八田をゆく


八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6


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序章 はじめに


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 鎌倉御家人八田氏は、のちに小田氏となり、筑波郡三村に居城を構えた。室町時代には関東八屋形と称され、戦国大名となり小田原征伐まで連綿した。
 八田氏の初代は宗綱で、吾妻鏡安貞二年(1228)に「故八田武者所宗綱」とあるので、郷里の八田を名乗りとし、京に登り、院に仕えた武士あった。宗綱の次男、八田知家は源頼朝の腹心として仕え、鎌倉幕府が成立したころに常陸守護の地位を手に入れた。建久四年常陸政変(1193(註1)で常陸平氏惣領家、多気義幹の失脚と下妻弘幹の誅殺や阿野全成殺害(1203(註2)にも関与し、吾妻鏡に多く登場するが、やはりその出自には謎に包まれている。
 知家は系図上、下野国宇都宮別当職の宗円の孫にあたること、保元の乱(1156)で源下野守義朝に従軍したと伝わることや、茂木保の地頭職と領地を安堵されていることから下野国の武士といわれる。またその一方で、吾妻鏡の記録や、知家の子孫小田氏(つくば市小田)との関連から常陸の武士とも称される。人は移動することが可能なので、きっとどちらも正しいのであろう。ただし知家の家名である「八田」は一ヵ所であることは間違いない。八田氏の本領を特定することは、下野国の宇都宮氏・茂木氏また常陸国内に広がった宇都宮氏族の小田氏・宍戸氏・笠間氏などの足取りを知るためにも必要不可欠なファクターであり、また同時に常陸守護職を務めた八田氏の守護所の特定にもつながる。ここでは八田氏の本領「八田」について考察していきたい。  
 
小田城址
(つくば市小田) 
 小田城址
小田城址
 

(註1)
多気義幹と八田知家は常陸国内の覇権をめぐり争った。建久四年(1193)五月、義幹は曾我兄弟仇討事件に際して、知家から頼朝を守るため富士野派兵の命を受けるが、この間隙を突いて知家勢が自城の多気山城へ攻め入ってくるのでは、と考え城に籠もり、これに従わなかった。知家は、義幹に謀反の疑いありと幕府へ讒言する。一方の義幹は叛意がなかったことを訴えたが義幹の申し入れは受け入れられず、六月岡部泰綱に預けとなり領地は収公され失脚した。また同年十二月義幹弟の下妻弘幹は北条時政に宿意を抱いたとして、頼朝の命を受けた八田知家により梟首されている。この幕府、八田知家による常陸平氏惣領家兄弟の排除を建久四年常陸政変という。

 

(註2)
建仁三年(1203)五月十九日、全成は謀反の科ありと二代目将軍源頼家より派遣された武田信光によって捕らえられた。のち宇都宮氏に預けられたが、五月二十五日常陸国へ配流となり、六月二十三日下野国で八田知家によって殺害された。その場所は宇都宮氏の代々の墓所がある尾羽の里と伝わる。

 
多気義幹の墓
(つくば市北条)
阿野全成と従者の墓
(栃木県益子町上大羽)
 



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