ジレンマと地団太 B

        〜ロロノア家の人々・外伝“月と太陽”より
 


          



 生まれて初めての長い航海。幾つかの港に補給のために寄港しつつ、広大な海を越えて辿り着いた最終目的地は、人や物の流れは活発なようだが、療養所で有名な島なだけに、港に流れる空気までもが、どこかのんびりとした平和な土地だった。
『そっか。それで乗客もずんと静かだったんだな。』
『まま、初めての航海で訪れた土地だ。無難なもんだよ。』
と衣音は屈託なく笑った。
『それはそうだけどもさ。』
 もっとこう。荒くれのムードとか、スリリングな体験だとか、そういうのをどこかで期待してもいたのにと、無事な旅だったことへ"いちゃもん"をつけたいらしい罰当たりな少年は、いかにも不満そうなむっつりとした顔でいる。港での仕事も、自分たちにはどこか行儀のいい当たりなのが意外で。後で判ったのだが、苦学生が学費の足しにしようと、苦境の陰も見せずに溌剌と働いているのだと誤解されていたらしい。幼い頃から道場で叩き込まれていた"お行儀"が役に立ったというところか。そして、顔なじみの船主さんから紹介された遠出の船への乗員としての働き口に、一も二もなく飛びついた彼らだったのだが、成程、こんな穏当な仕事だったから声をかけてくれた、その親心には涙が出そうだ。(いや、ホントに。)
『ほら。そんな顔してんじゃないよ。』
 帰りは単なる乗客扱いで元の港まで乗せてってもらえる。船上でバイトをするもよし、羽を伸ばすもよし。これも人柄か、それともよほど巡り合わせの良い子らなのか。どこへ紛れ込んでも相変わらず皆様に可愛がられている彼らであるようだ。

   ―――ところが。

 初めての土地だのに、声をかけられた。それもきっちりと名指しで、だ。
「…おじさん、誰だ?」
 本来はとある和国の港に居着いての、日雇いの荷運び専門のアルバイト。きびきびとした働きを買われて、この島までの長い航海に同乗させてもらえたのは偶然というか巡り合わせというかで、今日ここに来たのは誰の意志が働いてのものでもない運びの筈。だというのに、どうして。他でもない自分が今日の此処にいると、この見知らぬ男には判っていたのだろうか。衣音と二人、埠頭で木箱に腰掛けて昼食のハンバーガーにぱくついていた少年は、怪訝そうな顔で相手を見やった。だが…ちりちりの縮れた黒髪をうなじに束ね、ゴーグルを降ろして目元を隠した、やたら鼻の高いこの男には、やはりまるきり見覚えがない。
「今時、勧誘でも誘拐でももっと何かちらつかせて誘うもんだぞ? おじさん。」
 少年の一端
いっぱしな物言いへ、
「誘拐だったら、もっと小さい子を狙うだろうが…じゃなくってだな。」
「………やっぱ、誘拐犯だったらしいぜ。」
 こそこそと額を寄せ合うように顔を見合わせて、わざとらしくそんなことを囁き合う少年たちに、
「違ー−うっっ!」
 すっかり良いように翻弄されている。
(笑)そんなややこしいやりとりに、
「………。」
 小さくため息をついた気配があった。
「…ん?」
 見回しても、周りの倉庫前には自分たち以外の誰の姿もなくて。ただ、
「あ、鹿だ。」
「トナカイだろう。」
 少年の言葉を衣音が訂正し、
「でも、珍しいな。こんな暖かい気候の土地にはいない筈だぞ。」
 小首を傾げる彼の傍ら、荷箱の上からぴょいと飛び降り、
「このおじさんのペットかな。」
 少年はすぐ傍まで寄ってみた。随分と古ぼけた赤い山高帽子を頭に乗せていて、前脚をくぐらせる格好でデイバッグを背中に結わえたハーネスを装着している。すらりとシャープな体つきで毛並みもきれいで、人にこんな傍まで近寄らせるほど警戒していない辺り、野生のものではないのだろうが、
「………。」
 屈み込んで向かい合った少年に、なんとそのトナカイ、ニッと歯を見せて笑った。
「…えっ!?」
 びっくりして立ち上がった少年のその動きに合わせて、そのままむくむくっと体が大きく膨れて、見る間に見上げるほどの大男の姿になってしまったから、
「…っ!」
 やはり荷箱から飛び降りて来た衣音が、身構えながら素早く背中に片手を回し、ズボンのベルトの間に挟んでいた扇型の得物を手早く引き抜いた。指を滑らせるようにして扇面を開くと、骨がメスのように細いナイフになっていて、人差し指と親指の間へ送り出しながら、連続して1本ずつ投げることが出来るような仕組みになっている。一瞬にして臨戦態勢に入った幼なじみとは裏腹に、
「あ………。」
 緑髪の少年の方はポカンとするばかりでいたが、
「ああ、そうだっ! チョッパーさんとウソップさんだ。」
「え?」
「ほら。母さんのお話に出て来た。ホラ吹きウソップさんだって。」
 彼らを指さして衣音へそう説明するロロノアさんチの長男坊に、
「…あのな。そんな呼び方しとったんか、あいつら。」
 ウソップがどこか不満げに唇をひん曲げて見せたのだった。


            ◇


 幼い頃に母が話してくれた様々な海の冒険のお話の中、
『これはウソップって奴から聞いた話なんだけど…』
で始まる話には、何故だか…傍らで聞くともなく聞いていた父が、必ず、それと分かるほど、口許を楽しげにほころばせていたのを覚えている。いつもどこか表情の乏しい父だったのに、苦笑とも取れそうな、だが、何とも言えないやさしい笑い方をしていて、
「だから、ああこれってデタラメ話なんだなってすぐに分かる目印になったほどさ。」
「あんの野郎。相変わらずだよな、そういうトコ。」
 今夜の宿を確保してやろうと言ってくれていた船主さんに丁寧に断りのご挨拶をしてから、少年は衣音と二人、ウソップとチョッパーに連れられて、彼らの住まう診療所へと招かれていた。爽やかな風の吹きわたる牧草地のそのまた上。緑の丘の上に立つ瀟洒な建物。少年たちが雇われた客船がその目的としていた、世界一との伝説を背負う奇跡の診療所。午後の外来診察があるからと、病院の方へ直行したチョッパーと入れ替わるようにして、二人の少年をにこやかに迎えてくれたのは、どこか線の細い、だが、芯の強そうな表情をした女性だった。
「ま…、本当ね。ゾロさんにそっくりだわ。」
 ウソップの愛する妻であり、チョッパーと二人して患者たちの診療にあたっている優秀な女医でもあるカヤは、緑髪の少年の姿を感動の面持ちで見やり、
「あなたがまだ、このルーイよりも小さかった頃にお会いしただけですものね。」
 覚えていないのも無理はないわねと、やわらかく微笑んだ。医者にしては何ともか弱そうな、たいそうやさしげな女性で、
「この子の名前はルフィさんからもらったのよ?」
「あ、やっぱり。」
 揺り籠の中、まだ片言にもならない覚束無い声を時々上げて、聡明そうでやさしげな母や剽軽そうな若い父をその度に微笑ませている小さな姫君。父に似た黒いクセっ毛の髪と、母に似た優しい顔立ちの、なんとも愛らしい女の子だ。そんなルーイのやわらかな頬をそっとつついてあやす夫君の傍ら、
「ご両親のお二人とも、そうそう妹さんも。皆さん、お元気なのかしら?」
 カヤは冷やしたハーブティをテーブルに並べながら聞いた。初夏の陽射しが明るくて、少し動けば汗ばむ季節。藤の家具や調度を趣味よく並べた風通しの良い居間ではあるが、氷を浮かべてグラスにそそがれた淡い金色の飲み物はなんとも涼しげだ。尋ねられた少年は、
「はい。」
 家を出てから、さして月日は経っていない。それに、あの家族がそうそう何かしらにへこたれるとも思えない。そんな確信があって、長男坊は事もなげに頷いている。
「それにしてもなぁ。やっぱ海に出た辺り、血は争えないってのなのかな。」
 何とも感に堪えないという顔つきになるウソップであり、
「別にルフィやゾロが焚きつけた訳じゃないんだろ?」
「うん。聞けば色々と話はしてくれたけど、だから行ってみろとか勧めるようなことは、一度も言われたことはなかったな。」
 基本的な躾けは行き届いているが、言葉遣いはどこか乱暴。まま、それはまだ若々しい年代だから已を得まい。彼以上に関わりの遠い衣音は遠慮してか会釈を見せているだけという様子だが、
「…な〜んか違和感あるのな、二人とも。」
 ウソップがにやにやと笑って見せる。
「何が?」
「港での態度とえらい違いだからよ。ま、あん時は得体が知れない相手だと思ってたからだろうが、それにしたってもっと砕けてるんだろ? 普段は。」
 言われて、あはは…と笑いながら二人の少年は顔を見合わせた。屈託のない若さはどんなに制御してみてもあふれて悟られるものならしい。ましてや海へ"冒険"を目的に飛び出した"やんちゃ坊主"たちである。広大な海のエナジーに胸を張って相対する、拮抗出来るだけの生命力のほとばしりがなければ、易々と呑まれてしまうことだろうて。
「で、海に出たってことは何か? やっぱり海賊志願なのか?」
 訊かれて、少年はにかっと笑う。
「いずれはそうなるかな。でも、今んとこはまだまだ。」
 いくら向こう見ずな子たちでも、いきなり海の野盗の下っ端に志願したがるほどお馬鹿ではない。そこのところはウソップにも通じて、
「ま、お前らなら"モーガニア"を駆逐する側に回るんだろけど。」
 こちらもにんまりと笑った。
「モーガニア?」
 海賊というフレーズには少々眉を寄せていたカヤが、その単語へ小首を傾げる。夫がそうであったように"冒険家"に近いタイプのそれもいると知っていて、片っ端から"悪党"と決めつけるような彼女ではないが、相手がまだ若い子供たちなだけに、どんな危うい理解で把握しているのかという不安があったのだろう。妻の疑問へ、
「略奪とか強奪とか、悪さを当然顔で働く"悪党海賊"どものことだよ。そういう奴らを退治したり叩きのめしたりすることで賞金稼ぎをしたり、金品を取り返してやったりする海賊は"ピース・メイン"。」
 ウソップは簡単に説明し、
「あら。それじゃあウソップさんたちは"ピース・メイン"っていう方の海賊さんたちだったのね。」
「そういうこと。」
 にぱっと笑い、
「誇り高き"ピース・メイン"だ、一緒にされちゃあ困るってな。」
 胸を張ってご機嫌そうに言い放つ。とはいえ、傍らの揺り籠から少しばかり湿っぽい声が上がりかかると、あわあわと慌てて、
「ごめんなちゃいねぇ、ルーイちゃん。パパ、うるさかったでちゅかぁ?」
などといってあやすところが、なかなか可愛い"海賊パパ"だが。くすくすと明るい笑い声が上がって、それにくすぐられたかのように、窓辺に吊るされたイルカのモビールがゆらゆらと揺れた。
「まま、こうまで遠いとこまでやって来た辺り、お前たちの覚悟の程はよっく判った。」
 夢見がちな勢いは全く衰えていないらしい元狙撃手は、腕を組んでうんうんとやたら感慨深げに頷いて見せると、おもむろに顔を上げ、にんまり笑いながら…こんなことを言ってのけたのである。


   「明日、良〜いものを見せてやる。ま、楽しみにしとけってな。」



            ◇



 どうしてだろう。いつからか月を見るのがとても好きになった。山野辺の小さな田舎の空に浮かんでいた月も、港町で見上げてた月も、そして…初めて訪れた小さな島で見上げる月も。不思議なくらいに、視線を、関心を奪ってやまない。


「悪いな。眠かったろうに。」
 あとで庭先に来てほしいとこっそり告げられたのは、夕食がお開きになった時。心づくしの御馳走を振る舞ってくれたのへ遠慮なく応じた少年たちで、食事と共に色々と話も弾んであっと言う間に夜も更けて。じゃあ、お部屋を用意したからゆっくり休んでねとカヤに見送られた彼らへ、これから夜の回診があるからと手を振って病棟の方へ向かいかけたトナカイドクター氏が、ふと"とととっ"と後戻りして来て少年にそっと耳打ちしたのだった。
「お友達は?」
「衣音は先に寝たよ。一緒の方が良かったのかな?」
「いや、お前だけの方がいい。」
 舌っ足らずな声に愛らしい三頭身の縫いぐるみのような体つき。だが彼もまた、少年の父や母と共に、この庭からも見渡せる広大な海に漕ぎ出して、様々な冒険やスリリングな航海を体験し、文字通りの"死線"を幾つもくぐり抜けた頼もしい仲間の一人であるという。
「話があるって…どんなの?」
 雨や陽射し、潮風に晒されてだろう、庭先のその縁辺りに設置され、少しばかりくすんだ風合いとなったベンチに腰掛けた二人は、時折髪をなぶって吹き抜けてゆく陸から海への風に間合いを取りつつ、相手をちょっぴり窺っていた。
「…あのさ。」
 先に口を開いたのはチョッパーで、
「ゾロから手紙をもらった。」
 短い一言に、だが、
「…っ。」
 少年の気配が仄かに…虚を突かれたというような軽い弾かれ方を見せた。
「内緒にしといた方が良いってウソップは言ってたけど、聞かされないままって、何か嘘つかれてるみたいかもしれないだろ? だから、話しておこうって思って。」
 チョッパーはそうと続けて。
「ゾロ、心配してた。いつ此処へ辿り着くことになるかは判らないけど、その時はよろしくって。…あ、でも、今日の"おもてなし"は言われてたからじゃないぞ? ウソップもカヤも、もちろんオレも、お前が来るの、今か今かって待ってた。赤ちゃんの時の顔しか知らないから、どんな子になってるかなって凄く楽しみだった。」
 口元に手を寄せて"うふふ"と笑う。少年はふふと笑い返して、
「でも、すぐに判ったろ? 俺、父さんにそっくりだし。」
 背中を少ぉし丸めると、膝頭の間に伸ばした腕を挟み込むような恰好をした。
「おお、すぐ判ったぞ。ゾロと違って髪が長くてちょっと小さかったけど、オレ、匂い覚えてたからな。」
「…匂い?」
「おお。小さい頃の匂いを覚えてた。全く同じじゃなかったけど、あ、お前が来たってすぐ判った。」
「そっか…。」
 何だか反応が曖昧で、
「どした? お父さんの名前出したから、やっぱりがっかりしたのか?」
 ウソップが黙ってた方が良いと言ったのは、こんな遠くまで来たという冒険心の盛り上がりが、親懸かりなサポートと出会ってへしゃげるかも知れないから、だそうで。だが、
「いや、そんなじゃない。」
 少年はゆっくりとかぶりを振って、
「柄にないことさせたなって思ってさ。」
 小さく笑う。口元の形がそうと見えたから"笑った"と思えたのだが、気配と様子はどこか静かで、
「父さんてさ、昔はどんな人だった?」
「どんなって…。」
 訊かれてチョッパーは"う〜ん"と唸って見せ、
「第一印象は怖そうで、判りやすい"やさしい"は得意じゃないみたいだったな。一匹狼っていうのか、あんまり馴れ合うのは好きじゃなかったみたいでさ。でも、凄く頼り甲斐があって良い奴だったぞ。特にルフィには目茶苦茶やさしくて、無茶ばっかするのをいつもいつもちゃんとフォローしてたからな。」
 訥々と、だが、きっちりと語った彼に、
「…ふ〜ん。」
 少年はやわらかな笑みを見せる。
「どうかしたのか? ゾロが。」
「う…ん。やっぱ、昔もカッコ良かったんだなって。」
 そうは言ったが、

  「………。」

 それだけじゃああるまいとばかり、丸ぁるい眸にじっと見つめられて、
「…うん。ちょっとね。」
 かくんと項垂れると、渋々と白状し始める少年だった。

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