八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第1章 八田氏の出自    


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  八田氏初代宗綱の父宗円は宇都宮氏始祖ともされ、尊卑分脈(系図)では摂関家藤原道兼の流れを汲み兼仲の弟にあたるとしている。宗円は前九年合戦に及んで下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)に下向し、安倍氏調伏の祈祷をおこない宇都宮座主となった。最近の野口実氏の研究によれば宗円は道長流藤原氏であり、園城寺の僧であったとしている。その子八田宗綱は、宗円の兄兼仲の子を宗円が養子とした、または宗円の子であるが兼仲の養子となった、あるいは中原宗家の子とするなど諸説が存在している。
 宗綱の史料は少ないが、先述の吾妻鏡の記事に「故八田武者所宗綱」とあるので郷里「八田」を離れ、京で院の近仕をしていたと思われる。尊卑分脈には「従五下 備後守 下野守 八田 兼仲朝臣依無子息取舎弟僧宗円子宗綱為相続子而彼宗綱生宗房之後備兼仲朝臣継嗣其處復本親畢今宇津宮小田等是祖也」とある。また尊卑分脈の別系図には「八田権守 號座主三郎 或云本姓中原也 外記安房守中原宗忠 外記伊豆守宗家 宗綱彼宗家子也云々 始為叔父兼仲相続子後生息子宗房即為兼仲継嗣而帰実父宇都宮流畢 又為外記中原宗家子後帰本姓」ともあり、宗綱は八田を名乗りとしていたことがわかる。

知家は治承四年十一月二十七日(1180)鎌倉将軍家下文(茂木文書)に「藤原友家」とあるので公式な場所で藤原氏とし、この時、下野国茂木保の地頭に任命され当地を安堵されている。また「保元物語」(承久の乱前後に成立したというのが通説)には「下野ニハ八田四郎」とありこれは知家を指すこと、また宇都宮座主の宗円の孫であることから、下野国と関連が強いとされる。その一方、「吾妻鏡」建久元年(1190)十月三日条には「而前右衛門尉知家自常陸国遅参」とあり、常陸国との関係をもうかがわせる。尊卑分脈の知家の脇書きには「武者所右馬允 四郎左衛門尉 筑前守 號八田四郎 実は下野守義朝子」とあり、知家は源義朝の子との説も存在する。知家の兄朝綱の脇書きにも「後鳥羽院武者所後白川院北面 宇都宮検校 三郎 左衛門尉 武者所 號八田」、朝綱子成綱には「號宇都宮」とある。知家長男知重は「紀伊守 常陸介 八田五郎左衛門尉 法名蓮定 號小田 承久乱之時紀伊前司」系図上で八田の名乗りは宗綱とその二人の子朝綱、知家、知家長子の知重の四名に限定される。さらに吾妻鏡に見える宇都宮・八田一族の名乗りの変更を以下に書き出す。

朝綱 「宇都宮左衛門尉朝綱 寿永元年(1182)」

(宗綱長男)

 

知家 「八田左衛門尉知家 正治二年(1200筑後守知家入道 建保元年(1213)」

(宗綱次男)

 

知重 「八田右衛門尉知重 正治二年(1200筑後左衛門尉知重 元久二年(1205)」

(知家長男)

 

知基 「八田三郎 建久六年(1195下総国八田三郎 建暦三年(1213)」のち茂木

(知家三男)

 

家政 「宍戸四郎 建久四年(1193)」

(知家四男)

 

知尚 「八田六郎知尚 正治二年(1200筑後六郎知尚 建仁三年(1202)」

(知家六男)

 

吾妻鏡から宇都宮氏・八田氏については断片的な情報しか得られないが知家を中心に考えると、兄朝綱はその名乗りから 1182 年以前に宇都宮へ戻っていること、六男知尚の名乗りの変更から、知家は 1200 年から 1202 年のあいだに筑後守に任官し、これに以降、八田一族は「筑後」に名乗りを変えている。しかし四男家政は宍戸家を興し、宍戸を名乗りとしている。家政のように八田の名乗りをしていない一族は、鎌倉時代の初頭に八田の地から離れたのであろう、しかし、三男の知基は名乗りが八田のままで下総国とある。知基は父知家から下野国茂木保を譲られ、のちに茂木を名乗りとしている。下総国は下野国の誤りか。はたまた下総国内に領地を保持していたか。幕府が知家の一族は八田で通じるので適宜用いたか、あるいは知基が八田の名跡になったか。

 いずれにせよ、家名の八田は一所懸命の土地の地名と考えられるが、どこであるか判然としない。八田という地名の由来は一般的に「田を張る」つまり「水田開発」に関係した土地を意味するのであろう。次章以降で検証したい。
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宇都宮家の墓所石碑
(栃木県益子町上大羽)
 
 宇都宮家の墓所遠景
初代 宗円の墓 
 二代 宗綱の墓
三代 朝綱の墓 
 宇都宮氏の菩提寺地蔵院 
 地蔵院本堂
 宇都宮氏の氏神 綱神社   
綱神社