二の章 水紋
1
厳重頑強な結界に守られていた筈のルフィの自宅だった。数十名もの精鋭たちによる封印結界を張り巡らされ、陰の者はおろか、どうかすると陽世界の者でも近づくのをためらわれるほどの、堅い堅い障壁結界が幾重にも結ばれ、施されていた筈だったのに。それらを大して打破も掠めもしないまま、するりと忍び入っていた何か。その何かは子供部屋に亜空間への入り口を開けており、既にルフィの姿はなく。それを目撃した女破邪たしぎとその補佐を務めるビビもまた、突風に撒かれて亜空間へと飲み込まれてしまった。
「ここは…。」
「"混沌の淵"だわ。」
ビビの応じの言葉に、たしぎは油断のない目で辺りを見回す。干上がった荒野。果てしのない無彩の大地。途中で意識が途切れた訳ではなかったが、それでも…どういう過程で、どういう道程で、こんなところへ飛ばされた自分たちなのかが判らない。だが、彼女らの体内コンパスで戻れないものでもないギリギリの範囲内だというのは、何となくながら判る。そうでなくては、他次元への跳躍などという"境界越え"がこなせはしないからで、それもまた彼女らが優れた存在であればこその能力なのだが。
「…気配が近い。この辺りに居る。」
二人の身は球体の光のドームの中にあって宙に浮いている。漆黒の水の中をさまよい泳ぐ泡のように、音もなく進むは何もない虚無の空間。幾つもの次界断層の終焉付近の辺境。次元の果て。数多あまたの歪みが最も寄り集まった反重力と虚数空間の海への入り口。それが"混沌の淵"だ。
「この辺りのようね。」
二人を乗せた球体は、シャボン玉が力尽きて舞い降りるようにそこへと着地し、彼女らを残してふわりと消えた。
「先程の気配はあちらから届いたわ。」
ビビがすらりと腕を差し伸べた方向。確かに何がしかの気配がある。ルフィが消えて、そこに穿たれていた亜空間への淵に引っ張り込まれた彼女たち。ということは、姿を消した坊やの行方、若しくはそのヒントが此処で拾えるかもしれない。二人は顔を見合わせると地を蹴った。どうせ身を隠すものなぞ何もない平坦な地だ。こちらも隠れようはないがそれは相手にも同じこと。風になり宙を滑空するような身の軽さと素早さで向かった先には、粗く削り出された板に鏡をはめ込まれたような泉がひとつ、空の暗藍色を映してぽつねんと光っている。
「…これは?」
「念がわずかに残っているわ。恐らく坊やの"気"を呑んだ"獄"でしょう。」
さすがに用心してまずは十数@ほど離れたところから様子を窺う。そう。それはあの妖かしの存在が傍らに佇んでいた泉水で。先程まで浮かんでいた少年の幻もなく、冥く濡れた水面みなもだけがただただ黙りこくっているばかり。
「自然に出来たものではないようだけれど…。」
泉の傍らへと歩み寄ろうとした彼女らだったが、
「…っ!」
不意に突風が吹きつけたかと思うや、突然、泉のおもてから水柱が沸き立った。警戒して身構える二人に、
《よう参らせた。天聖守護の使いかえ?》
掛けられた声がして。はっと身構えながら見やると、いつの間にか泉の傍に人影がある。水柱を後背に立つその人物は…思っていたものとは随分違い、たいそう小柄な"少年"であった。襟の立った銀絹の小桂に、足首をすぼめた下履き。直衣に似た真っ赤な被着には冥い光を放つ玉石や糸で炎焔模様が縫い取られ、腰を絞ったベルトの佩はいには、黒水晶だろうつややかな玉石で細工された、竜や鳳凰、麒麟に一角獣などの、幻獣の根付け飾りが幾つか、鈍い光を放って並んでいる。それらをまとった少年は、目尻のわずかに吊り上がった赤みを帯びた眸に、象牙細工を思わせるような白い鼻梁と頬、すんなりと伸びやかな手足をしていて、雰囲気はあの坊やにどこか似てもいる。ただ、あの少年とは違って、こちらの彼はまるで淡い色の炎のように逆立つ髪をしていて、
《主ぬしらの用向きはこれだろう?》
不敵にニヤリと微笑った彼の背後。水柱が怪しく光って、その中に別な人影が浮かび上がった。立った姿勢のままで、だが、瞼を伏せて眠っているらしいその人物こそ、
「ルフィくんっ!」
彼女らに馴染み深い坊や、その人である。寝かしつけたビビが最後に見たパジャマのままという姿だが、よくよく見れば。首や腕に鉄の環を嵌め込まれていて、それぞれに鈍く光る鎖が下がっている。幼いとけなくも可憐な面差しがピクリとも動かぬあたり、何がしかの封咒がかけられている彼なのだろうが、その上のこの扱われようがあまりに痛々しい。
「なんと惨いことを…。」
華奢な首条や細い手首の白い肌目に喰い込むように嵌められた無骨な鉄の輪。少女のような作りのか細い肢体には何を持って来ても負担であろうに、選りにも選ってそのような無残な枷を加えられた虜囚そのものという姿に、屈託のない無邪気な彼をよく知る少女たちの表情は思わず険しいものとなった。水の中に虜として取り込まれた坊やのその前へと立ち塞がったままな少年は、
《そちらの娘は新顔かの?》
たしぎを指して"くつくつ…"と笑い、
《先せんにこの和子の傍らにおったは、お前の仲間かの。さんざ手古摺らせてもろうたが、うっかり怪我をさせてしまったのは済まなんだ。大事はなかったかえ?》
案じていたという含みを持たせながら、その実、いかにもおどけるように言って見せるものだから、
「…っ!」
たしぎの眉がきりきりと吊り上がり、腰に帯びた剣の柄つかへと手がかかる。か細く見えるが引き締まった肩や二の腕に瞬発力がみなぎり、
「…哈っ!」
鋭い気合いの乗った横薙ぎ一閃と共に、彼女の痩躯が疾風をはらんで少年の間際まで跳んだが、ほんの鼻先で嘲笑っていた顔があっと言う間に掻き消えて、水柱の向こう側ににやにやと嘲笑っている顔が現れる。だが、
「もらったっっ!」
そこへはビビが跳んでいた。たしぎの身体の陰に隠れるように彼女もまた宙を滑空していて、少年が達した横手辺りの地を一旦蹴って方向を切り返し、水柱の裏へと逃げた相手へ追いすがっていたのである。勢いよく振り伸ばされたビビの掌から飛び出したのは何本もの鋭い小刀で、柄に籐を堅く巻きつけた細身で小ぶりの武器ながら、その攻勢は間断が無く、
《ほほぉ。》
後ろを向く暇も無いまま後方へと逃げを打つ少年へ、まるで銀の氷矢を射かけ続けているかのようにも見えるほど。だが、あと僅かばかりの間合いを残して小刀は空しくも届かずにいる。
「待てっ!」
業を煮やして伸ばされたもう一方の腕。そこから…手練の技にて振るわれた鞭のような勢いと、視野一杯を一気に覆うほどの広さで飛び出したものがある。透明で撓しなやかな幾条もの蔓の束だ。凄まじい圧縮の封を切られてほとび出た噴泉のように、空を疾はしり風を切り、四方数mもの広がりで一瞬にして相手を搦めて覆い尽くす、それは正に蜘蛛の糸。だが、これもやはり、少年の深紅の衣装の袖や裾にあと少しというところで触れることはかなわずに逃れられ、空しく宙を掻いたのみ。
《手練てだれ揃いで嬉しやのう。》
まるで雅びな舞いの足運びのように、涼しい顔のまま軽い摺り足でするすると逃れる余裕が尚もって小憎らしい。一方、
「今の内にルフィくんを…っ!」
自分の身を盾にするような位置取りになり、ビビがたしぎに声をかけた。勿論、彼女らの目的はルフィを救出することでもあり、たしぎは"言われずとも"という連係で坊やが取り込まれている水柱へ既に駆け寄っている。
「ルフィくんっ!」
一定の高さを保って噴き上がる水の中、ゆらゆらと髪を泳がせるようにして眠り続けている坊やは、外界の様子が伝わらないのか、たしぎからの呼びかけにも何の反応もないままだ。
「………。」
無造作に手を出して良いものかとたしぎが躊躇したのもほんの刹那。目を閉じて念じを込め、顔の前まで上げた手で宙空を断つように幾つかの印を切る。
「外法解咒っ!」
途端にルフィを包んでいた水が一気に高さを増して勢いよく噴き上がった。水自体にかかっていた不自然な制御を解かれたせいであり、坊やの身体も水による呪縛から解かれてぐらりと前のめりに倒れて来る。それを腕の中へと受け止めようとしたたしぎだったが、
《そう上手くは運ばぬぞ?》
魔道の少年がそんな声をかけたかと思うや否や、ルフィの姿はすうぅっと色彩を失ってゆくではないか。そして、
「…っ!」
それまで包まれていたところからたしぎの術により弾き出されたその水の中、淡い絵の具が顔料の粒子に戻って溶け込むかのようにするすると混じり合い、見る見る内に掻き消えてしまったのだ。
「…ルフィくんっ!」
悲痛な声を上げるたしぎに、ビビからの波状攻勢から大きく逃れた宙空で少年はにやにやと笑って見せ、
《無念じゃったの。したが、彼かの者は妾わらわにとっても必要な虜囚とりこじゃ。そうそう容易たやすく返す訳にもゆかぬでのう。》
これもまた、この少年によって最初から仕込まれていた幻影による悪戯だったのだろうか。ビビからの攻撃を余裕で躱しながら、こんな術まで文字通りの"片手間"に操ることが出来るとは、
"さすがに一筋縄では行かぬか。"
多少は覚悟のあったことで、それこそ歯噛みしても始まらない。剣の柄をしっかと握り直し、たしぎは鋭い眼差しを少年の上へ振り向けた。
「ルフィくんをどこへやったっ!」
《おや。対手に訊くとは、また無粋なことじゃの。》
お道化たような口調も変わらぬまま、それこそ芝居がかった態度で意外そうに目を見張る。
《そのような不精をする者には、仕置きが必要じゃの。》
広がった袖を捲れ上がらぬように留めるためだろう、華奢な手首に巻かれた鎖。そこへ飾りに下がっていた黒水晶の宝珠を一粒、指先に摘まみ取る。少年の掌の中に包み込まれた宝珠は、指の間から光をあふれさせ、たちまちの内に…黒々とした刃に雷光の炎をまといつかせた一振りの剣に変化した。自分の腕より長いその剣を、顔の前、やや斜めに構えると、すすす…と地上にまで降りて来て、すとんと足を地につける。
《かかってきやれ。》
あくまでも余裕を崩さぬ小憎らしさよ。だが、それもまた…こちらの気持ちをかき乱させるための、相手の手管の一つであるのやも知れない。そういった挑発に振り回されている場合ではないと、たしぎもとうに集中力を取り戻していて、
「おうさっ!」
青眼に構えた剣に高めた気を乗せて一気に斬り込んでゆく。鋭い気合いを孕んだ刃は咬みつくように相手の刃へ斬り結んだが、その攻勢を少年は事もなげな様子で軽々と弾き飛ばした。剣自体が何らかの波動を帯びてでもいるのか、触れる前から途轍もない反撥力が伝わって来て、たしぎほどの豪腕でも危うく剣を持って行かれそうになったほど。その僅かな隙をついて、
《ほぅれ…っ!》
羽のような軽さを思わせる、それはなめらかな軌跡を描いて振り下ろされる大太刀に、だが、たしぎは怯ひるみもせずに突っ込んでゆく。
「哈っっ!」
ぱしっと音がしたほどの衝撃と共にたしぎの頬と肩口に傷が開いたが、そんな彼女が振り払った太刀にも手ごたえはあって、
《…ぐっ!》
二の腕を押さえて少年がわずかに後ずさる。
《そうじゃった。主ぬしらのような輩は自らへの刃は恐れぬもの。痛めつけてもさしたる効果は上がらぬか。》
裂かれた装束の上をするりと撫でて傷口を塞ぐと、
《ただの折檻では堪こたえぬのなら…。そうじゃ、こうしよう。》
ユンッと、肘から差し上げるように高く高く、頭上に振り上げられた白い指先。伸ばされた腕がそのまま、少年の前へ盾を縁取るようにくるりと大きく輪を描くと、その指先がなぞった空間に淡い澱おりのような陰が滲み出してきて、見る見る内に彼を包み込むドームのような球状の障壁と化した。そんな仕儀を見せてから、
《ほれ、今一度逢わせてやろうぞ。お前たちが助けに来た愛惜しい和子じゃ。》
「…っ?!」
少年が指差した先、彼らの頭上に現れた影が一つ。先程と同じ、鎖に縛られた痛々しい姿のルフィである。立った姿勢ではあるが、やはり眠ったままな様子であり、重い鎖に搦め取られた腕も可憐な花を思わせる幼い顔も力なく項垂うなだれていて。まるで、目には見えないロープや何かで宙吊りにされているかのようにも見えた。
《よう見るがいい、これがお前たちへの仕置きじゃ。》
少年が言った途端、ルフィの顔が勢いよく跳ね上がる。
「な…っ!」
一体何が起こったのか。不意な突風に顔を背けたようにも見えたが、仰あおのいた顔が再び前へとがくりと垂れたことで、何が起こったのかがたしぎたちにも見て取れた。その白い頬の上部、左目の縁ぎりぎりに蘇芳の裂傷が走っていて、そこから鮮血があふれるように迸ほとばしり出たからだ。
「ルフィくんっ!」
苦痛の表情を見せないのは、痛みさえ感じない深き眠りの中にいるのか。それとも…先程の一連の手並みを考えると、これもまた幻を使ったものなのかも知れないとも思えはするのだが、自分たちの仕える主上の、そして大切な僚友の知己であり、それより何より、何の罪もない非力な子供。たとえ幻影であろうと、これほどの非道を受ける姿はたしぎやビビには見るに堪えないというもの。助けに飛ぼうと腰を落として跳び上がろうとしかかったたしぎだったが、それを制する声が間髪を入れずに放たれる。
《勝手は許さんぞ。身動きもならん。》
声と共に、凄まじい圧迫感がたしぎを襲った。
「ぐっ!」
目には見えぬ何か。大きな突風が形を取るほどの塊りとなって叩きつけたような、そんな力が彼女の動きを封じたのだ。
《そこで黙って見ておれ。》
これもまたこの少年の念じの力なのか。
"こうまで手玉に取られようとは…。"
何とか抗しようともがくたしぎの眼前で、片頬を紅に染めたルフィの顔が、何かに顎先を持ち上げられたように仰向いて、
《大切な虜囚じゃ、どう可愛がってくりょうかと思案しておったがの、美しゅう化粧けわいをしてやるのもまた一興じゃ。ほれ、この細い首を見やれ。愛おしいのう、可憐よのう。》
少年の声が終わらぬうちにも、その首条につつっと糸のような傷が走ったから、
「や、やめなさいっ!」
たしぎが叫び、ビビが短い悲鳴を洩らしかけた自分の口許を両手で押さえつける。首に刻まれた傷はさして深いものではなかったようだが、頬からの鮮血が首条の傷を上から塗り潰し、淡い色合いのパジャマの襟元や胸元を暗蘇芳に染め始めている。
《次はどこが良いかえ? 額を切って緋の涙を流させようか? それとも愛らしい唇を削そぎ落としてやろうかの?》
まるで鼓動を刻んでいるかのように、彼の言葉に合わせて鈍く光る障壁珠。その奥から魔道の少年が殊更愉快そうな声で訊く。余裕で腕組みをしたままな彼がくつくつと喉を鳴らすその笑いは、明らかに嘲笑という種のそれであり、
「…くっ!」
手出しの出来ない歯痒さに、たしぎが憎々しげに歯噛みして見せた。
"いくら莫大な力の持ち主だとて、こんな虚無空間でそうそう自在に法術を操れるものではない筈なのだが…。"
あの翠眼の破邪でも深手を負わされたくらいだ。自分より上手を行く相手であるという予測はあったたしぎだが、それにしても…と不審を覚えた。この"混沌の淵"は、様々な次元の果てにしてそれぞれの次界の接点であるが故に、非常に不安定な場所でもあり、だからこそ誰も進んでは近寄らない。どんな弾みで異空間に呑まれるやも知れず、出口のない幽界に迷子として取り込まれたくはないからだ。たしぎもビビも自分たちの回りに一応の防御の結界陣を張り巡らせてやっとこの場に居られる身。だというのに、彼はたしぎとビビの相手を片手間にこなした上で強固な防御壁を形成し、ルフィの意識を封じて意のままに操っている。
"どの次界の者にもここの条件は等しい筈だのに…。"
そうまでの力を秘めている者だというのだろうかと、たしぎの胸中にかすかな焦燥の想いが沸き立った。
"ビビさんは"黒の鳳凰"の話をしてくれたけれど…。"
神話の中に出て来る、破格の力を持つ邪妖。ビビが、そしてたしぎが仰天したように、単なる伝説の中の架空の生き物だと、誰もが思って疑わなかった存在。二度と再び復活しないよう施された堅固な封咒という要素を誰もが信じたから。そして、そんな途轍もない邪妖の存在なぞ、この世界のどこにも気配や陰の欠片さえ現れたことはなかったから。遠い遠い伝説の中の架空の生き物だと誰もが信じて疑わなくなっていた。
"…でも。"
その封石が消えたことが、イコール そこに封じられていた大邪妖の復活という予測へつながるとして。
"………。"
天聖界とは人界を挟んでの裏にあたる"負"の次界に属す者。その昔、転輪王に分断されて世界の果てや次元の歪みへ四散した"邪妖"の一族。たしぎやあの翠眼の精霊が天使長ナミからの命を受け、破邪として立ち向かう悪しき存在たち。隙あらば人世界に忍び寄り、人間たちに悪行を加え、その生を損なうそんな"邪妖"たちを、容赦なく粛正封滅するのが自分たちの使命であり、黒の鳳凰といえば、そんな"邪妖"たちの、言ってみればそもそもの大元。しかも格が凄まじい存在であるが故、天使長や聖封総帥といった"神将"たちのみが、秘密裏に…今の今でもその存在を"現実"につないで考えているのは、厳重な監視と管理が現に必要な存在だからだろうが、
"………。"
それにしては…力がそうまで絶大な存在だというのなら、やはり腑に落ちないことがある。
"その復活にせよ、世界の凌駕や破壊にせよ、
こんな風に異変に気づく暇も誰にも与えぬままに、
もっと大掛かりな運びにて事態を運んでしまえる筈ではなかろうか。"
万が一、実力に格差のある弱いものを嬲なぶることが快感だという悪趣味な手合いであったとするなら、話はまた変わってもくるが、そのように余裕のある者からの悪ふざけではなかろう。そうと断じることが出来るのは、あの家への聖封たちによる堅固な防御網のせいだ。今回の展開を、その進展を予測していた顔触れたちには、ルフィというあの坊やがこんな風に再び襲われるという予測があったらしいことが察せられるからだ。
"ルフィくんを、この子をこそ狙っていると分かっていたからこそ、ああまでの防御を敷いたということか?"
だというのに、こうまで手玉に取られている自分たちだというのがいっそ憎々しい。だが、そういったことを顧みるのはいつでも出来る。
"………。"
ここまでの経緯から言っても、この邪妖の化身がルフィを攫ったのは、何かしらの交換条件を引き出すための人質としてではない。坊やそのもの、本人こそが、大邪妖"黒の鳳凰"を復活させるための、何らかの大事な要素の一つだからではなかろうか。世界の始まりに大暴れした大邪妖は、理由までは判らないが…あの坊やを手に入れねば元通りの存在にまでは復活出来ないのではないか?
"ならば、その大切な鍵であるルフィくんを殺してしまっては意味がなかろう。"
ぎりりっと眸を見開いたたしぎのその視野に、こちらを真っ直ぐ見やるビビの顔が収まった。
「…たしぎさんっ!」
ビビの声にたしぎも頷く。
"あの坊やは幻影まやかしだ。千に一つ、万に一つ、そうでなかったとしても、命や存在まで奪いはすまい。"
いささか乱暴ではあったが、長引けば長引くだけ事態は悪化するのみとの決断をなしたたしぎである。
「邪陰隠滅っ!」
肩から伝う血が達していた肘をも上げて、手中の剣を高々と頭上へ跳ね上げ、額の前に両手で印を結ぶ。三角を重ねたような光の円陣がたしぎの額に浮かび上がって、
「哈っ!」
頭上まで振り上げた刀を気合いもろとも思い切り振り下ろすと、その切っ先から目映い光の軌跡がほとばしったから。
《………なっ!》
魔道の少年がその表情を凍らせる。光の刃は太々しい束のまま、ルフィが捕らわれている宙空へと飛んで行き、見えない獄の中に吊るされていた坊やの胸板へと飛び込んだ。
「…っ!」
どうか違って、どうか幻影であってと、ビビが、そして攻撃を仕掛けたたしぎ自身が祈るように見つめたその先。質量のある塊りのようだった光の刃は、坊やの薄い胸板に直撃し、小さな体が一瞬…撓たわむように撥ねて見えたものの、
「…あ。」
光が陰を突き抜けて、その後の宙空には何の影もない。相手を蒸散させるような攻撃ではない、妖あやかしを相殺するためのエナジーをぶつけただけなのだからして、
「やっぱり。」
あの坊やの姿は幻影だったということになる。
「もうあんな幻は通用しないわ。さあ、ルフィくんを返しなさいっ!」
頬の傷をぐいっと荒々しく手の甲で拭い、毅然とした鋭い眸を魔道の少年へと向ける。一体何が目的かは定かではないが、この少年、ただルフィを奪うだけでは足りない、何かしらの用向きが彼女たちへとあったらしい。それが単なる力の差の誇示だというなら、そんなものに怖じけはしないと昂然とした表情で見据えたその先、
「ちっ!」
魔道の少年を包んでいた障壁珠が"ぽうっ"と鈍い光を放ち始めた。生き物の鼓動や胎動を思わせるような、一定のリズムを刻み始める。
「何を企んでいるのかしら。」
刀を振り上げ、今度は横薙ぎに振り下ろす。すると、先程の光が再び、今度は魔道の少年へと飛んでゆく。ただの相殺エナジーといえど、間断無くぶつけられれば相当な打撃。まるで宙空の中に何かを刻み上げているかのように、たしぎはざくざくと刀を振るい続ける。
「観念なさいっ。」
逃げ出す間さえ与えぬようにと、次々に容赦なく叩きつける光の矢だったが。それが。触れる端から弾かれてゆき、やがては触れる前からその軌道を圧し退のけられて、全ての光矢が流線を描いて向背へ逸れてゆくではないか。
「な…っ!」
単なるエネルギーの放出ではない。周囲の大気が揺らめくほど、莫大な力が膨れ上がってゆくのが判る。
"どうしようというのだっ。"
この"混沌の淵"の、今現在の一時的な安定を崩壊させようとでもいうのだろうか。
"そんなことをすれば…。"
次界の解放に巻き込まれるのはたしぎたちだけではない。この魔道の少年本人もまた、その身を粉々に細分されて、どことも知れない幽界へ吸収されるか吹き飛ばされるか。
《哈っっ!》
辺り一帯を真っ白に叩いた閃光が走る。質量があるのではなかろうかと思えたほどに濃密な光を放った障壁珠が、二人の視野の真ん中で一際の光量をまとって弾けた。
………と、同時に。
祭壇代わりの泉、岩野に穿たれてあった"獄"に満ちていた泉水が、宙空へ天穹へと届きそうなほどの勢いで高々と跳ね上がる。
「…あっ!」
その飛沫がさぁーっと霧と化して二人の周囲を覆ってしまったから。
「目眩ましかっ?!」
ただの霧では済まなかった。この"混沌の淵"においてはあらゆる存在が嫉そねまれて、歪ひずんではじかれる。
「きゃっっ!」
水滴であった筈の飛沫が針のような鋭さと質量をまとって辺りに充満し、容赦なく二人を包んだのだ。
「チッ!」
空中に浮遊するタイプの撒きびしを散布されたようなものだったが、たしぎ嬢が刀を鋭く二閃三閃することでそれらを微塵に切り刻む。先程までの攻撃に用いていたエナジーを載せていた刃での瞬斬だったため、針飛沫はあっさりと蒸散して消え失せたが、
「奴はっ?!」
素早く周囲を見回したものの、
「…いない。」
たしぎが呆然として見せる。
「気配がない。この空間のどこにも…。」
「そんなっっ!」
広大な"混沌の淵"は、だが、何物をも拒絶する空間でもある。だからこそ、誰か何かが存在すれば、その痕跡が察知出来る筈。正確な場所が分からなくとも、居るか居ないか、その感触は彼女らほどの能力者ならばまさぐることは出来る。先程までの対峙の最中ではそんな余裕もなかったが、
「………ホントだわ。」
だというのに、何の気配もないと来て。
「さっきの少年も、それにルフィくんも…。」
成果もないまま取り残されたと判って、ビビがその場にへたり込んでしまった。
「あの子が連れ去ったというのかしら?」
どこか途方に暮れたように顔を見合わせる。さっき最後にその姿を見た坊やは"まやかし"だった訳ではあるが、では本物は? 攫われたという事実は動かせないということではなかろうか。だが、ならば………。
「一体どこへ…?」
背景素材は、ぱぷりかサマ『Atelier paprika』さんよりお借りしました。**
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*いよいよの佳境です。色々とバタバタ展開いたします。
ウチには珍しくも、ほわほわとしたシーンがないままに続きます。
こんなのを年頭に始めちゃっていいのでしょうか。
皆様からの反応が怖い今日この頃です。
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