八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第2章 筑西市八田説    



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 筑西市八田は筑西市の大字で住居表記として残されている。
 この一帯は平安時代常陸国新治郡の属し、新治郡衙(筑西市古郡)や郡寺が置かれ栄えた。常陸国風土記に「新治の郡 東は那賀の郡の堺なる大き山、南は白壁の郡、西は毛野河、北は下野と常陸と二つの国の堺にして、即ち波太の岡なり」とあり、波太の岡は笠間市と栃木県茂木町の境にある仏頂山から西に約20kmにわたって連なる栃木・茨城県境の山々に比定され、小栗御厨が西の始点とされ、小栗御厨の八田村について「八田ハ即波太ナルベシ」(新編常陸)と見える。現在、茨城県筑西市八田が宗綱、知家の本領として現在、主流の説になりつつある。治承四年(1180)十一月八日条に「今日武衛赴鎌倉給以便路入御小栗十郎重成小栗御厨八田舘云々」とあり、これが筑西市八田の初見である。頼朝は金砂合戦で佐竹氏を討伐した帰りに八田館に立ち寄った。八田およびその一帯は小栗御厨(伊勢神宮神領)に含まれ、地頭の小栗重成の勢力下におかれた。八田館主も重成で、小栗御厨は曽祖父多気重幹が祖父重家へ分与したものである。その後父重義、重成と代々常陸平氏小栗氏が相伝している。八田宗綱の妻は常陸平氏惣領家である多気致幹の娘で、重成とも縁戚に当たるが、その土地に宗綱が入り八田を名乗るのは考えにくい。武家であれば、郎党もおり、館や馬場などそれなりの土地は必要であったであろう。つまり知家の本領「八田」は筑西市八田とは別の土地なのではないかと考えるにいたった。

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新治郡衙跡
(筑西市古郡)
 
 八田館址
(筑西市小栗)
八田館址付近の祠
 館址脇を流れる小貝川
八田から小栗を望む