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時折、屋敷の裏手にある広々とした竹林に分け入ってく父で。裏山に続くこの青ざめた空気に満ちた閑かな林は、父名義の土地ではあるのだが、普段の手入れはすっかり人任せにしているほどで。単なる背景としてしか関心を寄せてはいないかと思っていたものだから、
"? どうしたんだろ?"
特に警戒の気配もないものだから、こちらもさしてこそこそともせず、だがそっと、後に続いて追ってみた。道着姿の頼もしいまでに真っ直ぐな背中。身体の脇へゆるりと降ろされたままな手には、白い鞘の日本刀。父が日頃からも手入れを怠らないで大切にしている3本のうちの1本で、確か"和道一文字"という名刀だ。さくさくと、枯れた落ち葉を踏み分けて奥まったところまで分け入って。生えている竹に少しばかり間隔の空いた、やや広まった辺りまで出ると、
"………?"
眸を伏せて、刀を持つ手は無造作に降ろしたまま。だが、
「………。」
静かに呼吸を整えていると判る。こんなに離れていても、その存在感は大きくて。だが、自分も剣術をたしなんでいて慣れのある少年のような人間が、それと意識して見ていなければ、そこに居ることさえ察知されなかったかもしれないほど、消気の構えは見事なもの。さわさわと波打っては揺らめき躍る竹や笹の梢。少し強く吹いた風にあおられて、間断のない潮騒に似たざわめきがやがて大きくうねると、頭上を通り過ぎてゆく大波のような響きに辺りの空気ごと呑まれるような錯覚を覚える。………と。
――― …っ!
軽く腰を落とした父の手元から、銀色の光がほとばしって消えた。瞬く隙さえ与えないほどの一刹那を駆けた瞬光は、幾刻かの間をおいて何を撫でたのかを知らしめた。さわさわという風の音の中、ざ・ざざざ…と不意な津波の音がして。ゆっくりと倒れたのは結構な太さのあった竹だ。その幹を、見事なまでに真っ直ぐ水平に断ち切っている。このように横一閃に断つ"据えもの斬り"は居合いの中でも最も難しいとされていて、だが、それを何げなく構えた一瞬に難無くこなしてしまえる男なのだ、父は。
"………。"
息を呑んだそのまま、少年は気がつけばゆっくりと後ずさりしていた。足音を立てぬようにそこから離れて。重なり合った竹の幹の向こうへと父の姿が埋まった間合いまで距離を取って。それからおもむろに踵を返すと、一気に外へと駆け出す彼だ。
"………。"
父は強すぎる。人ではないほどに。あまりに強すぎる父は、目の前に立つ存在を…剣を交える相手を、実際には人と意識して見てはいないのかもしれない。ちょうど今、事もなげに竹を斬って捨てたのと同じように。だが、彼にはそれが尊大でも傲慢でもないことだと、同じ高みに這い上がれない方が悪いのだという"コトの順番"も重々判る。彼の側こそ焦れていい筈だ。あまりに手ごたえのない手合いばかりな環境へ。そんなレベルにまで達した人間というものを目の当たりに出来ることを、同じ道を修める者としては喜ぶべきなのだろうが…。
◇
よほど裏手に用がない限り、通学や外出のための出入りは表の大門を使っていて。学校から帰宅した とある夕方、その鼻先に庭先を掃除している母を見かけた。細い枯竹の枝を束ねたような、庭用の大きめの箒を操る様が相変わらずどこか覚束無い。そんなやりようなのを、微笑ましいと思うようになったのはいつ頃からだろうか。枯れた葉が箒の先に引っ掛かってしまったのを、ブンブンと振り回して外そうとしている仕草なぞ、見ていてつい笑みが浮かんでしまうほどに可愛らしい。何でもという訳ではなかったが、お手伝いをするようになった事柄で自分の方が上手になったものは結構あって、いつの間にか背丈が追いついて来たこの頃では、そんな不器用な母を…不遜ながらも"可愛いよな"と思うようにもなっていた。あの細い体で100キロ以上はあった大イノシシを薙ぎ倒した武勇伝の持ち主で、それだけではない、大きな海という世界では"海賊王"という称号まで得ていたというから物凄い。いざという時は頼もしいが、日頃は愛らしいまでに拙くて可愛らしい、そんな母が変わらずに大好きな長男坊である。
『だからさ、お前の母さんだよ。ルフィさんじゃなくて、ホントの。』
『???』
言ってる意味がすぐには判らなくて、きょとんとする少年へ、
『だからさ、ルフィさんは育ててくれてる"お母さん"だろ? そうじゃなくって、お前を生んだお母さん。』
傍から見ればまだまだ似たり寄ったりな、どの子もまだまだ"子供"だが、彼らの仲間内では"お兄さん格"の先輩が、何かの拍子に少年へ訊いて来たことがあった。
『ウチの姉ちゃんが言ってたけど、アレなんだろ? ルフィさんのお姉さんで、お前と妹とを生んで、けど、間もなく亡くなったから、そのお姉さんにそっくりなルフィさんのこと、お前の父さんは大切にしてるんだろって。』
大人たちの間では詮索されてさえいないこと。もしかして"こうではないか? いやいや、こうだって"という取り沙汰がされていたとしても、本人には聞こえないように扱う話だが、そこが子供で、直接本人に訊く馬鹿者がたまにいる。
『…そんな話、知らないよ。』
『そっか。お前、まだ子供だからな。そんで内緒なんだ、きっと。』
他所の家庭のこと、それ以上どうのこうのとしつこく聞きほじられなかった辺りはあっさりしたもので、相手にも悪意はなかったのだろうが。妙に一丁前な言い回しなどのせいで、世間では当たり前に"そう"と把握されていることなのだろうかと、少年の頭にかなり鮮明に刷り込まれてしまった架空の相関図。
"………。"
まさかに、それをまんま信じた訳ではない。だが、大好きな母は残念ながら男性だから、自分を生んだ"母"ではあり得ないというのはさすがにもう判っていて、
"…どうなんだろ。"
父と母と。二人の睦まじさは良く良く知っている。お互いへの心からの愛情と信頼は、隠しようのない雰囲気として周囲の者へも伝わって来るというもので。厚みのあるゆったりとした、懐ろの深い彼らの愛情は、そのまま自分たちをも余裕で包み込み、それはそれは伸び伸びと何不自由のないままに育んでくれたものだった。また…どこか不器用な彼らは、妙に要領が悪いのか、罪悪感がないせいか、こそこそっとさりげなく手をつないでみたりキスをしたりしているところを、子供たちにしっかり目撃されてもいて。(笑)それだからこそ、男同士であるということへ違和感のようなものを感じたことがない子らでもあったのだろう。いわゆる"お年頃"になってくれば、少しずつ…ちょぉっとは変わってる両親であるらしいかなと、思わないでもなかったが。(笑)なればこそ、先輩から聞いた、
『だからさ、ルフィさんは育ててくれてる"お母さん"だろ? そうじゃなくって、お前を生んだお母さん。』
『ルフィさんのお姉さんで、お前と妹とを生んで、けど、間もなく亡くなったから、そのお姉さんにそっくりなルフィさんのこと、お前の父さんは大切にしてるんだろって。』
もっともらしいこの構図をついつい信じてしまいかかる彼であっても、そこは仕方がなかったのかもしれない。どこか子供子供していて無邪気で愛らしい母は、成程"妻だった姉に似ているがために、父からそのまま大切にされている"というシチュエーションに無理なく収まりもする。その母が、
「あっ、ごめんっ、ゾロ。」
まるで剣術の稽古よろしく、上段から"えいやっ"と思い切り振り下ろした箒のほんの数十センチ先、特に動揺の気色もない夫の顔を認めて、あわわと慌てた。道場のある方から母屋の側の露地を抜けて出て来たらしい父は、くすくすと笑って箒を取り上げながら何事か囁いたらしく、
「…えと………。」
何を言ったか、声までは聞こえなかったが、たちまち母をぽうっと含羞はにかませたところを見ると、他愛のない睦言であったらしい。これまでにも時々目撃する機会の多々あった、双親二人のほのぼのとした睦まじさ。だのに、
"………。"
何故だろう、胸にチクリと何かしら障るものがあった。
鬼のように強くて、口数少ない人格者で。寡黙で男らしくて。それでいて…無邪気でやさしい、愛らしい母からすっかりと惚れられてもいる。堅い方もやわらかい方も不足なく出来過ぎた人物であるところが、どうしてなのだか気に入らない。
"…何でこんなにムカつくんだろう、俺。"
気がつけば、父の気に食わないところを数え始めていた、遅春のことだった。
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