月下星群 
〜孤高の昴・異聞

   天上の海・掌中の星

    〜 黒の鳳凰 LAST DESTINY E
 

 
   二の章  水紋





 天聖界の北に位置する天巌宮。ここは代々の聖封一族の総帥が統括する聖宮である。古来より、凌駕・制覇・浄滅出来ないほどの様々な邪妖や禍いを内に閉じ込め、特別な咒でコーティングされた封石を封巌窟に護る役目を任じられ、言わば、そのためだけに生命を受けたようなもの。よって多少の事象への封であるのなら存在するだけで為せること、言ってみればこの身自体があらゆる"封"を司る者。それでも抵抗するものや反発の強いものには注意が要りようだったし、何より…決して復活させてはならぬものへは厳重に厳重を重ねての監視と念じが必要で。その役目があるせいで、他の天聖守護たちと顔を合わせることもそうそうなく、一族子孫への指揮を飛ばすばかりの身となって。聖宮にて静かに時を紡ぎ、世界に廻る風を眺めるだけという日々を永きに渡って過ごしていた。安穏とした日々が不意に途切れて、世界を呑み込むほどの災禍の混乱が訪れたことがただ一度だけありはしたが、それも何とか静まって………それから幾星霜たったのか。
"………?"
 封じの念が乱れたのは、長き平穏の続く日々からふと生じた慢心の現れだったろうか。一点のみに集中していた意識がそれは容易
たやすく紐解かれ、それに続いて…まるで暁光に照らされて徐々に鮮明になってゆく朝の景色のように、するするとゆるやかに脳裏へと広がった情景があった。白い濃霧に包まれた草海原の只中の川辺。静かな流れの洗ったそれだろう、純白の真砂の岸に何かが伏している。
"…何だ?"
 注意を向けたその途端、その情景に包まれるように意識が身体から連れ出されている。不思議と抵抗はなかった。意識が宮を離れた途端という間合い、気がつけばその場へ辿り着いている。人世界のとある水辺だ。それまでは夢を夢だと意識して見ているような…ガラス越しの他人事のように眺めているような感覚であったのが、辺りの冴えた空気がふわりと身に馴染んでまといつく。そんな中、
"これは…。"
 仰のけにした頭の、額から片側の目許までを水に沈めて岸辺に倒れていたのは一人の童子。相当水をくぐったのだろう、随分と色も褪せ、型も擦り切れて崩れかかった水干のような衣服を着せられている。姿はややもするとみすぼらしかったが、顔立ちはなかなか愛らしい童子だ。母は父はどうしたのだろうか。戦さでもあって追われたか、病忌に宿られ倒れたか。それとも飢餓の苦しみから、泣く泣く打ち捨てられたのだろうか。せせらぎに浸かってかすかに泳ぐ細い髪のさやさやと遊ぶ様子が、尚のこと彼の生命の灯火(ともしび)の薄さを思わせる。哀れに想いながらも手出しはならず、だのに何故だか立ち去り難くて、ただ傍に居たところ、

   −………。

 小さな声がした。童子の意識だろうか。
《…どうした? 怖いのか?》
 訊くと、ややあって応じがあった。

   −…ボクは苫舟に乗るの? 母様のおわす黄泉へゆくの?

 ここいらの風説なのだろう。死者の国とそこへの迎え。こんな事を思うということは、母親は既に亡くなっているらしい。
《…だろうの。》
 頬にも血の気はなく、口唇は乾いて青い。力なく投げ出された手足は萎え、童子の生命の灯が立ち消えるのも時間の問題だろう。

   −…あなたは誰? ボクを連れてゆくの?

 おや…と不審を覚えた。こちらが意思を向けて声をかけたのへの応じとは違って、こちらの存在を認めての呼びかけだったから。ただでさえ自分の姿は地上の者には見えぬ筈。ましてや、今は意識だけの身。あまりの心細さから、風にでも話しかけたつもりなのだろうか。魂が飛び立つその刹那とあって、剥き出しになりかけている鋭敏な感覚が気配を感じているだけだろうか。怪訝に思っていたところ、童子の眸がうっすらと開いた。

   「………だぁれ? あな…た、だぁ…れ…。」

   《お前…。》

 確かにこちらを"把握"している。その黒々と大きな瞳が自分を捉えている。だが、自分は異世界の住人で、しかも今は肉をまとわぬ意識だけという身だ。そんな存在を察知し把握出来るなぞ、素養もなく修養も積まずに容易(たやす)く出来ることではない。
"この童子、何者だ?"
 記憶を読んでみようか。過度の接触は何かしらの影響を齎
もたらすやも知れないが、もしかしたらそれどころではないことが起こりつつあるのかもしれない。傍に寄り、そっと額に手をかざすと、弱々しい意識の奥底を覗いてみる。気力も果てかけているせいだろう、まるきり抵抗もなく読み取れて、
《旅の途中で兄とはぐれたか。母親は巫女で昨年の春に急逝。父親は…?》
 姿が追えない。漠然としていて捉えられない。一緒にいた時期が短かったらしく、印象が薄い。だが、

   「父様…といっしょ。お声が、においが…父様と…。」

   《…っ!》

 懐かしげに微笑もうとする様子に閃いたものがある。
"あの時の…。"
 その昔、転輪王が人世界に降ろした和子。その子供が縁あって人世界の誰かとの間に成した子の何代か後の係累なのだろう。
"成程な…。"
 自分にも重々思い当たる存在だ。とはいえ、今や星の数ほどにも増えた人々の中から拾い上げることは、そうと構えてもなかなか適わぬ存在でもあり。この、正に奇跡のような逢瀬に感嘆していたその目の前にて、彼の中にあった"特別な因子"がこの危機的な状況を嗅ぎ取って、そこから逃れるため…生き抜くために目を覚まし、死へ抗うための活動を始めているのもまた感じ取れた。生気の中に張りが生じ、その意識が少しずつ鮮明なものへと晴れて来つつある。単なる"持ち直し"以上の奇跡。人の子としての当たり前の治癒能力よりも優れた再生能力。


   "まだこんなにも強く残っておるのか…。"



          ◇



 結局、何の手も下さぬままに戻って来たゼフではある。本来、人の世界の成り行きに手を出してはいけない身。決まりごとがあるとか禁忌を犯せば天罰が下るだとかいうのではない。ただ、人の知恵や能力を超えた仕儀は、善かれと思って施したものでも結局は大元の流れを変えるまでのことには至らず、遠回りをさせるだけという格好で…ともすれば尚の不幸を招く結果になる方が多いからだ。
"さすがに今はもう、邪としての素養はすっかり消え失せておるようだが…。"
 実際に逢った機会はなかったが、ここからの垣間見でも十分に判るほど、屈託のない笑顔がそれは愛らしかった子供。小さいものには優しいくせに"ガキは苦手"と昂然と言い放ち、表現体はどこか捻くれた態度の多いサンジに、そんな素振りに誤魔化されることなく、それは素直に懐いていたという無邪気なルフィ。これもまた機縁というものかなと、薄く微笑うゼフに気づいて、
「…いかがなされました?」
 ギンが静かな声をかけてくる。ここ近年はサンジの住まう別宅の方に仕えている彼だが、このとんでもない騒動の最中にあって、その有能さを頼みにされての本家への出戻り奉公であるらしく。この落ち着かない事態の只中に、聖宮の一室にて何やら考え事へと気を取られていたお館様へと、僭越ながら…案じるような声をかけた彼へ、
「いや。ちょっと思い出してな。」
 苦笑を誤魔化すように顎をちょいと撫でるゼフである。
"機縁…か。"
 何とも無力なものかと思う。万物の営みを左右する風を意のままに操れても、封じやその他の念術に長けていても、そんな大層な身であることなぞ関係なく、どうあっても逆らえないものはある。この天世界の成り立ちを紡
つむぐ地位に立ち、少なくはない人々や存在を統べている身であっても、所詮は機縁や天運という"時の巡り合わせ"に翻弄されている一人だ。だが、だからといって、命運に身を任せ、流されるままでいるつもりは毛頭ない。たとえ逃れられぬ運命さだめであっても、やれるだけの悪あがきはやってみて、とことん粘って刃向かってやろうという気構えは、今も昔も変わらない。
"そうでなくて何がここ天巌宮の長、聖封よの。"
 ついと見上げたのは、窓の外、晴れ渡った暁けの空だ。最初の朝陽の一条が射し込む寸前の、黎明の静寂が何とも荘厳で、水の青をふんだんに含んだような瑞々しい色味がなんとも涼やかで、和紙を薄く裂いて浮かべたような淡い雲がわずかに見えるほかには何の影もない。彼らの上ににわかに出來
しゅったいした異変なぞ知らぬことと、昨日の続きの顔でいる。そんな空を端然と見やる主人の横顔へ、
「何故に、ナミ様に進言なさいませんでした。」
 ギンの低い声が、つと かかった。
「何のことだ?」
「何となればあの子供、見切っても良いのでは…とです。」
 削いだような冷たい目許に鋭角的な口許。まさかに笑みを浮かべてまではいないものの、これほどまでに大それたことを、誰かの目や耳を警戒するでない、至って恬淡とした様子で言ってのける彼であり、
「…お前はどうも冷徹さが過ぎていかんな。」
 ゼフは小さく微笑って見せる。彼のこういう怜悧に冴えたところは、万事に鷹揚なゼフに、そして今はその孫にあたる…やはりどこかで内面の優しいサンジにと、長く長く仕えていながら少しも鈍
なまることはない。ゼフの懐ろの深さがそうさせるのか、それとも…大人物にはなかなかそこまで思い及ばぬところの、小者のささやかな勘違いや思い上がりという罪を正す義務、ゼフやサンジが寛容にもつい見落とすところを"非情さ"という形で彼が補っているのだろうか。
「相手には必要不可欠なもの。ですが、我々には唯一無二というほどの存在ではない、今やただの子供です。」
 彼の言いようの道理が良く良く判っていればこそ、ゼフはすかさず応じていた。
「だがの、ただの子供だということは、本人に何の落ち度も非もない、それはそれは無垢な子供だということでもあろう?」
「………。」
 自分たちは"神"だとか"創造主"だとかいう、人間に対して偉そうな存在では決してない。彼らを負の歪みから守るため以外の方向で、大上段から勝手な采配を振るってはいけないのが大原則。
「我らも、いや…物事を治める我らこそ、そんなだだ甘いことに迷ったりしてはいけない身なのであろうがの。そうそう杓子定規に構えてあっさり見切ってしまうというのは、お館様なぞと呼ばれる身には少々情けないことではないか。」
 ゼフは、丁度…例の会合の場にてナミが言ったそのままを言ってのけると、宥めるような眸で腹心に微笑って見せたのだった。







          






 渺々とした空間である。寂寥感なぞという感傷の趣きさえ寄せ付けぬような、干上がった砂と岩ばかりが続く平板な光景が延々と際限無く広がっている。山や丘とてない極めて単調な風景には、風も吹かねば物音もせず、匂いも色味もまるでなく、土も石ころも骨のような褪
めた白に塗り潰されている。大地を覆う、力ない乾いた白さと拮抗を見せるように、空は暗黒に続く藍をなすって重々しい。その藍色を映した泉が1つだけ、荒原のただ中に空いた穴ぼこのようにぽつねんと穿たれていて、その真上の宙空に何か浮かんでいる。幼い子供の屈託のない午睡のように、首を僅かばかりあおのけに力なく項垂れさせて、ただただ昏々と眠り続ける少年がいる。冥くらい空間の中、この世界の唯一の存在として小さな身体を宙に留め置かれている。自身が発光しているかのように際立っているその姿は、周囲の殺風景さには違和感を見せるほどに生き生きと健やかで穏やかな、なればこそ…何の呪いに魅入られたのか、尋常ではない状態だということをより強く示してもいよう。

   ……………。

 ふと。泉の面
おもてが揺れた。滴り落ちたものもなく、風のそよぎもないのに。水面みなもの真上に浮かんだ少年も身じろぎ一つ見せてはいない。泉の真ん中から波立った輪は、音もないまま二つ、三つと連なって水面をゆらゆらと揺らめかせた。それがゆっくりと鎮まって、水の面が藍色の色水を凍らせたガラスのようになめらかに黙り込む。そこには少年の後ろ姿が写っているだけ…の筈が、何の影も映ってはいない。


   《さて。大層な結界を張り巡らせておったようだが。》


 どこやらから、そんな声がした。

   《念の入ったことよの。この和子にまで"封咒"をかけていようとは。》

 どこか芝居がかった言いよう。大仰な溜息がその末端から塗り変わり、くつくつと糸を引くように低く嗤
わらって。低い笑いがそのまま揺らすものなのか、小さな波がまた立った。
《………。》
 波は間断無く走り、泉の面
おもてを掻き乱す。そして、
《…っ!》
 一陣の風が吹き過ぎ、ぱしゃんっと音が聞こえたような気がしたほどの飛沫
しぶきが鋭く上がって、次の瞬間には少年の姿がいずこかへ忽然と掻き消えている。

   《ふふふ…まあよい。妾
わらわには他愛ないことよ。》

 齢を経ているのだか、それとも ずんと若いのだか。艶
あでやかな男であるのか、凛とした女であるのか。どうとも言えずどうとも見えるその影は、再び"くつくつ…"といつまでも笑っているばかりであった。




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