その五 ダ・カーポ
――― 自分にこんなことが出来るなんて、
ほんの数カ月ほども前には思いもしなかったことだった。
愛想のないコンクリートの壁が、夜中の月光を浴びてでっかい墓石みたいに見えた。夜中に見たことがなかったから、こんなにも冷たく見えるのかな。元は検問用の税関の小さな出張所だった。今も名目は同じ役目のままなんだけれど、居座ってる奴も、やってる仕事っていうのも、全然違うものになってる。市場に来る近所の農家の野菜売りのおばちゃんやらが、挨拶1つで毎日のように通ってたような、ただの通過点に過ぎなかったものが。今じゃあ通り抜けるのが至難な、とんでもない検問所になっちまってて。しかも、どんなに真っ当な理由の無害な一般人でも、大金を出さなきゃ通れない。ごねればそれだけで逮捕されかねない。他でもない俺らの村なのに、どんな因縁をつけられるか判らないからって自由に歩き回ることさえ出来ないんだぜ? そんな理不尽がゴリ押しで通用してるのも、やりたい放題の軍人たちが野放しの野犬みたいに一杯たむろしているのも、俺らには今でも信じられないことだけど…紛れもなく“現実”なんだ。
“………衛兵の交替まで二十分か。”
時計を確かめ、声を殺しながら深呼吸代わりの溜息をつく。ほんの少し前までは、それはそれは安寧な日々しか知らなくて。ちょっとした不満とか意見の行き違い、大人からの一方的な叱責やらへの反抗心。せいぜいそんな程度のことが発端の口喧嘩くらいしかしたことはなかったし、それ以上の何かしらで決着をつけなきゃ収まらないようなほどものことなんて大人たちの間ででも滅多になかったから。巧妙な争いのやり方なんてもの自体が、此処の誰にも必要もなかった。そんな世界でぬくぬくと過ごしてた筈の自分が今、重装備の兵士たちが何人も配置され、厳重な警戒に守られた国境地帯にて、隣国への密書を届けるなんて大きな仕事を任されているだなんてね。こんな真夜中だってのにね、陽の下でもあるかのような、そりゃあきびきびとした足取りで何度も何度も同じところを往復しては、執拗に辺りを見回す警備兵たち。自分たちがやってることが公明正大正しいことなら、そんなに怯える必要はないんじゃないのか? 何が襲ってくると思ってる? 何が通過するとヤバイんだ? お前らがやったことの真実が、世間に明るみになるのがヤバイのか?
「………。」
国境線と名付けられた境目を越えて、その向こうに聳える山を越え、隣りの国の政府機関へ。何ならマスコミだって良い。赤十字とかの国際機関が一番いいんだけれども、そういうところはまだ動いてさえいない。突然何が起こったか、今、何が起こっているのか、ぶちまけてやらないと、こんな小さな村の窮状なんて誰も気づいてくれないから。みんながそれぞれ、携帯でこっそり撮った映像をまとめたディスク。お守りにって懐ろに抱いて。一番身軽な俺が搬送役にって選ばれた。此処を突破して何としてでも隣りの国まで。何カ月か前までのウチの村みたいに、誰も銃なんて持ち歩いてない、あっけらかんと平和な市街まで行かなくちゃ。胸元に引き寄せた、まだ子供の作りの小さな手を握り込み、思わず堅く握り締めたその時だった。
「…っ、そこで何をしているっ!」
鋭い声と同時に、幾条もの目映い光が浴びせられ。あっと言う間に…がちゃがちゃと重々しい装備を鳴らしながら、屈強そうな兵士たちが周囲に集まってくる。そのまま此処で問答無用とばかりに銃撃されて、蜂の巣にされるのではなかろうかと感じて、まずはと皮でも剥がれたかのように、全身の血が冷たく沸き立って。総毛立つとはこういうことかと、生まれて初めて実感させられた少年だった。
さすがに、問答無用で寄ってたかって殺すという運びにはならなかったが、こんな小さな子供を相手に、過ぎるほどの力でもって引っ張り引き摺り、元は事務所、今は臨時の兵舎と化してる無愛想な建物へと連れて行かれた。
「侵入者、一名っ、連行しましたっ!」
武器などの所持品はありませんでしたが、どうやら国境突破を狙っていたものと思われますっ。勢い良くも大声で、そうと報告した若い兵士が少年をどんと突き出した先には、重々しいデスクがあり、随分と小さい頃に社会科の見学で入ったことのある“所長室”だと思い出す。その時は昼間だったから、大きな窓からの陽射しがまぶしいくらいに差し込んでいて、そりゃあ明るかったなということまで思い出せたのは。今の此処が…夜だからというだけ以上に薄暗い空間だったから。正当な“軍務”とやらで此処へ配備されている彼らだろうに、室内への明かりはあまり煌々とは灯しておらず。そういうところがまた、まるで何かしらの悪事の本拠地として、後ろ暗いからこそこそと、息をひそめているようにしか見えなくて。捕らえらえたという衝撃から、意識が今にも飛びそうなほど震えかかっていたのも束の間のこと、自分の周囲を見回せるほどの落ち着きを素早く取り戻した少年は、革の手枷で後ろ手に腕を封じられたまま、自分の正面にいた人物へと視線を投げた。少年を突き出す格好で取り残し、自分は型通りの敬礼をしてから戸口の前へ真っ直ぐ下がった下士官の報告を黙って聞いていたのは、この建物の一番いい部屋にいたことといい、かなりの上官、もしかしたら将校クラスの軍人であることが伺えたけれど。それにしては…随分と若い。軍隊というのがどういう組織かなんて知りはしないが、それでも功績以外に年功序列とかいうのだってその階級差には大いに関係するのだろうに。最初の強襲で兵士たちを指揮していた士官には、もっとずっと年のいった脂ぎった中年とか初老の顔が幾つもいた。そんな彼らに比べれば、この男は息子ほどにもずんと若く。だが、だからといって与し易いとは到底思えぬような、太々しくも恐持ての面構えをしており、
「こんなチビすけが“レジスタンス”か。」
開口一番、そんな言いようをしてくすりと鼻先で笑いまでした。デスクを挟んだ向こう側。椅子から立ちもせぬままに、机の端に両の肘をつき、がっつりと大きな手を組み合わせたところへ顎を添え、気のない声で言い放ったそんな一言に。小さな少年の気勢の何が反応したやら、
「戦力もってる奴が偉いのかよっ!」
気がつけば。一気に叫び始めていた彼だった。ウチの村はそりゃあ牧歌的な長閑な村だった。観光客だって来ようがないほど何にもなくて、毎年毎年、同じ顔触れでの同じ行事。それでも育つ子供らが毎年何人か、誠実さや職人としての腕を望まれて、町へ出て行く時にはちょっぴり寂しくなったかな? 何の取り柄もない人々の、何の取り柄もないただの村だったのに。いきなり降って来た銃弾の雨と、強力な迫撃砲による問答無用な炸裂とで。あっと言う間に村は吹っ飛び、家々は焼かれた。ほんの数カ月前の話だ。どこぞの国で起きたクーデターがあって、その首謀者と支援してた組織が逃げてるんだってな。そん中の誰ぞがこっちへ逃げて来たからって。凶悪で、自爆用の火薬や爆弾も持ってる恐れがあるからって。それでの戦車や軍用車での突撃で。小さな村をあっと言う間に蹂躙し、焼け出された人は放ったらかしで、ゲリラが潜んでないかって名目で家捜しをし、金目のものを略奪してからご丁寧にも火を点けた部隊があって。
「それを咎めた長老は殺されたぞ? お前らを守ってやりに来たのに、何だその言い草は、だとよ。」
軍人ってのは、最強の武装をもらってやりたい放題したって良いんだってな。一番危険な前線にいるんだ。明日をも知れない身なんだから、何やったって良いんだとよ。誰も逃げ込んでなんかいねぇのに、勝手に来といてそんな言い草があるかっ!
「う…ひっく…。」
ずっとずっと、喉の奥に閊えてたものが。喉に栓でもされてたかのように苦しかったものが、堰を切ったみたいにしてあふれ出す。いつ洗ったものだかも判然としない襤褸のような服を着て、裸足も同然で立ってる自分。あれからずっと、そんなことに構ってなんかいられなくなった。怖くて痛くて、悲しくて。辛くて…それから苦しくて。何でこんなことになったのか、誰かに説明してほしかったし、その反面、こんなことは嘘だよって、魔法でも解くみたいに一瞬にして、何から何まで元通りに戻してほしかった。あんな、地獄絵みたいな村にされるほどの罪を、誰がやらかしたって言うの? 俺んチはまだ、お父さんもお母さんも何とか助かっているけれど。独りぼっちになっちゃった子の方が多いんだ。その身にひどい怪我を負ったって子もいる。逃げ遅れて死んだ子だって…。
「なんでだよっ。なんで俺ん村が…っ。」
答えのないままに放って置かれているのが、あんまりもどかしくて。それと、ここは人がいてもいい空間っていうような。何か、暖かさとか湿り気とかがあったから。ちゃんとした“部屋”なのが、前は当たり前にこうだった、自分の家のことを彼に思い出させたのかもしれない。言うだけ言ったら胸が空っぽになっちゃって。そしたら…今度は心細くなったのか。何だか情けないくらい、もっとずっと小さい子供みたいに泣き出しちゃったらさ。
――― す…っと。
温みが傍へと寄って来て、大きな何かが頭を触った。それが“何なのか”が判らなくって、びくって肩を震わせたら、
「取って食う訳じゃあねぇよ。」
低くて静かな声がして。その何かが何度も何度も髪の上を行き来してるのが判った。あれれ? もしかして。これってあの将校なのかな。目の前に来ている軍服には、七宝焼のメダルとかバッチとかが下がってる。現場でこんなもんつけてるのは、ただの勲章じゃなく、階級章だからだって聞いたことあんぞ? そんな奴が、俺んコト撫でてるのか? いきなり声を上げて泣き出したんでビックリでもしたんかな?。でもサ、尋問してるんだ、泣かれて驚いててどうするよって、尋問されてるこっちが思ってしまったぞ。
「ロロノア準将。」
そんな場へ、ドアはないからノックも出来ず、声をかけて来た気配があって。こんな光景は無様すぎるよなと思いつつ、でも、そんな急には涙も止まらずで。向かい合ってた広い胸へと、ばふって顔を隠しがてらに凭れたら。何でだか、背後からは“くすっ”て笑った気配があって。それからさ、
「…笑ってんじゃねぇよ。爺さんたちに聞こえたらどうすんだ。」
何て言うのか。罰が悪いって感じの言い訳が頭の上から聞こえて来たけど。どうしてだか、無理から引きはがそうって動きはない。意見された部下らしい気配は、特に態度を引き締め直すでない、むしろ一種の図々しさでもってずずいと入ってくると足早に近づいて来て、何やらこそこそこっちの男へ耳打ちをし、
「…は〜ん、証拠になっちまうからな。今頃になって“戦利品”を処分ってかよ。」
相変わらず、士官とは思えないような伝法な口利きをする男であり、判ったと頷いて伝令兵を下がらせる。気配がなかったからと少年は忘れ切ってたが、戸口にずっと控えてた下士官兵の方も下がらせたらしく、そして、
「すまねぇな。怖がらせちまってよ。」
――― 静かな声が真っ直ぐ真下へ。少年へと向かって降って来た。
謝辞の言葉を、こんな場面で。まさかに聞こうとは思わなかったせいだろう。
「………え?」
少年の反応は鈍かったが、若い将校は気にせず続けた。恐らくはお前の村も、宣戦布告なしの襲撃に遭って焼かれたんだろう? 金持ちの出のキャリア上がりっていう世間知らずな将校もせいぜい性分(たち)が悪いが、もっと性が悪いのは、叩き上げのくせして大きな勘違いをしてる爺さんどもでな。中途半端な年令で、迫撃部隊の曹長あたりで出世が止まってるよな連中は、どうせ出世の先も見えてるしってことで自棄になるんかな、せいぜいうまい汁を吸うために軍に居残ってるんだっていうような、方向転換をしやがるケースが案外と多くてよ。偵察なんていう口実で攻撃先に先乗りし、どんなところかを見極めて、資産家がいるようならこっそりと連絡つけて取引しやがる奴もいる。ここいらへの侵攻計画があるんだが、特別に逃がしてやるから幾らか寄越せ、ここいらの軍の情報でも良いってな。
「俺はそういう輩をあぶり出すって密命を本庁から受けてやって来たんだよ。」
「え?」
「表向きはここいらの統合本部長ってやつとして、だがな。こんな若輩の隊長じゃあ、現場では慇懃無礼にも無視されるのがセオリーなんで。こっちもそんな隙をついての内偵をするんだが、今回はやたら時間がかかってしまった。」
奇襲を受けた後々も、どこからも何の手も打たれない、言わば無頼の武装集団みたいなものが居座ってて、さぞや苦しい想いをしていたろうな。俺なんぞが謝って済むような小さいことじゃあないのも判ってる。こっちも面子大事でやってることだけに、完全に胸がすくようなカッコでの収束にはならないだろう、恐らくは“内々で”っていう処理になるはずだ。けどまあ、少なくともお前たちを苦しめた馬鹿共は、この俺が本国できっちりと仕置きしてやるから。世界中に非道を暴露って訳にはいかないが、そいつの親戚一同たちから、なんて馬鹿をしてくれたんだ、この誇り知らずの恥知らずと死ぬまで罵られるような、そんな処遇にしてやるから。それで堪忍してくれないか?
◇
効率優先の殺風景さではいい勝負かもしれないが、戦場の夜の薄暗さなんかどこにも存在しない、病院のICUだろう寒々しいばかりな一室にて。ゾロが見ていた不思議な夢だけじゃあないんだと。小さな少年がいきなり話してくれたのは、全く別のシチュエーション下のお話であり、
「…それも、俺とお前だってのか?」
確かに、そんな状況というものがこの広い世界の何処か…内戦や紛争で混乱が続く土地では、実際に起こっている“現実”であるのかもしれないが。それを突然つらつらと聞かされて、正直な話…思い切り面食らってしまったゾロだったのも無理はない。何しろ、彼はこの街のあるこの国の生まれで、そしてこの国は、少なくともここ百年ほどは、どこかの国や地域、民族を相手に戦争をしたことはないし、国内紛争とやらにも縁がないままだ。だっていうのに、そんな逸話の将校だったと言われても、ピンとくるものはなく。
“爺さんや親父や親戚連中にも、そういう体験をしたような顔触れはいねぇしな。”
早い話が、何とも信じ難いこととしか言えなくて。それで呆然としていたこちらを、どうと解釈したのやら、
「これ以上の細かいとこまでは話せない。」
ルフィは神妙な顔のままにて言葉を結んだ。
「言うと、魔法が解けでもするのかな?」
どこか からかうような言い方をしたゾロだというのには、さすがに気づいたらしくって。だが、怒り出すより厄介なほど、硬く真剣な真顔になってる少年であり、
「自分で思い出してくれなきゃ意味がないからだ。俺が話したことの、その部分だけを鵜呑みにして、肝心なところを思い出せなくなられては困る。」
「困る?」
こっちよりよほどに事情に通じているらしいルフィは、そりゃあ真摯な表情で言葉を継いだ。
「俺は、知りたかったから思い出せたんだ。
だからゾロにも自分で、自分のことを思い出してもらう。」
自分のことなんだからということか、それとも彼もそこまでは知らないことだから、ということか。詰め寄るように言いつのり、
「ゾロがどうして…その後に姿を現さなかったかを。」
水晶の時はさすがに、俺が生きてる間にってのに間に合わなかっただけなのかもしれない。けど、その他の時は?
「他?」
まだ他にもそういう話があんのかよと、うんざりしかけて、だが。
“……何だ?”
妙な胸騒ぎがする。喉元まで出かかっているのに思い出せないままだったことが、一気に明らかになり、頭の中が一気に鮮明に塗り替えられるようなあの感覚。自分を見上げる黒々とした瞳に覚えがあった。かび臭い廃墟の窓からみえる夜空が、頭の中でフラッシュバックする。火薬の種類もややこしいアルファベットが連なる名前の重々しい武器の数々も、そんな物騒なものの取り扱いなんて全くの全然知らない筈が、木箱のマークでどれがどれと判るのは何故?
“…そのまま情報を得るための蔓として、証拠固めの証人にって利用して良かったはずなのにな。”
彼の身に危険が伴うことであるし、それ以上に。いくら平和になったとて、結果的にはあいつは“内通者”だったなんていう誤解を彼へと背負わせることになるのかも知れない。そんな重荷をずっと意識させるのが、どうにも居たたまれなかったから。
“…ああ、そうだった。”
水晶の話よりももっと鮮明に、その身のうちへと蘇った記憶と感覚と。職務で赴いた地にて、出逢ったそのまま別れてしまい、二度と逢えなくなった存在が確かにあった。本国へと戻った自分たちは、ある意味“隠密”のような存在だったから。一度でも足を運んだ国や土地には二度と行ってはならないのもまた暗黙のうちの了解で。だから、あの特攻少年には二度と逢えなくなるの、判ってたのにね。国へ連れて帰ることもせぬままに、家族の元へ戻れと叩き出したのだったっけ。
“…けど。”
そんなことってあるのだろうか。その記憶が自分のものだというのなら、一体いつの話だ? そんな物騒な国の物騒な職務についてた覚えなんてない。自分はずっと、この、少々暢気が過ぎるほど穏やかな国で生まれて育った、ごくごく普通の一般市民だ。まだ少々混乱したままなゾロだと気がつかないのか、ルフィは…ちょうど説明された場面の少年がそうだったように、自分の抱えていた想いをほとばしるような勢いで口にした。
「いつだってそうなんだ。
ゾロはいつも、俺を助けちゃあ、どっかへ姿をくらまして。
結局、その後は二度と逢えない。」
立場が違うもんなって、だからしょうがないよなって。もう逢えなくなるってのを悟った途端に、途轍もなく愛しくなる。切なくて身が震えて、居ても立ってもいられなくなる。急に眸の奥が熱くなって、涙が止まらなくなる。いつだってそう。何度、繰り返して来たことかと、胸がきゅうきゅうと締め上げられて苦しくなる。
「そんなことを“繰り返してたんだ”ってのが分かったのは、
今話した、どっかの国で将校のゾロに庇われた時だったんだ。」
◇
無事に仲間の待つ村へと帰る道で、少しずつ少しずつ頭の中に“前ン時”のことが蘇って。それで途中で呆然としちまった。たくさんの場面場面が、頭の中、溢れるほどに蘇る。腹黒い大臣に命を狙われていた王子だったこともある。水晶に封じられてた子供だった時も、死刑囚への説教に出向いた監獄で、囚人たちの暴動に巻き込まれかかった見習い神父だった時もあった。採石場の事故に巻き込まれかかった時もあったし、祭りの人波に押されて、流れの速い川に落ちたこともあった。そして、そのどれへも。頼もしい腕が、大きな手が。そりゃあ手際良く、若しくは…こっちには別れた後々まで誤解をさせたままという小癪な不器用さにて、必ず助けてくれていたことまでが思い出せたもんだから。今度こそはもう一回逢うんだって、このまま別れたまんまになんかするもんかって、来た道を戻ろうとしたら、
《 何なに、何で戻ろうとするんだ? お前。》
異様に身奇麗にした男が、ひょこりといきなり現れて。そのまま、何の衒いもなく声をかけてきやがった。軍隊が押し寄せてきてたちまち占領されちまった寒村の、場末の、しかも真夜中の小道。そんなところに突然、しかも…タキシード姿に、裏がラメなのかやたらとキラキラ光ってるマントまでまとった、そりゃあとり澄ました若い男が現れたのには、少なからず驚かされた。ランプも何も持たないで。月明かりしかないというのに。そんな装束だっていうのが隅々まで判ったのは。彼自身が淡く光っていたからなのかも。何者だと問い掛けると、
《 俺は、肩書きまでは言えないが、お前に関わる“精霊”だ。》
自分から、臆面もなく言い出しやがってよ。そうさな、運命の精霊ってトコだろかなんて、とぼけた言いようをしたそいつは、けれど、
《 せっかく助かった命だろうが、勝手なことしてんじゃねぇよ。》
まだ誰にも言ってないことなのに。誰も知らないことな筈なのに、そんな言いようをしやがって。お前はこれから、あの兄ちゃんが誅した輩たちがやったこと、残虐な横暴ぶりを世に伝える存在になるんだぜ? やがては…まあそれ以上は言えないが。言葉を濁したのは、よほど俺が想定外な行動を取ろうとしたからだろう。そして、
《 前世を思い出せたのか? お前。》
それってもしかして。今の今、唐突に頭の中や胸のうちへ溢れそうなほどになった“記憶”のことだろうか。こくりと頷くと、その精霊はむむうと眉を顰めて見せた。
《 こんな例は初めてだな。》
よほど悔しかった心残りが、お前の魂にこびりついてやがったに違いない。けどな、お前はこの世界には必要な“軸人物”だ。お前の言動で一国が動くほどの存在だってことだ。そんな立場だから、そんな存在だからこそ備わってた運の強さなんだから、甘んじて受けな。
「こんなのはちっとも“幸運”なんかじゃない。」
《 そうか? 絶対絶命の危機や不幸から脱して助かって。大好きな家族や大切な仲間の元へと戻れたり、成すべき偉業を達成することが出来るんだぜ? これ以上はない“幸運”だろうによ。》
「でも…あの人にはもう逢えない。きっと俺の代わりにその絶対絶命っていう目に遭っているんだろうに。」
《 1つくらいは、儘にならないことだって起きるさ。何て言うか、等価交換? それを抱えていることで、常に忘れないことで、お前さんだって より強くなれるんだって思えば…。》
もっともらしい言い回しで説教し、説き伏せようとする相手へ向かい、全てを遮るような勢いで、ルフィは怒鳴り返していた。
「いつもいつも同じ悲劇なのはもう沢山だっ!」
こんな悲しいことの、何が幸運だ。こんな辛いことをいつだって背負わなきゃならないほどの、何か罪を犯した俺だったのか? 一生その影を追って追って、果たされないままに終わる。どうにも切なくて、他の誰も視野には入らないほどになる。そんなのホントに幸せだと思ってんのか、ふざけんなっ!
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*ますますややこしいお話になって来ております。
すいません、すいませんです。 |