八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第3章 かすみがうら市牛渡八田説    



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 『景観にさぐる中世 変貌する村の姿と荘園史研究』服部英雄氏によると、かすみがうら市牛渡に八田がある。八田は牛渡の小字にあたり住所表記はされない。以下引用

小田氏所領南野庄霞ヶ浦に南面する牛渡は湖岸交通の要衝の地で、 中世には小田氏の所領であった南野庄に属し、その関連の遺跡が多い。

八田城
 即ち牛渡の八田には、南北朝期の武将小田孝朝隠棲後の居館といわれる八田城の跡があり、隣接して小字上の内がある。(上の内については「じょうのうち」という読みから「城の内」に通じる)そして北東・鬼門の方角には小字鷲の宮があり、昭和初年、小学校建設の際造成されるまでは、鷲の宮と呼ばれる小祠があったという。

小田氏と鷲の宮
 鷲の宮については藤原秀郷流の諸氏、特に下野小山氏の信奉を集めた神社としてよく知られており、その本城鷲城にも祀られているが(『小山市史』)、小田氏もまたかなり熱烈に鷲宮を尊崇していたと思われることは、第一に土浦市東崎の鷲神社に建久三年(1192)八田知家が六地蔵灯篭を寄付していること、第二に小田治久(高知)の弟、即ち八田城主孝朝の叔父にあたる道尊が鴻巣(那珂町)の鷲神社の神宮寺である鷲宮山宝撞院慈眼寺の住持であったこと(『大宮町史』所収「白石氏系図」)などから十分推察できる。したがって八田城が小田孝朝館であるとする伝承は、信憑に足ると思われる。

九重層塔
 また牛渡下郷の宝昌寺は小田孝朝菩提寺と伝え、石造九重層塔(茨城県指定重要文化財は小田孝朝供養塔ともいわれている。ほか八田地蔵堂にある延律元年(1489)開眼の弘法大師象(茨域県指定重要文化財)も、小田氏文化の遺産であろう。以上。小田氏の関係する地名と周辺に残された痕跡から八田と小田氏の関係を論じている。

 牛渡八田は南野荘の佐賀郡に属していた。南野荘の地頭職は寿永二年(1183)志田義広の乱、あるいは建久四年常陸政変(1193)の多気義幹の失脚後には小田氏が有したと思われるが、鎌倉後期には北条氏が地頭職を有するようになったと推定される。南北朝期に再度小田氏が南野荘の支配を回復したと思われるが、永徳二年(1382)の小山犬若丸の乱に際し、小田孝朝は再び所領を没収され、上杉の支配下に入ったと思われる。八田館の伝承は室町時代初期に小田氏八代の孝朝(13371414)が構えた居館で、今の牛渡八田集落を前にして霞ヶ浦を眼下に一望できる高台にある。牛渡八田は古くより水陸交通の要地であり、南北朝争乱時小田氏は行方・稲敷の勢力に対する水上防御の拠点として重視していたのであろう。孝朝は牛渡村宝昌寺に葬られたとあり、また五代宗知の法名を「牛渡寺観慶尊覚大居士」とし、安餝(あんじき)郡には小田宗知の弟の盛知が入植し安食氏を称し当地の地頭になったという。古くから牛渡八田ならびその周辺は小田氏との関係が深い。

 

しかしながら、小田氏が南野荘入植したのは一番早くとも 1184 年以降のことで、牛渡八田は八田氏の家名の由来となった土地ではないと思われる。たまたま当地が八田という地名であったか、または小田氏が入植の際にこの土地を戦略上の重要な拠点と考え、父祖の地である八田の地名を付けたものであろうか。

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牛渡地蔵堂
(かすみがうら市牛渡)
 
余湖くんのHPより(余湖図) 
 余湖図3郭より霞ヶ浦方面 
余湖図3郭より2郭方向 
北側から余湖図2郭方向 
八田城遠景
寶昌禅寺の墓石
(かすみがうら市牛渡)
小田孝朝供養塔と伝わる九重層塔