5
鬼のように強くて、口数少ない人格者で。
尊大でも傲慢でもない物静かな風情は、それは寡黙で男らしくて。
それでいて、飛びっきり無邪気で愛らしい母からすっかりと惚れられてもいる。
堅い方もやわらかい方も不足なく出来過ぎた人物であるところが、
どうしてなのだか気に入らない。
強すぎる父。まるで人ではないほどに。
あまりに強すぎる父は、
遥か彼方の高みに立つ父は、
目の前に立つ存在を人として見てはいないのかもしれない。
そんな父の、何故だか嫌いなところばかりをいつしか数えるようになった。
頑固で分からず屋で年寄り臭くて…と。
むっつりしていて、だが、途轍もなく傲慢で。
母が無邪気なのを逆手にとって、良いように言いくるめて従わせて…と、
しまいにはそこまで貶めて。
人一倍負けず嫌いだったから?
何かしら否定したがる年頃の、いわゆる"反抗期"だったから?
本当にそれだけのことなのだろうか。
一体どこで歯車がズレ始めたのか、
あんなに大好きだった筈の父が、
いつからだろうか、息苦しいまでに忌ま忌ましい存在になっていた。
―――誰でもいいから、
彼を至高の座から引き摺り降ろしてほしいと思った。
せめてこの手の届くところへ、と。
◇
「そんな言い方、しないでよっ!」
普段大人しい妹が、そんな大声を出したのは、縁側の外、寒椿の茂みに弾けて篠突く雨音に負けないようにという勢いもあったのだろう。春先からこっち、妙にむっつりと口が重くなった兄。何気にどこか父に似て来たねと言われて、腹立たしげに罵ってしまった。彼女が父を殊更慕っているのは重々知っていた。そんな様子もまた、心のどこかで引っ掛かっていたのかも知れない。そして、自分の大好きな父を貶められたことが、彼女の裡うちの何かに引火したようだった。
「お父さんの何がいけないって言うの? お母さんに私たちを育てさせてるって、それは悪いことなの? 自分の子でもないっていうなら、私だってお母さんとどこか他所の女の人との子供だわ。そんな子を、全然血の繋がらない他所の子の私を、お母さんの子だからってだけの理由でいつもいつも可愛がってくれて、やさしくしてくれて…。そんな人を悪く言わないでよっ! お父さんのこと、悪く言ったら、いくらお兄ちゃんでも、私、承知しないんだからっ!」
こんなにも…火がついたように、猛るように何かを言い募る妹を見たのは初めてだった。日頃はたいそう大人しく、品行方正。ほっそりとした撓やかな姿態に相応しく、楚々と淑しとやかで見目麗しいところを皆から褒めそやされている箱入り娘。兄弟同士でありながらもそんな印象があったから。心から怒ってみたり大声を出したりした場面なぞ、とんと記憶にさえなかったほどだ。それが今、両の拳を堅く握り締め、力いっぱい想いを込めて、大きな声で一気に怒鳴ったものだから驚いたの何の。それから、
「お父さんの子だって、ホントの子だって、それだけでも羨ましかったのに。そんな、そんなひどいこと、言わないでよ…。」
一気に沸騰したことで目眩いでもしたのか、今度は急に語勢が弱まって。そのまましゃくり上げ、白い手で顔を覆っておいおいと泣き出した。コトの展開にどうして良いやらと、何だかおろおろして立ち尽くしていると、廊下の障子に静かに影が差して、
「…良いかな?」
母の小さな影が声をかけて来たのだった。
そんなことで傷つけ合うような喧嘩はするな。まずはそうと言って、二人ともを自分たちの居室へと呼んだ。子供たちが使っている部屋とさして離れてはおらず、当然、そこに居合わせた両親にもこの騒ぎは聞こえていたらしい。
「………。」
和服姿の父もまた、どこか難しい顔のまま、胸板の上へ腕を組んで、いつもの床の間の前に座している。間断無く降り続く、卯の花腐(くた)しの雨に室内の空気も仄かに冷えて、どこか肌寒い昼下がり。いつものように、大卓を挟んで両親と向かい合うように正座して。………そして。
「信じられないんだよな、やっぱり。」
いつもいつも飛び抜けて明るい母が、それはそれは痛々しい声でぽつりと言った。
「ごめんな。母ちゃんもゾロも口が達者じゃなくてな。でも、ホントのことだから、同んなじことを繰り返すしかないんだ。二人とも神様から授かった子だ。間違いなく俺たちの子だって思うほどそっくりだったし、そりゃあ可愛かったし。お前たちを授かって、母ちゃんとっても嬉しかった。だからな、他所のどこにも他の"母ちゃん"なんてのはいないんだ。俺とゾロが母ちゃんと父ちゃんだってだけだ。」
卓の下、膝の上でしきりと両の手を交互に握っていて。時々関節が白く浮くほど強く握り締めては、その度に声を撓たわませて。けれど何とか涙をこらえて、
「…ゾロも母ちゃんも、お前たちのこと、大好きだ。それじゃあ…足りんかなぁ。」
辛そうにそうと結んだ母だった。親には一番居たたまれないことだったと思う。子供が親を信用せず、その愛情を疑うなぞと。確かに血肉を分けた子ではないが、それでも…有りったけの愛情を注いで育ててくれた。只者ではないこの二人が、慣れないことだったろうに一生懸命頑張って、精一杯に愛してくれたのに。それでも何かが足りないのかな、不器用で甲斐性がない身が歯痒いなと、そう思わせた自分なのだと思い知った。
「………。」
そう、今、この二人を諸共に傷つけてしまった自分だと気がついた。
「…お母さん。」
堪らず、妹がポタポタと涙をこぼしながら立ち上がると母の傍らまで寄り、小さな肩と肩を擦りつけ合うように身を寄せ合う。妹もまた誤解していたからと、小さな声で、何度も何度も"ごめんなさい"を繰り返す。それが…居たたまれなくって、
「………俺、父さんのこと、嫌いなんかじゃない。」
全てを投げうって、陸おかへ上がることを選んだ父。こんな鄙びた田舎に引きこもり、裂帛の気合いを喉の奥へと飲み込んで。現実に"世界"を相手に出来るほどの野望大望を腹の底へと押し込んで。大剣豪としての、溌剌とした波乱と冒険に満ちた、華やかなまでの躍進を経ていくらでも名を馳せられた、そんな輝かしい生き様を自ら封印した父。…そう、そんな道を彼に選ばせたのは、もしかしたら自分たちの存在のせいではないのだろうかと、そう思ってしまったことが、本当の"始まり"だったのではなかろうか。
「誰が生んでくれた母さんかとか、ホントはどうでもいいんだ。ただ…ただ、父さんが…父さんがあんまり遠いから。」
愛されていたからこそ捏ねることの出来た、それはそれは贅沢な駄々だと、今になって気がついた。何不自由のない、持て余すほどの愛情を土台にしてこそ偉そうに捏ね上げられる一丁前な理屈だったと、そうと思うと何だか…、
「…ごめんなさいっ。」
俯いたまま、恥ずかしいとかごめんなさいとか、込み上げて来た気持ちが一杯あって、ありすぎて居たたまれない。みっともないやら情けないやら、どうしても顔を上げられない。何てことをしでかした自分なのかと、罪の重さと恥ずかしさとが胸の奥を容赦なく掻き回し、息が詰まって苦しくて…。そんな想いに目眩いがしそうになっていると、
「………。」
ふと、気配がそよいで。
"………あ。"
ポンポンと。大きな手が、肩を背中を軽く叩いてくれる。
「…悪かった。」
そぉっと顔を少しだけ上げると、傍らへと座を移していた父の、穏やかな翠の眸が静かに見つめてくれている。いつもの薄い表情が、だが、ふっと和んで、
「けどな、買いかぶり過ぎだ。俺は剣こそ人並み以上に振れるが、あやとり一つ出来んのだからな。」
やわらかく響く深みのある声がそうと紡いで。
「う…。」
もうもう堪えることが出来なくなって。長男坊は久方振りに、声を上げて泣き出してしまったのであった。大きくて広い、父の胸に取りすがって…。
つまりは父がずぼらをしていたから、取り付く島を見失い、どうやって甘えたら良いのか判らなくなってたんだなと、母が言って。多分それが一番の正解だということになった。あまりに凄すぎる父に近づくのは気後れのすること。同じ"剣術"を修めているから尚のこと、せめて同じくらいのレベルの人間でないと、ちゃんと見据えてもらえないと、敏感に察知してしまった長男だったのだろうと。そうまで言われて、
『…俺、そんなに不遜に見えるのかな?』
父は少ぉし困ったように、小さく笑ったそうである。
***
「…そか。そんなことがあったのか。」
「うん。」
今にして思えば、妹よりももっとずっと、父のことを崇高な存在として見ていたからこそ、逆に自分へ強い引け目を感じての、ジレンマの暴発のようなものだったのかもしれない。
「ルフィを泣かせたか。」
「…ごめんなさいです。」
何と言っても、彼らの大切な"船長"だった人物だ。いくら息子でも、いやさ、息子だからこそ、心配をかけたりなんかせず孝行するものだろうがと、叱られても仕方がないことだろうに。そして…この少年は知らないことだが、このチョッパーは生まれ落ちた途端に実の親から見捨てられた子供だった。そんな自分に比べたら、何と恵まれた境遇に落ち着くことの出来ていた彼であるのかと、それまでも持って来られたなら。もうもう弁解や言い訳に値する言葉を思いつくことさえ出来ませんというくらい、それはそれは罪深いことだったりするから。ややもすると焦るように身を竦め、小さくなって頭を下げる少年へ、
「けどまあ、悪いことじゃあないな。」
意外にも、うんうんと大きく頷いて見せるチョッパーであり、
「?」
「お腹の底から言いたいこと言い合って。こんなこと言ったら嫌われるかも知れないとかって及び腰になんないで、本気で自分を晒してさ。ちょっとみっともなかったけれど、だからこそ間違ってたって気がつけたのも収穫だって思ってる。そうだろ?」
「…うん。」
遠慮気味ながらも頷くと、小さなトナカイドクターはそれは眩しげに"にこぉっ"と笑った。
「ちゃんと"ごめんなさい"が言えるなんて、いい子だな。」
こんなにも幼い容姿をした存在から言われると、ともすれば返事に困る。上と下と両の唇ともを引き込むようにして軽く噛み、もじもじと反応に迷っていると、
「俺が意外だったのは、ゾロがそんなお父さんだったってことだな。」
そうと続けられて、
「? そんなお父さん?」
それこそ意外な評に、少年はキョトンとする。そのあどけない素直な表情が…彼(か)の剣豪の気難しい大人っぽい顔をよくよく覚えている身にはあんまり可笑しかったのだろう、
「ああ。」
チョッパーはくすくすと笑って、
「なんかさ、チョロチョロ駆け回る子らの襟首掴まえて"だーこら、大人しくしないかっ"なんて怒鳴っては、でも結局キリキリ舞いさせられてるようなお父さんって印象があったからさ。」
声真似まじりの彼の言う想像図はなかなか判りやすくて、少年も釣られてククッと笑った。そんな少年の横顔へ、
「どんな不思議な授かり方をしたんだっても、お前たち二人は間違いなくゾロとルフィの子だ。」
小さなトナカイドクターは、今度はどこか厳かなくらいに静かな声でそうと紡ぐ。
「あの二人が海から陸おかへ上がる決意をしたほど、お前たちを大切に、一番にって想ってたんだからな。」
「うん。とってもありがたいことだって思う。」
大小二つの背中を照らす月光は、少年の知らない…若かりし頃の父が旅の空で、幼かった母が故郷の風車のある村で見上げたそれと何ら変わらない、刃の蒼と真珠の銀に濡れて目映いばかり。
「でも、ホント。ウソップも言ってたらしいけど、海へ帰って来たとはな。」
しみじみ言われて、
「そんな意外かなぁ。」
「だって、お前たちには記憶さえない筈だ。ルフィは口下手でゾロは口が重くて、あんまり上手に話せたとも思えないし。だのに、海ってどんなトコなんだろって思ってたのが高じて、こやってホントに海まで出て来たんだろ?」
丘の上からは、月光の欠片や数え切れない星々の影を落として、真っ暗な筈だのにちらちらとした光をその面おもてへ泳がせている広い広い海を一望出来る。
「海っていうのは不思議なトコだよなぁ。こんなに広くて…果てがどこだか判らないくらいに広くてさ。」
まるで子供がワクワクと夢を語るように、小さなトナカイドクターはその舌っ足らずな声を弾ませる。
「地図の上で何をどう書かれていても、実際には違ってるって事は一杯あるぞ? 殊に、海ってとこは広くて広くて、まだ誰にも踏み込ませていないトコだってあるくらいで。人間の賢さかしさくらいじゃあ分析しきれない色々だって、まだ沢山眠ってるのかも知れないからな。お前たちが授かった奇跡も、ホントに海の神様が下さったご褒美だったのかもしれないぞ?」
すらすらと淀みなく語られる言葉に、少年は吸い込まれるように聞き入った。
「んん? どうしたんだ?」
「いや…凄いなと思って。チョッパーさんて、心の中を見る能力とかあるのか?」
どこか曖昧だった想いをきっちりと形にしてもらったというような、そんな気がした。想いとして判っていることだのに、その把握の曖昧さから時に不安になる。上手く説明出来なくて、判ってもらえないことに地団駄を踏みたくなる。『〜みたいな?』とか『〜っていうか』とか『〜な世界?』とか。沢山の言葉や表現に片足引っ掛けさせるようにして言ってみたら、却って曖昧さに埋もれてしまう悪循環。どんなに言葉を尽くしても微妙に何かが足りなくて、胸にイガイガと不快な感触をいつまでも感じてしまう。それをすっきりと言い表してくれた"聡明さ"に初めて出会って、純粋に驚いた。
「おれ、もっともっと勉強しとけば良かったのかなぁ。」
言葉を知らない自身の拙さに溜息をつき、それこそ"しみじみ"と感慨深い声で言う少年に、
「皆、学業から離れてから思うんだよな、それ。」
小さなトナカイドクターは、それはそれは愉快だと言いたげに"えっえっえっ…"と心からの笑い声を上げて笑い続けて見せたのであった。
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