八田をゆく



八田宗綱・知家の本領「八田」についての一考察

                  
                              小野寺 維道 2022.6



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第4章 常陸大宮市八田説    



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 常陸大宮市に八田がある。初見史料は正慶元年正月五日(1332)「入信御房常州久慈東八田」(帰願寺文書)とある。「水府志料」に享和元年(1801)八田村に八田陣屋が完成し、水戸郡奉行の役所とした。この地域の各村は八田組○○ 村と呼ばれ八田陣屋の管轄下に置かれた。陣屋は小屋台というところに建てられ、古老の話では八田知家はここにいたという。その子孫梅香斎光重が江戸重通に負けて八田、菅又が落城したという。菅又氏系図に知家八代孫左衛門佐清重よりこのところにいるという。また別の系図に梅香斎光重は大掾氏に属し、江戸重通との戦いに敗れて流浪したという。
 大宮町史の口頭伝承は以下のようにある。
八田の太子堂 八田知家の子孫に八田左衛門佐清重という人があって、八田村に居館を構えて住んでいた。その子孫の梅香斎光重は承久年中(12191221)に江戸氏と争い滅びた。その時、一族に八田七左衛門がいたが、八田家を再興する気持ちもなく、悶々とした日を送っていた。ある夜、枕元に白衣の仙人が現れ、「笠間にいる親鸞の教えを受けるよう」とのお告げがあった。その後、何年かたって、七左衛門は故郷の八田村に帰って一宇を建立し、専修念仏の布教に努めた。これが常福寺であるが、江戸時代になってから筑波郡大宝村大曽根(下妻市)に移ることになった。「われもお寺とともに行きたい」と村人たちは願った。「阿弥陀堂の徳を慕って一緒に行こうとする心は決して忘れません。しかし向こうへ行っても皆に与える土地はない。この寺の形身として、寺宝の聖徳太子の像を残します。いつまでも形身の本尊として線香の煙を絶やさないでください」といって筑波に去った。八田の人々は太子堂を建て、聖徳太子の像を安置して、深く仏門に帰依したと言い伝えられている。
 「筑波郡大宝村大曽根(下妻市)」とあるのは「筑波郡大穂村大曽根」が正しく現在、常福寺がある。寺伝によれば、入信の俗姓は、梅香斎光重の息男・八田七郎知朝と伝えられ、常陸国那珂郡八田(茨城県常陸大宮市八田)の領主であったという。八田の地に一宇を建立し常福寺と号した。ときに建保 41216)年のことであったという。常福寺は後世、戦乱に巻き込まれ、天文 101541)年、八田の地を離れ現在の茨城県つくば市大曽根に寺基を移した。
 八田の鹿島神社保元二年(1157)三月には、八田宗円が八田郷のうち水田一町歩を寄進、順徳天皇の御代に八田郷の領主八田知尚の子知実が祭事を行ったという。
 常陸大宮市にも宗円、知家のさまざまな伝承が多く残されている。

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八田御陣屋跡
(常陸大宮市八田)
 
八田城址遠景 
鹿嶋神社
(常陸大宮市八田)
鹿嶋神社本殿
鹿嶋神社奥宮