月下星群 
〜孤高の昴・異聞

   天上の海・掌中の星

    〜 黒の鳳凰 LAST DESTINY K
 


      
三の章  風紋



  今回の事態の行方を左右する"最後の鍵"であるゾロだというのに、
「姿がないだとっ!」
 あれほど明らさまに"見張り"を付けておいたのに、それらの目をまんまと眩
くらまし、この聖宮を抜け出すことが出来ようとは。
「いざとなれば、この聖宮を粉砕してでも出てゆける御仁ではあったが。」
 チョッパーを言いくるめての、まさかに"こっそりと"の方を選ぶとは、芸が細かくなったというか、気を遣い、頭も使うようになったというか。
「そんな冗談口を利いている場合ではありません。」
 あまりに呆気に取られてしまい、ついついどれほど呆れたかを披露してしまったお館様へ、執事が鹿爪らしい声を出して窘めたそのついで、
「もしや…単独で敵の聖浄に出向かれたのでは。」
 思いついたことをつい、ぽろっと呟いてしまったのは。彼もまた…冷徹そうなその外見からは伺い知れないレベルにて、理解不能な現況へ大きく動揺していたからなのかもしれない。それへと、
「馬鹿なっ。聖封の連れもなくだとっ?!」
 いくら"淨天仙聖"という神格聖霊の末裔、生まれ変わりであっても、今の彼はあくまでも"破邪"に過ぎない身の上。妖魔への浄化能力の馬力がやや桁違いなだけの、単なる精霊なのだ。しかも、守りの方、防御の力やレベルは格段に低いと来て、
「自殺行為も良いところではないかっ!」
 現に最初の遭遇にて、あれほどの大怪我を負っている。しかもそれはつい昨日の話だというのに。ゼフ翁はあまりの無謀さに憤慨し、執事へと言い放った。
「陰界の隈無くすべてを透過
スキャンする規模の探査の網を張る。2級以上の能力者を"練念局"へ集めよっ。」
「はっ。」
 かつての聖魔戦争で使われた以降は封じられていた、広範囲や深部への強硬探査を行うための"練念局"。無論のこと、発動されるのは精霊たちの能力であり、集中を統括するべく意識を織り上げる技術と皆からの信頼も問われる仕儀である。まさかに再びその扉を開くことになろうとはと、ゼフ翁は深々とした溜息をついて、長く伸ばされた白い髭を物憂げにしごいて見せた。


   "…正念場、か。"







            




 荒涼たる広野に、今は冷たい光が煌々と射している。大地を白く染め上げて、辺り一帯を照らし出している光は、だが、生気の躍動とは無縁な単調さで降りしきり。今更どこに隠れようと、また、警戒して身構えようと無駄なことだと、相手の力の強さと大きさをそのまま表しているかのようだった。

   《ようこそ、翠眼の破邪殿。》

 切れ切れに届いたルフィの声を頼りに、様々な空間や次界を経由して辿り着いたここは、聖封たちの探査フィールドから行方を晦
くらました"混沌の淵"だ。様々な次界の果てにして"終焉"であり、他次界断層と接することで生じる歪みが寄り集まっていて、螺旋のように絡まり合ったそれらの"混沌"が、遥か彼方にあるという虚数空間の海へとつながっている。冥界への通路とも言われているのは、戻って来た者の例えを聞かないから。だが、今や…この少年の放つ力によって支配者を得、そのあるべき方向を制御されつつあるらしく、淀みも歪みも一切なく、いっそクリアなまでの冴えた気配に満ちている。隙あらばするするとまといつき、あらゆるものを崩壊に導き、滅ぼすための負の情念。その中心に立つ"彼"は、見栄えだけはあくまでも"少年"だった。

《主
ぬしは淨天仙聖の末裔だそうだの。なればこそ、この子にかけられた"封"も本格的なものだったのじゃな。》

 ちらとその目線が飛んだ先。あの"獄"と呼ばれていた泉水がある。だが、ゾロの気配は…視線さえ動かず、そちらを見ようともしないままだ。その代わりに…というのも何だが、
「いちいち、煩
うるせぇんだよ。」
 例えるなら獲物の前に立ちながら、だがまだ遠巻きにしている肉食獣というところか。鋭い目許をうっそりと眇めて、低く掠れた声を放つ態度に、まださほど激した様子は帯びてはおらず、静かに静かに対手と向き合っている。どこで手に入れたのか、青い長衣を着ている彼で。動きやすそうなボトムと同布の、膝まで長い前合わせの詰襟上着は袖がなく、下に着ている浅葱の筒袖小桂は自分でちぎったか半端な長さの半袖で。腰の帯代わりにと回された銀絹の余りの裾が、時折吹きつける風だか気流だかに流されては花のようにひるがえり、こんな場でありながらも華やかだ。
「淨天仙聖だか何だか、そんな前世のことなんざ俺は知らねぇ。俺はただの一介の破邪精霊。それ以上でもそれ以下でもねぇんだよ。」
 記憶にないことをとやかく言われてもなと、素っ気なく言い切って、
「人のことより…お前は一体何者なんだ?」
 髪や瞳が心持ち青みを帯びていて、それより何より雰囲気が…人間は勿論のこと、自分たちともまるで異なる存在だと判る。今は隠しもしないまま、その小さな姿に有り余ってあふれ出す"負"の生気を、後背に澱(おり)のように揺らめかせていて。そうまでに"器"と"中身"のバランスは著しい不均衡を示しているというのに。どれほどの自信があってのことなのか…超然とした構えでいる彼は、婉然とした笑みをその口元から絶やさない。この世の始まり、世界の"混沌"から生まれた大邪妖とは、こんなにも得体の知れない存在なのだろうかと、
"………。"
 掴みどころのない薄ら寒さに翠眼の破邪もつい、その目許をますます眇めた。それへ、

   《妾
わらわか? 妾はこの坊やの"核"本来の持ち主だ。》

「………。」
 訝
いぶかしげな顔になって見やるゾロに、
《くく…。お前の知っている坊やは、そもそもはただの欠片
かけらにすぎなかったのさ。だがの、それでも妾の一部。永の歳月をかけて、筺体として育ってくれた愛しい器じゃ。》
 声が変わって、そんな言いようをして見せる。何人もが一時に話しているような、野太く曖昧で、だが、聞かずにはおれない耳鳴りや騒音に共通する、ビリビリとした不快な響きをまとった声。

《ただ一枚の尾羽根でも、この世の始まりから現在にまで渡る、永の歳月を1つの魂として輪廻出来る身。その全てを目覚めさせたらどうなるか。聡明なお前ならずとも、そのくらいは判ろうよの?》

 少年の瞳の光彩が、やはり縦にキロッと瞬き、赤みを帯びた金の光を放つ。


   《妾は闇の眷属。巨妖"黒の鳳凰"の魂。
    今ここに、復活の祝の祈詞を唱えようぞ。》


 くくく…かかか………と、耳障りな声はなおも高まり、まるで何か誰かを嘲笑っているかのようだ。耳障りなその高笑いを聞きながら、
"確かに、可笑しいのかもしれんな。"
 ゾロは何とも忌ま忌ましげに眉を寄せた。気が遠くなるほどの遥かな昔より、世界が開かれてからこっちの幾星層を、軽々とひとっ飛びして来た存在。彼も待ったには違いなかろうが、封咒を子守歌にしてただただ眠っていただけの身だ。人々のみならず天聖世界さえ、その世代を代わるほどの永の歳月を、自分が仕掛けた呪咒がゆっくりゆっくり満願に至るまで、野に放たれた尾羽根が自分を受け入れるに相応しい"筺体"として育つまで、ただただ ほくそ笑みながら、蹲
うずくまっていただけ。そして、この"世界"が安定し、その成熟を安寧の中にやっと見せ始めたそんな今、すべてを無に帰す魔界最大の刺客となって復活せんとするこやつにしてみれば。人も文化も、幸せも苦悩も、歴史も思想も、この"世界"は彼に滅ぼされるためにその厚みを増して豊かさに満ち満ちたかのようであり、
"破壊を、滅亡を、その存在意義にする魔の者以上。光も闇も、負も正もなく。全てを食い漁り、再びの混沌を招きたいに違いない。"
 自分は…正義の味方なんぞではない。ましてや、ナミやサンジや、こいつまでもが言い放った、何とか仙聖とかいう聖霊だという自覚もない。強い者が弱い者を凌駕するのは自然の摂理だろうし、正直な話、よほど…目に余る悪ふざけが過ぎない限り、指令のなかったいざこざにはどんな惨い搾取や非道へも関心さえ寄せずにいた身である。

   ………だが、今は。

 そんな勝手な言い草があるかと、馬鹿な話があるものかと、臓腑が煮えて収まらない。天聖世界はともかくも、人世界は…あの子の故郷だけは滅させる訳には行かない。まだ幼いあの子がその小さな手に抱え切れない夢を実現させにゆく、大きな海を、広い空を、豊かな大地を、こんな奴に勝手に食われては堪らない。

   《…っ!》

 鞘の鯉口、片手を添えて。腰からすらりと抜き放ったは、この身に添うて一緒に生まれたという"和道一文字"。妖魔たちを浄殺封滅するためのアイテムで、今にして思えば…自分には力を、そしてこの刀には能力をという分散だったのかもしれないが、そんなことも今はどうでもいい。辺りに満ちた乾いた光に、負けないまでの輝光を放つ日本刀。それをひたりと眼前へ、切っ先鋭く構えたは"正眼"の段。

   「退魔封殺、封魔淨天、外道浄滅。破邪の仕置き、その身で味わいな。」

 そうと言ったが早いか"がつがつ"と、性急な突きを立て続けに繰り出して突っ込む。相手は武器を持たない、言ってみれば"丸腰"の少年だが、それは相手の勝手である。これまでもさんざん、その"丸腰"のままにこちらの頼もしき手勢たちを翻弄して来たほどの身だ。手ごわいと恐れるなら、魔力を使って盾でも何でも出せばいい、障壁を張ればいいだけの話。それに、こちらの武装はこの身と"一体"のもの。言ってみれば腕の延長、気合いを乗せて自在に躍動する、牙であり爪である。それを自在に繰り出し続ける。それを、

   《ほほお。なかなかの気合いじゃの。》

 軽く身を躱し、時折は寸足らずな…いかにも子供然としたリーチの腕を払って、触れるまでもなく"気"の圧力だけで弾き飛ばしして、掠めもしないで避けていた少年だったのだが、

   《…っ!》

 不意に。キッとその眦
まなじりを鋭く吊り上げて、少年が"はしっ"と捕まえ、地に叩き落としたのは、柄つかの象眼の水晶珠に濃こまやかな光を宿した細身の刀。つい先程までゾロが握っていた白鞘の日本刀ではないような形状をしている代物で、
《はは〜ん。考えたものよの。死なば諸共、自分の身で妾を相殺浄化するつもりだったのだな。》
「…っ。」
 地に落ちたところを踵で踏みにじられた剣はそのままぱんっと弾け、宿していた光ごと宙へと逃げるとゾロの何も持たない手元へと立ち返る。そこでするすると光が強まって、さっきまでの日本刀へと戻ったから。これは彼なりの、何か策を乗せた仕儀であったらしい。

《もしも妾に突き立っておれば、宿らせてあった輝光の生気の塊りは剣ごと吸収されて混じり合い、妾に宿る邪悪と混沌への相殺融合を起こした。そうやって妾を消し去ろうと構えたようだの。》

 だが、それが叶っていれば"淨天仙聖"という身として、そしてもちろん今現在の"破邪"として、持ち得る生気全てをも、浄化のために相殺された。すなわち、そのままゾロの身も一緒に消えていたことだろう。一か八か、そんな捨て身の策を胸に秘め、ただ一人でやって来た彼だったらしく、少年は………その片手を差し上げると自分の口元へと寄せた。彼が一瞬でも焦ったその成果、手のひらの横手に一条の傷口が開いている。小刀の気配の危なさに気づき、咄嗟に素手で避けたがため、まともに食らった傷だろう。だが、


   《哀れよのう。あの"淨天仙聖"が妖魔との相打ちを構えるとは。》


 何とも芝居がかった言いようで、口許に薄ら笑いを浮かべながら、そんな文句をしゃあしゃあと並べ始める。

《もともと不自然な均衡をそれでも必死に守って来たのだな。それがお前の気力を支えていたというのなら、健気なことよ。》

「なんだと…?」

《放っておいても聖世界は,いやさ、この世界は近いうちに崩壊したのだ。もともとのあるべき姿を無理から引き裂き、光陰、善悪、正邪と分けたことこそ、理外の無体。元へ戻ろうとする"自然
じねん"を無理から制して四苦八苦して。何と哀れな者共じゃろうか。》

 ほんの一条、すっぱり斬られて受けたその傷を、ぺろりと舐め上げた魔道の少年は、ニヤリと笑った。

《お前たちの力不足で綻び崩れ去るような醜態を見せるより、妾が引導を渡してやるのがせめてもの餞
はなむけとなろうぞ。》

 芝居がかりの興が乗って来たところへ、だが、

   「…黙って聞いてりゃあ勝手なことを。」

《なに…?》

 冷然と言い返されて…ついの本音か低い声が返る。それへと、
「不自然な均衡を守って来た…だと? 自慢じゃねぇが俺は均衡だの協調だの考えたこたぁねぇよ。」
 嬌声を上げて安定を蹴散らかす刹那。過去から続く流転を蹴り飛ばしてせせら笑うは、広袤
こうぼう漠然と広がる未来への無限。それが人世界を満たす本来の活力であり、それを頼もしいと見守りつつ、ちょこちょこっと顔を出す"異邦人たち"を元あるべき場所へ連れ戻す手助けをするのが、彼ら"破邪"だ。

「てめぇこそ、有るべき所へさっさと帰んなっ!」


    ――― 斬
ざく…っと。


 大きく、頭上高くまで掲げられた大太刀の切っ先、本身は、間違いなく…相手の頭の先から真下まで、一気に滑り降りた筈なのだ。それが"負"の陰体であればあるほどに、刀の帯びた"正"の輝光に冒され、あるいは吸収され、あるいは蒸散されて、封魔淨天、一気に方がつく筈なのだが、


   《さすがは淨天仙聖…ということかの。》


 しゅうしゅうと。後背にたなびかせていた負の生気がおどろに渦を巻き、黒鳳の少年の体をくるりと取り巻く。しゅうしゅうという音は絶えず聞こえ続けて、それが…生気の澱が、彼
の少年の裂かれた筈の体をいとも容易く繋ぎ留めてゆくではないか。
《やはり怖
こわやのう、生かしておくのは。この坊主や天聖界への足枷としてどこぞに封じておくという手も考えなくはなかったが、こうまでされてはの。却って踏ん切りがついたわな。》
 残忍な笑みを浮かべた口許。双眸には何の感情も帯びてはいなかったが、なればこそ例えるもののないほどに冷たい表情だ。
「…くっ!」
 精霊刀も、破邪最強である翡翠眼のロロノア=ゾロの渾身の力をもってしても。この黒鳳は倒せないということなのか? 一瞬の戸惑い、その隙を嗅ぎ取ってか。ふわりと笑って、次の瞬間、

   「…っ!!」

 ほんの鼻の先へ顔が近づくほどまで、あっと言う間に間合いを詰めて来た対手であり、
「………がはっ!」
 視線は至近から相手の翠眼を見据えたままながら、その手が…なんと、ゾロの胸板、その隆々と張った肉の中へ突き通っている。途轍もない激痛が全身へと容赦なく突き通り、
《そうそう。破邪の天使長とかいう小娘も、聖封一族の金髪の子童
こわっぱも、後から送ってやるほどにな。寂しゅうはないぞ?》
 くくく…と余裕の薄ら笑いのままに。黒鳳の少年は、手を突き通したその胸に手首までもをねじ込んで、
「ぎ…。」
 そこへ直接、魔弾を放とうというのだろうか。手元が明々と光を帯びた。そんな酷な構えを見せつつ、本人は甘美な陶酔に耽ってか、唇の端を薄く笑って引き上げていて。

   《おさらばじゃ。》

   「…っ?!」

 いよいよ最悪の魔弾が放たれようとしたその瞬間、





   「ダメーっっ!」


 不意に。魔道の少年の背後から、炸裂するような勢いの閃光が射した。

   《………っ?》

 あまりに褪
めて生気のない世界に閃いたは真珠色の光。その中から、叫んで飛び出した者がある。黒ずんだ血の汚れ、砂にもまみれたパジャマ姿の、小さな少年。やわらかな髪に大きな瞳。ゾロにはそれが誰なのかが瞬時にして判った。
「…ルフィ?」
 この鳳凰を名乗る少年に、泉水の中に設
しつらえられた"獄"へと封じられていた筈の坊や。天水宮にてあれほどまで残忍な行為をこなすよう操られたほど、自力では目覚めることさえ出来ないほどに、抗い切れない身である筈だが、やはり…そのまえに施されてあったゾロからの封咒が働いたか。

   「触るなっ!」

 横手から黒鳳を突き飛ばしたルフィは、ゾロとの間に割り込むようになって立ち塞がっている。
「お前なんかが触るなっ! ゾロに触るなっ!」
 思い切りの大声で懸命に罵倒し、威嚇を続ける彼であり、ここまでのずっと、良いように封印をなされ、意識をもてあそばれていた身を盛り返さんという勢いは、いっそ小気味がいいほどだ。そんな彼からの罵声を浴びた格好で、いよいよの詰めを吹き飛ばされた形になり、

   《…未熟者が。器の分際で妾に指図しようというのかえ?》

 魔道の少年には思わぬ攻勢だったらしく、表情の変化はあいにくと仮面のせいで読み取れないが、ぐっと握り締められた拳の震えが、いかに突発的で予期しないものだったのかを物語る。…その一方で、
「…ルフィ。」
 鮮血に染まった胸元を手のひらで押さえつつも、やっとこうまで間近になった少年へ、意識するより先という動きで…この愛しい存在を抱きくるまんとして腕が上がったゾロである。その姿にはつい今朝ほどにも対面しはしたが、妖しの少年が身に宿っていた別人格の彼だったから。本人に間違いない彼との逢瀬、この苦難の中にてもどれほど望んでいたことか。いつもいつもそれは懐いてこちらを向いてばかりいて、健やかで無邪気な笑顔を惜しみなく見せてくれる彼だから。滅多に見ない小さな背中へ、自然と沸いた愛しいという感情から、触れんとしかかったゾロであったのだが、

   《ちっ!》

 そんな彼を睨み返す魔道の少年から、唐突に灼光があふれ出した。彼の輪郭全部を増幅するかのような不可思議な灼光は、眸の奥まで一気にすべり込むような痛い光。
「…うっ。」
 そのあまりの眩しさに顔を背けかけたゾロの腕の、ほんのすぐ先から、
「あ…っ!」
 ルフィの身がするりと抜けて、宙へと浮かんだ。この"混沌の淵"を制覇した彼なればこその、様々な方術の応用なのだろう。頭上高くにまで浮かんだルフィを下から指差し、その回りを縁取るようにくるんと指先を動かす少年で。
《これは罰じゃ。お前の気に入りの精霊が滅びる様を、そこで大人しく見ておれ。》
 あっと言う間もなく、淡い光のドームが坊やをくるみ、
「やだっ! 出せっ!」
 どんどん…と周囲を拳で叩くがびくともしない。そうは見えないが固体と同様なほどに硬い、実体のある障壁を張ったらしい。
"…何て野郎だ。"
 この不安定な…何が起こってどこから綻び、どんな牙を剥かれるやもしれない亜空間を、虚数世界の歪みが満ちた危なっかしい次界を、微塵にも恐れぬままの堂のいった振る舞いの数々は、いかにもな子供の姿と相俟
あいまって、いっそ不気味なほどでもある。
《さて、どうしてくれようか。》
 しゅんっと振り上げられた腕から、その長さだけの光の帯が放たれた。まるで…そこにあった空気の層を、氷のようにざっくと削って抉ったよう。宙に浮かんだまま留め置かれた光の軌跡は、少年が端を掴んで取り出すと、そのまま弓形
ゆみなりの武器となったらしい。何度か振るって、風を切る音をひゅんひゅんと立てて見せ、

   ――― がきっ!

 真っ向から咬み合った妖光刀と和道一文字。精霊刀としての切れ味や霊力、そして持ち主の意を自在に実現化出来る、時には増幅さえこなせる、希代の名刀。その和道一文字とがっちり咬み合って、ぎりぎりと拮抗出来ているだけでも信じがたいところ。
「この…っ」
 刀の切れ味や威力のみならず、それを握ったゾロの力さえ対等に押さえ込んでいるということが、それを見守るルフィには到底信じ難い光景だった。
"そんな…。"
 頼もしいゾロ。いつだってあの白鞘の刀の一振りで、山のように押し寄せる邪妖を片っ端から退治してきたのに。見かけ以上の力持ちで、ルフィなぞは軽々と、片手で椅子ごとひょいって抱え上げてしまえるのに。それが、あんな…この自分と変わらないくらいの少年に手古摺っている。相手に"魔力"というのがあるにしたって、ソロだって…邪妖を封滅させる力は破邪の中では一番強いって言ってたのに。
"あんな小さい子なのに。"
 彼らには見かけは関係ないって分かってるけれど、それでも…そこに蓄えられる力というもの、小さいより大きい方が多かろうに。ひょいって軽く押しただけで、あのゾロがぐいと押し戻されているだなんて。しかもしかも………。

   《まずは、その刀じゃ。》

 高々と差し上げられた妖光刀。それが何とも無造作に降って来て…。
「く…っ。」
 咄嗟に楯代わりにと体の前に繰り出した和道一文字が…がきぃっと鈍い音を立て、その半ばにて折り割られたのだ。

   「そんな…っ!」

 ルフィ以上に本人こそが愕然とした表情を見せている。それをのみ頼りにして来た訳ではなかったが、それでも…自分の体の一部も同然の存在。どんな邪妖の穢
けがれを浴びても、腕を足を折られても、この刀だけは輝きも強靭さも決して損なわれないままであり、まるで自分の生命の具現化したものであるかのようで、その有り様が何とも心強かった相棒だったのに。

   「…くっ!」

 そして。その一瞬の隙を突かれた。

   《食らやっ!》

 ぶんと振り出された妖光刀から飛び出して、胸に、脾腹に、二の腕に、腿に。容赦なくかつかつと突き立ったは光の小刀。濃色の装束のせいで判りにくいが、腕の傷からは手首へ、他の傷も、刃自身へと滲み出し流れ出した鮮血の紅が、遠目にもはっきり映って………。

   「いやだっっ! ゾロっっっ!!」

 これは夢なの? 昼下がりの下校途中。何物かに襲われた自分を庇って、やはりその胸板を朱に染めて倒れたゾロ。そんな怖い想いをしたことが記憶の中から顔を出した、これは夢なのだろうか。自分は彼の帰りを待ってた。天聖界での治療にと、一旦帰ってしまった彼を、良い子で待ってた筈だった。良い子じゃなかったから、こんな怖い夢を見ているの? 自分が襲われるよりも、自分が苛められるよりも怖い夢。大好きなゾロが、大切なゾロが、痛々しくも大怪我を負う夢。ああ、そういえば、いつかも見た。閉じ込められた自分を助けに来たゾロが、得体の知れない何かに襲われた夢。あれは"こんなことが近々起こるよ"っていう予知夢だったの?

   「ゾロっ! ゾロっっ!!」

 ダンダンっと自分を取り巻く壁を叩く。忌ま忌ましいシールド。こんな傍にいるのにっ! なんで邪魔をするっ!

   「ゾロっっ!!」

 愛しい人が、大切な精霊さんが、大変なことになっているのにっ。………ねぇ、ゾロ。これって夢だよね? いつかみたいに、俺んこと揺すって起こしてよ。心配要らない、俺は強いからなって、自信満々に笑ってよ。ねぇ、ゾロっっ!

   「ぐ…。」

 突き立った刃が…それ自体、何か闇の毒でも染み込ませているのだろうか。上背のある破邪の身を、各部位から闇色にかつかつと侵食してゆく。
「………くっ。」
 萎えかかる力を掻き集め、折れてしまった精霊刀を、最後の力を振り絞って薙ぎ払ったゾロだったが、




   《………これで、しまいじゃな。》


 確かに掠めた筈の刃さえ、風のひとそよぎにも感じなかったらしい黒鳳は、す…っとその腕を差し上げると、何をか唱えて宙空へと咒を投げる。すると、

   「ぐあっ!」

 少年の周囲、足元から、無数の岩塊が浮かび上がって。それらが容赦なく、傷ついた破邪の体に降りそそいだ。しかも、その岩塊の雨。当たった後に逸れた周囲の空間で…ほろほろと脆く崩れてゆく。
「………あ。」
 ゾロの周囲に何かしら、堅い筈の岩や砕ける筈のない高密度の石を音もなく粉砕するような、空間の歪みが発生しているということか。魔力の瘴気にかつかつと食
まれ、その上に周囲からも侵食を受けて………。


   「いや、だ。そんなの…。なあ、やめて…やめてよ…。」


 見たくない情景。信じられない様相。あんなに強くて、あんなに頼もしくて。それより何より、大好きな、大切な精霊さんが…大好きなゾロが…。その身を闇に、寸刻みで食われているのだ。









   「…っ、ぞろーーー…っっ!」






 残ったのは暗黒の尋
ひろ。乾いた光の中、信じられないくらいあっけらかんと、何もない空間。

   "…そんな。"

 呆然と。身動きひとつせず、虚ろな瞳をその虚空へと据えたままな坊やをくるんだシールドが、音もなく高みから降ろされる。特等席のゴンドラが、静かに静かに降ろされるような案配で。………と。

   ――― ぱさん…。

 地と呼んでもよいものか。宙空から足元へやっと降ろされたと同時に、ルフィが、少年自身がその姿を変えてしまった。

   《ほほう。》

 光で出来たもののように透き通った、それは軽やかな天衣
てんねが宙にそよぎ、肩に袖にとゆるやかにまといついている。衣装も随分と変わってしまい、小袖に桂こうち、指貫さしぬきという何とも古風な着付け。その生地は薄絹のようにも見えながら奥深い綾をなしている。脇の下の水口がほんの少しほどしか綴られていない格好の、狩衣にも似た裾長の唐衣を一番上に羽織っていて、片側の前の見頃だけを外して腰に帯を絞っている。変わったのは装束だけではない。もともとの少年もどちらかと言えばやさしげで繊細そうな見栄え、拵こしらえではあったが、お元気そうな目許には常に溌剌とした生気を凛とはらみ、表情豊かな口許には一種撓しなやかな…どこまでも折れない青竹のような芯の強い強靭さを秘めた趣きをたたえてもいた。そんな有り様から比べると、今の彼はどこか心もとない。一言で言えば"玲瓏れいろう"というところだろうか。日頃の彼が若々しい青竹なら、今の姿は月光に照らされた枝下しだれ桜のような、凜然としてはいるがどこか儚い、そんな風情に満ちている。透き通るような線の細さ、幻か陽炎のような淡い雰囲気をまとっていて、触れるどころか凝視さえ負担になりはしないかと思うほど。それほどまでに…見る者の胸に仄かな酔いを与えずにはおれぬような端正さは、だが、神々しいまでに臈たけた嫋たおやかさがいや増した分、居住まいもどこかやわらかに頼りなく見える。例えは悪いが、身体を砕かれ魂のみになってしまったかのような、人が人ならぬものになるように、別種の存在へ昇華してしまったかのようでもある。まして、憂いを一刷毛ほども亳いたような横顔に、寂しげな眸が伏し目がちに瞬いているとあって、


   《これはまた愛らしいのう。》


 小さな顎を捉まえられて。まじまじと、まるで品定めされるかのように眺め回され、それでも…呆然としたままなルフィであり。その大きな瞳には、涙さえ浮かばぬほど、乾いた空間が映し出されているばかりであった。






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