暖かな日差しの中で



   5 再び公園で


 昨日に引き続き訪れた公園は大勢の来訪者で賑わっていた。
「え? 今日、何かあったっけ?」
 芝生広場に向かって歩きながら、周囲の様子を見回して真澄が言った。
「あ、今日、土曜日じゃない?」
「そっか。春休みに入って曜日の感覚がおかしくなっちゃってるけど、今日って土曜日なんだっけ」
「じゃ、フリマの日だ」
 少女たちの言う通り、いつもにない混雑ぶりは、毎月最後の土曜日と日曜日に開催される恒例のフリーマーケットに集まった人たちによるものだった。
「芝生広場も人でいっぱいかな?」
「ううん、それは大丈夫だと思うよ。フリマの会場は野外ステージの近くでしょ? みんなそっちへ行っちゃうから、反対側にある芝生広場にはあまり人がいないと思う」
「だといいんだけど。子供が大勢で走り回って、ぜっかくのレンゲやシロツメクサを荒らされちゃ大変だもん」
 背伸びしたい年頃なのだろう、少し大人ぶった口調で美咲がそう言うのを良美が
「子供が大勢でって、なに、その言い方。まるで自分は大人みたいな口ぶりじゃん」
と茶々を入れ、それに対して
「あったりまえじゃん。六年生っていったらもう立派な大人だよ。幼稚園や低学年のガキンチョなんかと一緒されちゃ迷惑だわ」
と再び美咲は胸を張ってみせたのだが、傍らをとぼとぼ歩く早苗のなにやら思い詰めた表情を目にするや、気まずそうな顔つきになって
「あ、あの、ガキンチョって早苗ちゃんのことじゃないのよ。だから気を悪くしないでね。ほら、よくいるじゃない? まわりの迷惑も考えないで人混みの中を走り回ったり、ふざけ合ったりする低学年の男の子たち。ガキンチョってそんな子たちのことで、絶対に早苗ちゃんのことじゃないからね。だって、早苗ちゃんはとってもお利口さんで、おとなしくて、お姉ちゃんたちの言いつけをちゃんと守る素直ないい子だもん」
と、とりなすのだった。
 しかし、早苗の暗い表情の原因がそんなところにあるのではないことを真澄だけは充分に承知していた。本当は高校生のくせに自分よりもずっと年下の小学生から逆に下級生扱いされる屈辱と羞恥。そして、今は、それに加えて――。
 突然、早苗の脚がぴたっと止まった。
 早苗と並んで歩いていた京子がそれに気づいて自分もその場に立ち止まり、
「だから、ガキンチョっていうのは早苗ちゃ……」
と慌てて言い聞かせようとするのだが、その言葉を途中で遮って早苗が
「お、おしっ……おしっこなの」
と訴えかけたものだから、心ここにあらずといった早苗の様子が自分のせいではないということがわかって、京子が苦笑交じりの納得顔になる。
 そこへ、早苗の手を引いて歩いていた真澄が
「いつからなの?」
と短く問いかけた。
「ついさっき。池の向こうへ行く道とこっちへ来る道が分かれる所までは平気だったのに、急に……」
 それが朝食のスープに混入した利尿剤のせいだとはまるで気づきもしないで、早苗は、異様に高まる尿意に困惑の色を濃くしながら答えた。
「わかった。じゃ、トイレに連れて行ってあげる。昨日は失敗しちゃったけど、今日は頑張ろうね。――みんなは先に芝生広場へ行って場所を取っておいてよ」
 最後の方は京子たちに向かってそう言いながら、真澄はくるりと踵を返すと、早苗の手を握り直してトイレに向かって歩き出した。




 昨日のことがあるから、早苗は尿意を覚えてすぐにそのことを訴えた。そのおかげで途中で失敗してしまうことなくトイレの近くまではやって来れたのだが、遊具広場の中ほどからトイレの入口まで延々と連なっている順番待ちの長い列を目にするなり、途方に暮れてしまう。
「仕方ないわね。普段はあまり人のいない公園でトイレも狭いのに、フリマの日だけこんなに大勢の人が集まるんだから。それも、ただでさえ女の人は男の人よりよ時間がかかるっていうのに、小さな子供はお母さんが女の人の方に連れて入ることが多いから余計に混んじゃうのよね」
 真澄はわざと淡々とした口調で言った。
「……トイレ、ここしかないの?」
 早苗は真澄の顔を見上げ、助けを求めるような声で訊ねた。
「広い公園だけど、トイレは一ヶ所だけなのよ。――うちに帰る? それとも、駅へ行ってトイレを貸してもらおうか?」
「……そんなの、間に合わない……」
「だったら我慢するしかないわね」
「……」
 早苗がぎゅっと唇を噛みしめるのと、
「あ、昨日のお姉さんだ!」
という弾んだ声が聞こえたのとがほぼ同時だった。
 声のする方を見ると、順番待ちの列から少し離れた所で、トイレから出てきたとおぼしき少女がハンカチをポケットにしまい、こちらに向かって手を振っていた。
「ほら、昨日の女の子よ。今日は幼稚園の制服を着てないからわかりにくいけどね。確か、遥香ちゃんだっけ。――おはよう、遥香ちゃん。今日も元気だね。よかったら、ちょっとお喋りしようよ」
 少女が誰なのかいち早く気がついた真澄は早苗に耳打ちし、少女に向かって手招きをした。

「昨日はごめんなさい、変なこと言って。あのあと、おうちでママに叱られちゃった」
 駈け寄って来た少女は、列がゆっくり進むのに合わせて少しずつ場所を変えながら、にっと笑って言った。
「いいわよ、そんなこと。もう済んだことだし。それで、晩ご飯は目玉焼きハンバーグにしてもらえたの? それとも、ピーマンばっかりの野菜炒めだった?」
 真澄は悪戯っぽく言って遥香に微笑み返した。
「えへへ、ハンバーグだったよ。ママに叱られたけど、もうあんなことしませんって言ったら、今度だけよって言ってハンバーグにしてくれたの」
 遥香は屈託なく応じた後、
「ね、お姉さんたちは姉妹なの?」
と 人なつこい笑顔で尋ねた。
「ううん、私たちは従姉妹どうしなのよ。でも、この子のお父さんとお母さんがお仕事の都合で遠くへ行かなきゃいけなくなったから、うちで預かっているの。――あ、そうだ。まだ名前を言ってかなったね。私は河野真澄。今度、中学二年生になるの。で、この子は島田早苗ちゃん。今度、三年生なんだよ」
 遥香の問いかけに真澄は自己紹介を兼ねて簡単に説明した。
「あ、私、遥香。遠藤遥香。今度、年長さんになるんだ。あのね、年長さんっていうのはね、幼稚園で一番上のクラスなんだよ。遥香、幼稚園で一番お姉さんになるんだよ」
 遥香はちょっぴり自慢そうに名乗った。
「へーえ。幼稚園で一番お姉さんだなんて、すごいね、遥香ちゃん。――ところで、今日はお母さんと一緒じゃないの? 公園まで一人で来たのかな?」
 真澄は遥香の幼い自尊心をくすぐるかのようにわざと大げさに驚いてみせてから、周囲の様子をざっと見回して尋ねた。
「ママ、お隣のおうちのおばちゃんとお喋りしてる。お隣のおばちゃんがお店を出してて、ママ、ずっとそこでお喋りしてるから、遥香、一人でトイレへ来ておしっこしたんだよ。ちゃんとお手々も洗ったし」
 遥香はフリーマーケットの会場の一角を指差して答えた。
「そうなんだ、一人でトイレを済ませられるんだ。お利口さんだね、遥香ちゃんは」
「だって年長さんだもん、幼稚園でも一人で行けるんだよ。年少さんは先生にトイレへ連れて行ってもらうけど、年長さんは一人で行けなきゃいけないもん」
「じゃ、その調子で、四月になったら、年中さんや年少さんのお手本になるよう精一杯頑張ってね」
 真澄は再び遥香を褒めそやし、
「あ、そうそう。附属って言ったら、早苗ちゃんも附属なんだよ。だから、ちょっと前までは遥香ちゃんと同じ幼稚園に通ってたんだ。幼稚園の時、早苗ちゃんはどんな子だったんだろうね。遥香ちゃんみたいにしっかりした子だったのかな」
と付け加えた。
 それに対して,遥香はぱっと顔を輝かせて
「え、早苗お姉さん、附属なの?」
と聞き返す。
「そうだよ、私は地元の公立だけど、早苗ちゃんは附属の三年生」
 真澄はわざと『高校』とも『小学校』とも明言せず、曖昧にぼかして応じた。これでどのように受け取ったとしても相手の勝手だ。
「そうなんだ。じゃ、じゃ、遥香とお友達になってくれない? 遥香、年中さんまで幼稚園の近くのマンションにいたんだけど、パパがおうちを買ったから、こっちへ引っ越してきたの。それで、昨日、新しいおうちから幼稚園までどうやって行けばいいのか、お母さんと一緒に電車に乗って試してたの。……お出かけしてる時は楽しいんだけど、でも、おうちがある四丁目には遥香と同じくらいの年の子がいなくて、おうちに帰ったら寂しくなっちゃうんだ」
 真澄の説明に、遥香は考え考え応じた。
「うん、いいよ。っていうか、遥香ちゃんみたいに可愛いらしくて活発な子だったら、こっちからお願いして友達になってほしいくらい。私、一人っ子だから妹ができたみたいで嬉しいし、それに、私たちは三丁目に住んでるから、おうちも近いもんね」
 真澄はにこにこ笑って応じた。
「ほんと? ほんとにお友達になってくれる? 遥香、いい子にする。変なこと、絶対に言わない。だから仲良くしてね、真澄お姉さん、早苗お姉さん」
 昨日べっと舌を突き出して駈けていったのが嘘のように、遥香は瞳をきらきら輝かせて言った。
 昨日のあのちょっと生意気な態度が、第一次反抗期という年頃に加えて、新しく引っ越してきてまだ友人がいない寂しさのせいだとわかれば、却っていとおしさが増してくるというものだ。
「いいよ。うんと仲良くしようね、遥香ちゃん」
 真澄はその場で膝を折り、遥香と目の高さを合わせて応じた。
 だが、早苗の方はとてもそれどころではなく、今にも地団駄を踏みそうにしている。
 そんな早苗の姿を眺めながら、真澄は遥香に向かって、まるで謎々でも楽しむかのように
「でも、私は『真澄お姉さん』でいいけど、早苗ちゃんは『お姉さん』じゃないかもしれないよ」
と言ってくすりと笑った。
「え? どうして?」
 遥香はきょとんとした顔で訊き返した。
「だって、昨日、早苗ちゃんは私におんぶしてもらっていたでしょう? お父さんやお母さんと離れ離れになったせいかな、早苗ちゃん、とっても甘えん坊さんになっちゃって、なにかっていうと私におんぶしてもらったり抱っこしてもらいたがって仕方ないのよ。そんな甘えん坊さんがしっかり者の遥香ちゃんよりもお姉さんだなんて変じゃない?」
 真澄はもういちどくすっと笑って答え、誰にも聞こえないよう声をひそめて呟いた。
「ま、それだけじゃないんだけどね、早苗ちゃんが早苗『お姉さん』じゃない理由は」

 真澄の言葉が現実になったのは、それからしばらくしてのことだった。
 時おり笑い声を交えて会話に興じていた真澄と遥香のそばを、小学校低学年くらいの少年が二人、フリーマーケットで買ったとおぼしき飛行機の玩具を手に、大声を出してふざけ合いながら駆け抜けたのだが、そのすぐ先には、トイレの順番待ちに気を取られてまるで無防備な早苗がいた。
 相手が小学校低学年の少年とはいっても、続けざま二人がぶつかったのだから堪らない。小柄で華奢な早苗の体はいとも簡単に弾きとばされてしまう。
「ったく、ああいう子のことだよね、美咲ちゃんの言ってたガキンチョって。ほんと、迷惑なんだから。――大丈夫? どこも痛くない?」
 今にも仰向けに転倒しそうになっていた早苗の体をすんでのところで受け止めた真澄は、人にぶつかったことなどまるでお構いなしに駈け去る少年の後ろ姿を睨みつけながら優しく問いかけた。
 だが、早苗からの返事はない。
 返事の代わりに、早苗の目から涙がつっと流れ出る。
「どうしたの!? どこか怪我しちゃったの?」
 何も言わずに涙を流すだけの早苗に、真澄は慌てた様子で声をかけた。
 だが、実際に慌てているわけではない。というのも、早苗の身に何が起きたのか、真澄は既に承知しているからだ。
 真澄は早苗の体を両手で自分の方に引き寄せ、
「よしよし、びっくりしちゃったね。でも、もう大丈夫。ほら、お姉ちゃんが抱っこしてあげるから泣いちゃ駄目だよ」
と、年端もゆかぬ妹をあやすように声をかけつつ右手をスカートの中に差し入れ、しばらくの間ドロワースの上から早苗のお尻をまさぐった後、すっと目を細めて言った。
「そう。そうだったの。でも、いいんだよ。こんな時のためにちゃんとしてきたんだから、そんなに泣かなくていいんだよ。ほら、準備しておいたから、ドロワースも靴もソックスも濡れてないでしょ? しぶきでまわりの人たちに迷惑をかける心配もないでしょ? だから、もう泣きやもうね。ほら、よしよし」
 真澄は優しくそう言い聞かせながら、早苗の体を抱き寄せたまま順番待ちの列から抜け出した。
 と、後ろに並んでいた年配の女性から
「あの、いいんですか? そちらのお嬢さん、トイレの順番をお待ちだったんじゃ?」
と怪訝そうな声をかけられる。
 それに対して真澄はにこりと笑って
「いえ、いいんです。もうトイレに用はなくなりましたから」
と応じた。
「どうしたの? 早苗お姉さん、どうかしちゃったの?」
 新しい街に引っ越して来て初めてできた友人の身に何やら異変が生じているらしきことに幼いながらも気づいた遥香は、不安げな表情を浮かべて真澄に尋ねた。
「うん、あのね――」
 真澄は遥香の耳元に口を押し当て、声をひそめて事情を説明した。
「ええ〜! 早苗お姉さん、おむつを汚しちゃったの!? 三年生のくせに、おむつにおしっこしちゃったの!?」
 真澄の説明を聞くなり、遥香は大声を張り上げた。
 その瞬間、それまで途切れ途切れにこぼれていた早苗の涙がぼろぼろと止めどなく流れ落ち、忍び泣きだった嗚咽の声が、
「もうやだ。こんなの、こんなの、もう嫌なんだから〜! ……ぅう、ええ〜ん、ふぇ〜ん」
という、あたり憚らぬ泣き声に変わった。
 男の子たちにぶつかられた衝撃で、それまで我慢に我慢に重ねていた尿意にもうそれ以上は耐えきれなくなり、早苗の下腹部からすっと力が抜けてしまったのだ。予め着用させられていた紙おむつのおかげで、ドロワースやソックスを濡らすことはなかった。しかし、小柄とはいえ本当の幼児に比べればどうしてもおしっこの量が多い上に、利尿剤の効果で異様に高まった尿意の果ての粗相だ。たっぷり溢れ出たおしっこを吸い取ってゼリー状に固めた紙おむつの吸収材は、ドロワースの上から触っただけですぐにわかるほどぷっくり膨らんで、早苗がしくじってしまったことを真澄にありありと伝えたのだった。
「よしよし、お尻が気持ち悪いのね。でも、すぐに取り替えてあげる。そしたら気持ち良くなるから、ほら、もう泣かないの」
 早苗が傍目も気にせず泣きじゃくっているのは、高校生の身でありながら昨日に引き続き恥ずかしい粗相をしでかしてしまったからだ。それも今度は、大勢の人の前で、実際の年齢にはまるで似つかわしくない(いや、小学三年生という偽りの年齢にさえふさわしくない)紙おむつという恥ずかしい下着を濡らしてしまった屈辱と羞恥のせいだ。
 それを真澄は早苗が泣き喚いている理由を、濡れたおむつのせいでお尻が気持悪いからだとわざと取り違えて早苗を幼児扱いし、ますます精神的に追い詰めてゆく。
「そんなじゃない! そんなじゃないんだったら、そんなんじゃ……ひ、ひっく……う、ぅわ〜ん」
 本当のことをわかってもらえない悔しさに早苗の泣き声がいっそう甲高くなる。




 トイレと芝生広場との間には池があるだけで、音を遮断する物は何もない。早苗の泣き声を耳にして京子たちが真澄たちのもとに駆けつけたのは、それからすぐのことだった。
「早苗ちゃん、大丈夫?」
 息を切らして駆けつけた京子は短く声をかけ、状況を察すると、真澄がそうしたのと同じようにドロワースの上から紙おむつの様子を確認した後、叔母が連れて遊びに来る従妹の面倒をみる機会も多いのだろう、手慣れた様子でドロワースの股ぐりに右手を差し入れ、ギャザーを押し広げて紙おむつの中の様子を指先で探りながら
「ぐっしょりね。紙おむつはおしっこをゼリーみたいにしちゃうんだけど、早苗ちゃんのおしっこの量が多かったから全部は吸い取れなくて、沁み出した分が紙おむつの中に広がっちゃってる。もうちょっと多かったら横漏れしてたかも」
と、思案げな顔つきで真澄に告げた。
「そう。じゃ、歩き回ったらおしっこが漏れちゃうかもしれないね。誰もいない所まで早苗ちゃんを連れて行くのは無理だから、ここで取り替えてあげましょう」
 真澄は即座に頷き、京子たちの顔をぐるりと見回して
「みんな、お願いね」
と手短に指示を出した。
「やだやだやだ! こんな所で、そんなのやだ。みんな見てるから、こんな所なんて駄目ぇ! 誰もいない所じゃないとやだよ〜」
 真澄が口にした『取り替える』というのが紙おむつのことだと瞬時に理解した早苗は激しく手足を振って真澄から離れようとした。しかし、芝生広場でパンツを穿き替えさせられ、河野家のダイニングルームで紙おむつを着けさせられた時と同様、自分よりも大柄な少女たちの手によってあっけなく自由を奪われてしまう。
 しかも、その様子をつぶさに見守っていた遥香から
「真澄お姉さんの言いつけを守らないと駄目でしょ、早苗ちゃん。遥香の通ってる幼稚園の年少さんは、ちゃんと先生や年中さんや年長さんの言うことを聞いておとなしくしてるよ。だから、早苗ちゃんも駄々をこねちゃ駄目だよ」
となじられてしまう。
 自分よりもずっと大きな体をしている早苗だが、トイレの順番待ちの途中におむつをおしっこで汚してしまい、おむつを取り替えられるのを嫌がって泣き喚く姿を眺めているうちに、遥香の早苗を見る目が変化していったとしても不思議ではない。本来なら年上の新しい友人である筈だった『早苗お姉さん』が、今や、もうすぐ年長クラスに上がり幼稚園で一番お姉さんになるという自負に胸を膨らませている遥香の意識の中で、大きななりをしているくせにおむつを取り替えてもらうのを嫌がって手足をばたつかせる聞き分けの悪い駄々っ子の『早苗ちゃん』に変わってしまったとしても仕方ないだろう。そう、まさしく、真澄がそう予言した通りに。
「ほら、遥香ちゃんにまで叱られちゃった。もう本当にいい子にしなきゃ駄目よ。いい? 京子お姉ちゃんが教えてくれた通り、おしっこがおむつ中いっぱいに広がっちゃってるんだよ。こんな状態で歩き回ったりしたら、おしっこが漏れちゃうでしょ? せっかくちゃんと準備してきたから今はドロワースもソックスもちっとも濡れてないのに、早苗ちゃんが我侭言って歩き回ったりしたら、全部台無しになっちゃうんだよ。それで平気なの?」
 真澄は教え諭すように言って、三人に目で合図を送った。
 もう京子たちも手慣れたものだ。あっという間に早苗は京子の胸に顔を埋め、お尻を後ろに突き出した姿勢を取らされてしまう。
「もうしない、おもらしなんてもうしないから許して! もうおもらしでおむつを汚したりしないから、こんなとこでおむつを取り替えちゃやだ。ひ、ひっく……京子お姉ちゃんからも真澄お姉ちゃんにお願いしてよぉ。美咲お姉ちゃんも良美お姉ちゃんも黙ってないで、真澄お姉ちゃんにお願いしてよ。早苗ちゃんを許してやってってお願いしてよ。じゃないと、私、私……ふ、ふぇ〜ん」
 それまでは年下の少女たちのことを『お姉ちゃん』と呼ぶ際にはどうしても口ごもりがちだったが、もうそんなことで恥ずかしがってなどいられない。早苗はなりふり構わず自分よりも四つも六つも年下の少女を甘えるような口調で『お姉ちゃん』と呼び、救いを求めた。
 しかし、京子たちはまるで取り合おうともしない。
 パニエでふっくら膨らんだスカートの裾が捲り上げられる感触があったかと思うと、続いてドロワースが引き下ろされ、両足を交互に持ち上げられて、甲のベルトをスナップボタンで留めるようになっているピンクのメリージェーンシューズを脱がされてしまう。

「ね、遥香ちゃんは、赤ちゃんがおむつを取り替えてもらうところを見たことがある?」
 瞼をぎゅっと閉じた早苗の耳に、真澄が遥香に話しかける声が聞こえた。
「うん、あるよ。年少さんの中で、まだおむつの子がいたの。遥香の幼稚園、年長さんと年少さんが一人ずつ『シスターペア』っていうのになって、年長さんが年少さんのお世話をしてあげることになってるの。それで、おむつの年少さんが先生におむつを取り替えてもらう時、その子のシスターペアの年長さんがあやしてあげてたよ」
 遥香はそこまで一気に答えたが、何か気になることがあるのか、ちょっと間を置いてからおずおず続けた。
「でも、遥香の幼稚園の年少さん、こんなおむつじゃなかったよ。あのね、動物とか水玉とかが描いてある布で、その上に、キャンデーが描いてあったり熊さんのアップリケが付いた、パンツみたいだけどパンツじゃないのをしてたよ。だから、早苗ちゃんみたいな紙のおむつじゃなかったよ」
 附属幼稚園では、園の方針として布おむつの使用を推奨しているらしい。だから遥香も布おむつはよく目にしているものの、紙おむつは珍しいのだろう。
 「こんなおむつ」といって遥香が早苗の紙おむつを指差している姿が、早苗の脳裏にふと浮かびあがった。目を閉じているぶん、その姿は却って鮮明だ。
「見ないで、そんなに近くで見ないでよ、お願いだから、遥香ちゃん」
 早苗は京子の胸に顔を埋めたまま激しくかぶりを振って泣き声で懇願した。
 だが、応じたのは、遥香ではなく真澄だった。
「駄目じゃない、『遥香ちゃん』なんて呼び方じゃ。遥香ちゃんはもう年長さんで、とっくにおむつなんて要らなくなってるんだよ。私にべったり甘えてばかりでいつまでもおむつ離れできない早苗ちゃんより、遥香ちゃんの方がずっとお姉さんだってこと、早苗ちゃんにもわかるでしょ? だから、さっきだって、遥香ちゃんは早苗ちゃんのこと、『早苗お姉さん』じゃなくて『早苗ちゃん』って呼んだのよ。わかってるのよ、遥香ちゃんにも、早苗ちゃんが手のかかる年少さんみたいな子だってことが。――だから、遥香ちゃんのことを呼ぶ時は、ちゃんと『遥香お姉ちゃん』って呼ばなきゃね」
 真澄は、あらわになったサクランボ模様の紙おむつの上から早苗のお尻をぽんと叩いてそんなふうに言い、
「わかったら、もう一回。さ、きちんと言い直せるかな? 言い直せるよね、早苗ちゃんはお利口さんなんだものね?」
と続けて言った。
「……見ないで、そんなに近くで見ちゃやだよ。お願いだから、お目々をつぶっててよ、遥香ちゃ……遥香お、お姉ちゃん」
 言う通りにしなければいつまでもおむつ姿を大勢の目にさらし続ける羽目になるかもしれない。漠然とそんな予感を覚えた早苗は、今にも消え入りそうな声でもういちど言った。
 しかし早苗の懇願は虚しかった。
 真澄は
「はい、よくできました」
と言ったものの、すぐに続けて
「遥香ちゃんは紙おむつがどんなふうになっているのか、あまりよく知らないんだよね? だったら、教えてあげる。おしっこで汚れちゃった紙おむつをどうやって外したらいいのか、それと、新しい紙おむつをどうやって着けたらいいのか、お姉さんがきちんと教えてあげる。だから、よく見ておくのよ」
と遥香に声をかけたかと思うと、早苗のお尻を包み込んでいる紙おむつのウエスト部分に指をかけて左右のサイドステッチを手早く破いた。
 ただでさえおしっこの重みでずり下がりぎみになっていた紙おむつは、サイドステッチが裂けると同時に、ぐしゅっという音をたてて早苗の足元に落ちた。
「わかった? 元はパンツみたいな格好をしているけど、決められたところを破くと、こんなふうになって簡単に脱がせることができるようになってるんだよ。便利だよね、紙おむつって。それで、次は新しいおむつに替えてあげるんだけど、その前にやっとかなきゃいけないことがあるんだ。それが何だかわかるかな?」
 真澄は地面に落ちた紙おむつを拾い上げ、くるっと丸めてテープで留めた後、丈夫なポリ袋に入れながら遥香に言った。
「うん、わかるよ。おしっこで濡れちゃったところを綺麗にしてあげるんだよね?」
 幼稚園で先生に何か質問された時はいつもそうしているのだろう、遥香はさっと右手を上げてはきはきした口調で答えた。
「はい、正解。布おむつでも紙おむつでも、それは同じだものね。じゃ、せっかくだから、遥香ちゃんにも手伝ってもらおうかな。――はい、これで綺麗にしてあげて」
 真澄は、手提げ袋から小振りの容器を取り出し、お尻拭きを一枚抜き取って遥香に手渡した。このお尻拭きも、不要になった紙おむつと共に京子の母親が譲ってくれた物だ。
「うん、わかった。――はい、早苗ちゃん。すぐに終わるからおとなしくしていてね」
 遥香は年少クラスの園児のおむつを取り替える幼稚園の先生を真似て言い、尿道のあたりにお尻拭きを押し当てた。
「あ……」
 除菌用の薬剤を沁みこませたお尻拭きのひんやりした感触に、微かな喘ぎ声が早苗の口を衝いて出る。
「ちゃんとおとなしくしてて、本当に早苗ちゃんはお利口さんね。あとで、いい子いい子してあげるね」
 遥香は尚も幼稚園の先生を真似て言い、お尻拭きを持つ手をゆっくり動かした。
 が、その手が突然ぴたっと止まってしまう。
「どうしたの、遥香ちゃん?」
 手を止めた遥香に、真澄が声をかけた。
「あのね、早苗ちゃんのここ、こんなのが生えてるの。これって何かな?」
 遥香は、空いている方の手で早苗の下腹部を指差した。
 その指の先には、まばらな恥毛があった。
「あ、これは、大人になったら生えてくる毛よ。遥香ちゃん、お母さんと一緒にお風呂に入ることがあるでしょう? その時に見たことない?」
 早苗の股間を覗きこんで真澄は答えた。
「あるよ。でも、ママは、もっとたくさん生えてるよ。なのに、早苗ちゃんはちょっぴりしか生えてないから、同じだと思わなかったの」
 遥香は納得顔で、けれど少し不思議そうに言った。
「それは、早苗ちゃんがまだ大人になりきってないからよ。遥香ちゃんとか年少さんとか、小さな子供は全然生えてないよね。でも、お母さんみたいな大人の人はたくさん生えてる。つまり、これは大人の印みたいなものなのよ。だから、大人と子供の中間の早苗ちゃんはちょっぴりしか生えてないのね。小っちゃい子供じゃないけど、まだまだ大人でもないから」
 真澄は少しばかり皮肉めいた口調で説明した。
「ふーん、そうなんだ。じゃ、真澄お姉さんは? 真澄お姉さんはたくさん生えてるの? それとも、ちょっぴり?」
 真澄の説明に今度こそ納得した遥香は、興味津々といった表情で質問を変えた。
「私はたくさん生えてるよ。たぶん、遥香ちゃんのお母さんと同じくらいたくさん」
 思いがけない質問に苦笑交じりに真澄は答えた。
「じゃ、大人なんだね、真澄お姉さんは」
「そうね。まだ中学生だけど、それでも、早苗ちゃんより大人だってことは確かかな。三年生になるくせにまだおむつ離れできない早苗ちゃんよりは。――さ、わかったら綺麗にしてあげて。早く新しいおむつを着けてあげないと、早苗ちゃんが風邪をひいちゃうかもしれないよ」
「うん、そうする。――ごめんね早苗ちゃん、待たせちゃって。さ、ここを綺麗にして、お姉さんたちに新しいおむつを着けてもらおうね」
 無邪気に頷いた遥香は、改めて手を動かし始めた。




「さ、できた。じゃ、おむつの交換を手伝ってくれた遥香お姉ちゃんにお礼を言っとこうね。なんて言えばいいか、自分でわかるよね?」
 早苗の下腹部を新しい紙おむつで包み、ドロワースを穿かせて、その上からお尻をぽんと叩いて真澄は言った。
「……」
「あらあら、だんまりなの。――ね、遥香ちゃん。幼稚園の年少さん、おむつを取り替えてもらった後、先生のお手伝いをしてくれたシスターペアのお姉さんにお礼を言ってる?」
「うん、年少さん、ありがとうって言ってるよ。ちゃんとお礼を言える子じゃないと、うちの幼稚園に入れないもん」
「だそうよ、早苗ちゃん。だったら、早苗ちゃんも幼稚園の頃はちゃんとお礼を言えてた筈だよね。なのに今は言えないなんて、年少さんよりも小っちゃい子供に戻っちゃったのかな、早苗ちゃんは。あ、そうか。まだお喋りもできない赤ちゃんだったんだね、早苗ちゃんは。だったら、だんまりも仕方ないかな。でも、赤ちゃんだったら、おむつが丸見えでも恥ずかしくないよね? じゃ、せっかく穿かせてあげたけど、ドロワースを脱がせてあげる。赤ちゃんだったら、窮屈なドロワースなんて穿きたくないもんね。おむつ丸見えで歩き回るのが大好きだもんね?」
 遥香の返答を聞いた真澄は面白そうにそう言って、穿かせたばかりのドロワースに指をかけた。
「やだ、そんなの! ……言う。言うから許して。……あ、ありがとう、遥香お……姉ちゃん。早苗のお、おむつを取り替えてもらうの手伝ってくれて、ありがとう……遥香お姉ちゃん」
 再びいつ泣き出してもおかしくないような涙声が早苗の口から漏れ聞こえる。
「ちょっと声が小さいけど、ま、いいかな。たどたどしい喋り方も本当に小っちゃい子みたいで可愛いし、今回はこれでいいってことにしてあげる。――いいよね、遥香ちゃん?」
「うん、いいよ。またおむつを汚しちゃったら、その時も遥香がお手伝いしてあげる。だから、もう泣いちゃ駄目だよ、早苗ちゃん。いい子いい子してあげるから、お姉さんたちに迷惑かけないようにしようね」
 遥香はいかにもお姉さんぶった口調で言い、早苗の顔を見上げた。
 と、遥香が早苗のドロワースから手を離し、
「ほら、これで届くでしょう?」
と言って、遥香の体を高々と抱き上げた。
「うん、ありがとう。――はい、いい子いい子。早苗ちゃんは本当にお利口さんだったね。ほら、もう一回、いい子いい子」
 真澄に体を抱き上げてもらった遥香は、幼児特有のぷくぷくした掌で早苗の頭を何度も撫でた。
 一瞬、その手から反射的に逃れようとしたものの、真澄と目が合った途端すごすごと身をすくめ、遥香のなすがままにされる早苗だった。



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