八田をゆく
八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察
小野寺 維道 2022.6
P.4
第3章 かすみがうら市牛渡八田説
『景観にさぐる中世
変貌する村の姿と荘園史研究』服部英雄氏によると、かすみがうら市牛渡に八田がある。八田は牛渡の小字にあたり住所表記はされない。以下引用
小田氏所領南野庄霞ヶ浦に南面する牛渡は湖岸交通の要衝の地で、
中世には小田氏の所領であった南野庄に属し、その関連の遺跡が多い。
八田城 小田氏と鷲の宮
九重層塔
牛渡八田は南野荘の佐賀郡に属していた。南野荘の地頭職は寿永二年(1183)志田義広の乱、あるいは建久四年常陸政変(1193)の多気義幹の失脚後には小田氏が有したと思われるが、鎌倉後期には北条氏が地頭職を有するようになったと推定される。南北朝期に再度小田氏が南野荘の支配を回復したと思われるが、永徳二年(1382)の小山犬若丸の乱に際し、小田孝朝は再び所領を没収され、上杉の支配下に入ったと思われる。八田館の伝承は室町時代初期に小田氏八代の孝朝(1337〜1414)が構えた居館で、今の牛渡八田集落を前にして霞ヶ浦を眼下に一望できる高台にある。牛渡八田は古くより水陸交通の要地であり、南北朝争乱時小田氏は行方・稲敷の勢力に対する水上防御の拠点として重視していたのであろう。孝朝は牛渡村宝昌寺に葬られたとあり、また五代宗知の法名を「牛渡寺観慶尊覚大居士」とし、安餝郡には小田宗知の弟の盛知が入植し安食氏を称し当地の地頭になったという。古くから牛渡八田ならびその周辺は小田氏との関係が深い。
しかしながら、小田氏が南野荘入植したのは一番早くとも 1184 年以降のことで、牛渡八田は八田氏の家名の由来となった土地ではないと思われる。たまたま当地が八田という地名であったか、または小田氏が入植の際にこの土地を戦略上の重要な拠点と考え、父祖の地である八田の地名を付けたものであろうか。
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牛渡地蔵堂 (かすみがうら市牛渡) |
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余湖くんのHPより(余湖図) | ||
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余湖図3郭より霞ヶ浦方面 | ||
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余湖図3郭より2郭方向 | ||
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北側から余湖図2郭方向 | ||
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八田城遠景 | ||
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寶昌禅寺の墓石 (かすみがうら市牛渡) |
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小田孝朝供養塔と伝わる九重層塔 |