二の章 水紋
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天聖界はほぼ地上の世界と同じ自然環境に構成されている処で、青空の下で風にそよいで波打つ草原もあれば、したたるる翠のあふれる森もある。武骨な悠然さに時間さえも押し黙る巌峰、仔鹿たちが飛沫しぶきを蹴立てて渡る清流のせせらぎ、ガラス細工の花のような水晶柱がそこかしこに煌く洞窟、小鳥たちが囀さえずりながら はしゃぐように群れ遊ぶ木立ちや、瑞々しき百彩の鮮やかな花園。今では人間世界にも無くなりつつあるような原風景がちりばめられた、まさに"理想郷ユートピア"のような世界。ただ…強いて言うなら、大河や瀑布、広い湖沼はあるが"海"だけがない。広々とした空に浮かぶ聖世界は、宙に浮いているプレートによって構成されていて、言わば大空が大海の代わりのようなもの。そんなせいでか、此処に住まう住人たちはその殆どが自らの身体を浮遊させられる術を持つ。翼のある聖獣たちは言うに及ばず、人型の精霊たちも大半が宙空を気安く飛び渡る。また、聖格が上の者ともなると、念じることで瞬時に目的地まで移動することも可能。よって地続きの一ヶ所に始終寄り集まって暮らしている必要はなく、それぞれの宮に直接仕える者たちでもない限りは、おのおのの性向に合った場所に居を据えて、皆が皆、好き勝手に過ごしている。そんな風に人が一つ処にごちゃごちゃと寄り集まって居ないことが、此処がゆったりと静かな世界である所以でもあろう。
とはいえ、天使長や神格・準神格の方々のおわす"聖宮"とその傍近くは別であり、お館様に仕える者たちがそれぞれの役目に立ち働き、またその補佐役たる小者たちが日々の雑務に精励してもいる。人世界のような"物質世界"ではないながら、誰もが指先ひとつ、瞬きひとつで何でも意のままに扱えるという訳にはいかない。そこまでこなせるのは相当な能力を持つ"長"クラスのみ。能力の弱い者は現実化出来るイメージの範囲も限られている。大した距離や高さを翔べず、冗談抜きに歩いた方が早かったりするし、同じ理屈で…自分の身ではない何かしらの物体を運ぶにしても、宙に浮かべたり次空転移をこなすより抱えて直に持って行った方が簡単だったりもする。よって、そういう者たちは上つ方々様の"よりお側"にいなくては用を足せないので、至便性を優先して自然と持ち場近くに集まるように控えている形となっていて、そんな立場の者たちを多く抱えた"聖宮"は、聖なる世界の最も聖なる生気に満ちた場所でありながら、同時にどこか人間臭い雰囲気の濃い場所でもある。
天聖界の東に位置する天水宮。ここは天使長ナミが統括する"破邪"たちの聖宮である。今回の"非常事態"はそれぞれの宮に於ける重鎮たちにのみ知らされたものであり、事情を知らぬ者たちは普段となんら変わらぬ日々を送っている。静かに潜行中の緊迫であるがため、日頃から折り目正しい規律や礼節を守っているこの宮では余計な詮索をする者も少なく、却って易々と隠しおおせてもいるというところだろうか。そんな中、サンジもまた、平生の様子を保つため、相棒が思わぬ怪我を負ったせいで暇なんだよという風情で、緑あふるる中庭を望めるホールにて…何となく憮然とした顔をして過ごしていた。
"………。"
――― 思い出すのは自分と同じ水色のやさしい瞳。
『…サンジ。』
少しばかり困ったような顔をして、屈み込んで顔を覗き込む。
器用な手、甘い匂い。
やわらかな仕草、なめらかな声。
大好きだった。誇りだった。
だから。
これで永遠にお別れだなんて、
もう逢えないだなんて、絶対にイヤでイヤで。
唇を噛み締めて、そっぽを向き続けた。
『ねえ、サンジ。お顔、ちゃんと見せて?』
お願いだから。
そう言った声が震えてて。
ハッとして見やれば。
その瞳が、溺れそうなほどの涙の中に滲んでいて。
『いい子でいてね?』
あんなに哀しそうな笑顔。
後にも先にも俺は見たことがない…。
"………。"
ぼんやりと。咥えタバコの煙を目で追う。そんなところへ、
「…おい?」
傍らの窓辺という意外なほどの至近距離に突然の来訪者があって、
「えっっ!?」
金髪碧眼、長身痩躯。甘いマスクに優美な物腰。素敵な方よね、気が利いててセンスも良くって。小間使いの女官たちが寄ると触ると"きゃわきゃわvv"と噂してにぎやかな、憧れの麗しの聖封様が。常のダークスーツもびしっと決まったシャープなお姿のそのままに、
「何をフラフラしとんじゃ、貴様。」
ついつい言葉遣いを荒げてしまうほどにたいそう驚いて見せた。油断を突かれたという意味でも勿論のことだったが、相手も相手。
「よお。」
「"よお"じゃねぇって、よおじゃあ。」
ほんの半日ほど前に、瀕死の重傷を負って人世界からこちらへ連れ戻された破邪。日ごろ見慣れた黒っぽいシャツに黒いボトム。袖を通さぬ裾の長いカーディガンを肩に羽織ってこそいるが、それでもあの大層な怪我を負った身だとは、言われなければ分からないだろうしゃんとした姿勢でもって歩いているゾロであり、
「どうして此処に?」
「なに、お前んチで暇を持て余してうろうろしてたらな、お前の爺様が"力の大きいのが用もなく聖宮内をごそごそされると迷惑だ"とさ。他の封石にまで影響が出たら目も当てられんから、立って歩けるほどんなったんなら帰れとよ。」
口が悪いのは血筋なんでしょうか。そして…煙たがられたから帰って来たと、けろりと言う彼も彼である。
「あのなぁ…。」
サンジとゾロとはその見かけ見栄えの年格好のまま、大体同じくらいのキャリアを持つ同じ世代のもの同士。とはいえ、そこはやはり育ちや個性の差があって、サンジの方は一応由緒ある"聖封一族"の総帥直系の跡取りなせいか、見栄えも、そして…一見乱暴に振る舞うことが多い直情的に見せているその内面も、ひときわ繊細に優美に育ってしまった節があるが、ゾロの方はいかにも戦いや嵐の守護天使長に育てられただけあって、それに相応しく、背も高ければ筋骨も引き締まって逞しい、強壮さに満ち満ちた青年だ。眼光鋭く彫り深く、いかにも野性の獣を思わせる趣きの鋭角的できつい面差しをしていて、それが…これは相手をものすごく限定されることながら、若々しさの華やぎを含んでほころぶと、頼もしさの中に愛嬌のようなものが仄見えて、幾分か取っ付きやすくなる。あの小さな坊やの傍らに居るようになってまだ半年少々という身であるのに、相変わらずに"乱暴者"と呼ばれながらも…屈託のない稚気やら懐ろの深さやらを持ち合わせるようになり、無邪気な坊やと緩急自在な呼吸を難無く取り合って育んだらしい、余裕ゆとりのあるざっかけのなさが、他の場面でも現れるようになったほど。
"…確かにな。"
相も変わらぬ苛烈さを秘めながら、だが、随分と当たりがやわらかになったと思う。それは彼が、唯我独尊な破邪であった頃と違って、間近な周囲への注意を払うのが役目な立場になったから。これもその現れか、
「他のってことはだ。何か影響が出た封石があったってことだよな。」
ふと、声を潜めて聞いてくる彼に、
「………。」
チッと舌打ちをするサンジへ、
「それって、ルフィが襲われた件に関係あんのか?」
静かな声で重ね訊く。
"…ああ、そうか。"
そう言えば。彼も当事者であるにもかかわらず、事情というもの、最も聞かされていない人物ではなかったか。意識が戻ってどのくらいしてか、何だか急にすぐにも帰ると言い出したところを、
『まあ、待てや。今は、ナミさんやウチの爺ぃが遣つかわした特別な護衛が張っている。』
彼の体も完全じゃあないのだしと、一晩、様子を見てからでも遅くはなかろうと、なんとなく誤魔化し半分に言い諭したのだが。勘の鋭い彼だ、まるで…偶然狙われたルフィなのではないと、彼だからこそ狙われたのだと知ってのことのような、あまりに厳重な手配ではなかろうかと、そちらへも何か感づいているのやも。
「………。」
言ったものかどうしたものか。ちょっとばかり迷ったが、
「…まあな。」
隠していても詮無いかと、小さく吐息を漏らしてから口を開いたサンジである。
「封石の中、一番古いのがな、消えてたんだと。」
「………っ!」
途端に、ゾロが瞳を見開いた。予想以上の事実を聞いたという顔であり、
「お前、それって…。」
何となく。この相棒の様子がおかしいなと思っていたゾロとしては。
「………。」
それ以上の言葉を発せず、押し黙る。
"黒の鳳凰。師匠から聞いた話じゃあ…。"
世界の始まり、一条の霆いかづちとして生まれ出た"転輪王"が封じた巨妖。ところがその"封じ"が解けかかり、その巨大な負の気配に乗じた邪妖たちが立ち騒いだのが先の聖魔戦争だ。その綻びを塞ぐためにと、聖封一族で最も能力の高かった女性がその封石に共に融合している。巌の中で永遠の封咒を唱え続けているという。その女性こそが、
"ゼフ翁の娘、こいつの母親だと聞いているが…。"
自分たちが物心つくかどうかというほどに幼かった頃の話。それからどのくらいかの永い歳月が経ち、聖魔戦争さえもが伝説と化しそうなほどの歳月が流れゆきて。そんな話を知る者もめっきりと少なくなっている哀しい逸話。
"………。"
本当に、自分とは対照的な奴だと思う。誰とも何とも縁ゆかりのない自分と違い、生まれたその時から沢山の人々に囲まれて育ち、由緒のある家系の気風に揉まれながら、これもやはり彼自身は望まぬところの様々な試練や別れにも数多く遭遇して来た青年。人との繋がりに翻弄され、その中で人への優しさを身につけていった、奥行きのある気性をした繊細な彼。
"で、同情や気遣いはもっと嫌いだしな。"
面倒な奴だとこっそりと苦笑。そんなゾロの胸中になぞお構いなく、
「………で? 暇持て余して、こっちで昼寝かよ。」
サンジはどこか面倒そうに訊いて来た。四方宮の間には出入りに堅い禁制がしかれている訳ではない。どの宮の者であろうと他の地へも行き来は自由だし、実際例は少ないが性に合うのなら他所に住むも勝手だ。こんな事態の最中には、さすがにさりげない結界が張られることもあるが、正の精霊たちにはさしたる障害にもならないベールにすぎず、高等精霊ともなればそれが厳戒態勢下の障壁封咒でも擦り抜けが可能。
「それも良いかな。だが、こっちに居ると体も勘も鈍なまりまくるしなぁ。」
あっけらかんとした声を返すものだから、
「お前は…。」
気を利かせてか、封石への言及を避けてくれたはいいが、ということは。彼らに迫りくる存在の正体も薄々ながら察しがいった筈だろうに。この事態の最中に何を暢気なとやはり呆れたサンジである。無論、本気で"暢気ぶって"いる彼ではなかろう。そうまでの危機かと逼迫も増した筈だし、坊やの元へ駆けつけたいという想いだって尚のこと、深くつのった筈であろうに、そんな言いようをして見せるのは、これもまた一種の不敵さというものなのだろうか。
「冗談はともかく。天使長にも御挨拶をしておきたいのだがな。お騒がせしたが、ひとまずは無事だとお知らせしておきたいのだ。」
「あ、ああ。判った。」
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