわりの笑みを返した。いつもその小さな体に一杯の元気を詰め込んだ頑張り屋さん。甘えん坊だが、芯は強い、お日様みたいな愛しい坊やだ。そっと身体を支えてやって立ち上がらせ、ナミらが待つ四阿へ戻ろうとしかかったサンジであったが、

   「…っ!」

 不意にルフィがサンジを突き飛ばした。
「離れてっ!」
 大した力ではなかったが、あまりに突然だったことからサンジは数歩分ほども離れたろうか。そこへ高々と沸き立ったのは大地から途轍もない勢いで噴き出した砂の柱だ。周囲に幾つも竜巻のように立ち上がった砂の柱は、何かしらの生き物が身をよじっているようにゆるゆるとのたうちながら右へ左へ不規則に動き回り、芝の緑を砂地へと塗り替えてゆく。
「こ、これはっ!」
 潤むような翠の中に、千紫万紅、瑞々しい花々が咲き乱れていた緑園が、あっと言う間に砂塵の荒れ狂う砂漠に呑まれようとしている。宙空にまで届きそうな砂の竜巻が幾本も荒れ狂う様は、壮大圧巻というよりいっそ不気味で、
"…どういうことだ。"
 まさか…ルフィを追って来た邪妖の術力ではなかろうか。
「あっ!」
 身もだえを続ける砂柱が、呆然と立ち尽くす二人を呑み込まんとしているのを察して、
「ルフィくんっ、サンジくんっ!」
 それを救おうとナミが飛び出して、ぶんっと振られた腕の先。柔らかな光がほとばしり、それが届いた砂嵐の中の二人を光の珠に収めてしまう。流砂からひとまず逃れさせ、こちらへと宙を移動させた。
"既にどこか近くまで迫って来ているというのか?"
 砂漠はそれ以上広がるのをやめたようだが、新たに沸いた灰色の泉のように渦を巻いてその場に躍り続けている。
"何ということだ。"
 もしも…今現在の彼らが最も懸念しているところの輩の気配であるのなら、一番強い結界が取り巻く聖宮に、しかも彼らに気づかせずに、するすると忍び込める手合いだということになる。砂嵐を忌ま忌ましげに睨みつけていたゾロの傍ら、
「サンジくんっ、ルフィくんっ!」
 ナミが離宮から飛び出すように駆け出していて、すぐ傍のポーチの縁まで運び込んだ彼らの側へと歩みを運んだ。
「ルフィくん。」
 サンジから体についた砂を払ってもらっている小さな坊や。異世界へと引き摺り込まれ、こんなにたくさんの痛々しい怪我を負い、さぞや怖い想いをしたことだろう。
「怖い…。」
 何も覚えていないことへだろう、怯えるルフィを宥めようと、細い肩を引き寄せる。
「大丈夫よ。もう再び、攫わせやしないわ。」
 間近になった頬の傷が目に入った。そっと親指の腹を添わせるようにしてなぞり、治癒の術で消してやろうとしたのだが。


   ――― …っ!?


 眼前で突然閃いた光にはっとする。
「な…に?」
 ルフィが背後に隠し持っていた魔剣を手に一気に掴みかかって、ナミの顔近くを薙いだのだ。
「…っ!」
 触れるか触れないかという切っ先。紙一重で身を避けたナミだったが、
「…ルフィっ?」
 見返した彼の瞳が、
"な…っ!"
 その光彩が糸のように縦に絞られている。
「…ルフィくんっ!」
 問いかけようとするナミだったが、不意に目の前に光が散って立っていられなくなった。
「ナミ様っっ!」
 一体何が起こったのだか。双方を味方身内と信じきっていればこそ、目が眩まされたようになって訳が分からず、近くへ寄りつつも立ち尽くすサンジに代わり、真っ先に異変の真相に気づいたのはゾロだ。
「サンジっ! ナミを引きはがせっ! ルフィは“夜叉の外法
げほう”で意識を封じられているっ!」
「…っ!」
 ほとんど言葉への反応だった。ルフィもまた被害者ではなかったかだとか、痛々しく傷つきながらもゾロの身を案じてやっと逃げて来た身ではなかったかだとか。そういった躊躇が挟まらない咄嗟の行動で、サンジはナミとルフィとの間に身をすべらせるようにして彼女を守ることを優先する。その動きが終わり切らない刹那へと、ルフィからの二の太刀が突き出されて来た。
「…あっ!」
 手入れの良い鞘に収まるかのように、何の抵抗もなく脾腹の奥へするりと吸い込まれた剣の切っ先。信じられないほど強く身の内へ押し込まれた何かに、サンジは衝撃や恐怖以前に、起こっていることへの理解が追いつかず、不可思議さを感じたほどだった。
「サンジくんっ!」
 ナミの悲痛な声と熱い激痛とが同時に襲い掛かる。主人の盾になることなぞ既
とうに覚悟のことだったから、身体もすんなり動いたが、今頃になって理不尽な現状がサンジの上に混乱を招いていた。
「な、なぜ…ルフィが……。」
 視野が真っ赤に染まったそのまま崩折れそうになりながら、だが、サンジはその場から動かない。目が眩みそうな激痛にも負けず、剣を引き抜かせないようにと、両の手でルフィの手首をしっかと掴んでいる。噛み締められた口唇からあふれ出した鮮血が、細い顎へ糸を引いて滴り落ちた。
《…チッ!》
 今にも膝から落ちそうな風情だのに、思ったより強いサンジの抵抗に、ルフィの唇が歪んだ。
《離しゃっ!》
 引けないのならばと、ぐいっと力を込めて再び押し戻す。途端にサンジが短く鋭い声を上げた。これまでに一度として聞いたことのない甲高い悲鳴であり、
「サンジくんっ! もうやめてっっ!」
 たまらず従者を腕に抱きすくめ、ナミは彼とルフィとを引きはがした。訳の判らない目眩いが依然として視野に閃いていたが、しゃにむに後ずさって傷ついたサンジを自分の腕の中へと庇うように掻い込む。
「ナ、ナミさん…。」
「喋らないでっ。」
 その身を盾にするとは馬鹿なことを…と叱れる立場ではない。守ってやれなくて何が首長かと、全身が総毛立つ。自分が迂闊だったという事実の、刺すような冷ややかさから身がすくむ。注意の上にも注意をと、厳重な警戒をしいていた筈だのに、易々と深くまで踏み込まれ、こうまでの無様な次第を呈してしまった迂闊さよ。
"………くっ!"
 演者がその役柄を変えたことで、雪崩を打つように状況が反転したこの一幕に、呑まれたように凍りつきかけていたのは彼だけではない。サンジへ警戒の鋭い声をかけたゾロもまた、二人が目の前で次々に傷つけられたことへ、サンジ以上に…それを為した対象への驚愕もあってのことながら、瞬時には身体が動かずにいた。
「ナミっ、サンジっ!」
 身動きが侭ならない二人だと我に返って、遅ればせながら駆け寄らんとしたが、
《邪魔だてするかっ!》
 振り払うように大きく宙を薙いだルフィの腕の動きにともなわれた疾風が、ゾロの胸板をどんと押した。
「が…っ!」
 骨まで響いて突き抜けた風は、まるで巨大な飛礫が叩きつけたような衝撃があり、まだ癒えぬ傷が食いつくような痛みを滲ませ、元の場所へ易々と押し戻されてしまっている。………と、

   《…はがぁっ!》

 不意に。ルフィが喉元や胸板を自分の小さな手で掻きむしり始めた。何かしら…喉奥に閊(つか)えたものでもあるかのような苦しげな様子で、
《あ、あぐっ!》
 悲鳴とも叫びともつかぬ声を上げていた身が、とうとう地に崩れ落ちたその瞬間。


   ――― …っ!!


 その場にいた皆が眸を見張った。蹲るように身を丸めて地に伏したルフィの小さな背中から、もう一人の"誰か"が むくりと身を起こしたからだ。

   《…ちっ! こんな時に障壁が反応しようとはの。》

 忌ま忌ましげに言い放ち、すっくと立ち上がったのは、あの"混沌の淵"という亜空間にて、たしぎやビビを翻弄していた魔道の少年ではないか。ということは、
「ルフィっ!」
 地に伏せた…そちらこそ間違いなくルフィ本人が、ゾロからの声に顔を上げた。
「あ…ゾロっ?!」
 聞き間違える筈のない声を、愛しい声の主を探して、消耗し切っていように懸命に顔を上げた少年を、だが、
《残念よの。お前は先に帰っておれ。》
 汚れたパジャマの後ろ首を引き掴んで、その足元から無理矢理に立ち上がらせると、ぶんっと自分の後方、流砂が渦巻く砂の泉の真ん中へ、それは無造作に放り込む。
「な………っ!」
 今の今まで意識を封じられていた坊やはあっと言う間に姿を消した。そして、それへと歯噛みする面々へ、

   《天使長とて妾
わらわには小者、潰してしまうは容易いこと。》

 嘲るように高らかに笑って見せて、ナミに掴みかかろうとした魔道の少年の手が、

   ………っ!?

 何もない宙空で力強く弾かれる。
《…なにっ!》
 どこからか束ねた銀鈴を降り鳴らすような音がした。どこからなのかが掴み難い"しゃんしゃりんしゃん…"という音は、遠くに近くに舞うように周囲をぐるぐると巡って鳴り響き、
「え…っ?」
 いつの間に現れたのか、その鈴の音が形を成したかのように宙をほろほろとまろび飛ぶクロアゲハ蝶がいる。虹色の光沢を闇色の中に呑んだ艶やかな翅
はねをはためかせて舞っていた蝶だったが、
「"昴雷閃"っっ!」
 そんな声とともにぱんっと弾けて、たちまち一条の閃光がほとばしったから、
《ぐああぁっ!》
 辺り一帯を真白く塗り潰すかという勢いで満ちた光に、魔道の少年が怯
ひるんで見せる。
「聖世界の者には大した目潰しでもないのだが。お前様には少々強すぎたかの?」
 目元を覆う魔道の少年の耳に届いた声。張りのある低音が、威風と余裕を含んでどこか悪戯っぽい。

   《…封咒一族の頭目だな。》

「見知り置いてもらえていたとは光栄だな。」
 いつのまにやら魔道の少年の前に立ちはだかっていたのは天巌宮の主だった。先程の目眩ましの隙を突き、ナミを背に庇った上で魔道の少年から遠ざけた彼であるらしく、
「よくも化けたものだの。ルフィとかいう坊主の身に溶け込むことで、この聖宮の防御障壁を擦り抜けたらしいが。」

   「…っ?!」

「オマケに手も速い。」
 あれほどの咄嗟の中、それでも魔道の少年からの反撃があったらしく、ゼフが胸の前に上げた左腕の手首近くから肘にかけて、筒袖の装束が朱に染まっている。
「じゃが、そうそう好きにはさせん。何用があっての訪問渡来かは存ぜぬが、これ以上の無体は容赦せぬ。」
 堂々と言い放つその貫禄は、さすが聖封総帥の威厳と風格。子供の拵
こしらえとはいえ、得体の知れぬ、とんでもない力を持つ相手を前に、射貫くような鋭いまなざしを一瞬たりとも緩めぬそのまま、
「"氷獄縛"っ!」
 気合い一閃。まるで瞬時に四方の空気へ銀の亀裂が走ったかのように、針をまとった幾本もの蔓が放たれ、その蔓が相手にからむ端から見る間に氷の槍と化した。
《チッ!》
 魔道の少年が舌打ちをし、宙から炎の剣を召喚する。氷の防壁が一気に薙ぎ払われるだろう予測はゼフにもあった。僅かな間合いでも良いから、隙が欲しかっただけのこと。
「チビナスっ、ゾロっ、どっちでも良い、翼馬を呼べっ! 一旦退
くぞっ!」
「あ、ああっっ!」
 ゾロが高らかな指笛を吹くと、宙空から飛び出して来たものがあった。目映い光の翼を羽ばたたかせるそれは、次空移動が可能な純白の天馬だ。
「儂
ワシは此処に結界を張ってから追うっ。先に行けっ!」
 ナミとサンジとを抱えるようにしたゾロが跨がったのを待って、間髪を入れずに天馬の尻を叩くゼフである。どこへ…とは言わなかったが、宙空に溶けるように消えた彼らが辿り着いたのは天巌宮だった。


   *殺伐としております。
    今回のノリは半端ではありません。
    あああ、早くオアシスに辿り着きたいです。(切望)


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