報告III ジュマ民族
(バングラデシュ旅行記)
ジュマたちの町(2004年5月)
- 少数民族とのふれあい - 後編
朝、目を覚ます。セニョールのお屋敷で。
この日は私がバンダルバンを去る日。 朝食を戴いた。 セニョールにお礼を言い、そして別れた。 宿に戻る。 「どこへ行ってたんですか!」 宿主に言われる。 「飲んでたら夜遅くなって、マルマの人の家に泊めてもらったのです。」 「何も連絡が無いから心配しましたよ。」 「すみません...。」 「この地域はとても治安が悪いのですよ。もしきょうもあなたが帰って来なかったら、あなたの国(の大使館?)へ連絡しなくてはならないと思いましたし...」 「本当にすみませんでした。」 確かにチッタゴン丘陵地帯(CHT)で外国人が誘拐された事件があったのは聞いていた。宿主が心配するのは当たり前。セニョールに電話を借りて宿に連絡すべきだった。 |
部屋で出発の準備をある程度する。
そして、バンダルバン最後の散歩に出かける。 商店街を抜け、セニョーラの家に向かう。 セニョーラの家に着く。 しばらくして、セニョーラが現れる。 しかし、セニョーラの顔は怒っているようだ。 理由はもちろん昨晩、宿にもどらずセニョールの家に泊まったこと。 私が帰ってきていないと、宿主から電話があったのだそうだ。 それでセニョーラがセニョールの家に電話をしたが、そのときはまだセニョールと私は外で飲んでいた時間だったようで、セニョールの家の人からはまだ帰ってきていないと言われたらしい。 セニョーラをも心配させてしまったようだ。申し訳ない。 さて、セニョーラに別れの挨拶をしたあと、商店街に戻りニョー・タマウン・マルマさんにも別れの挨拶をし、宿にもどった。 そして、宿をチェックアウト。 バスでチッタゴンへ向かった。 |
ここバンダルバンで出会った多くの人にお礼を言いたい。 気さくで親切な人が多かった。 セニョーラやセニョール、僧侶からは、昼食や夕食、酒、朝食をご馳走してもらい、そして子供からも(貧しいそうな子なのに)コーラをもらった。暑そうにしていたときビルマ人のおばさんからもらったコップ一杯の水も有難かった。 他のバングラデシュの地域ではぼったくりやタカリが日常だが、ここの人々は正反対。 外国人の私に多くの人が笑顔をくれた。 温かい人々の住むこんな地域でも問題が発生している。 政府による少数民族の文化や習慣を無視した同化政策。その結果、殺傷事件、暴行事件、放火事件、誘拐事件などが起きている。 マルマ族を含めたジュマ民族たちに早く平和が来て欲しい。 アミギートは言っていた「すべてのベンガル人が悪いわけではない」と。マルマ族と仲良くやっているベンガル人もいるのだ。何とかなる筈。(私もここで親切なベンガル人に逢った。) 日本では、ジュマ民族の問題は殆ど知られていない。私は多くの人にこの問題を知って欲しい。 |
バングラデシュの東南部のチッタゴン丘陵地帯(Chittagong Hill Tracts / CHT)には、もともと3つの王国があった。それはマルマ族の王国、チャクマ族の王国、ムロン族の王国。
そしてそのマルマ族、チャクマ族、ムロン族を含めて多種の先住民族が今でもCHTにたくさん住んでいる。ベンガル人とは異なるそれら民族の総称をジュマ民族という。 |
昔、バングラデシュはパキスタンと共にインドと戦い、両国は一つの国としてインドから独立を勝ち取った。
しかしこの新しい国は(西)パキスタン中心の政策を行う。公用語をウルドゥー語のみとし、ベンガル人の立場を無視。 そののちバングラデシュはパキスタンから独立する。今のバングラデシュの政府はジュマ民族に対して、西パキスタンが東パキスタン(バングラデシュ)にやってきたように、その立場を無視している。なんか変。 政府の政策で大勢のベンガル人がCHTに住みついた。そして、先住民たちは土地を奪われた。また、新しく来たベンガル人の振る舞いは、先住民から見ると、目にあまるものがあったらしい。 そして、CHTのあちこちで衝突が起きた。 日本はこのベンガル人政府に対して莫大な額の経済支援をしている。その一方では、ジュマ民族に対しては見ぬふりをしているようだ。もちろん、このバングラデシュは世界最貧国のひとつであるし洪水被害などの問題を抱えており、経済支援は絶対に必要である。しかし私は、バングラデシュという国全体だけではなく、多くの人にジュマ民族へも目を向けて欲しいと思う。 |
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