あの夏の日に・おまけ

あの夏の日に・おまけ




 ここから先は、その後の四人がどんなふうに暮しているのか気になる方に読んでいただくための後日譚になります。
 このすぐ前のところで読み終えて物語の余韻を楽しみたい方や、この先のことはご自身で想像して楽しみたい方は、ここから先をお読みになるのはお控えいただいた方がいいかもしれません。

 年が明けて、春風そよぐ四月。
 S大学の入学式に臨む学生たちの中に、二人揃って第一志望の幼児教育学科に受かった加奈子と千夏の姿があった。
 だが、そこに葉子の姿は見当たらない。
 同じ頃、S大学教育学部附属幼稚園の入園式が行われており、そちらに、他の新入園児とお揃いのスモックを着た葉子の姿がある。
 一学期に行われた模試ではA判定を受けたものの、夏休みの間はまるで勉強していなかった上、二学期が始まっても、制服のスカートの下に着けているおむつの感触に気もそぞろで授業に身が入らず、成績が落ちる一方で二学期の模試ではF判定を受けてしまった葉子は、美和や加奈子たちの強い勧めもあって、S大学への入学を諦め、代わりに、S大学の附属幼稚園への入園に志望進路を変更した。もちろん、附属幼稚園は葉子の入園に難色をしめしたが、幼い頃からの葉子の境遇を詳述した母親からの特別嘆願書や、保健室をまかされており家庭科部の顧問でもある養護教諭の強い働きかけでM高校の校長が提出した特別要望書に加え、S大学の教育学部に研究室を持つ高名な心理学者が貴重な心理データを得るためのサンプルとして葉子に並々ならぬ興味をしめした結果、特例として入園を認められたのだった。
 ただし、おむつ離れの目途が立たず普通の食事も受け付けない葉子が迎え入れられたのは年少クラスではなく、その一つ下の幼年クラスだった。

 三つ離れた県に所在するS大学に入学するにあたって加奈子と千夏は、揃って家庭が裕福ということもあって、単身者向けではなく、家族向けで部屋数の多い賃貸マンションで同居生活を送ることにしたのだが、そのマンションに葉子も住わせ、大学への通学時に葉子を幼稚園へ送り届け、大学からの帰路の途中で幼稚園に立ち寄って葉子を連れて帰り、マンションの自室では葉子を自分たちの間に生まれた赤ん坊として世話をやき、溺愛するという毎日を送った。
 そんな暮らしで一年が過ぎ、新たな四月を迎えた時、加奈子と千夏は二年生に進んだのだが、自分では食事もできず相変わらずおむつが外れる見込みのない葉子は年少クラスに上がることを認められず、そのまま幼年クラスに留め置きとなった。
 そして更に一年が過ぎ、加奈子と千夏が三年生、専門課程に進んでいろいろと忙しくなり、葉子の面倒をみるのが難しくなることが予見された時に、三人の住むマンションの一室での同居生活に加わったのが、家政科の服飾専科を志望してS大学の入試に受かった美和だった。美和は、離れ離れで暮していた二年の時間を取り戻すかのように甲斐甲斐しく葉子の世話をし、際限なく可愛がり甘えさせた。
 それからまた一年が過ぎ、加奈子と千夏が大学の四年生で、美和が大学の二年生に進んだ春。美和によってこれ以上はないくらい甘やかされた一年間を過ごした葉子は、二年間の寂しさが癒え、他の園児たちとも積極的に遊ぶようになって、おむつを汚してしまった時も「あのね、先生、あのね、葉子ね、おむつ、ちっちなの」と、随分と恥ずかしそうにではあるものの自分から担任の先生に教えられるようになり、給食も、離乳食のような柔らかい物なら、たっぷり時間をかければよだれかけを汚しながら自分で食べられるようになって、ようやく年少クラスに上がることが許された。三年間という長い年月をかけた後の進級だからママ三人の喜びもひとしおで、進級が決まった日の夕食は大変なご馳走だった。
 そうして、次の一年。いよいよ美和が専門課程に入って学業に集中せざるを得なくなり、葉子の面倒をみるのが困難になった時に助けてくれたのは、大学を卒業した後、全国に直販店のネットワークを展開する大手の子供服メーカーの総務部に就職して、働くお母さん達を支援する仕事をしたいからと、(S大学からさほど離れていない場所にある)本社の企業内託児所で子供達の面倒をみる保育職に就いた加奈子と千夏だった。二人はフレックス勤務制の利便性を活用して、他の職員の協力も得つつ、どちらかが葉子を幼稚園へ送り迎えできるようシフトを組み、あるいは、時間単位で取得できる有給休暇を積極的に使って、こまごましたところまで、年中クラスに上がった葉子の面倒をみてやった。
 その後は、いよいよ美和が大学の四年生で、葉子は年長さんと、大学と幼稚園も最後の一年を過ごすことになった。この年も前年と同じように加奈子と千夏の手助けがあったものの、卒業制作等に没頭する美和はなかなか葉子の面倒をみてやることができず、その寂しさで葉子も泣きじゃくってしまうことが多いというような、母娘そろって大変な一年間だった。それでもどうにか美和が大学を卒業、葉子が附属幼稚園を卒園できたのは、前年にも増しての加奈子と千夏の手助けがあったからこそだ。
 つまるところ、高校三年生の二学期と三学期だけでなく、卒業してからの六年間にわたっても、葉子は加奈子と千夏に面倒をみてもらい、そのおかげで美和も自分が志望する途を着々と歩み続けることができたというわけだ。
 それも、この時になって振り返ってみれば、夏休みの間のあの一週間があったればこそのことだと、しみじみと思いに耽る美和と加奈子と千夏だった。
 そして、物思いに耽る三人の傍らには、幼稚園のお友達と会えなくなるのが寂しいよぉと涙にくれて、ひっくひっくとしゃくり上げる葉子の姿。

 大学を卒業した美和は、幸いにも、かつての部活の先輩の後を追うようにして、加奈子達が就職した子供服メーカーに職を得ることができた。それも、大学時代の専攻を活かして、デザイン部門への配属という僥倖に恵まれて。
 そして、大手企業に勤めることになって生活が安定した美和は、ずっと胸に抱ていた或る計画を実行に移すことにした。
 それは、葉子を養子として迎え入れ、葉子を戸籍の上でも正式に自分の娘とすることだった。
 民法の定めるところによれば、自分よりも年長の者を養子とすることは許されていない。
 それを美和は、持ち前の用意周到さや豪胆さを存分に発揮してあらゆる伝手を頼り、違法すれすれの手段を講じ、人と人とのつながりを利用し、一つ一つ課題を解消することで、極めて特殊な例外措置として、ついには念願を叶えることに成功したのだった。

 その後の美和は、出社すると先ず、加奈子たちが勤務している企業内託児所に葉子を預けて仕事に打ち込み、本来の勤務時間内に成果を出して定時には仕事を切り上げ、早々と企業内託児所に赴いて葉子を迎え出し、夕方の早い時間に、今でも四人での共同生活を続けているマンションに帰って愛娘と一緒にいる時間を大切に過ごすという、公私ともに充実した日々を送っている。
 そしてまた加奈子と千夏も、高校生時代からの希望通りに小さな子供たちと接する仕事に恵まれ、仕事を終えてマンションに帰った後はその時々の気分に従って、葉子を自分たちの娘に見立てて可愛がってみたり、新たに購入したクイーンサイズのダブルベッドの上で愛欲に溺れてみたりと、こちらも美和と同様にオフィシャル、プライベート共に満ち足りた生活ぶりだ。

 そんな或る日の深夜、葉子のおむつがおねしょで濡れていないか確かめるために目を覚ました美和。
 明かりが灯っていない部屋からは窓ガラス越しに、新月で月明かりが全くない夜空に瞬くたくさんの星が見える。
 想像もつかないほど遠くにある星が発した光が自分の目に届くまでに必要な悠久の時間にふと思いを馳せ 真っ暗な部屋で星の瞬きを見ていると、自分の体がふわっと浮き上がって星々の世界に吸い込まれるような錯覚を覚え、限りない寂寥感に背中をぞくりと震わせてしまう。
 そこへ葉子の
「……ママ、大好き……」
という声が聞こえて、はっと現実に返った美和は深く息を吸い込んだ。
 葉子の顔をそっと窺い、目を覚ましている気配がないのを確認した美和は、
「寝言でも私のことを大好きって言ってくれるなんて、本当に可愛い子」
と相好を崩して呟き、おねむの間にお腹が出ないようにとパジャマ代わりに着せているロンパースの股間に並ぶボタンを外して、あらわになったおむつカバーの股ぐりにそっと指を差し入れた。
 すっかりお馴染みになった、指先から伝わってくる、ぐっしょり濡れた布おむつの感触。
「おねしょでおむつを汚しちゃったのに、まるで気がつかないですやすや気持ち良さそうにおねむなんて、本当に困った赤ちゃんなんだから」
 苦笑交じりに、けれど嬉しそうに今度は口に出して呟いて、美和は葉子のお尻を包むおむつカバーの腰紐に指をかけた。
 それとほぼ同時に葉子が
「……葉子、ママ、大好き……」
と再び寝言で美和に呼びかける。
「ママも葉子が大好きよ。いつまでも手の掛かる赤ちゃんのままでいる葉子のこと、ママ、大好きよ」
 おむつカバーの腰紐をゆっくりほどきながら美和は穏やかな声で返答した。

 その時、ふと、美和は全てを理解したような気がした。
 両親の不仲をどうすることもできず、いい子でいることに疲れ果ててしまった葉子。自分の無力さを痛いほど思い知らされたその虚しさと寂しさは、いかばかりのものだったろう。
 その時から葉子は、『自分が寂しい状況に置かれる』ことに極度に怯え、実際そのような状況におかれた際には身体の基本的な機能を司る神経さえもが本来の働きの一部を停止するほどまでに心が乱れてしまうようになっていた。
 そんなふうにして心の一部に深い傷を負ったまま成長し、成長する間に、常に共にある寂しさが自我の一部になってしまい、『自分が寂しくなくなるような方法を模索する』ことなど意識の外に捨て去ってしまって、自分が実は寂しいということさえ忘れてしまった葉子は、だがと言うべきか、だからこそと言うべきか、いつしか、他人がひどい寂しさに苦しむ様子を見ることに絶えられなくなり、他人の寂寥感を取り除いてやりたいと(無意識のままに)切に願うようになっていた。
 葉子と同様に両親の不仲に心を痛めながらも、わざと気丈に振る舞い続けた美和。
 最愛の者とどれだけ愛の営みを重ねても子を成すことができない加奈子と千夏。
 それだけではない。考えようによっては葉子の両親もまた同じではなかったか。一卵性双生児として共に生を受けた妹に恋をし、だけど添い遂げることができないことをわかっている故に偽りの結婚生活を送った母親と、己の保身のために偽りの結婚生活に荷担した父親。
 美和と加奈子と千夏は葉子を自分の幼い娘に見立てることで自分を慰めて寂しさを減じ、葉子の両親は、二人の接点でいようとする葉子がいたからこそ、寒々しい二人の間においても幾ばくかの潤いを得ることができ、そして、美和や葉子自身も知らぬ所で葉子に惹かれ葉子のおかげで、いいしれぬ寂寥感から免れることができた、おそらくは美和の両親や、ひょっとしたら、保健室の養護教諭やあの洋菓子店の婦人も含めた諸々の人々。

「なんてことはない、いい子でいることの重圧から私が葉子を救ってあげたつもりでいたけど、本当は私たちの方が葉子に救ってもらったってわけか」
 再び苦笑交じりに美和は呟いて、けれどすぐに、却って清々しい顔になって
「だけど、それがわかったからって、それでどうにかなるものでもないしね。どっちが救ったとか救われたとか、そんなのどうでもいいし」
と、わざと大きな声で言ってのけ、自分の大声のせいで葉子が目を覚まして「ふ、ふえ、ふぇーん、う、ぅえ、うぇーん」と泣き出してしまったことに気がついて大慌てで明かりを灯し、
「ごめん。ごめんね、葉子。ママが大声を出したせいでびっくりしちゃったね。ちょっとだけ待っててね。すぐにおむつを取り替えてあげて、抱っこしてあげて、おっぱいをちゅうちゅうさせてあげる。だから、ちょっとだけ我慢してね」
と、いつもの『ちょっぴり頼りない母親』の顔に戻って、泣きじゃくる愛娘をあやした。
 そこへ、葉子の泣き声を聞きつけた加奈子と千夏が勝手にドアを開けて部屋に押し入り、
「なぁに、また葉子ちゃんを泣かせちゃってるの? そんなことだったら、いつでも私たちが葉子ちゃんを引き取ってあげてもいいのよ」
「そうそう。仕事にかまけて育児もちゃんとできない山内さんより、私たちの方がずっと葉子ちゃんのママにふさわしいんだから」
と冗談交じりに言って、美和が葉子のおむつを取り替えるのを親身になって手伝ってやる。
 ママ三人の手でおむつを取り替えてもらった葉子は、美和に優しくお腹をたたいてもらっているうちにすっかり泣きやんで、うつらうつらとして、いつしか再びすやすやと安らかな寝息をたてておねむになった。

 葉子を寝かしつけた後、
「やれやれ、すっかり目が覚めちゃった。明日は休日だし、せっかくだから、ビールでも飲まない?」
加奈子が言って始まった、ささやかな宴。
(私たちはあの夏休みのことを忘れはしない。高校生時代の、あの夏の日に起きた事を忘れるなんて絶対に)
 何本目かのビールの缶を開け、久々に一つの部屋に集まったみんなの顔を見ながら美和は胸の中で呟いて、ふと窓を見た。
 部屋の明かりを反射する窓ガラス越しでは星は見えなかった。
 見えなくていいやと美和は思った。遠い星が大昔に発した光なんて見えなくてもいい。私たちは今この時を生きているんだし、これから先の時間を生きるんだから。
 何度目かの乾杯をして、美和はビールの缶に口を付けた。
 加奈子の肩越しに、ベッドですやすや眠っている葉子の寝顔が見える。
(葉子はこの先ずっと、ビールのおいしさを知らないままなのよね。でも、その代わり、いつまでもいつまでも、ママのおっぱいを吸わせてあげる。その方が葉子は嬉しいよね)
 美和は無言で葉子に話しかけて、口に付けたビールの缶を傾けた。



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