夫婦の会話 Tea time


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  ―――胸の裡
うちに閉じ込めた筈の何かが
      時折、波打って騒いで落ち着けない夜がある。


 “………。”

 不意に強い雨脚で降り出した雨のような、そんな気配がしてぽかりと目が覚めた。少し下手な低い口笛にも似た、どこかの洞
うろを吹き抜ける風の音。この時期には青嵐といって時折突風が吹くんだと、やさしい眸をして教えてくれた男は、穏やかな顔をこちらへうつむけて、同じ夜具の中、安らかに眠っている。闇に慣れた眸はその端正な顔を、目許から鼻梁、口許、顎…とゆっくりと辿って。
「………。」
 鋭角的なその顔へ向かって、薄く口を開いて、何か言いたげな、愚図る直前のような困り顔になったものの、ついに声は放たれず。それよりも、ピンと張った障子紙を箒
ホウキの先で軽く撫で回しているかのような音に気を取られて。身を起こすと、音の源を探りたくて視線を巡らせた。古い作りの家で、けれど戸や襖などの建具はしっかりしていて、風に震えてガタガタと鳴るようなことはあまりない。なればこその静寂の中に、こぬか雨のようなその音は、淑しめやかに、されどよく聞こえて。
「………。」
 ふと見上げると、天井の近くに青い光。重なり合う竹や笹の葉を彫った欄間越しに、隣りの座敷の方が明るいことが判る。恐らくは…雨戸を引かなかった隣りの座敷が、庭に向いたガラス戸と障子を透いて染みてくる、青い月の光に満ちているのだろう。頭の側だ。ほんのすぐそこ。身を伸ばせば、腕を伸べれば、襖にあっさり手が届き、すらりと開くことが出来る。青い月光に塗り潰された座敷をその目で見ることが出来る。縁側のすぐ間際に植えられた、南天や小笹が風に揺れる様もまた、障子に躍る影となって映って見えるに違いない。だが、
「………。」
 ためらいが体を強く就縛していて動けない。真っ青な部屋はあまりにも"似ている"だろうから。もう還れないあの世界に。呪われていたにもかかわらず、焦がれてやまなかったあの青くて広い世界に、だ。
"………。"
 ざわざわという…遠い遠い風の音にさらされたまま、ただじっと、引くことも進むことも出来ずにいると、
「…ルフィ?」
 すぐ傍らからの声がした。眠そうなそれではなく、常の、深い響きに落ち着いた声音だった。彼もまた、どのくらいか前から起きていたらしい。
「眠れないのか?」
「………。」
 ゆっくりとかぶりを振る。
「風がうるさいか?」
「………。」
 やはりかぶりを振る。


「…海を思い出したのか?」
「………。」
 夜陰の中に座り込んだ小さな影が、動かなくなる。



  「…戻りたいか?」



 うつむいた影は、だが、激しくかぶりを振って。………いつまでも振り続けて。酷なことを訊いてしまったと後悔しながら、
「ルフィ、判った。もういいから。」
 起き上がって抱きすくめ、胸元へ、腕の中へと取り込んだ。白い夜着に包まれた小さな体がもがいてもがいて、圧し殺したような声がして。
「…ルフィ。」
 思いもかけず天使を捕まえてしまった男のように。そんなに暴れたら羽根がもげてしまうぞと、痛々しげに、怖々と抱きすくめていたものが、それでは埒があかなくて。業を煮やして力を込める。大きな手で包むように掴まえた小さな頭の後ろに手を添えて、胸板へと押しつけて。残りの腕で上体を抱きすくめると、これも力強く引きつけて。
「ルフィ、我慢しなくていい。泣いていい。ちゃんと泣くんだ。」
 しゃにむな抵抗を封じられた小さな肩。小さく震わせて。引きつるような、啜り泣く声がかすかに聞こえた。
「…ルフィ。あれは裏の竹が風に鳴ってる音だ。うるさいなら、明日にも全部切り払う。だから…。」
 愛しい彼へと、宥めるように静かに静かに囁くと、小さな声がそれを遮るような間合いで紡ぎ出された。
「…夢を見るんだ。」
 頬をつけた頼もしい胸。これまでもそうだったように、何ら変わらず、小さな自分を包む大好きな匂いと温み。それでも、いや、だからこそだろうか。何だか、切なくて哀しくて胸の奥が痛い。
「泳げなかったのにな。波間に浮いて泳いでる夢なんだ。溺れるはずなのに、どこまでもどこまでも泳いでる。」
 少し悔しそうに言う。

「きっと、今しあわせだから、それでこんな夢、見るんだな。」

 二人きりの静かな夜は、丁度あの航海の始まりを思い出させる。小さな船に二人きり。航海術も海図も磁石もなく、あまりに無計画で危なっかしいばかりだったのに。すぐにも食べ物や飲み水も底をついた、無謀なばかりの航海だったのに。だのに…何故だかまるきり不安なんてなくって。どちらが西だか東だか、周りにはただぐるりと海しかなくって。夜は降って来そうな星々に取り囲まれて。それだけのことが、何故だか楽しくって仕方がなかった。何日も食べられなくってお腹が空いたのは辛かったけれど、出来たばかりの仲間が嬉しくて、これから何が始まるのだろうかと、ワクワクしてばかりいた。
「明日になったら元気になるから。大丈夫だから…。」
 だから今だけ…と見上げると、やさしい深緑の眸が頷いて、節の立った長い指が、大きくて温かな手が、頭を、背中を、肩を、それしか知らないかのように、いつまでもいつまでも撫でてくれた。あんまりやさしいから、却ってなかなか涙が止まらないのだけれど、
"ゾロがこんなやさしいって判ったの、いつごろだったっけ。"
 今にして思えば、きっと最初から大好きだったのだろうに、それは少しずつ判って来たことで。裂帛の気魄から繰り出される豪烈なる剣撃には、いつもいつも圧倒されていて。荒々しくて凄みがあって、隙のない張り詰めた何かを常にまとっていた、正に"野獣"のような男だのに、その懐ろに入ることを許された者には際限無くやさしくて温かい彼だと知ったのは、一体いつのことだったろうか。
"………。"
 こんな風に、昔のこと、思い出してるほど暇ではない筈なのに。それより何より、毎日が楽しくて、いつもいつも笑いが絶えなくて、沢山の優しい人たちに囲まれてそれは幸せな自分たちなのに。昔を振り返ったなんて、船に乗っていた時も滅多にしなかったこと。どうにも変えようのない、二度と戻れない過去を振り返るような、そんな余裕が出来たということだろうか。
"………。"
 自分で言ったその通り、明日になったら忘れるからと、今だけは…遠くなった潮騒の声と海でも同じく青かった月の光を懐かしんで、ちょっとだけ涙ぐんだルフィだった。



   ***


「…お母さん?」
 呼ばれてハッと我に返る。頭上の高みで青い葉の群れが紡ぐ、波の音にも似たうねりに気を取られていたらしい。自分を見上げてくるのは、愛しい坊やのキョトンとした顔で、
「悪りぃ悪りぃ。どんくらい集まった?」
 頭を撫でてやりながらそう聞くと、くすぐったそうに笑って見せる。一応は"お仕置き"なのに、大好きなお母さんと二人きりで一緒なのが嬉しくてたまらない。そんな顔だ。
「もう大分。あと…。」
「あ、そっか。あの娘
の赤い"くっく"もか。」
「あれは辞めとこうって言ったのに。」
「そだったな。」
 坊やから窘められて小さく舌を出す。それは威勢よく竹林に蹴り込んだ靴や下駄、つっかけを、二人掛かりで探し回っている母と息子である。最初は単なる"お天気占い"の筈だったのが、途中から"どっちが遠くまで飛ばせるか競争"になってしまい、調子に乗って家中の履物をこの裏山へ蹴り込んだため、全部見つけるまで家には入れないと、夫であり父である"家長殿"から厳しく叱られた。
「あ、あそこだ。」
 小さな息子が指さした先。少しばかり高い枝に引っ掛かった小さな赤い靴。竹の葉や幹の緑色に赤はたいそう際立つ対照色で、目立ったそのせいで見つけやすかったのだろう。母はにんまり笑うと勢いよく腕を伸ばしてあっさり取ってしまう。
「よしっ、これで全部だな。」
「うんっ!」
 大きな背負いカゴに山盛りになった履物を見やって、満足げな顔をする母子で、
「早く帰ろう。ツタさんが"おぜんざい"作ってくれるって。」
「ホント?」
 甘いおやつと聞いて、嬉しそうに顔をほころばせる坊やをひょいっと抱える。もう片方の肩にはカゴの負い紐。どちらも大して堪
こたえはしないが、くすぐったい重みについつい口許がほころぶ。誰かにたいそう面影の似た愛しい坊やに、家族たちの靴の山…とそれへと悪戯した自分たち。みんな掛け替えのない宝物のような気がして、なんだかむずむずと楽しくてしようがないルフィだ。
「お母さん。」
「んん?」
「お父さんまだ怒ってるかなぁ?」
「どうだろなぁ。ゾロはお行儀と悪戯にはうるさいからなぁ。」
「でもツタさんが、お父さんも小さい頃は一杯悪戯したって言ってたよ?」
「あはは…。らしいな。けどな、そのたびに大人から叱られて、悪いことなんだぞって教えられてたって。だから、お前だけでなく母ちゃんであっても、悪いことは悪いって叱るんだ。」
「…うん。」
 母親役の自分がそういうことへまるきり無頓着だからというのもあるんだろうなと、ある意味で"悪者役"を黙って引き受けてくれていることへも感謝して、
「叱られても、ゾロんこと、嫌いじゃあないんだろ?」
 訊くと、にぱっと笑って嬉しそうに頷く坊やに頬擦りをする。くすぐったげに"あはは…"と笑う幼い声がまた、胸に暖かかな何かをとぷとぷとそそぎ込んでくれるようで嬉しくってしようがない。
「さ、帰ろう帰ろう♪」
「帰ろ帰ろ♪」
 歌うように口ずさむ母子を見送って、竹の梢がさわさわとざわざわと、どこか懐かしい音を立てて揺れたが、今はもうそれへと振り返ることもない"海賊王"だった。


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  〜Fine〜  02.1.25.


 *シリーズ設定からして破天荒なんだから、
  今更これを言うのも何ですが、
  そうそうあっさりと"海"を諦め切れる筈はなかろうと。
  でもまあ、いつまでも引き摺る人たちでもないと思います。
  きっぱり割り切ってて、
  今は子供たちと過ごす毎日が充実していて、
  あんまり未練はなかろうと。
  それに…お嬢ちゃんを嫁に出してから、
  再び海へ戻りかねない人たちですしね。(おいおい/笑)


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